過去との戦い
@nodoamekinkan
第1話 前半
少年は草原に寝ころび、青い空を見ていた。彼は何よりも空が好きだった。どこまでも続く空は、彼を安心させた。逆に暗闇や空を覆うものは、彼を不安にさせた。だからいつもその少年は空を見上げ、流れる雲やきらめく星と一緒に育った。
このような彼の嗜好は、おそらく彼の一族の成り立ちによるものが大きいと考えられる。ノアと呼ばれるその少年が住む村は、かつて地下の住処を作っていた銀色のシェルターの残骸を中心に作られていた。地上を過酷な異常気象が襲った数百年の『暗黒の時代』が過ぎ去り、もはや地下に住む理由がなくなった時、住人は銀色の地下室から外に出て新しい生活を始めた。今から百年以上は昔のことだった。人々はその後も地下室の周辺で、野菜を作ったり、わずかな家畜から乳を得たりして暮らしてきた。地下室は百年の間に次第に地表に現れ、いつしか残骸になった。ともかく、彼らは地下で過ごすうちに、頭上を覆う黒い天井にほとほと嫌気がさしたのである。そしてその反動としてなのか、地上に復帰した彼らはことさらに空を好み、頭の上を何かが覆うことを憎み、恐れた。
ノアの村は、千年庄とか、地中の里とか、西の辺境とか、村の外からの呼び名はたくさんあったが、当の村人たちはその村を名前で呼ぶことはなかった。何しろその村を彼らは決して出ないのだから、別の地名と区別を付ける必要も無かったのだろう。一応その村は東にある『ゴルン』という大国の支配領域にあり、自治が許されているという体になっていたが、百年間交流は無く、存在自体忘れられていたとしても不思議ではなかった。逆に村もゴルンという国に関心は無かった。村の比較的教養ある人間ですら、ゴルンという名を聞いた時、「何ですか? ヤギの名前にしてはおかしな響きですね」と言っていた。しかし、その村の存在感は薄いが、そのような村を作っているような人種がこの世界のどこかにいる、という認識は、外の世界には明白に存在していた。
村人たちは、基本的に頭の上にお天道様が照っていればそれでよかったわけで、何ら欲も持たず、争いも起こさなかった。多少のいざこざは起こったが、たいていすぐに仲直りした。内向的な性格で、動きも俊敏ではないし、頭の回転もそこまで速いわけではなかった。特筆すべき点として、特殊な性質を持つ子が生まれることは多々あった。例えば、とびぬけて足が速かったり、とびぬけて計算や暗記ができたり、とびぬけて声が大きかったり、そのような性質を持つ子が度々生まれるのである。それに、村人たちの人相は皆同じような優しい面持ちだが、髪の色、目の色はたいていばらばらである。金髪、黒髪、赤髪、黒目、金目、青目、広い額、狭い額、高い鼻、低い鼻、白い肌、黒い肌と様々だったが、当人たちは全く気にすることはなかった。
ノアは起き上がって、辺りを見回す。少し遠くで誰かが手を振っているのに気づく。彼はすぐに立ち上がり、その少年のもとへ嬉しそうに駆け寄っていく。
「ネブロ、『塔』へ行こう!」
「『塔』? ダメだ! 前だってもう少しで死ぬところだったじゃないか」
目を輝かせて誘ってくるノアに、ネブロは首を振った。ネブロは、ノアが生まれた時から一緒にいた友人の一人である。
「いや、そうじゃない。もう少しですべての謎が解けるところだったんだ」
「もう何にもないよ。あの『壊れた塔』には!」
それでもノアは嫌がるネブロの手を引いて、いつものように、彼の祖先が破壊したと言われる折れた「塔」へ向かった。
村を囲う起伏の激しいでこぼこ状の丘を越えて(この地形のおかげで村人たちはひっそりと暮らすことができた)、緑の長草の大草原をかき分け、小川を飛び越えると、だんだん植物は無くなっていき、岩がちな地面に変わってくる。二人は足を止めて、息を整え、土がむき出しの荒れた大地を見渡した。彼らの目の前には、真ん中あたりからぽっきりと折れ、下半分だけが残る白い塔があった。その塔の材質は不明で、実際の高さも分からない。それが持つ役割も、誰が作ったのかもノアは知らなかった。
二人の日課は、この塔を探検して、この塔がどうやって壊されたかを見つけることだった。
「やっぱり剣だ」
壁の周りを歩きながら、ノアが断言した。
「でかい剣で、こう、横に切り伏せたんだ」
「無理だよ。僕らの先祖は、普通の人間だから。そんな神様みたいなことはできない」ネブロはやれやれという風に言った。
二人は、壁に空いた小さな穴から中に滑り込んだ。この穴は彼らの今までの調査における最大の発見である。
「中に入ったって何にもありゃしない」
ネブロは、塔の床に散らばっている風化した白いくずを見ながら肩をすくめた。見上げると、青空が見える。ノアは熱心に塔の内部をじっくりと見て回った。
「ネブロ、これは何?」
ノアは、地面から突き出た取手のようなものを見つけ、それを掴んだ。力いっぱい引くと、埃を巻き上げて人ひとり分の地下への穴が開く。
「ネブロ、見つけた! 塔の秘密だ!」ノアは興奮して、ネブロを大声で呼んだ。二人は穴を覗き込み、顔を見合わせる。
「僕が先に降りる」
ノアは穴の壁にある梯子を伝って、下へ降りていった。しばらく降りると、足の裏にやわらかい土の感触がして、埃っぽく蒸し暑い地下道に着いた。顔を上げると、その先は全くの闇だった。目を凝らしても、闇に慣らしても、いつまでたっても何も見えるようにならない。あらゆるものを吸いこんでしまいそうな闇だった。蒸し暑いはずなのに、彼は全身に寒気が走るのを感じた。呼吸が荒くなり、胸が苦しくなる。空気が薄いのだ。ノアは、上に向かって叫んだ。
「道がある! ねえ、早く下りて来いよ!」しかし、ネブロは一向に降りてこない。
「どうしたの? 明かりは上から差してるから大丈夫だよ」
「僕はダメだ」
上からか細い声がした。
「どうして?」
「どうしてって、君は何も感じないの?」
「何もないよ。早く来なよ」
ノアは上を見上げた。ネブロの顔は、逆光で見えない。
「いや、僕は行けない。帰るよ」
「なんで? ネブロ!」
ノアはネブロが立ち去るのが分かった。仕方なく探索は諦めて穴から出て、彼と帰ることにした。
その夜、ノアは塔で見つけた地下道のことを話しに、ヨセフスのもとへ訪ねていった。ヨセフスは、ノアの叔父にあたる百歳の老人で、かつて村の外を放浪し、世界を見て回っていた旅人だと言われている。そのせいで村人からは「変わり者」として扱われ、今は再びふらっと旅に出ることもあれば、あるいは帰ってきて、村の隅っこの小屋でノアやネブロと話をしながらひっそりと過ごしている。いつも彼は「塔」については人一倍詳しかったが、ほとんどの村人たちはどちらかと言うと、塔を話題にするのは避けていた。ノアは、昔から村の外の世界のことをヨセフスに話してもらうのが好きだった。ここしばらくは村におらず、旅をしているらしかったが、近ごろ彼が帰ってきているという噂を耳にしたのだ。
ヨセフスの小屋に着くと、古ぼけた木の椅子に座ってろうそくの火を眺めている老人の姿があった。その姿を見たのは何年ぶりだろうか。ノアは嬉しくてたまらなかった。ヨセフスはいつも通りに、その大きな体をさらに大きな黒い革のコートで包んでいる。彼はノアに気づくと、奥からもう一つ椅子を持ってきて、「久しぶり。元気じゃったか?」と優しく言った。
「今日は、この村の歴史について話しておこう」
「この村の? そう言えば、僕は外の世界のことばっかりで、この村のことは何も知らなかった」
ノアは目を輝かせて身を乗り出した。ヨセフスはそれを見て微笑み、ゆっくりと話し始めた。
「この村は、世界で一番素晴らしく、悲しい村でもある。君が知っている通り、君のずっと上のご先祖は、『塔』を破壊した英雄じゃ。でも、君はその後のことを知らないじゃろう」
ノアは頷いた。
「塔の破壊を成し遂げた時、彼は大きな力を使わなければならなかった。今じゃ、どんな力を使ったのかは分かっていないがね。その大きな力は塔を破壊するだけではなく、世界中に悪い影響を及ぼしてしまった。もちろん、破壊された塔も最後に大爆発を起こし、その二つの力が相まって、世界を地獄に変えてしまった。それで、ご先祖は仲間とともに地下へ隠れ、その地獄のような時代、今じゃ暗黒時代と呼ばれておるが、その時代をしのいだ。もちろん、地下生活は何百年も続いた。先祖は地下で死んでいった。彼らは地下を改良し続け、細々と生き続けていた。今となっては残骸となっておる、あの銀色の壁だよ。
そして地上が落ち着いたのを確認して、彼らは出てきてこの村を作った」
ちょっとヨセフスが一息ついたのを見て、ノアは尋ねた。「『塔』って、結局何だったの?」
「『塔』は、かつて先史文明を作っていた人間が、神の裁きから逃れる手段として彼ら自身の手で作り上げたものじゃ」
「『神の裁き』?」
「ああ、私も詳しくは知らない。人間の『悪の増幅』とも言われる。千年前、人間の破滅をもたらした事件じゃよ」
「ふうん」
ノアはあまりうまく想像できなかったので、生返事でその話を終わらせた。彼はすぐ次の話に移った。
「じゃあ、なんで僕のご先祖は、その事件から逃れるための塔を破壊したの? それが無いとまた神様に裁かれてしまうよ」
「塔は長い時間をかけて、つまりもはや神の裁きは過去のものになった時、人間自身に牙を剥き始めた。塔は……地上を地獄に変えてしまう。その異質な力は常に自然と反発し、それにあてられた生き物は生命を奪われる。その悪魔を破壊した先祖が『英雄』と呼ばれるのも納得したかな?
ところでノア、いつか言ったことがあるように、この世界にはあと二つの塔があるのじゃ。そして一番近くの塔は、シンアルという国にある。『科学の王国』シンアルじゃ。シンアルの人間たちは、暗黒時代が過ぎるとその『塔』の一つを利用しようとあらゆる手段を使って挑んだが、全くの不可能であった。そして、シンアルは逆に『塔』の力に脅かされ、ついにはまんまと『塔』によって支配された。従順で強力な『塔の守護者』としてな。今、シンアルとその隣国ヤマトは交戦状態にある……」
「ふうん」ノアは最後の方は興味無さそうに相槌を打った。彼はその国々の名前を知ってはいたが、それがはるか遠くにあることも知っていたので、深刻に考えることはしなかった。少し黙って考えた後、また彼は質問した。
「ご先祖が英雄なのはわかったけど、さっき言ってた、この村が悲しいってどういうこと?」
「これは言いたくなかったが、いつかは言わねばならん」ヨセフスは珍しくためらいながら説明した。「ご先祖は塔を破壊したことで英雄とされたが、さっき言ったように後の暗黒時代を引き起こした者として憎まれておるのじゃ。いつか話した『野伏』――この種族はバンディ族とかバンディーエ族とか呼ばれてもいる――や、『剣山の民』、それに北方の氷床に住む者たちは――あそこには古来の海賊もはびこっておるが――特にこの村の者を毛嫌いしている」
「僕らは、嫌われてるの?」
「そうじゃ。まあ、いきなり襲われるってことはないじゃろうがな。それに、嫌われているだけではなく、見下されてもいる。これは世界全体で言えることだが、人類は大きく『暗黒時代』を地下に逃げて凌いだ『地中の民』と、地上に残って地獄を生き抜いた『地上の民』に分かれておって、『地上』は『地中』を見下しているのだ。腰抜けの人種だとな」
ヨセフスはちょっと悔しそうに口を閉じた。
「でも、塔はいつか破壊しなきゃいけなかったんでしょう? それなら、ご先祖もこの村も嫌われる筋合いはないじゃないか」
「それもこれも、全て塔のせいなのだ」
ヨセフスは、決めつけるように言った。彼は塔を心の底から憎んでいるように思える。ノアはちょっと黙ってヨセフスを見た。
「今その『塔』はどうなっているの?」
「そうじゃな……」
彼は、しばらく思い出すように黙った後、また口を開いた。
「塔の周囲は荒廃し、人間の住める場所ではない。草木は一本も生えず、あらゆる方向に強風が吹き荒れる。塔が放つ強力で見えない光線のせいで、あの領域だけ大気に守られておらず、宇宙の力に直接さらされている。空気中の塵が巻き上げられ、雲のように空を覆い、雨は降らないが常に砂嵐、落雷だ。晴れることはない」
「晴れないの?」
ノアは顔を曇らせて言った。
「そうだ。そして塔は今、その領域を広げつつある。さっきも言ったが、最も近い場所にある国はシンアル王国じゃ。かの国は、国民たちは、塔に支配され塔を守り、塔の領域を広げるという義務が課された。しかし彼らは同時に、塔を恐れてもいるのじゃ。いずれ塔に殺される恐怖を持ちながら、体は『塔』のために動かされる」
「じゃあ、シンアルの国の人たちはどうなるの?」
「どうなるのじゃろうな。ヤマトの民に打ち負かされ全滅するか、誰かが塔を破壊し、全ての平原の民を解放するか。いや、結局どちらも不可能じゃった……」
ヨセフスは真面目な顔で言った。ノアは遠い場所にあるシンアルや、恐ろしい力を持つ塔は彼の想像の範疇を越えていて、にわかには信じられないような話だったので、あまり真面目に聞いていなかった。それよりも今日の『塔』での発見のことばかりを考えていた。
結局ノアはヨセフスに塔で発見したことを言うことはやめておいた。もう少し詳しいことが分かってから、彼を驚かせてやろうと思ったからである。ノアは、ヨセフスに何かを教わってばかりいることが少しだけ気に入らなかった。彼はヨセフスの小屋を去り、一人で住む自分の家に帰って、すぐに眠りについた。
東の国シンアルは、世界で最も大きく、最も早く形成された国家である。塔の破壊に伴う暗黒の時代が終わると同時に、平原に住んでいた者たちが分裂と移動を始めた。その中で暗黒時代から小さな集落を作っていた者たちもいた。彼らは偶然先史文明の遺跡を発見していたのである。彼らはその知恵をもとに平原を平定し、シンアル国と名乗った。
その後建国者の子孫が強力な権限を持つ王国となった。シンアルという国名は、建国者のうちの中心人物の名から取られた。シンアルは文明の遺物から食糧生産の技法を読み解き、その膨大な人口を支えた。
王家は彼らが代々持ち、それを王権の象徴としてきた豊富で先鋭的な知識と技術を市民に広めることは決してしなかった。確かに学問は推奨された。研究者も多くいた。しかし彼らは全て囲い込まれ、成果はすべて王家に収容された。その一方で、民の生活には十分な保護を与えてきた。王政に不満を抱くものはほとんどいなかった。
そして、『塔』が次第に領域を広げ、シンアル領土を脅かし始めた時、シンアルは平原の軍と組み、『管理者』と戦い、ついに『管理者』たちを全滅せしめた。しかし、それでもシンアルは『塔』そのものを破壊することはできなかった。塔はあらゆる兵器を跳ね返し、そこへたどり着くだけでも大きな犠牲を必要とした。そして、その後すぐに塔の領域下に入ったシンアルは、王とその民が支配に屈し、新たな『管理者』として東側世界に君臨することになる。シンアルは領土を拡大するため、隣国を侵略し、西側世界にまでその影響力を伸ばしつつあった。
ノアの集落は二百ほどの家族があちこちにその一族の家に全員で住んでいて、特に大きな家族はそれだけで一つの村をつくるほど力を持っていた。ただ、この二百の家族はお互いが近すぎず遠すぎない一定の距離感を持って一つの集落を形成していた。彼らは全て地下に逃げた『塔の破壊者』の仲間の子孫であるが、その『破壊者』の直接の子孫として残っているのは、ノアとその叔父であるヨセフスだけであり、良くも悪くも二人はある程度一目置かれていたのである。ノアは生まれてすぐに両親と別れたため、彼を実質的に育てたのはヨセフスだった。村の大人たちはノアを気遣ってはくれたが、彼らのどこかよそよそしい振る舞いに、ノアはかえってヨセフスをもっと頼りにするようになった。
「ヨセフスは僕のお父さんとお母さんのことを知ってる?」ノアは再びヨセフスの小屋にいた。
「知っているとも。でも、君は聞かない方が良い。少し、悲しい話なのじゃ。それに、君はいずれ知ることになる。それでも聞きたいか?」
ノアはちょっとためらって、頷いた。
「そうか、ならば話そう。でも、この村の人々はあまり彼らの話はしたくないようだから、秘密にしておくのじゃ」
ノアは頷いた。それを見て、ヨセフスはゆっくりと話し始めた。
「この村にはいろんな家族がいて、それぞれが領地を持っておるが、もともと塔の崩壊の時に地下に逃げ込んだ人たちは世界中から集められた多種多様な一団だったから、彼らの子孫は色んな血が混ざりあって、色んな見た目の人たちがおった。今もそうだな。だが、その違いが争いを生んだり、いじめがあったりということはなかった。狭い地下空間で彼らは助け合って生きていった。だから、この村の人々は本当に仲がいいんじゃよ。ただ、ちょっと臆病なのだ。『砂漠』に囲まれた場所にあって、攻め込まれたりはしないが、この村が『外』から恨まれていると知っている。だから、村人同士非常に仲が良い。ただ、『外』に対しては臆病なのじゃ。
一人の女の子が生まれた。その子は小さいころから非常に頭がよく、最初は色々な人たちから可愛がられた。しかし、彼女の両親はそのあまりの頭の良さを恐れた。彼らは、自分たちが『塔の破壊者』の直系の子孫だと知っていたから、もしかすると彼女は二人目の『破壊者』なのかもしれないと、すなわちまた世界を暗黒時代に陥れるのではないかと危惧したのだ。それでも、両親は彼女を大切に育てた。例えそうだとしても、彼らは『塔』そのものの恐ろしさも知っていたし、何より自分たちの子だったからな。しかし、彼女は敏感で、向き合う誰もが少しだけ自分を避けているような、どこか怯えるような目をしているような態度に気づいていた。
ある日、彼女の父親が仕事終わりにある男の子を連れてきた。村の端で倒れていたという。その子はやせ細り、病気さえ患っていたので、すぐに家で治療を受け、そのままその家族として過ごすようになった。ただ、その子はすぐに村の噂になり、「東の森から来た悪魔だ」という憶測も飛び交った。実際に、村の外には「野伏」や「剣山の民」といった敵がいっぱいいることは分かっていたからな。その家族は否定も肯定もしなかった。ただその家族だけに見守られ、彼は育った。彼女も彼を本当の家族のように見なした。その家族は幸せに過ごした。
両親が死んだ。思いがけない早世じゃった。残された二人は大いに嘆いた。彼女はそのころには極めて美しくなり、そして極めて明晰な頭脳を持っていた。そしてますます村人たちとは違う存在になっていた。一方で彼の方は、何も変わっていなかった。彼はずっとその家族に守られて、その家族の中だけにいたから、村人の彼へのイメージは、彼がこの村に来た時のままだった。彼は、村に何か恩返しがしたいと言った。しかし、彼にできることは何もなかった。彼は村の何も知らないし、何の仕事もできなかったのじゃ。自分と村との間に、もはや壊れがたい壁があることを知った。自分がこの村にいることが申し訳なくなったのじゃ。じゃが、彼は自分を閉じ込めた家族を恨まなかった。それが優しさゆえであり、外に出ようとしなかった自分に責任があると考えたからだ。彼は村を出ていくことが、一番の恩返しだと思った。
彼女の方も、村にいることが苦しくなった。『外』から来た子と一緒に住んでいることも相まって、自分を見る周囲の目が、かすかな怯えから、明白な恐怖へと変わっていた。彼女は、彼について村を出た。二人は、二人だけで過ごせる誰も知らない場所を求めて旅立った。
わしがその二人を知るのは、シンアルでのことだ。どこを彷徨ったのか知らないが、彼らはシンアルにいた。彼らはシンアルに潜伏し、『塔』への反抗者として仲間とともに活動しておった。わしもその一人じゃった。そして、彼女は『塔』そのものよって捕らえられる。彼は一人、反抗勢力の一員として残った。わしは彼女が残した、まだ生まれたての君を連れて、この村に来た。その後の二人の行方は、分からない」
ヨセフスは青ざめたノアの顔を見て、口を閉じた。実はこの話も、ヨセフスによってある程度ぼかされていたのだが、彼はそれでもこれ以上は話すまいと決めた。
「いいか、ノア。要するに君は勇敢で優しい両親を持ち、彼らは君を愛していた。少なくとも、『塔』が君たちの家族を引き裂くまでは。いや、その後もきっとそうだろう。君はシンアルで生まれたが、この村の血が流れている。何も気にすることはないよ」
ヨセフスは優しく言い、ノアにもいくらか生気が戻ってきた。ノアは自分の親というものがあまり実感できていなかったが、二人の人間の話として、これ以上悲しいものはないだろうと思ったのだった。
「死んでしまったの?」
ノアはかすれた声で尋ねた。
「それは分からない。ただ残念じゃが、あまりに希望は薄い。わしが最後に彼らを見たのは、もう十何年も前なのじゃよ」
ノアはそれ以上何も言わず、下を向いてヨセフスの小屋を出て、一人で住む自分の家に戻った。
しばらくノアはヨセフスの話を思い出しながら、遠い国のことを考えていた。ネブロは気分が悪いと言って家から出てこないので、彼は一日中、村の外のお気に入りの木の下でぼんやり考え事をしていた。
夜になるとノアは村の奥の飲み屋に行き、カウンターに一人で座っていた。この飲み屋は、ノアの友人であるリティの家族が切り盛りする飲み屋で、年中色んな人たちが集まる。ノアは気が沈むことがあると、たいていこの飲み屋に行って、にぎやかな宴会に加わるのである。 この建物には天井が無いからか、村の人々からは「『井の中の蛙』館」と呼ばれていた。リティの父親が頭の上を覆うものを片端から取り除いていった結果、ついには屋根まで取り除いてしまった。リティの父親の名はロームといった。ノアがいる村の東区ではまるで頭領のようにふるまっていて、普段からノアを気遣う数少ない大人の一人である。彼は天井のない館を作ったのにもかかわらず、よく昔話をしては「土の下に戻るかね」と口癖のように言うのだった。
「おおノア、泥だらけじゃねえか。なんだしょぼくれた顔して。また外をうろうろしてたんか」
ロームはカウンターの向こうからノアを見つけて、代名詞のだ、み、声、を浴びせた。
「おじさんは元気だね」ノアは笑顔で言った。
「おじさんは、外の世界にどこまで出たことがある?」
ロームは腕組みして「おれはあんまりだなあ」と首を傾げた。
「一度なあ、俺のじいさんのじいさんのそのまたじいさんぐらいの代になあ、この村総出で外に出かけて、村を広げようなんて話があってなあ」
ノアの前に「これでも飲んでろ」と、ジョッキに入ったミルクが置かれた。
「どうにも俺たちゃあ、広い土地は似合わねえみてえでよ、まあ、縮こまってこそこそ野菜でも作ってる方が、性に合ってるって気づいたらしいんだ。まあ、そういう奴らが作った村なんだから、それも当たり前でよ、また土の下に戻るかね」ロームはガハハと笑うと、別の客に呼ばれて去っていった。
「戻るも何も、もう地下室はほとんど潰れちゃってるよ」ノアはぼそっと呟いて、ミルクを一息で飲んだ。
ノアはリティと一緒に、ネブロが寝ている隣に座っていた。
「なあ、外にはでっかい森があるって知ってるか?」リティがノアに聞く。
「森?」
「ただの森じゃない。伝説の古代文明が眠る深い森だ。そこにはな、いいか、巨大で恐ろしい力を持った古代人がひっそり暮らしてるんだ。奴らは空を飛んだり、水の上を歩いたりできる。だが、その森に入った者に帰ってきた人はいない」
「リティ、そんなに詳しいんなら行ってきなよ」
「待て待て慌てるな。準備が要るんだ。まずなあ、この村でゆっくり……」
「ゆっくり?」
「まあ、準備するんだ」
「いつまで?」
「そうだな、おと、大人にならなきゃいけない。時間がかかるんだ」
「大人になったら行くの?」
「いやあ、もうちょっとかな」
「いったいいつまでだよ」
リティはうーんと言いながら腕を組んだ。
「その文明が、もうちょっと古くなるまでだな」
「何を言ってるんだ?」
思わずネブロがベッドから呆れた声を出した。
「古ければ古いほどいい。そりゃそうだ。うん」
「古くなりすぎて朽ちて無くなるね」
「怖いならそう言えよ」
「怖くはない。怖くはない。ただおれは、この村がだな、心配で……」
「心配? 何が?」
「この村は、狙われてるんだ。いつも見張られてる。じきに恐ろしいことが起こる。だからおれはこの村に残って……」
「じゃあこの村の護衛官にでもなってろよ。今まで敵なんか一度も来たことはないけどね」リティはそれを聞くと、軽く舌打ちして部屋を出ていった。二人はその後姿を見てくすくすと笑った。
「ノアは、この村を出て冒険をしたいと思ってる?」ネブロが寝たまま聞いた。
「冒険はしたいさ。でも、最後にはこの村に戻ってきたい。ヨセフスが話す外の世界はすごく面白くて、時々危険で、不思議で、自分の目で見てみたいとは思うけど、結局僕はこの村で空を眺めているのが一番楽しいんじゃないかと思ってる。
だけど、行くかどうかはその出発の時になってみないと分からない。そこで怖気づいて止めるかもしれないし、勢いのまま飛び出しちゃうかもしれない。そんな機会はないだろうけどね」
ノアは言葉を切り、ネブロの顔を見た。
「じゃあネブロは、絶対にこの村に戻ってこられないような行ったきりの冒険だとしたら、出かける勇気はある?」
「君と一緒に行くならね。考えてみれば、この村の思い出は全部君との思い出だから」
「じゃあ、その時は意地でも君を連れて帰るよ。この村にね」二人は遅くまで話し込んでいた。
ノアは再びヨセフスの小屋を訪れた。『塔』の調査のことを言うつもりだった。
「塔には地下があるって知ってる?」ノアは試すようにヨセフスに言った。
「知っておる」
ヨセフスが言うと、ノアは少しがっかりして黙った。
「地下で何を見た?」ヨセフスが言った。
「道があったけど、暗くて先は分からなかった。それに、ネブロが怖気づいて帰ったから、それ以上は見てない」
「ネブロは今どうしている?」
「頭が痛いって言ってたから多分家で寝てる」
「頭が痛い?」ヨセフスはノアの顔を覗き込んだ。「地下に行き、頭が痛くなったのか?」
「うん、そうだけど」
突然ヨセフスは椅子から立ち上がり、小屋を出ていった。ノアが追いかけると、彼はネブロの家に向かっていた。
「ネブロは家にいるのじゃな?」
「うん、そうだけど」ノアは珍しく真剣な顔のヨセフスにたじろいだ。「どうしたの?ちょっと具合が悪くなっただけって言ってたよ!」
ヨセフスは答えず、無言のままネブロの家に着いた。彼は構わず扉を開け、ベッドに寝ているネブロを見た。
「大丈夫だ。それほど深刻ではない……。じきに良くなるじゃろう」
ヨセフスはネブロの額に手を当てて言った。ネブロは少し苦しげな表情をしてヨセフスを見た。
「ヨセフス、助けて下さい。視界に黒い靄が晴れないんです。それに何かが頭の中を通り抜けていったような感じがするんです」ネブロは弱々しい声で言った。
「心配するな。それ以上悪くなることはないよ。黒い靄も、すぐに晴れるじゃろう」ヨセフスは優しく言い、「ゆっくり寝なさい」と付け加えた。確かに、少しだけネブロの表情が和らいだように見える。ヨセフスはノアと一緒にネブロの家を去った。
「君は何もないのか?」
歩きながら、ヨセフスはノアを眺めた。
「何もないよ。ネブロはどうなったの?」
「あの壊れた塔は、未だ力を持っているということじゃ。極めて弱まってはおるが」
「力って何?」
「さあな。神に対抗するため、過去の人間たちが作り出した力じゃ。しかしお前の先祖はそれを破壊した」
「うん。この間、そう言ってたね」
ヨセフスは少し黙ってから、ノアに言う。
「ノア、テストをしよう。これは君にとって重要なことじゃ」ヨセフスはノアを見ず、足を速めた。
ヨセフスは自分の小屋に着くと、奥の壁に立てかけられていた黒い鞘に収まっている剣を手に取った。柄と刃だけの、全く飾り気のない剣。鞘には何の模様も描かれていなかった。彼は慎重に剣を持ち、それをぼんやりと見ていたノアの目の前に差し出した。ノアはそれを受け取り、まだ要領のつかめないままヨセフスを見ていた。
「ゆっくりと、剣を抜きなさい」
ヨセフスはそう言ってごくりとつばを飲み込んだ。まるで今から恐ろしいことが起こると分かっているように。
ノアは言われるがまま、柄を握り、鞘から抜きさった。金属がこすれ合う音がして、きらめく刃が現れた。その瞬間、ノアは一瞬だけ視界が歪んだような気がした。床の落ち葉がかさかさと音をたて、小屋の屋根がぎしっと軋んだ。小屋の外で、鳥たちが一斉に飛び立つ音がした。
しかしそれ以上何事も起こらなかったし、ノアの視界もすぐに正常に戻った。
「やはりそうじゃ」ヨセフスはその様子をじっと見て、深くうなずいた。「これは、塔の力が与えられた剣じゃ。本当ならこれを抜けば、周囲の人間は塔の力に屈するはず。塔の力に屈すれば、今ネブロが味わっているものとは比べ物にならない苦痛――いや、虚無と言えばいいか――を体験することになる」
ノアの手は少し震えてはいたが、足はしっかりと地面を踏みしめて立っていた。
「僕は、どうもしないよ」
「それは対抗する力じゃ」ヨセフスは確信したように言った。「君は選ばれた。次の『塔の破壊者』に。誰も近づけない塔に立ち向かい、やがて壊すことのできる唯一の者に」ヨセフスはそう言ってノアに剣を納めさせ、ノアの目をまっすぐに見た。
(剣の歴史――)
「塔に行ったのは、五日ほど前だと言っておったな」二人はそこで解散した。
翌日、真っ黒い飛行機が村の外の草原に降り立った。少し高い丘になった所に垂直に降り立った飛行機から、また黒い軍服の兵士らしき姿が出てくるのが遠目に見えた。村人は初めてのことに、皆呆然とその成り行きを見ていた。ノアも村の外れの大きな木によりかかって、その様子を見ていた。彼はヨセフスの「テスト」も、その「力」のこともまだよく分からず、悶々としていた最中だったのである。だからその時の彼はただ単純に、初めて見る空飛ぶ乗り物に少し興奮していただけだった。すると、視界の端にヨセフスが現れた。珍しく慌てている。彼はノアに走り寄ると、
「奴らが来る」
とだけいってノアの腕を取って立たせ、そのまま彼を引きずるようにして村へ向かっていく。
「奴らって誰? 何処へ行くの?」
ノアはわめいたが、ヨセフスは何も言わずに歩いていく。ノアは彼の顔を見て、もはや何を言っても無駄のような気がした。ノアは腕を掴まれたまま黙ってヨセフスに連れられていった。
たどり着いたのは、銀の壁が残る、村の中心だった。ヨセフスはその残骸に近寄り、きらめく金属片をかき分け始めた。その下から、人が一人通れるくらいの黒く丸いフタのようなものが現れた。
「奴らは君の力を感じ取ることができる。君が地下で塔の力に当てられ、その時から『対抗する力』は顕現した。なぜここへ来たかは知らないが、シンアルの奴らは君に気づく」ヨセフスはそう言いながら蓋を開け、中を照らした。
「しばらくここに隠れていろ」
ヨセフスはノアを抱え上げると、その穴の中に押し込んだ。
「奴らは何のためにここに来るの? 村の皆は、ヨセフスはどうなるの?」
「その力は奴らにとっては脅威だから、君を消そうとするじゃろう。あるいは、その力を別の何かに利用するかもしれない」ヨセフスは無表情で応えた。
「それに、もう他の仲間を気にしている暇は無い」
彼は小屋から持ってきた剣をノアの手に押し付け、ささやくように言った。
「これは君が持っておけ。いいか? 我らは、君だけは失うわけにはいかない。もう二度とあの事件を繰り返してはならない。だが、遅すぎたのじゃ。私はずっと君といたかったが、それはもはや不可能なようじゃ」
ノアは何のことを言っているかさっぱり分からなかった。しかし、ヨセフスが遠いところに行ってしまうことだけは強く感じて、そして何か大きな危険が迫っていることを感じて、じっと彼の顔を見ていた。ヨセフスはそれに気づくと、さっきまでの厳しい表情を消した。彼は優しく微笑みかけ、諭すように言った。
「ノア、君に特別な力があることは事実で、そのために君が狙われることは分かっているから君に伝えただけじゃ。君は決して塔を壊す者としての運命にあるわけではない。それは我々の仕事だから。私はノアさえ無事ならそれでいいんじゃよ」
ヨセフスは、何も言えずに呆然としているノアを見下ろし、ふたを閉めた。外側から固く鍵を閉め、入り口を隠した。
どれくらい時間が経ったのか分からなかった。ノアにとっては何年も過ぎ去ったように感じた。もう限界だと思った時、頭上の扉が開いて、ネブロの顔が見えた。ネブロは、もうほとんど回復していたのだ。外はもう真っ暗で、夜になっている。彼が言うには、ノアが地下空間にいたのは一日の間だけだった。彼は、ヨセフスに地下空間の自分のことを頼まれていたらしい。ノアはその間に起こったことを、ネブロとリティの口から説明を受けた。
五人ほどの黒い軍服を着た兵士たちが、飛行機に乗ってやってきた。その五人は村人たちを尋問し、ヨセフスの小屋を探し当てた。彼らは小屋に入ったが、そこにヨセフスがいないと分かり、小屋を破壊した。そのまま村の家々を焼き払おうとしたが、ヨセフスがすんでのところで現れて、敵は手を止めた。しばらくヨセフスと敵のリーダーらしき兵士が言葉を交わした後、ヨセフスはおとなしく腕を差し出し、頑丈な手錠をかけられた。そのまま彼は飛行機に連れていかれ、乗せられ、東へ飛んでいった。
連れられて行くとき、ネブロはヨセフスのささやき声を聞いた。
「飛行機が完全に見えなくなったら、地下のノアを頼む。鍵は私の小屋に」
ネブロとリティは粉々に崩れ、おまけに火を放たれて黒焦げになったヨセフスの小屋の残骸を漁り、鍵を見つけ、ノアを地下から出した。
ノアはヨセフスの小屋があった場所に行き、座り込んで、その残骸を見つめていた。彼の頭の中に、最後の言葉が思い出された。
「ノア、君に特別な力があることは事実で、そのために君が狙われることは分かっている」
ヨセフスは、なぜ連れていかれたのだろう? 僕のせいなんだろうか? 僕の代わりに、あの人は自分を犠牲にしたんだろうか? だとしたら、僕はどうしたらいいんだろう?
ヨセフスは、どうなるんだろう?
ノアは頭が混乱してきたので、考えることを止めた。考えることを止めたら、次は寂しさが彼を襲ってきた。どうしようもない無力感に、胸が痛み、うまく息ができなかった。彼は座り込んだまま、呼吸を荒くしたり、それを整えたり、たまに涙を流したり、ぶつぶつと独り言を言ったりして、何時間も過ごした。村人たちは、村にシンアル兵が来たことは衝撃だったが、ヨセフスが連れていかれただけで済んだので、それほど気に留めず、それぞれ家に戻っているようだった。ネブロとリティはずっとノアの近くにいたが、ノアは二人に目もくれず、何かを思いつめたように立ち上がり、どこかへ去っていった。二人は顔を見合わせ、しょんぼりとそれぞれの家に帰っていった。
その後数日、三人は会わなかった。それぞれの家にいて、それぞれ何となく満たされない生活を送った。ヨセフスがいなくなってから、三人は常に心に穴が開いたような痛みを感じていた。
(ノアが見る剣の記憶、塔の歴史、平原の戦争)
ある夜、ネブロは家にいたが、何となく胸騒ぎがして一人でノアの小屋に向かった。空は白み始め、もう夜が明けそうな時間である。
ノアの家までの道で、ちょうどリティと出くわした。彼もノアに会うつもりだと言う。
「ノア、いる?」
しかし返事は無い。中に入ると、がらんとした殺風景な部屋が、悲しそう佇んでいた。二人は部屋を飛び出て、村の入り口まで走った。案の定、ちょうど柵を越えようとしているノアを見つけた。
「ノア、どこへ行くんだ?」
ノアは、ゆっくりとネブロとリティを見た。白んだ空を背景に、彼の表情は見えない。「僕がここにいたら、またこの村は襲われるかもしれない」ノアははっきりした声で言った。「僕は、ヨセフスを助けに行くよ」
「助けに行くったって、もうはるか遠い東の国に行ってしまったんだよ」
「分かっているよ。でも、僕はヨセフスがいないと、何もできないんだよ。それに、ヨセフスが捕まったのも、僕のせいなんだ。僕がどうにかしないといけない。僕には、何か特別な力があるはずだと言っていた……」ノアはヨセフスの短剣を握りしめていた。
「なら、僕も一緒に行くよ」
リティが言った。
「だめだ、来ないでくれよ。君が来たら、危険に巻き込まれるよ。それに、君は外が怖いんだろう? 僕より臆病なのに、旅ができるわけないよ」
「君が一緒なら、なんだって構わない」リティは言い返した。
「僕が悲しいんだ。君たちがヨセフスみたいに僕のせいで敵に捕まったら、今度こそ僕は悲しくて死んでしまうだろう。ネブロ、リティ、僕は大丈夫だ。ほら、ヨセフスにもらった強い武器もある。きっと役目をはたして帰ってくるよ……」
そこまで言われると、二人は言葉に詰まった。引き留めることも、一緒に行くことも、もはや不可能な気がした。
「じゃあね、ネブロ、リティ」
ノアは背を向けて歩いて行く。ネブロとリティは言う言葉が見つからず、こぶしを握り締めていた。
気づくと、既に夜は明けていた。
黒く光る軍用機の中で、ヨセフスは縛られたまま、貨物室に横たわっていた。その入り口の扉を背もたれにして、
「一日でこの距離を飛び、砂漠の魔空域を通り抜けるとは、科学の王国の進歩はすさまじいな、レイス総司令よ」
ヨセフスは軽い調子で言った。レイスは何も答えなかった。
「私はただの荷物か? 何のために私を捕らえた?」
それでもレイスは口を開かなかった。その代わり、ヨセフスの頭の中に『声』が響いた。
――分かっているだろう。私は今、お前と話せない。敵として振舞わねばならない。
――そうだったな。この手があった。サハルに感謝しなければならんな。
――初めに言っておくが、もはやシンアルは『王国』ではなくなった。王族は追放され、新しく平民の出とされている者が支配者となった。
――革命か。支配者は誰だ?
――革命ではない。すべて塔の思惑だろう。その傀儡になったのはナラムだ。
――ナラムは我々の仲間だったはずだ。どういうことだ。
――彼は、もはやこの世界に恨みしか持っていない。塔すらも眼中に入っていないのかもしれない。ただ他の国を殲滅することを望んでいる。おそらく、あの「調査」の時から、彼は何も信じることができなくなった。『塔』にとって、ナラムは最も都合の良い人間として見いだされた。そして、ナラムは「ヨセフス」という名のかつての反逆者を捉えるよう指示を出した。
――レイス、お前はどうなる? お前も我々の仲間として戦ってきた戦友じゃないか。
――俺は今まで、ナラムに忠実な兵を演じてきた。あの「調査」の後からな。すべてサハルのためだ。だが、『塔』に操られているわけではない。
――サハルのために、お前は国を滅ぼしていくナラムの手伝いをしているのか。
レイスは沈黙した。しばらくして、再び弱々しい『声』が響く。
――俺は、サハルに償いがしたい。俺がサハルを殺したも同然だ。だから、せめて彼女が大切にしていたナラムという男を、見捨てて逃げるわけにはいかない。俺が彼を見捨てたら、彼はたった一人、シンアルに残されることになる。
ヨセフスは目を閉じた。それは私も同じだ、と心の中で思った。
長い沈黙の後、レイスが強い口調で再びヨセフスの心に話しかけた。
――人の心配ばかりしている状況じゃないぞ。あと一時間でシンアルに着く。そうなればお前はもう生きてシンアルを出られないだろう。
――生きて出るつもりはない。
ヨセフスがそう答えるのを聞いて、レイスはふっと息を吐いた。彼はもう何も言わず、貨物室を離れていった。
飛行機はシンアルの飛行場に降り立ち、ヨセフスは地下牢に連れ込まれた。他の兵士が去った後、レイスとヨセフスは鉄格子のはまった窓を隔てて向かい合っていた。
「お前と話すのはこれが最後かもしれない。聞いておきたいことがある」レイスは改まった口調で言った。
「あの子どもは何だ? 地下にいた……。剣を持っていた」
「なぜ気づいた?」
「お前と同じ力を持つお前ならわかるだろう。俺の探知能力を知らないのか。気づいたのは俺だけだったが」
「あの子は関係ない」
ヨセフスは何でもないように言ったが、レイスは問い詰める。
「馬鹿なことを言うな。あの剣は平原の民の宝の一つだろう。サハルがシンアルから奪い返し、保有していた。なぜあの子が持っている」
「そこまで分かっておいて、なぜ見過ごした?」
「やはりそうか。俺があの場で捕らえるまでもない。いずれシンアルの軍に気づかれる。そして追手に捕まる」
「捕まらんよ。あの剣の力を知っているだろう」
「力があっても扱えない。使えば身を滅ぼす武器だぞ」
ヨセフスは黙っていた。
「そういうことか」
レイスは目を閉じ、額を抑えて言った。
「サハルによれば、あの剣はまだ正しく使われてはおらぬ。あの剣の能力は、塔の力の一部を引き出すだけではないのだ」ヨセフスは淡々と話す。「誰もそれを明らかにしていない。いずれ彼が気づくのだろう」
「どっちにしろあの子の命はないぞ、ヨセフス」
「あの子は、選ばれたのだ。二人目の『塔の破壊者』として。自身はまだ自覚してないがな。彼は東へ旅立ち、塔を破壊する。命を懸けて、私が彼を守るつもりじゃった」
「俺はさすがに軍全体に指示を出すことはできない。彼は命を狙われる。だが、できることならやってみる」
ヨセフスは鉄格子の間から手を伸ばし、レイスの肩に手を置いた。
「悪いな、お前は極めて難しい立場におる。決して無理はするな。それに、彼を導く者は他におるのだから」
レイスはその場を去り、ヨセフスは目を閉じて思案を始めた。レイスはナラムに「『敵』はいなかった。しかし優秀な『駒』は手に入れた」と報告した。
地下牢に、冷たい軍靴の足音が響いた。足音はヨセフスの牢の前で止まり、同時に扉が開かれる。
「出て来い。お前の処遇が決まった。これから技術部に行く」
その男はそう言って、ヨセフスを立たせ、半ば強引に連れ出した。勤勉な仕事家という雰囲気だったが、その口調にも眼差しにも、感情が無かった。
「処刑か? 人体実験か?」
「どちらでもない。名誉な役目が与えられる。『反抗組織』時代の優秀なリーダーは、敵ながら殺すに惜しいという結論だ」
「あんた、名前は?」
「……セムだ」
「所属は?」
「参謀だ」
「優秀じゃないか。レイスの部下か?」
ヨセフスが聞いたとたん、セムの顔が引きつり、もう何も言わなくなった。ヨセフスは、この時初めて彼に血が通ったように思えた。
建物の中に入り、細い通路を二人きりで歩いていた。急にセムは立ち止まり、腰の銃を抜いてまっすぐにヨセフスの胸を狙った。そして鋭く言葉を放った。
「貴様、レイスとはどういう関係だ? 妙に親しかったな」ヨセフスは微動だにせず、落ち着いて相手を見据えた。
「銃をしまえ。ここじゃ音が響くぞ。そんなものは私に効かないし、お前も信用に傷をつけたくなかろう。お前の役目は技術部へ私を連れていくことだろう」
「レイスの情報を知っているんだな? ここで吐け」セムは無視して質問を続けた。
「お前はレイスをどうする気だ?」
「そんなことは関係ない。さっさと吐け」
「悪いが、俺は自分の命よりレイスの方が大事だ。今はな」
セムはしばらくそのまま動かなかったが、にやりと笑うと、やがて銃をしまって再び歩き出した。カツカツと軍靴が冷たく床を鳴らす。
「人間兵器も役に立つときが来た」セムは独り言のように喋り出した。
「もはや『塔』に怯えていた王権は退き、我々は世界と『塔』を手中に収める」
「…………」
「塔は、高度な科学力を持っている」
「それを手に入れてどうする?」
「それは私の知ったことではない」
「では、質問を変える」ヨセフスは落ち着いて言った。「シンアルは、なぜそこまで必死に『塔』を守る? なぜそこまでヤマトを苛烈に攻撃するのだ」
「ナラム総裁は、純粋に民と『塔』を思っている。ヤマトは、かつての我々の国の一部だ。それだというのに、我らのすべてを拒否し、敵意をむき出しにする。我々は、敵意を打ち砕かなければならない。それだけだ。話はこれで終わりだ。もう喋るな」セムは早口で喋ると、冷徹に話を切り上げた。二人は歩調を速めた。
「ここだ」
セムは廊下に並ぶ扉の一つを開け、ヨセフスは従った。扉の先は光があふれる道が続いていて、上へ登っていくようだった。彼が足を踏み入れたが、セムは扉の前で立ったままだった。
「私はここで終わりだ。後はまっすぐ行くだけだ。逃げ出そうたって、この道は技術部へ続くだけで、他のどこにも繋がっていない。さあ、まっすぐ歩け」
セムはそう言うと、扉を閉めた。ヨセフスはため息をついて、道を登っていった。
この時から十数年前に、人類の総力を挙げた『塔』の調査が行われた。調査はシンアルに潜伏する反抗組織から『ヨセフス』、『ドフリ』、『ナラム』の二名、ヤマト、青洲から一人ずつそしてゴルン王国からは装甲車と師団の司令官が選出され、彼らを筆頭とし、『サハル』という女性による指揮の下実行された。サハルはどこから来たのか分からなかった。反抗勢力の中でその天才的な頭脳を買われ、その長となった。サハルの名はシンアルを越えて全世界に広まり、いずれ塔から人類を救う希望とされた。
人類は迫りくる塔の脅威に、その調査団に絶大な期待を寄せた。調査団が塔へ接近するため、ヤマト、青洲、ゴルン王国、その他の平原の民たちが連合軍を作り、大規模な反撃をシンアルに仕掛けた。その裏で、サハルが率いる調査隊は、ゴルンの最高の耐久性を誇る装甲車に乗って塔へ出発した。
強烈な砂嵐と落雷、熱波、氷の礫、空から降り注ぐ『黒い光線』によって装甲をはがされながらも、ついに彼女らは塔を視認できる位置までたどり着いた。ところがその時、ヤマトと青洲の装甲車の耐久は限界に達し、音もなく崩れ、乗員は外に投げ出された。一人は落雷に撃たれ、一人は鋭利な岩に貫かれた。ゴルンの司令官は二人を助けようと外に出て、砂嵐に巻き込まれた。
反抗勢力の四人が乗る装甲車はなす術もなく、ただ残骸になった調査団を見つめていた。
サハルはやむを得ず撤退命令を出し、辛うじて帰還に成功。陽動作戦の方は、お互いが大きな犠牲を出して互角のまま終わった。
その後、莫大な犠牲と技術を無益に失った調査団は、痛烈な批判を浴びた。特に、反抗組織だけが帰還に成功し、他国の隊員は全て犠牲になったことで、その矛先はサハルに集中した。世論が過熱し、『調査隊は計画的に他国の人員を殺すつもりだった』とする主張にまで発展した。隠れ家の前で、『サハルに責任を取らせろ』『サハルを追放しろ』というデモさえ起こった。それまでヤマトやゴルンから支援を受けていた反抗組織は、それを打ち切られ、シンアル内部で徐々に縮小していった。
ある日、サハルはドフリとヨセフスを呼び出した。
「ドフリ、ヨセフス、私を塔まで連れて行って欲しい」サハルは笑顔で二人に言った。
「調査の続きをしたい」
ドフリとヨセフスは危険すぎると言って断った。しかしサハルは聞かない。
「前回の調査も私が言い出したことだから。最後までやらないと」
二人はなお固辞した。まだ二十歳の若者に、これ以上責任を負わせたくなかった。
「お願いします。今度こそ成果を出すから……」
彼女の真剣な目に、二人はついに折れ、了承した。三人は単独で装甲車を調達し、秘密裏に塔へ向かった。
シンアルも大きな被害を出していたと見え、調査は順調に進み、ついに塔のすぐ手前まで到達した。塔は白い壁をきらめかせ、嵐の中でいっそう神々しく見えた。三人は息を呑み、黙ってそれを見つめていた。
その時サハルは突然、防護服も着ずに装甲車から飛び出した。
「ドフリ、ヨセフス、ありがとう。ここでいいから、あなたたちは先に帰って」
追いかけて外へ出てきた二人に、嵐の中でサハルは笑って言った。そして塔を睨み、独り言のように言った。
「あの中に入れば、何か手掛かりが掴める。私には、その義務がある……」そういって彼女は塔へ向かって駆け出した。
ドフリとヨセフスは引き留めようとしたが、ドフリは胸に岩の破片が深々と突き刺さり、血を吐いて倒れた。ヨセフスはドフリを助け起こし、装甲車に運び込み、応急手当てをした。振り返ると、サハルの姿は見えなかった。ドフリが意識を取り戻すのを見て、ヨセフスは塔に向かった。石の礫に撃たれながら塔の壁にたどり着くと、上部に窓のようなものが見え、彼は壁面の凹凸を頼りに登っていった。荒れ狂う気候のために壁は一部損傷していた。そこからヨセフスは体をねじ込んで『塔』に侵入した。塔の内部は全くの空洞だった。しかし側面に螺旋階段が沿うように取り付けられ、天井から地上へ達している。ヨセフスはそれを下りていき、塔の底に着くと、床の一部が四角く開いているのに気づいた。彼はまた梯子を伝って降りてゆき、地下通路に足を踏み入れる。道の先に青白い光が見え、慎重に進んでいく。進むにつれて、視界の周りが黒くなり、狭まっていくのを感じた。
そこに、サハルがいた。仁王立ちし、拳を握りしめ、何かを見つめていた。ヨセフスは彼女の視線の先を見た。いや、見ようとした。
その瞬間、『手』がヨセフスの頭の中に侵入してきた。『手』は拡大し、脳をかき回し、世界のすべてを黒く覆い、そして拭い去っていく。何もない空白の世界が見えた。自分は一人でそこにいて、その自分がだんだんと消えていく。ヨセフスは狂ったように頭を両手で抱え、地面をのたうちまわった。声にならない叫びをあげ続けた。自分がどう逃げたか全く覚えていなかったが、気付くと塔の屋上に登っていた。ヨセフスはそこで力尽き、意識を失った。
〝ヨセフス、ドフリ、あなたたちを改造したのは私です。一度敵に捕まった二人は、救い出されたときには、肉体を変えなければ助からなかったのです。そんな体にしてしまって、本当に申し訳なく思っています。だから、私は二人のために塔の謎を解きたかった。
でも、結果的に迷惑をかけてしまった。本当にごめんなさい。本当に、二人の助けが必要だった。でも、必ず二人は生きて帰ってほしい。〟
〝私の最後のお願いなんだけど、聞いてくれますか?
私には大切な人がいて、強がりだけど、本当は心配症で、私のことをしょっちゅう気にしてくる。時々うるさいけど、私の大好きな人です。図々しいとは思うけど、少しでも気にかけてくれたら嬉しい。きっと、私がいなければ、壊れてしまうかもしれないから。
それでなくても、私は別の研究所にいるって伝えてくれるだけでも十分です。
どうか、よろしくお願いします。
サハル〟
ドフリは、装甲車に残されていたサハルの書置きを読んでいた。かろうじて荒野から抜け出し、彼はシンアルには帰らず辺境の村で療養していた。その後ドフリはレイスと名を変え、姿かたちを変え、ナラムの保護者となった。
ノアは村を出た後、太陽が昇る方向へ歩き始めた。彼はとりあえず、村から東へ向かい、何度かヨセフスからその存在は聞かされていた地下都市『ゴルン』を目指そうと考えた。しかし村から外へ出るのは壊れた塔への探検以外では初めてで、『ゴルン』がどんな都市なのか、それどころか外がどんな世界なのかさえ知らなかった。ヨセフスの話では、ゴルンは剣山に最も近い都市であり、そこでノアはシンアルへの道を塞ぐ大山脈の越え方を探そうと思った。その山脈は西側と東側の世界を分かつ壁であり、容易に越えられるものではないことは分かっていた。ただ、ゴルンまで歩きでどれくらいかかるかも、ノアは分かっていなかった。
村と『壊れた塔』の間に広がる草原の草よりも、今歩いている東側の草原の草は長かったので、彼の足取りは徐々に鈍くなってきた。さらに、彼の視界の奥には先が見えないほど広い深緑の森が見えてきて、ノアは余計に気を落とした。その一方で、森に入ればヨセフスの言う『敵』の目から守られるかもしれないという期待も同時に抱いていた。
行く手は次第に木々が増え、気付くと深い森になっている。もう昼なのか夜なのか、ここがどこなのかも分からなくなった。ノアはそれ以上歩く体力も無くなり、大きな木にくぼみを見つけてそこに身を隠して眠った。
水の流れる音がして、ノアは木の穴の中で目を覚ました。外を見ると、すでに太陽は高く昇り、昼の暖かさが満ちていた。水の音は、近くを流れる川から聞こえていた。ノアは村にある小さな川しか見たことが無かったので、一本の木の高さほどの幅の川であったが、それをとても大きく感じた。同時に、この川をどうやって渡ろうか考えて途方に暮れた。川は南北に流れ、彼の進路を垂直に妨げている。ノアは川岸を南にさかのぼりながら、また鬱蒼と生える木やつたをかき分けながら、渡れそうな場所を探した。
ところが、川は次第に流れが急になり、深くもなっていくようだった。おまけに木々が次第に密集してきて、足元には彼が見たこともない怪しげな植物が茂るような深い森になっていった。行く手はかなり急な上り坂になり、彼は息を切らしながら登っていった。時々大きな岩が転がっていて、背の低いノアには超えることができず、大きく迂回しなければならなかった。彼は脇目も振らず、生い茂る奇妙な植物が手足に切り傷や刺し傷を作るのも気にせず、ただ進んでいった。
この時彼を突き動かしていたのは、決してその負わされた運命や、何かを成し遂げようとする気概ではなかった。彼は何かに夢中にならない限り、その孤独や、彼を囲む不透明な無数の敵意、そして帰るべき場所が遠のいていく恐怖に向き合わなければならないと知っていた。そしてノアは、たった一人でそれらと正面から向き合う勇気は持っていなかった。とにかく進むことだけが、彼にとっては心を安らげる方法だったのである。ノアは無心で何時間も登り続けた。
進むことにあまりに熱中していたので、彼は自分が川から離れて森の中を彷徨っていることに気が付かなかった。そしてそれに気づいた時、もはや彼は自分がどこにいるのか、どちらに向かっているのかも全く分からなくなっていた。
こそこそと抑えた話し声を聞いたのは、ちょうど彼が諦めたように天を仰いだ瞬間だった。その声を聞くや、ノアはびくっと体を丸めて耳を澄ませる。何を言っているかは分からなかったが、その声は途切れることはなかった。そして二つのかすかな声はだんだん遠ざかっていく。ノアは追うべきか、それともこのままやり過ごすべきか迷った。彼は今の状況では、自分がこの先案内人を必要とすることは分かっていた。ただ、ヨセフスのある言葉が頭から離れなかった。
「『野伏の者』や『剣山の民』は特にこの村の者を毛嫌いしておる」
もしかしたら、あの音の主は『野伏の者』かもしれない。彼らは自分を助けてくれるだろうか? 自分を西の村の出身だと見抜くだろうか? そうと分かれば、彼らは自分にどんな嫌がらせをするのだろうか?
ノアが逡巡したとき、頭上を――今、彼の頭上は森の厚い葉々で黒々と覆われてはいるが――エンジン音を鈍く響かせ、飛行機が通り過ぎていく音がした。その音は一旦小さくなり、また大きくなる。周囲の上空を捜索しているのだ。その音は、ノアを森からあぶり出すように体の芯まで震わせた。その風圧は、ノアを威嚇するように森の木々をざわめかせた。彼は頭を抱え、身じろぎ一つせずにそれが完全に消えるのを待った。幸い枝葉が厚い天井を作り、敵の目からいくらかノアを隠している。しかし、このことでますます彼は危機が身に迫っていることを痛感し、一刻も早く最適な道を知る案内人が必要だと思えてきた。
音が消え去ると、ノアは先ほどささやくような声がした方へ歩き出した。その声はもう消えていたが、方向は覚えていたから、すぐにできるだけ音を立てないように幻の声を追っていった。
進むにつれて、さらに森は深くなっていき、そして同時に自分が下っていることに気が付いた。やがてノアは、細い木に掴まりながら脆い斜面をずるずると滑っていかなければならなかった。
――谷へ向かっているんだ。ということはこの先に先ほど見失った川があるのだろうか。あの声の主は、何だったのだろうか。意味は分からなかったが、「言葉」を喋っていたのは明らかに思える。『野伏』だとしたら――自分はどう振舞えばいいのだろうか。
ぼんやりと考えながら降りていると、急に木々が少し開けた場所に出て、今自分が向かおうとしている谷の全貌が見えた。彼は斜面にしっかりと足を踏ん張ったまま、その光景を見ていた。
それはどこまでも続く緑の山々と、その間を割って滔々と流れる静かな川が作る、穏やかな峡谷だった。川の両岸は岩がむき出しになっていて、そこから上は木々に覆われた急峻な斜面が続き、空の青と山の緑を斜めに、鮮やかに塗り分けている。川の上流は遠く、霧がかかっているように判然としない。しかし、そこから吹いてくる涼しく乾いた爽やかな風は、汗ばんだノアの体を心地よく包んだ。しばらく彼はそこから動かずに、深呼吸し、全身でその清らかな空気を取り入れた。
「み、み、み、見たぜえ、見たぜえ、真っ黒いひ、ひ、飛行機」
「ばか、このうすのろ、飛行機だって? くそ、このやろう。このとんま」
その声は、ノアの立つ斜面の下の方からはっきり聞こえてきた。声は二つだった。怒っているような、怯えているようなとげとげしたがらがら声だ。ノアは木の陰で耳を澄ませ、会話の続きを聞いた。
「そそ、それによ、いたんだ、大きくて小さい西の奴だぜ。ま、まちげえねえ、奴は西から来たぞ。ああ、西から来た」
「西だって? くそやろう、だから何だってんだ、ばか」
「西の奴は、に、に、逃げてんだ。真っ黒いひ、飛行機から逃げてんだ。あた、頭抱えてたんぜ。はあ」
「西の奴なんざ、死んでしまえ、くそ。飛行機で潰れちまえ。どいつもこいつも潰れちまえ。西も東も潰れちまえ」
ノアは自分の存在が知られ、すでにどこから来たのかも明らかにされたことが分かった。しかし彼にはこの会話がどのように続くのかということの方が気になり、谷の方へ下っていく声を追いかけた。彼はつっかえながら話す方を「のろ」、怒ったように話す方を「ばか」と心の中で名付けた。
「奴は、こ、ここへ来るぜ。わしらのところへ来るぜ。谷、の、下、へ来るぜ。ま、迷ってんだよ、道が分かんねえんだよ。こ、こんなところ、わしらしかいねえよ」
「くそ、来てもだめだ。入れねえよ。ばかやろう。西の奴なんか入れねえよ。俺たちの敵なんだからよ。締め出すしかあるまいよ。くそったれ」
「締め出すな、し、締め出すな。入れてやるんだよ。それで、そ、それで、いっぱいいじめてやるんだよ。し、仕返しだぜ。奴はひ、ひ、一人だぜ。ふう」
「ばか、ああ、あいつみたいにな。あのばかやろう、『東へ行く』って言ってた、ちびの奴みたいにな。よし、谷の下だ、ばか」
ノアはその二つの姿を見られるほど声の主に近づいていた。その二人は、背丈はノアの腰までしか無いようだった。そして彼らの腕や足は胴体に比べて細く、また不自然な動きをしていた。歩きながら腕が変な方向にぶらぶらと揺れたり、急に跳びあがるように脚が伸びたりして、彼ら自身もそれを抑えられないようだった。
ノアが聞き取れたその会話の内容に反して、彼の心に沸き上がったのはおそれや嫌悪ではなく、哀れなものを見た時に生まれる、寛大な優しい感情だった。彼はどうにか二人を救ってあげたいと、ひしひしと思うのである。それほどまでに、小さな姿のその背後に漂う悲壮感はひどく痛々しいものだった。
ノアは二人を追って、『谷の下』に行くことを決めた。二人はぴょんと跳ねたり、ふらふらと道を外れたりしながらも確実に谷へ下っていた。
彼らを追って、自分はどうすべきなのだろう? 彼らは村のようなものを作っているのだろうか?
二人の会話から、ノアは自分が歓迎されることは決してないと確信していた。その一方で、谷の下にもしかしたら、自分を迎えてくれる『野伏』がいるかもしれない。そうでなくても、せめて道だけでも教えてくれるかもしれない。ノアは淡い希望を持って二つの小さな影を追いかけた。
やがて二人は川までたどり着いた。彼らは川岸をさかのぼっていき、一部分だけ岩がせり出し、それを木々が覆っている場所で立ち止まった。そして全く周りをうかがう様子も無く、彼らはその岩の隙間に消えていった。ノアは岩の陰から飛び出て、彼らが消えていった辺りを調べた。そこにはノアでさえくぐれないような細長い隙間があった。そしてその隙間から、中が見えた。というのも、岩と思っていたその塊は中が空洞で、それはかなり大きかったのである。奥の方はずっと先まで続いていて、上から適度な木漏れ日が差し、まるで心地よい広場のような空間を作っていた。そこに彼らはいた。三十人はいるようである。ノアが追ってきた二人はどこにいるか分からないが、同じような小さな人たちが地べたに座って話し込んだり、何か魚かトカゲのようなものを焼いたり、布を編んだりしていた。また、枝葉と岩を組み合わせて建てられた小屋のようなものがいくつもあり、その中で何人かの『野伏』たちが生活しているようだった。
ノアが我を忘れて見いっていると、彼が追っていた二人が広場の中央にどこか勿体つけながら進み出てきた。少し辺りが静まり、二人は注目を浴びた。しばしの沈黙の後、『のろ』が口を開いた。
「き、き、聞け! いま、見てきたぞ、見てきたんだ。お、お、お、驚くなよ、そいつはな……」
ここまで言って、『のろ』はもごもごと口を押さえた。
「何だ?」
こらえきれずに、誰かが尋ねた。とうに周りは六十人は集まっており、大きな集会のようなものになっている。『のろ』は話し始めたはいいものの、言葉が詰まって黙り込んでしまった。
「『西の奴』だ! ばかやろう、『西の奴』がこの辺をうろちょろしてんだ!」もう一人の方――『ばか』が代わりに大声を出した。
「俺たちを昔も今もこんな目に合わせやがったこんちくしょうの『西の奴』だ! くそったれ! そいつがうろついてんだ!」
聴衆はかなりざわめいたが、まだ疑っているようだった。
「こんなところに『西の奴』が来るもんか」
「い、い、いや、あれは『西の奴』だ。大きくて小さい『西の奴』だ。ひ、ひ、『東の奴』じゃそうはいかねえ。奴らは、でっかいぜ、でっかい。に、『西の奴』は、でかくて、ち、ちいせえのよ。それに東の奴らは砂漠をわ、渡れねえから、こ、ここにゃあ来られねえ」
『のろ』の説明を聞いて、聴衆の半数はぎらりと目を光らせたようだった。ノアはこのままではまずいと思いながら、なぜか目が離せず薄い岩の壁に張り付いて聞いていた。
「何しにきやがった。敵は何人だ」
「一人だ。奴は、逃げてんのよ。く、黒い飛行機から逃げてんのよ。あた、頭抱えてたぜ、へえ」『のろ』はまた、思い出したように続けた。「でも、け、け、剣持ってたな。怖いぜ、殺す気だ! わしらを殺す気だ!」
聴衆はほっとしたやら不安になるやらで少しざわめき、口々に喋り出した。
「いい気味だ」「でもよ、『西の奴ら』がわざわざこんなとこに来たのも初めてじゃねえか」
「関係ないね」「剣だって! 凶暴な奴だ」「奴にも水を飲ませろ」「あんな奴ら、ほっとけよ」「いやな奴が来たもんだ」
『ばか』の方はそれまで黙って聞いていたが、組んだ腕を指でとんとんと叩きながらぶつぶつと文句を言い始め、しまいにはまた大声を出した。
「ばか! くそ! 捕まえようって言ってんだ! 俺たちは! 奴をここに連れ込んで、反省させんだ! 『西』の悪魔を成敗しようってんだ、くそったれ!」
聴衆は静まり返り、一斉に『ばか』を見つめた。彼の言っていることが、どこか勇敢で、胸のスッとする響きを持っているように思えたのである。
「俺たちがここで血い吐いて暮らしてんのも、『西の奴ら』のせいよ! 脚がふらふらでまっすぐ歩けねえのも、すぐ腕が折れちまうのも、そいつらのせいよ! それなのにあいつらは元気に外を飛び回ってやがんぜ! ばかやろう!」
その声は、岩の力を借りて重く、強く反響し、恐ろしいほどの迫力を持っていた。
「そうだ……捕まえろ!」
誰かがそうつぶやいた。暗い復讐という名の炎は、次々に伝わっていく。
「この『谷の下』だけじゃねえ、北と東の奴らも呼んで来い!」
もはや群衆のほとんどは拳を振り上げ、目をぎらぎらと輝かせていた。そしてその叫びは大合唱となって岩の壁に響いた。
捕まえろ! 捕まえろ! 捕まえろ!
ノアは今や岩から全力で離れていた。もはや先ほど持っていた彼らに対する哀れみは消え失せ、恐怖と焦りが彼を支配していた。背中の怪しい剣は使うつもりはなかった。使えば何か恐ろしいことが起こりそうで、また何よりこの小さな剣があの大群を相手できるか、心もとなかった。彼は川から離れた。川岸はむき出してすぐに見つかってしまう。東への目印としての川は惜しかったが、今は諦めることにした。
六十人が追ってくる! いや、もっといるかもしれない。彼らの追跡はどれくらい早いのだろう? 不自由な足でも、この山道に慣れていない自分よりは早いだろう。
ノアは、すぐに逃げずに岩の広間で盗み聞きをしていたことを心底後悔した。構わずあの川をさかのぼっていけばいずれ森を抜けられただろうにと嘆いたが、もう遅かった。ノアが行く手を阻む木々をかき分け、山の中腹ほどまで登った時、下の方からどよめきが聞こえた。振り返って下を見ると、まさにそれは彼、ら、が岩の隙間から一斉に飛び出てきた瞬間だった。黒い小さな影は四方に散らばり、捜索を開始した。ノアはとにかく山の反対側へ出ようと決め、震える膝を叩いて登り出した。
無我夢中で走り、登っているのか下っているのかも分からず、逃げ続けた。そしてついに一歩も動けなくなり、目の前の光景がぐるぐると回り、たまらずに彼は柔らかな落ち葉の上にあおむけに倒れこんだ。少し目を閉じたまま呼吸を整え、ノアは耳を澄ませた。敵の迫る音は聞こえず、木の葉がざわざわと音を立てている。彼はほっと息をつき、目を開けた。
「どこ、行く?」
その声はノアのすぐ頭上から聞こえてきた。ノアはがばっとうつぶせになり、声からはいつくばって逃げ出した。まずい、逃げ切れなかったのか、捕まる――
しかし、いつまでたっても追手は来なかった。ノアが恐る恐るその声の主を振り返ると、そこにいたのは、谷で見た『野伏』たちよりも幾分か小さい野伏だった。ノアの膝よりちょっと高いくらいだった。ただ、岩の広間のどんな者たちよりもずっと健康で優しそうな顔をしている。
「どこ、行く?」
それはまた同じ質問をした。
「逃げてるんだ。谷の奴らから」
「谷? なぜ」
「君は誰? 名前は何? 谷に棲んでいるんじゃないのかい?」
「隠れ、てる」
「カクレ? カクレっていうの?」
ノアは勘違いしたが、相手は何も言わなかった。ノアの方を見ず、遠くを見る目をしていた。
「谷、逃げる。一緒」
カクレは途切れ途切れにゆっくりと喋り、ノアには理解するのに時間がかかったが、どうやら彼も谷の連中から逃げているようだと分かった。ノアはこの小さな旅人を一旦は信用することにした。
「逃げ道を知ってるの?」
「奴ら、川離れない。山、越えない」
カクレは、谷の住人は川から山を越えて離れることはしないというのだった。そして今二人がいるところこそ、川から一山越えたふもとだった。
「じゃあ、もう逃げなくてもいいんだね?」
「僕は、ノアという名前で、西の村から来た。今、東へ向かう途中なんだ」
カクレは「西」という言葉を聞いても何ら関心を示さなかったが、「東」と聞いてぴくっと目を上げた。
「東、一緒」
「君も東に向かってるの?」カクレは頷いた。しかしすぐにノアは首を振った。「でも、川に近づけないなら、東への道が分からない」
カクレはそれを聞いて、ついてこいとでも言うように別の方向へ歩き出した。ノアは、その小さな背中を見て、少しだけ心が軽くなったように思えた。完全には信用しているわけではないが、地獄で仏とはこういうものか、と自分に言い聞かせ、その小さな案内人について行った。
ノアはカクレから、長い時間をかけてこの谷に棲む者たちとカクレの話を聞いた。この谷は美しく洗練されているように見えて、実は生命を蝕む毒に汚染されていたのである。この峡谷を流れる川は、森の隣に広がる『砂漠』を貫いて流れてきており、その『砂漠』の毒を運んでくるのである。カクレはこの毒が何なのかは知らないと言った。しかし砂漠から来ることは間違いないようだった。
谷に棲む者たちはこの川の水を飲む。そして毒に侵され、血を吐いて死ぬのである。しかし彼らはこの谷から決して出ていこうとはしなかった。ただ死んでは生まれ、短い寿命の中で細々と『谷の下』の集落を存続させていた。なぜなら、それは彼らや彼らの先祖が、昔からそうやってきたからである。彼らは川が毒に侵されていることも、そのせいで体中のあちこちが痛み、血を吐いてしまうことも知っていた。そして、それが当たり前だと思っているのである。彼らは、自分たちが苦しまなければならないという義務を――それは谷の外に出るよりはましだということなのか、そのような環境を作った者への復讐なのか、それとも同じ苦しみを味わってきた先人たちへの敬意なのか、はたまたただそれが運命だと思い込んでいるだけなのか、誰にも分からないが――課せられていた。ただ彼らはそのように苦しむことは必然であると信じなければならず、そして信じたまま死んでいく。人が喜びを知らずには生きていけないように、彼らは痛みと苦しみを糧として生きてきたのである。
彼らはカクレを追い出すとき、そう言った。少なくとも、カクレには彼らがそう言っているように思った。ただ一人、安息の地を信じたカクレは他の仲間から白い目で見られた。行きたいのなら何処へなりとも行け。そして帰ってくるな。腰抜けの裏切り者め。
カクレは何度も仲間たちに言い聞かせた。なぜそうまでして苦しむのか。もう楽になればいいのに。一緒に探しに行こう。確かに周りは危険が溢れかえっているけど、いずれ安息の地は見つかるはずだ。しかし彼の声に耳を傾ける者はいなかった。そしてカクレは、たった一人で未知の旅路へ一歩を踏み出した。
「安息の地って、何?」
「山の上、ここより東で、きれい、安全」
「山の上って、あの東西を分ける大山脈のこと?」カクレは頷いた。
「だいぶ遠いよ」
「外、仲間、いる」
「仲間?」
「鳥、鹿、犬……花、草、人……」
カクレは歌うように次々に挙げていった。ノアは、最後にカクレが「人」と言ったことに驚いた。
「君は、僕を恨んでいるの?」
「恨む? なぜ?」
カクレが不思議そうにノアを見た時、
「お、お、お、お前!」
と後ろから、あのしわがれた声が叫んだ。
「に、西の奴に、う、う、う、裏切り者!」
そういうと『のろ』は一目散に背を向けてひょこひょこ走っていった。
「まずい。仲間を呼びに行ったんだ。逃げるよ!」
ノアはカクレを見た。彼はこくりと頷き、短い脚を振って走り出した。他の谷の下の野伏に比べて、かなり速く走れるようである。
ノアはとりあえず『のろ』が来た方向とは逆方向に走り出したが、何か嫌な予感がしていた。どんどん暗い方へ、下の方へとまた戻っている気がする。カクレもときどききょろきょろしながら立ち止まり、不安な顔をしてまた走り出す。後ろからあの叫びが――『谷の下』で聞いた「捕まえろ!」の叫びが――かすかに聞こえる。横からも聞こえた。後ろの声よりかなり近くから。絶え間なく繰り返される憎しみの断末魔。そしてとうとう、二人が進む方向からはっきりと、野伏たちの叫びが浴びせられた。
「カクレ……」
「木。登る。奴ら、登れない」
カクレはそう言うと、近くの奇妙に曲がった木の幹に飛びつき、器用に登っていった。ノアは目の前から、森の影よりもっと黒い塊が、地面を埋め尽くしながら迫ってくるのが見えた。視界の左右の端も同じように何かが迫ってくる。ノアも迷わず木に飛びつき、夢中で上へ上へと登っていった。
息を整え、周りを見ると、隣の細い枝から下を見下ろすカクレが見えた。恐る恐る視線を下げていく。もはや木の下には、地面が見えないほど『野伏』たちがひしめいている。
骨と皮だけになり目の落ちくぼんだ悲壮な顔を、皆同じようにこちらへ向けている。表情は無かった。彼らは何も言わず、ただただノアたちを空虚に見上げていた。
「ばかやろう、この卑怯者! 降りてきやがれ! おい!」突然『ばか』が大声でののしり、木がざわめいた。そのとたん、『野伏』たちの顔は憤怒と憎悪を取り戻し、目を暗く輝かせた。『ばか』は足元の石を拾い、力の限り投げ上げる。
それを見て、皆同じように手にもった石を木の上のノアとカクレに向かって投げつけ始めた。
その石は貧弱な彼らの腕では、高い木の上の二人に当たることはない。当たったとしても、傷を与えられるような重い石は投げられなかった。投げるたびに彼らの腕は痛み、耐えられず骨が折れる者もいた。『野伏』たちは二人に当たった石が、あるいは当たらずに空を切っただけの石が、再び自分たちに降りかかってくるのに気づいて、投げるのを止めた。
「僕らが何をしたっていうんですか? 僕はただここを通って東へ行きたいだけです。道を開けて下さい!」
ノアは下に向かって叫んだ。しかし答える声は無い。その代わりに、二人が掴まってい木がゆらゆらと揺れ始めた。木の根元で、『野伏』たちが仲間を踏み台にして、何とか木を登ってこようとしているのだ。しかしその曲がった細い脚では強く踏ん張ることができず、転げ落ちていく。踏まれたものは重さに耐えきれず、膝が砕け、地面に倒れこむ。骨が砕けた『野伏』は、痛みに地面をのたうち回り、きいきいとうめき声をあげる。それでも仲間が自分に構ってくれないどころか、踏み台にされるだけだと気づくのである。無視され、孤独になった『野伏』は木から離れ、動かずに丸まって、静かにしくしくと泣いた。やがて木を登ろうとする『野伏』は一人もいなくなった。つい先ほどまで目を血走らせて二人を見上げていた『野伏』たちは、地べたに座り込み、うなだれ、視線を上げることさえなくなった。
「降りて来いよ……」誰かがつぶやいた。
「東は、あっちだよ……」また一人、ぼそっと言った。
「骨が、折れたよ……」
「ごめんよ」
「何だと? もう、歩けねえじゃねえか」
「俺もさ。お前に踏まれたんだ」
「お前の石が当たって腕が上がらなく、なっちまった」
「だから何だってんだ」
「…………」「…………」
そこかしこで『野伏』同士の口論が始まったが、最後はぎらつくような目を向け合って無言になり、それで終わった。彼らにはもう殴り合う力が無かった。無言になると、バツが悪そうな顔をして地面を見つめ、思い出したように上を見上げて、ノアやカクレと目が合うと、一瞬恨めしそうな顔をして視線をそらし、結局また地面を見つめた。
ノアは、上から見える彼らの禿げあがった後頭部を見て、ブツブツと罵り合うしわがれた声を聞いて、嫌悪感がむらむらと湧き上がってきた。それは決して『野伏』たちの醜い外見や向けられた悪意、ちぐはぐで愚鈍な行動から来たものではなかった。なぜかは分からなかったが、もしかすると、無力でこの場をどうすることもできない自分自身への嫌悪を重ね合わせているのかもしれない、と思うのだった。
「今がチャンスなんじゃない?」
ノアはカクレを見たが、彼は首を振った。
「降りたら、襲われる。奴ら、騙している。追い払う」
「どうやって?」
カクレは首を傾げた。厳しい顔をして下を見下ろしている。彼にも何ら策は無いようだった。
その時、遠くの木がガサガサと揺れ、その後ろから大きな影が飛び出してきた。その影は大声で叫びながら、丸太を振り回してノアたちがいる木に向かって突進してくる。木々で遮られて横には触れないので、ひたすら縦に振り下ろし、小さな影たちに丸太をたたきつける。『野伏』たちは予想外の難敵に慌てて飛びのき、あるいは動けないものは暴れ狂う太い幹の犠牲になった。ついに『野伏』たちはわらわらと四散していった。
「ネブロ! なんで君がいるんだ?」
ノアは思わず叫んでいた。その影は、ネブロだった。肩で息をしながら、いつもの優しい目で木の上のノアを見上げている。
「ノア、君がどう言おうと僕は君について行くよ。準備だって全然してなかったじゃないか。食べ物も持ってきたよ。ほら、降りてきて。もう敵はいないよ」そこまで言って、ネブロはノアの隣にいるカクレを見た。
「そっちは誰?」
「この人は、カクレっていうんだ。今の奴らとは違って、優しい奴なんだ」ネブロはカクレを見たまま頷いた。そして首をかしげてノアに聞いた。
「今の奴らは、何だったんだ?」
ノアとカクレは木を降り、森に入ってから起こったことを丁寧にネブロに説明した。聞き終わると、ネブロは険しい顔をして立ち上がった。
「恐ろしい奴らだ。力は弱いけど、群れになったらひとたまりもないだろう。さっきは意表を突けたからよかったけど、今度はそうもいかないだろう。また襲ってくるかもしれない。早く森を抜けよう。方向は分かるんだよね?」
「そうだね、でもその前に」と、ノアはネブロをじっと見た。「僕は君を危険な目に遭わせたくないんだ。それでも行くっていうのかい?」
ネブロも見つめ返した。そして息をつくと、諭すように答えた。
「ノア、君が行ってしまった後考えたんだけど、僕もヨセフスのために君と一緒に行かなければならない。ヨセフスは僕に、『ノアを頼む』ってお願いしたんだ。つまりね、僕はヨセフスのために君を守るんだよ。全く、仕方のない老人だよね」
ノアはそれを聞いて、最初は無表情を装っていたが、ネブロの顔をじっと見ていると自然と笑みがこぼれてきた。ネブロもつられて笑った。カクレはぽかんと二人を見ている。ノアはネブロの肩に手を置いた。
「あの時は突き放しちゃって、本当にごめんよ、ネブロ。嬉しいよ。君が来てくれて、僕は本当に嬉しいんだ。さあ、早く行こう」
ノアはそう言うと立ち上がり、楽しそうに歩き出した。
彼らは数日かけて、ついにしつこく追いすがる『野伏』たちを追い払い、森を抜け、岩山の上に立った。そこから見えるのははるかな白い砂漠だった。足元のずっと下には川が流れ、森へ流れ込んでいる。驚いたことに、ノアが今まで見ていた川はただの支流の一つだったと気づいた。というのも、その川は白い砂漠の向こうから流れる巨大な河川から細く分岐したものだったからである。
ノアとネブロはむき出しの岩に腰を下ろし、荷物から水と食糧を出して腹ごしらえをした。もうあまり残っていない。計算したところ、どうしてもあと三日でゴルンに行かなければならないと分かった。彼は空を見上げた。久々の空だった。彼は心が満たされるような思いがして、その青色も、流れる雲も、何よりもいとおしく見つめるのだった。しかし同時に暗い不安もこみあげてきた。もはや自分を敵――すなわちシンアルの手先――の捜索から覆い隠してくれる深い森は無く、むき出しのまま進んでいかなければならない。彼はヨセフスが恋しくなった。今頃どうしているのだろう? 敵の手に捕らえられ連れ去られたヨセフスは、まだ無事なのだろうか?
最悪の想像が頭によぎり、ノアは考えるのを止めた。そして、ヨセフスは自分が助けなければならないと、強く思うのだった。
「カクレ、これからどうするの? この砂漠を渡るの?」ノアは傍らに立つカクレに聞いた。カクレは首を振った。
「危険」
その言葉を聞いて、ノアもヨセフスがかつて『白砂漠』について言っていたことをかすかに思い出した。
「白砂漠は決して渡ってはいけない。渡れば身を滅ぼすだろう」
『白砂漠』の正確な場所は聞かされなかったが、目の前に広がる、太陽の光を浴びて銀色に輝き、不気味に沈黙する砂の海は、それに間違いないと思われた。彼が思い出せたのはその言葉だけだったが、砂漠の横断を諦めるには十分だった。
ノアは考えたが、左右にどこまでも広がる白い砂漠は、どうしても越えなければならないような気がした。ゴルンはこの砂漠の向こうにあるのだ。
「回り道するしかないね」
ノアは北へ向かって、森と砂漠の間に広がる岩場を歩き出した。
三人が延々と続く岩場で三日ほど過ごし、途方に暮れた時、一人の少年が岩の影から飛び出してきた。少年はボロボロの服を着て、泥だらけだった。ノアにとって、村で見たことのない不思議な顔つきをしている。
「ここ数日この岩場をうろつくおまえたちを見てた。東へ行きたいんだろう?」少年は出会いがしら、舌足らずな喋り方でまくしたてた。
「いいか? 白砂漠は『白の塔』を囲うみたいに、東側から、お椀みたいに広がっている。つまり、ここから東へ行くには白砂漠を越えないといけない。絶対に。だけど、白砂漠は歩いては渡れないし、空を鳥に乗って飛んでいくことすらできない」
「どうして? 白砂漠はそんなに大きいの?」
「いや、大きさはそれほどでもないんだ。でも、君は白砂漠を通っていった生き物たちがその後どうなったか知らないだろう」三人は頷く。
「あれは、普通の砂じゃない。その近くに寄っただけで、その時は何でもないんだけど、後になって体のいたるところがおかしくなっていく。例えば咳が止まらなくなっていきができなくなって死んだ人間、まぼろしが見えるようになって頭がおかしくなった犬、だんだん腹に穴が開いてきて血が止まらなくなった鳥……。まあ、要するにあくまの砂だよ」
「それでも、僕は東に行きたいんだ」
ノアが言うと少年はますます目を輝かせて説明した。
「ここからずっと北に、わずかな砂漠の切れ目がある。そこから先は寒い寒いひょうしょうにつながっていて、東へ抜けられればゴルンに出られるけど、まあ、人の通れる道じゃないし、北の国々はほぼ海賊にしはいされているから、会えば食われるだろうね。それに、その北の切れ目までは歩いてひと月はかかるだろうね」ひと月、と聞いて思わずノアは少年の顔を覗き込んだ。
「ここから塔のあるシンアル王国まで、どれくらいかかるの? あと歩いて二日ぐらいだといいんだけど」
「シンアル? 歩いて? 何をばかなこと言ってるんだ? ここからシンアルまでなら、歩くなら……そうだな、歩いたことが無いから分からないけど、一年はかかるかな」
「一年? そんなに遠いの? 僕、もう五日間ぐらい歩いてきたんだけど」
「せかいの端から端まで五日で歩けたら苦労しないよ」
「でも、一年もかけてられない」
少年は少し考えると、思い出したように手を打った。
「分かった。北へ行かないなら、残るほうほうは一つだけだ。この道はおれも詳しくは知らない。つまり大氷床より危険かもしれないし、もしかしたら安全かもしれない。賭けってことになる。半日ぐらいあるくけど、行くか?」
「行こう」
ノアとネブロは大きくうなずいた。
少年は、歩きながらでも相変わらずずっと喋り続けていた。
「おれの名前? おれは名前なんか無いよ。オルザの奴隷の子なんだから」
「オルザ? 東西の大陸の境界にある国だよね? なんで君はこんなところに住んでいるの?」
ネブロが目を丸くして聞いた。
「オルザは奴隷を白砂漠の端っこの採石場に送って働かせている。白砂漠には貴重なほおせきがたくさんあるから。それで、おれはオルザの乗り物を奪ってそこから逃げてきた。だけどそれが壊れちまって、戻れないんだ。オルザは砂漠の向こう側だから。でも、ここだってそんなに悪いところじゃないから、ここにいるのさ」
「じゃあ、君のことは、これからオルザって呼ぶね」
ノアがそう言うと彼は目をぱちぱちさせたが、最後には頷いた。
オルザは岩場にたどり着いてからずっと周囲の調査をしていたらしい。こんなに嬉しそうに喋るのは、いつもオルザは孤独で、ここを通る人なんていなかったからかもしれない、とノアは思った。三人は、オルザが長年調査して得た数々の発見を楽しそうに話すのをずっと聞いていた。
三人はオルザに連れられて、岩場にぽっかりと口を開けた洞窟に入っていった。中は乾いていて、なぜか焦げたような跡がところどころにあった。オルザは軽快に、どんどん下へ降りていく。もう外の日の光は差し込まず、完全に暗闇だった。いつまで降りるのか、と聞こうとしたとき、オルザは「ここだ」と言って松明で周りを照らした。照らされた岩には割れたような穴があり、その中は暗くどこまでも続いているように見える。そしてその穴の周りには、銀色の破片が見え隠れしている。
「この辺の岩はな、爆発するんだ。国の一つも吹き飛ばしちまいそうな爆弾が埋まってる。
だからこれは、多分その爆発で見つかったちかどうだ。いちど入ってみたが、東と西に続いているはずだ。おれはすぐに出てきたけど」
銀の壁。ノアはどこかで見たように感じ、記憶をたどった。
「この壁は、見たことがある。僕らの村にあるんだ。かつてご先祖が暮らしてた銀の地下の家を作っていた壁だ」
「そうかね、そういうこともあるかね、さあ、行くのか、行かないのか?」
「行くしかないんだよ」
ノアはそういうと、ネブロがオルザに聞いた。
「君は行かないのか? オルザへ行くのに、この砂漠を越えないといけないんだろう?」オルザは少し黙った。口が震えているように見える。オルザは首を振り、笑って言った。
「この岩場も、悪くはない。それに、オルザにはもう戻らない」三人はオルザに礼を言い、穴へ体を滑り込ませた。
穴に滑り込んだ瞬間、ノアは一切の闇に包まれた。一瞬体が浮き、すぐに硬い床に着地した。ノアはオルザがくれた松明に火を灯した。
「ネブロ、カクレ、いる?」
「いるよ」
「いる」
「これ、どっちに行けばいいんだろう?」
火を高く掲げると、どうやら円形のトンネルのような空間にいるようだった。奥までずっと続いていて、終わりは見えない。
「東だから、右だな。まっすぐだ」ネブロがささやくように言い、指をさした。「歩きやすそうだけど、何が出てくるか分からない」
「近道とは言うけれど、何日かは歩く必要がありそうだね」
三人は怯えながら、ただまっすぐ続くトンネルを歩いて行った。歩くだけで、大量の埃が舞い上がる。ところどころ穴があいていて、水が滴る音が時折聞こえる。何かが息づいているような気配は終始絶えず、三人の足取りは重かった。
しかし怯えというものは長くは続かないもので、ノアは気づけば今の自分の状況を忘れ、ぼんやりと考え事をしていた。
――空が見たい。僕は何でこんなところにいるんだろう? ネブロも近くにいる。早く村に帰らないと……。
ノアは朦朧とした意識の中、唐突に喋り始めた。
「僕は村にいて、近くの林で赤い実を見つけて、それが柔らかくて、食べた。すっぱくて、甘かったから、この果物を育てようと思って、だからロームおじさんに話してみようと思ってて、だから、今日は北のオルザ村に行かなくちゃいけなかったんだ。その実を食べたのは昨日だった? 僕の村では果物が育ちにくいんだって、みんな言ってて、日当たりが悪いし、それで僕は諦めたんだ。僕はもともと果物を作るような人じゃなくて、僕は別のことをやらなくちゃいけなかったから、そういうことはやらなくて、だから、ぼーっとしてて、いつも何かを考えていた」
「ノア、さっきから何を言ってるんだ?」
「そっちこそ、何を言っているんだい? ネブロが何か喋ってみろっていうから、頑張って色々話してただけだよ」
「僕はそんなこと言ってないよ」
「じゃあ、この『声』は何?」
その時、三人の耳ではなく、頭の中に反響する『声』が聞こえた。
「俺たちは、この地下の住人だ」「まさか外の人がこんなところまで来るとはね。あんたら、『地下都市』へ行きたいんでしょ?」「私たちは『地下都市』への行き方を知っているよ」
ノアは一気に流れ込む様々な『声』に混乱して、つい、
「なんで声だけなんですか? 姿はどこにあるんですか?」と尋ねた。
「そんなことどうだっていいじゃないか。あるのは声だけで十分だろ? それより、やっぱり『地下都市』へ行きたいのか?」
「そうです。生き方を知っているんですね? 教えて下さい」
ネブロが遠慮がちに尋ねたが、『声』は少し黙り込み、煽るように言った。
「まあ待て。何百年ぶりかの地上の人間だ。ただ教えて返すだけじゃつまらん」
「そうだなあ、じゃあ、何か話を作ってみろ。暇つぶしになる面白い話をな」
ネブロは思わずノアを見た。ノアが首を横に振ると、『声』たちがどこか嬉しそうに喋り出した。
「しょうがねえなあ、俺が手本を見せてやるよ。話ができたら言うんだぞ」
「とかいって、最近思いついた話を披露したいだけでしょ」
「まあそうなんだがな、とにかくよく聞けよ」『声』は唐突に語り始めた。
「あるところに、「考える男」がいた。彼はいつも何かを考えていた。幸せとは何か?悪とは何か? 人とは何か? 彼は全ての問いに何らかの結論を出しては次の問題に取り組んでいく。彼にとっては考えることは生きることになっていった。
ある日、彼はある問題に行きついた。「なんでお前はそんなに考えるのか?」彼はすぐに答えた。「生きるためだ」
「では、なんでお前は生きているのか?」これにもすぐに答えた。「考えるためだ」
「そりゃおかしいじゃないか。それじゃ、お前がやっていることは死に近づいていくことなのだから」
「どういうことだ?」
「お前は数々の難問に答えを見つけ、次の思考へ移っていく。そうすれば『問い』は減っていくだろう。お前は最後に考えるべき問いを失う。そして死ぬしかなくなるのだから」
「問いが無くなることはない」
「いや、本当は恐れている。いずれ自分の頭の中が空っぽになってしまうのではないか、と」
彼は口をつぐんだ。彼は正直に言って、自らの先に大きな不安を抱えていたことは事実だった。
「救いが欲しいか?」彼は頷いた。「では、お前に絶対に解決できない問題を与えてやろう。それは――」
そこで彼は我に返り、問答の相手も消え失せた。そしてどうしようもないほどあの最後の言葉の先が気になった。奴は何を言いかけた? どんな問いを俺に投げかけるつもりだった?
男はそれ以降ずっとこの問題を考え続けたのだった」
『声』が止んだ。しばらく沈黙が続く。すると、
「うーむ、ひねりがたらんな」「私もそう思う。ちょっとばかり素直が過ぎている」「俺なら、もっと仰天する落ちをつけられるぞ」
と急に別の『声』が口々に感想を言い合い始めたので、三人はまた頭の中がめちゃめちゃにかき回されるように思った。
「そんなに言うなら、話を作ってみろよ」最初の『声』が不機嫌そうに言う。
「望むところだ」
「つまらなかったらただじゃ置かんぞ」
「まあ任せとけって」
自信満々に『声』が語り始めた。
「世界のどこかに、始まりと終わりのない川があるという言い伝えがあり、ある旅人が探しに出かけた。その川は真円状になっていて、常に水は一方方向に流れ続ける。風のせいでもないし、水の中に何か生物が棲んでいるわけでもない。ある洞窟の中、誰にも知られることのない場所にある。悪天候の日にしか現れないという噂もある。人づてに情報を得ながら、旅人は何年も何十年も探し続けた」
「分かった。『川』はつまり、『血液』だな? 身体の内でまさに終わりも始まりもなく循環する川だ」
『声』が横やりを入れた。
「全然違う。黙っとけ」
『声』は不機嫌に吐き捨てると、話をつづけた。
「旅人は得た情報と推測を基にして、その川をついに見つけ出した。暗い洞窟の中、音も空気の動きも感じない。本当に中心に小島を持つ、円状の川が静かに流れていた。旅人は喜んだ。だが、何となく違和感があって、周辺を調べた。その結果わかったのは、動いているのは川ではなく、旅人が立っている大地の方だということだった。それ以上のことは分からず、旅人は呆然と川の流れを見ていた。そう、これは大地が動いているのだ。水はどうなっているのだろう? なぜこんな現象が起こっているのだろう?
ここまで考えて、旅人はこう思った。「本当に大地は動いているのだろうか?」
この地面がかすかに揺れる感覚――この不思議な空間の中で、様々な情報への感度が制限された自分がようやく手に入れられる感覚――は、自分以外のものにとって、この水の流れのように見せかけなのではないのか?
彼はまるで夢遊病のように、突然その水の中に飛び込んだ。飛び込んだ瞬間、水の感覚は消えた。そして暗く底のない世界に一人放り出され、どこまでも潜っていく。息ができない。
もう限界だ。そう思った途端、旅人は元の世界に立っていた。そこは、旅人が旅を始めた最初の場所であった」
『声』が止むと、例のごとく口々に批評が始まった。
「いやいや、言うほどでもないじゃないか」
「確かにな。一つのネタで押しすぎだ。それに、たいして面白くもない」
「誰でも思いつくじゃないか」
「何だと? じゃあお前やってみろ」
「俺は遠慮しておく」
少し沈黙が流れたその時、初めて聞く、落ち着いた『声』が名乗り出た。
「ちょっと、少年たちがまだ考えているなら、私が少しだけ話すよ」
「そうか、頼んだ」「まあ、暇だしな」
静かに、『声』が語り出した。
「宇宙の片隅に、目族、耳族、口族という三種族が住む星がありました。それぞれ、目族は目だけを、耳族は耳だけを、口族は口だけを持つ種族でした。三種族は互いに互いを補い合って一つの星に共存していました。例えば、目族は目で見て知った出来事を、他の二種族に肌に文字を書いて伝えました。耳族は口族の言っていることや、音から得られる情報を、他の二種族に肌に文字を書いて伝えました。残念ながら、口族はどうにも役に立てなかったようですが。
やがて時が過ぎ、新しい三種族が生まれました。すなわち、目耳族は目と耳を、耳口族は耳と口を、口目族は口と目を持っていました。目族、耳族、口族の古い三種族は、知らぬ間に絶滅しました。この新しい三種族が定住し始めた時から、昔の協力関係は無くなり、いじめが起こるようになりました。たいていいじめられるのは、目耳族でした。その種族は、見ることも聞くこともできたのに、何も言えなかったので、他の二種族に対抗することができませんでした。目耳族はいじめられると、涙を流し、目を閉じ、耳を塞いでうずくまって耐えていました。耳口族は口目族より立場が弱く、いつも口目族に怯え、その腹いせに目耳族をいじめるのでした。口目族は横暴になり、資源を独り占めしたり、他の二種族の動きを奇妙だとからかったりして、ずっと口目族の優位は続きました。
さらに時は過ぎ、三種族は一つの種族に集約されました。すなわち、目と耳と口を持つ、人間という種族が生まれたのです。人間たちは、古代の三種族がやっていたような共同生活を全く行いませんでした。また、人間の前の三種族たちがやっていたいじめも、全く行いませんでした。人間たちは、全て自分一人で生きていけることを喜び、一人で生きていきたいと思ったのです。ところが、本当は一つの種族だけではありませんでした。誰も気づかないところで、無族という目も耳も口も無い種族が生まれていました。その種族は人間と交わることはなく、仲間内だけでひっそりと生きていました。無族には満足に生きる術がありませんでした。見ることも聞くことも喋ることもできないのですから。ただ、生命力だけはかなりあったので、絶滅することなくほそぼそと生き永らえていました。」
『声』は止んだ。しばらく沈黙が続き、それ以上話すことはないように思えた。
「それで終わり?」
案の定、『声』が尋ねた。
「そうです。これ以上は、続きが思い浮かびません」
「まあ、そんなもんか。途中まではまあまあ面白かったけど」
「オチが無けりゃつまらん」
「まあ、いいじゃないか」
何となく今の話のあと力が無くなった『声』たちは、ふとこの遊びのきっかけを思い出した。
「ところで、何の話をしていたんだっけ?」
「えーっと、少年に話を作ってもらおうって話だ」
「そうだった。少年、あなたの番ね。思いついた?」
もうノアはこの時、いくつもの『声』が一斉に頭に響くし、何より大嫌いな暗闇の中にずっといたので、頭がずきずきと痛み、物語を考えるどころではなかった。それに、それまでの『声』たちの話もほとんど聞いていなかった。彼はネブロのことを気にかける余裕も無かった。何かしゃべらなければ、という焦りのせいで、彼は自分でも何を言っているか分からないまま、がむしゃらにまくしたてた。
「ごめんなさい。僕にはできません。こんなところにいるだけでも辛いんです。地面の上へ行きたいんです。僕にはあなた方やっていることに何の意味があるのか分からない。外に行けばもっと面白いものがたくさんあるのに、くだらない話を作って時間を潰して、地面の下にずっといるなんて、馬鹿じゃないですか? あなたたちの作る物語は、変なんです。ちっともわくわくしないし、聞き終わった後、聞かなければよかったと思えるようなものばかりです。なにか難しいことを話しているようで、変に僕の心を不安にさせる。そんなことをして、何が楽しいんですか? ヨセフスがしてくれる話はそんなものじゃなかった。ああ、僕はヨセフスに会いたい。お願いします。僕をここから助けて下さい。そうすれば外の世界で起こる色んな事について話してあげられます」
ノアが言葉を切るまで、『声』たちは黙っていた。しかし、こんな侮辱を受けて黙っていられる者たちではなかった。
「偉そうに! 何を言うかと思えばくだらないだと? くだらないのは外の世界の方だ。外の世界に何があるっていうんだ? 荒れ果てた大地、灰色に枯れた木々、苦痛に泣き叫ぶ動物たち、そして『塔』と『管理者』によって心は常に締め付けられる」
「そうだ、お前たち、さては『塔』の回し者だな? こんなところまで来やがって。こんな奴ら、くたばってしまえ! 案内なんかするか!」
「そうだ、朽ち果てればいいんだ! 何処へなりとも行ってしまえ」
ノアは自分が言ったことも、『声』が口々に叫ぶ言葉も分からなかった。頭痛は最悪になり、目の前も真っ暗で立っているのもやっとだった。
「逃げよう」
ネブロはノアを支えながら、よたよたと歩き出した。カクレもとぼとぼとついて行く。三人の頭にはけたたましく罵りの声が鳴り響き続ける。まるで周囲のすべての壁が地震を起こしていて、その中を進んでいく気がした。
ネブロは壁にすがりながらトンネルの中を進んでいく。彼はトンネルの壁にいくつもの扉が並んでいるのに気づいた。ネブロは無意識にそれを押し開け、倒れるように中に入った。
広い空間に出た。鉄のにおい、何かが腐ったような酸っぱいにおいがする。火をかざすと、そこは四角い部屋であることが分かった。壁は一面真っ白で、炎のオレンジ色をゆらゆらと映し出している。部屋の一部は、崩れて岩盤がむき出しになっている。そしてその部屋には、所狭しとベッドが並べられ、その上には人のようなものが横たえられている。
「これは何?」ノアが尋ねる。
「死体だ」
ネブロはその真っ白になりふやけた皮膚で覆われた顔を覗き込んで言った。
――なぜ死体がここに? 誰の死体だろうか?
だが、彼らにはもう何も考える力は残っていなかった。死体は頭の中でガンガンと響く『声』に呼応するように、カタカタと揺れている。ネブロが今にも動くのではないかと怯え、部屋を出ようと振り向いた時、部屋中にびしっと亀裂が入る音を聞いた。
「何だ?」
脳内に響く怒声は最高潮になり、目の前がちかちかと瞬く。周囲の壁が歪み、割れ、崩れ落ちて行くような気がする。いや、実際に崩れていたのである。それが分かったのは、自分の足元の地面がどこかへ消え、空中に放り出されたときだった。三人は、深い地面の中に落ちているという感覚だけがあった。真上から巨大な瓦礫が落下してくる。三人は岩盤と一緒に落ち続けた。
突然ノアの目の前が明るくなり、彼は思わず顔を手で覆った。ノアは自分が死んで天国にいるのではないかと思った。ただ明るいだけで、それ以外のものは見えない。目がずきずきと痛んだが、それまでけたたましく鳴っていた『声』は消えている。ネブロもカクレも、一緒に落下した瓦礫も自分の姿も、白い光の中で消えている。彼は落ち着いてその光を見た。その光は今まで見てきたような、太陽や月の輝きとは違っていた。彼はその光を見て、いつか一人で村の奥の森を探検して、帰り道が分からなくなり、ずぶ濡れで、おなかもすいて、歩く力も無くなって、本当に寂しくなった時に、ひょいと現れたヨセフスが掲げていた、あのランプの光を思い出した。
光は徐々にかすんでいき、自分が床に立っていて、細長い部屋にいるということが分かった。部屋には両側に長椅子がくっついていて、そこにはネブロとカクレが座っていた。床は揺れている。規則的にごとごとごとごと、と音を立てながら動いている。壁には大きな窓があった。外は真っ暗で、何も見えない。ノアは視線を下ろし、座っているネブロとカクレを見た。
「ノア、ここはどこなんだ? 揺れているみたいだけど」
ネブロが不安そうにノアを見た。カクレは何も言わず、じっと窓の外を見ている。ノアは首を振った。分からない、と言おうとした瞬間、頭の中に別の『声』が響いた。
「ここは列車の中だよ」
それはさっきの地下の『声』たちとは違う、優しく自然に耳に入り、内側で広がっていく響きだった。
「列車?」
ノアは思わず口に出していた。
「人を運ぶ長い乗り物だよ。君たちは知らないだろうね。そんなことより、僕は君たちを歓迎するよ。この地下空間に人が現れたのはいつぶりだろう」
「あなたは誰ですか?」ネブロが口を開いた。
「僕は……そうだな、この地下坑道の主とでもいうか、亡霊とでもいうか、千年前に意識だけ残して死んで、それからずっとここにいるんだ」
「ここで何をしているんですか?」
「何もしていないよ。しいて言うなら、かすかに残る彼らの意識――というか精神――が作る物語を聞いてる」
「彼らって、誰? 千年間、ずっと?」ノアが尋ねた。
「彼らっていうのは、ここに隠されてきた、塔の力の犠牲者たちだよ。君たちはすでにであったと思うよ。『管理者』の治世では、塔によって殺された人たちはみな地下に送られた。塔の力に当てられると、精神は消えてしまうんだけど、何かの拍子で肉体に戻ってくることがある。だけど肉体はもうとっくに朽ちていて、精神だけがこの地下坑道に残り続けてるってわけだ。それと、千年間といっても、僕にはそう長く感じないんだよ。どうにも時間は肉体と共にあるけど、精神とは分離したものらしい。形の無いものは、そう願えば時間を越えられるんだ。僕の中だけでだけど」
「あの人たちとあなたは違うのですか?」
「さあ、分からない。でも、彼らは自分たちが精神だけになって漂っているという現実を知らない。まだ肉体を持って、元気に自分たちの世界を生きていると思い込んでいるのかもね」
三人はしばらくいうべき言葉を失った。地下に入ってから起こった全てのことが現実のこととは思えず、頭が混乱していたのである。最初に沈黙を破ったのはノアだった。
「ここは、天国なんですか?」
「天国? もしかしたら、人によってはそう感じるかもしれない。だけど、この場所は現実にあるよ。地表からずっと深い場所で、五百年間忘れ去られてきた場所だけどね。過去、地下都市を作った人間たちが、作った地下都市に、管理者たちが地下坑道を作った。どうやって精神をとどめているかは分からないけどね。
さあ、そんなことより、地上でどんなことがあったのか教えてくれないか? 前にここへ来た人は、確か三百年ほど前だったから、もうだいぶ変わっていると思うんだ」
四人はゆっくりと話をした。三人が今までしてきた旅について、そして『声』が生きていた時代のことについて、明るい光に照らされた車両の中で、驚いたり、笑ったり、悲しんだりしながらしゃべり合った。その間も、列車は静かに走り続ける。窓の外は相変わらず真っ暗だったが、時々何かのきらめきや線路の分岐が見えたり、大きな地下水脈の中を通り抜ける時、幻想的なトンネルを映しだしたりした。ノアやネブロは、やはりここは天国なんだと思わざるを得なかった。それまでの旅の疲れはほとんどなくなり、いつまでもこの列車に乗っていたいと思っていたのである。
「もうそろそろだな」と、『声』は言った。
「そろそろ坑道が終わる。坑道が終われば、すぐに地下都市に出る。僕は地下都市には行けないんだ。君たちはずっとのこの列車に乗ってていいよ。この列車は地下都市の上を通るし、もし今でもつながっていれば、地上に出る通路につながっているから、そのまま出られるかもね」
『声』は思い出したように続けた。
「ノア、君は彼に似ている。そのどこかぼんやりした雰囲気と、それでいて強い意志と大きな勇気を胸に秘めている。彼は物語を作るのが好きだったんだけど、君はそうじゃない
のかな?」
ノアは首を振った。「彼って?」
「彼は……そうだな、僕の親友で、塔を破壊したはずの人だよ。千年ほど前かな。というのも、僕は彼が――ああ、僕らは名前を持たなかったんだ――彼が、塔を破壊したかどうかは分からない。その前に僕は死んじゃって、僕は彼にそれを約束してもらっただけだからね」
『声』は優しく語りかける。
「君には彼の影を感じる。君も感じているんじゃないか? おそらく、君は二人目の『塔の破壊者』だよ。さて、君はどうなんだ? 彼は僕の約束通りに、塔を破壊したんだろう。君は何のために塔を破壊する?」
ノアはしばらく考えて、口を開いた。「僕は、ヨセフスを助けたいんです。ヨセフスは、僕をかばって敵に捕まり、東へ連れ去られました。今頃どうなっているのかも分からない。敵は、『塔』なのですか? だとすれば、僕は塔を破壊したい。僕にその力があるのなら」
『声』はすぐに答えた。
「僕は地上が今どうなっているか、君たちが話してくれた以上のことは全く分からないし、分かったとしても君に何か教えてあげられることはないよ。だけど、物事はそう単純じゃない。よく見て、よく考えなければ、最悪の結果につながりかねない。
でも、君にはその力がある。例えば、君の持っているその剣は、千年前の戦争の中で『塔』へ対抗するための唯一の武器として作られたものだ。どんな経路をたどったのかは分からないけど、その剣が君に渡ったということは、そういうことなんだろう。
旅を続けるといいよ。そうすれば、いずれ自分がすべきことが分かってくる。今はとりあえず、そのヨセフスさんを助けるために旅を続けるんだ」
ノアは頷き、背中の剣をそっと触った。そして、今度は俯いて口を開いた。
「僕は、地下で出会った人たちに、ひどいことを言ってしまった気がするんです。もう会うことはできないかもしれないけど、もし会えたら、謝りたいと思っています。それでも、僕にはまだ分からない。なぜあの人たちは、あんなに怒ったんだろう? 彼らにとって物語とは何なんだろう?」
「確かにね。でもあの人たちは本当に楽しそうに話をしてた。やっぱりくだらないなんて言ったら怒るよ」
ネブロが腕を組んで言った。
「さあね。ただ暇だったから怒ってみたんじゃないかな?」
『声』は軽い調子で答え、すぐに真剣な声に戻った。
「今のは冗談だよ。残念ながら彼らのことは僕にも分からない。だけど、物語について彼が言っていた言葉は覚えている。さっきも言った通り、彼はずっと僕に面白い話をしてくれていたんだ。
『今』っていうのは、過去と未来をつなぐ物語なんだ。だから、どんな人でもその物語の主人公だ。
この世界には物語がたくさんある。それらすべてが希望にあふれているとは言わないけれど、希望が全く、ひとかけらもない物語は一つとして存在しない。そして、そのことを人はだれでも知っている。少なくとも、理解はできるはずだ。物語の数だけ希望はあって、自分が生きる今という物語にも、きっと希望はあるはずだとね」
「じゃあ、僕も物語の中を生きているっていうこと?」
「その通り。君が『今』を生きている限りはね」ノアはそれを聞いてさらに俯いた。
「でも僕は、この先良いことがある気がしないんです。僕は嫌われているし、ヨセフスはどうなったか分からないし、それに、この先どうしたらいいか分からないんだ」
「でも、君の横には二人も友達がいるじゃないか。大きな希望だ。それに、君がやるべきことはもう分かっているはずだよ。ヨセフスさんを救うんだ。それが何かにつながるかは分からないけどね」
『声』は言葉を切り、そして、
「坑道が終わる。じゃあ、元気で」
と言って、その後二度と聞こえることはなかった。
列車の走る音が急に静まった。しかし速度は落ちていない。三人は、列車がある広大な空間の中を走っているように感じた。彼らが窓から外を見渡すと、そこには地下都市― ―というより、地下『世界』が広がっていた。
青緑に滲む淡い光に包まれて、先史文明の残した歴戦と追憶の都市が浮かび上がる。夥しく、どこまでも立ち並ぶ角ばった高楼、その間を縫って縦横無尽に張り巡らされた街路。かすんで見える向こうには、何基もの巨大な尖塔が槍のように突き出している。見上げてもそこには闇しかなく、天井がどこまで高いかは分からなかった。
見下ろすと、ところどころに廃墟が見える。風化によって崩れたらしき建物もあったし、爆弾で意図的に破壊されたような建物もあった。一区画全体が激しい戦闘によって更地になったような跡もある。この世界には、生き物の気配が全くなかった。しかし、千年以上の間放棄されたにもかかわらず、まだなお人が息づいているような雰囲気を残している。列車は高架の線路の上を、建物の隙間をくぐり抜けながら進む。車両の下で金属がぶつかり合う音は、死に絶えた建物たちに命を吹き込んでいくように、地下世界中に甲高く響き渡った。
左奥に、きらきらと反射するものが見えた。目を凝らすと、それは流れ落ちる滝だった。闇の中から現れた水の帯が、垂直に流れ、ダムに落ちる。ダムから放水されると、街の中心を貫く大きな川へ注がれるようになっている。地下都市を不気味に浮かび上がらせる緑の光は、この川から発せられていた。その河川に沿って街路樹が植えられているのが見える。街路樹の葉がざわめいている。ノアは地下都市に一定の風が吹いていることに気づいた。水が落ちてくる方から風を受けている。
さらに列車は地下都市の奥へ進んでいく。巨塔を通り過ぎ、滝を通り過ぎると、やがて白い円柱の巨大な建物が見えてきた。この建物ははるか高くまで縦に伸びていて、おそらく天井に届いている。ノアは、これが地上へ行くための移動手段なのだと思った。しかしその円柱の建造物は中ほどが欠損し、上と下に分裂している。わずかに見えた内部には、らせん状に側面を伝う通路があり、中心には太い管のようなものがまっすぐに据えられている。
列車はある分岐点を境に、確実に減速していった。地下都市がノアたちからどんどん遠ざかっていく。ノアは、自分たちが上昇していることに気づいた。進んでいく先を見ても、何もないどこまでも続く闇である。しかし、彼はひしひしと空が近づいていることを感じていた。
列車が歩くほどの速度になった時、既に下を覗き込んでも地下都市は見えなくなっていた。列車は細いトンネルを通った後水平になり、薄明かりの差す空間で停止した。三人が列車を降りると、そこにはただ水平の地面が広がるだけだった。前後左右は薄暗く視界がきかないため、壁に囲まれているのか、それとも永遠にこの白い地面が広がっているのか、全く見当もつかない。見上げると外の明かりが丸く切り出されている。
「外だ。あそこまで登っていけば出られる」
「どうやって登るんだ?」
三人はその広場を調べ始めた。列車は知らないうちにレールと共に消えている。三人は前へ進んでいくと、視線の先の暗闇の中に一瞬だけ小さくきらめく光が見えた。かなり遠くにあるようだが、金属らしきものが光を反射している。三人はその光に向かって走ったが、
なかなかたどり着かない。この空間はどれだけ広いのだろう、もしかしたら自分の村がすっぽり入ってしまうのではないか、とネブロが思った時、ようやくその光の主は明らかになった。
それは先がとがった大きな大砲の弾だった。薄明かりに照らされ、金色の表面が美しく映えている。ノアがそれを触ろうと腰をかがめた瞬間、その空間はまばゆい光に包まれた。しばらくして光に慣れ、三人が目にしたのは、自分たちを囲む無数の兵器だった。夥しいほどの戦車や大砲が銃口を三人に向けている。ずらりと並ぶ精巧な戦闘機に、奥の方には何隻もの巨大な軍艦が厳粛に聳えている。ノアは恐怖と共に、ひっそりと、それでいて堂々と佇む数々の兵器に、つい先ほど見てきた「地下都市」が持つ荘厳さと長い歴史の存在を感じ取った。
この巨大な兵器庫は先史文明が残したものであり、かつての『管理者』と平原の民との戦いで動員されたものであったが、三人は何も知らなかった。ただ身をすくませ、ピクリとも動けなかった。少しでも動いたら、この兵器が動き出し、自分たちを一斉に攻撃し始めるのではないかという恐怖が、彼らをその場に縛り付けていたのである。ノアは呼吸すら忘れ、目を見開いてじっと成り行きを見守った。
「右、奥」
カクレがささやくように言った。ノアが我に返って右手を見ると、確かに遠くに一部分だけせり出した壁があり、それに沿って上へ伸びる梯子があった。おそらく外まで続いている。ネブロもノアに向かって頷きかけ、三人は一斉に梯子へ走り出した。梯子にたどり着くと、無我夢中でしがみつき、登っていく。誰も下は振り返らなかった。三人はしばらく登った時、下の方でぎぎぎ、と金属が動き出す音を聞いた。
「早く!」
ネブロが急かすように言ったが、一向に外にたどり着く気配はない。頭上の丸い光はあざ笑うように遠くに浮かんでいる。もう手に力が入らず、登るどころか自分を支えることすらできなくなった時、ノアは体が軽くなるのを感じた。突然の風圧に思わず目を細める。一瞬だけ視界の端をよぎる、茶色の翼と銀色の鉤爪、黄色のくちばし。その正体がわかる前に、ノアは太陽の光と青い空の下にいた。そよぐ風を体に感じ、はやる心臓の鼓動を落ち着かせる。
彼は巨大な筒のように円状に建てられた壁の上に立っていた。壁は斜筒のように切られていて、ノアたちがいるのは一番低くなった部分だった。囲まれた穴をのぞくと、どこまでも続く闇があり、自分はここから出てきたのだと分かる。横を見ると、ノアと同じようにネブロとカクレが呆然と穴を覗き込んでいる。
「何が起こったんだろう?」
「鷲、来た」
カクレがつぶやく。
「鷲だったんだね。なんで助けてくれたんだろう? 僕はもうだめかと思ったよ」
ノアはため息をついたが、辺りを見回してまだ状況が落ち着いたわけではないことに気づいた。筒状の壁は見渡す限り広大な都市に囲まれていたのだが、その都市はまさに戦闘中だったのである。白で統一され、美しく整然と並べられた街並みが、隊列をなして飛ぶ黒い軍用機が投下する爆弾によって吹き飛ばされ、粉々になっていく。戦闘というより一方的な蹂躙であった。都市にほとんど人の気配はなく、敵の攻撃をされるがままに受け続けている。
「どうする? ここにいたら危険だと思うけど」
「とりあえず、下りて町の中に隠れよう。あそこに階段がある」
「あの建物に入ろう。一番頑丈そうだし、あまり攻撃を受けてない」
三人は下へ続く階段を降り、近くのひときわ立派な城らしき建物を目指して走り出した。
ノアが城までもう一歩と思った時、空気を切り裂く音がして、頭上の壁一面は吹き飛び、轟音と共に無数の瓦礫となって崩れ落ちてきた。ノアは一瞬意識が飛びかけたが、すぐに我に返って頭を両手で守った。その後も、爆発音は止むことはなく、周囲は埃と煙で何も見えない。ネブロとカクレを探したが、どこかへ飛ばされたようで、応える声は無い。ノアは落下する瓦礫を避けながら、目の前にそびえる城を目指して走り出した。
――二人は無事に決まっている。直接爆弾が当たったわけじゃないし。怪我がなければいいけど。
ノアが崩れた門を飛び越えた時、不意に後ろから気配がした。彼は本能的に頭を下げる。それと同時に頭上を銃弾がかすめた。彼は一瞬身を固めたが、すぐに瓦礫の蔭に身を隠した。乱れた呼吸を整えようと深呼吸した瞬間、そばで爆炎が上がり、ノアの喉を焼く。よろよろと埃の中を進むと、目の前に小銃が現れた。黒い軍服を着た兵士。相手は構えてはいなかったが、すぐにこちらに気づいた。ノアを見下ろして銃に手をやる。それを見たノアは、反射的に背中の剣を抜いていた。
気づくと相手は仰向けに倒れ、虚ろな目を空に向けていた。ノアはそばに転がっている剣を見つめた。ずっと見ていると、視界の周りがだんだん歪み、黒くなっていく。慌てて剣を拾って収め、空を見上げた。視界は元に戻っていた。 ――これが、この剣の力? この兵士はどうなったんだろう?ノアが鞘に収めた剣をじっと見ていると、
「今、何をした?」
と突然頭上から声がした。ノアが見上げると、城の崩れた壁の向こうからこちらを見下ろす姿があった。肌は浅黒く、黒髪を後ろで束ねた背の高い女性であり、まるで戦士のようないでたちである。仁王立ちするその女性の顔に、この国の民の印である炎の刺青が見えた。
「分からない。僕も。今、何が起こっているんですか? 何と戦っているんですか?」ノアは大声で聞き返した。
「すでに我々はシンアルと交戦状態に入っている。なんで君みたいな少年がここに?」
「他の人たちはどこに?」
「ほとんど死んだ」
ノアはそれを聞いて、思わず息を呑んだ。
「そっちの少年は味方か?」
彼女が見る方に、倒れたネブロと、それを抱き起すカクレがいた。ノアは状況を忘れ、一目散に駆け寄る。
「ネブロ! どうしたの? まさか、僕の近くにいた?」
ネブロは答えず、眉間にしわを寄せて目を閉じている。あの斃れた兵士と同じように。
――最悪だ。
ノアが頭を抱えた時、三人の間近で爆弾が落ち、爆風に吹き飛ばされる。
「いったん、安全なところに行く」
上にいたゴルンの戦士はいつの間にか降りてきていた。彼女はネブロを背負い上げ、カクレとノアを両脇に抱えて戦塵の中へ突っ込んだ。
リティは自分の家の中で、椅子に座ってぼんやりと外を眺めていた。ヨセフスもノアもネブロもいなくなり、何もする気が起きなかった。
――ネブロも、行くなら言ってくれればいいのに。彼は知らぬ間にいなくなっていた。二人でなら、行く勇気が出たのに。これじゃ本当に臆病ものじゃないか。
彼らのことを考えると、心配と、疑問と、そして悲しみの感情が胸を覆った。彼はふらりと外に出ると、ノアの家に向かった。しばらく歩くと、ノアの小さな家が見えてくる。リティは扉の前に立ったが、立ち尽くしたままでずっとその扉を見ていた。やがて大きくため息をつき、首を振ってそのままノアの家を後にした。俯いて歩いていると、目の前にヨセフスの小屋の残骸があるのに気が付いた。その黒焦げの瓦礫の上に、誰かが立っている。
リティは思わず駆け寄って叫んだ。
「ヨセフス! 帰ってきたのですか?」
だが、よく見ると全く違う男だった。背を向けてまっすぐに立っている。リティはしり込みして、恐る恐る問いかけた。
「誰ですか?」
男は振り向いて、リティをまっすぐに見据えた。顔は凛々しく、彫は深いが、どこか長年の苦労を漂わせている。髪は長く乱れているが、どこか気品を感じさせた。そして、その身体は、衣服の上からでも分かるほど屈強で鍛え抜かれている。男は低い声で質問を返した。
「ヨセフスはどこへ?」
「分かりません。あなたは誰ですか?」
リティは言った。その怯えた顔を見て、男はすぐに答えた。「私はヨセフスの友人で、名はオトだ。彼は私を『ディア』と呼ぶ。ここに来たのは、ヨセフスに会うためで、氷床地帯への遠征の寄り道だ。今、ここに帰ってきていると推測したのだが。これでいいかな?」
「ディア? ヨセフスがよく口にしていた……仲間だって言ってた」
「そうだ。そのヨセフスはどこへ? ここにいたはずだが」
リティはヨセフスが捕まった経緯を話した。
「あいつがそんな簡単に捕まるはずがない。何か事情があったはずだ……」
オトはあごに手を当て、じっと考え込んだ。リティは黙っていたが、こらえきれず口を開いた。
「あの、多分、ノアから目をそらすためだと思う。ノアが捕まらないように……」
「ノア? 誰だ?」
「友達です。ヨセフスを助けに行くって言って、一人で村を出ていきました」オトは外に目をやった。
「ヨセフスを助けに?」
「彼はヨセフスが捕まったのを、自分のせいだと思ってる。それで、無謀な旅に出たんです。僕は、置いていかれた」リティは続ける。
「僕は、ヨセフスが連れていかれるところを見た。恐ろしい軍団だった。あなただって、僕を騙してノアを捕まえようとする敵かもしれない。あなたを信用できない。いくらヨセフスの友人だからと言って」
「連れていかれたというのは、どうやって?」
「飛行機だった」
「シンアルがここまで飛行機を飛ばせるはずはない。あの『砂漠』の上空を飛行機が飛べるはずはないんだ。しかし、それが可能になったということは、シンアルはいつでもここに乗り込める。つまり、この村がシンアルの標的になると言っているんだ。じきに軍を率いてここへやってくる。
君は、私を信じられないと言ったな。だけど、私はヨセフスが守りたかったノアという少年を守らないといけない。そのために、君に信じてもらわないといけない。私は、この村を守ろう。君も手伝ってくれるか?」
オトとリティは村人に呼びかけ、防衛措置を施し、村人たちに武装させた。準備や訓練ができたのは一週間だけだった。一週間後にシンアル空軍の一部隊が現れ、一方的に村を攻めた。村はこれを辛うじて退けた。その三日後、再びシンアルは複数部隊を率いて村を攻めた。ほぼ村は全滅しかけたが、オトが単身で突撃し、敵司令官を全て殺したので、シンアルは去っていった。その後、シンアルが村に攻め入ることはなかった。この防衛戦は、村が開かれて初の『外』との交戦であった。この戦を経て、村は十数の家族を残し、全て焼け野原になった。リティはシンアルを倒しに行くと誓い、オトと共に東へ旅立った。
(辺境の村とシンアル軍の戦い)
二人は村を抜けると、東に進路を取り、休まず走り続けた。
「僕は何度も一緒に行くって言ったのに、どうしてもダメだって言って出ていった。今から行っても追い返されるだけかもしれない」リティは息を切らしながら言った。
「何か事情があるんだろう」オトは冷静に答えた。
リティは走りながら頷いた。
草原の片隅で二人は休息を取った。
「リティ、この世界に魔法はあると思うか?」オトは水を飲みながら聞いた。
「魔法? うーん……あの塔は、魔法でできているんじゃないの?」リティは遠くを見ながら言った。オトはリティを見下ろして答えた。
「それが魔法かどうかは、その時の人々がどう思うかによって決まるんだ。そして、結局後になってそれはただの自然現象だったって分かる」
「オトはどう思う?」
「俺は未来を知っている」
「未来を? なんで?」リティは目を見開いた。
「未来から来たからさ」
「嘘だ」
「本当だ」
「なら、この後何が起こるか言ってみなよ」リティは起き上がって口をとがらせる。
「今この瞬間の未来を知っているわけじゃない。けど、この世界の遠い未来はどうなるか分かる」
「じゃあ、言ってみてよ」
リティに問われ、オトは急に黙った。
「言えないの? やっぱり――」
「地獄だ」
オトの答えに、リティは息を呑んだ。
「君が想像のしようもないほどの地獄だ。それは……」
オトはリティの顔が引きつっているのを見て、話をやめた。荷物を持ち上げ、再び歩き出した。
「やめよう。今はノアを追う」
リティは走りながらオトを見た。
「オトは、どうやってこの村に来たの? この村は『白砂漠』に囲まれてて誰も入ることができないんでしょ?」
「『白砂漠』の最北端に、わずかな切れ目がある。そこを通ってきたんだ。私は今まで北方の氷床地帯を旅していた。その南下ついでに村に寄ったのだ。ヨセフスに会いにね」
「氷床地帯って、人間が行ける場所じゃないって聞いたよ」
「私は普通の人間より体が強いんだ。なぜかは分からんがね。それに私は世界中を旅して戦力を集めなければならない」
「氷床地帯に人がいたの?」
オトは答えなかった。話題を変えてごまかす。
「ノアはおそらく自分がどれだけ危険な状況にいるか分かっていない。リティ、君もだ」オトは隣を走るリティを見下ろした。リティは黙っていた。
「ノアが持つ力というのは、ヨセフスの行動からすれば塔への先天的な耐性だろう。シンアルの技術部がそれを知れば、必ず捉えようとする」
「それは分かってるよ」リティは反論した。
「それだけじゃない。君たちの一族は外界からすれば大罪を犯した人間の子孫なんだ。特に、山に住む民族からはかなり恨まれてる」オトも言い返した。
「そんなの、聞いたことないよ」
「そうかもしれないが事実だ。百年前の塔の破壊の影響で住処を追われ、代わりに強靭で巨大な肉体を手に入れた。今は剣山の隙間に住んでいる。絶えず争いを繰り返しながら」
「そいつらが、僕らを襲うの?」リティは震える声で言った。
「そいつらだけじゃない。逆に弱体化した者もいる。例えば、目の位置がずれてしまったり、背中から足が生えてきたり……。そいつらの方が君たちを目の敵にしている。力は無いが、狡猾だ」
リティは何も言わず、ただノアのことを考えていた。
「ノアは、塔を壊すつもりだ。もし塔が壊れたら、過去と同じことが起こる?」
「さあね。でも、壊しても壊さなくても、どっちにしろ未来は地獄だ」オトは、きっぱりと言った。
「オトは、それを変えに来た」
「まあ、そういうことだ」
「どうやって?」
「シンアルの王を殺す」
リティはオトの方を思わず振り返った。彼は平然としていた。
「王を? なんで?」
「王の強欲がいずれ世界を滅ぼす。私はそれを見てきた」リティは少し考えて、オトに聞いた。
「ねえ、どうやって未来からここに来たの?」
「さあな。俺は反体制派のリーダーの一人だった。王権との抗争に負けて、俺以外の仲間は皆処刑された。獄につながれていた時、誰かがそこに入ってきて、死ぬか過去に飛ぶか選べと言った。それでここに来た。初めてであったのが、ヨセフスだ」
「ヨセフスは信じたの?」
「彼にとって真実も嘘もどちらでもよかった。シンアルに抗うという利害さえ一致していれば」
リティは何となく理解した。そして次の質問をした。
「どうやって殺すの?」
「仲間を集めて、武器を集めて、とにかくあの強大な軍を打ち負かす力が必要だ。ただ、情勢は変わった」
「変わった?」
「ああ。王権は倒れ、軍部が全権を掌握した」
「じゃあ……」
「それでも、逃亡した先代の王を殺す。奴を生かしてはおけないのだ」二人は草原の中を走り続けた。
ノアたちとゴルンの戦士は空襲を避け、頑丈そうな城の一室に身を隠した。
「私の名はゼフラだ。君たちは?」
「ノアとネブロとカクレ」
「どこから、なぜここに来た?」
「西の村から、シンアル王国に行くため」
「シンアルに? なぜ」
「友達のヨセフスが捕まったんだ。助けに行くんだ」ゼフラはそれ以上何も言わなかった。
「今、この国はどうなってるの?」
ノアは逆に尋ねた。ゼフラはじっとノアを見ると、
「数日前にシンアルが一方的に宣戦布告して、その日に戦闘は始まった。同時にゴルンの王が失踪した。おそらく敵に捕まった」と手短に説明した。
「私はこの城に残って最後まで抵抗するつもりだ。シンアルに行きたいならここを抜けなければならないよ」
「それより、ネブロが起きないんだ。『塔』の力を受けたんだよ。どうにかできませんか?」
ゼフラはネブロの顔を覗き込んだ。
「『塔』の力? 君が持っているその剣か。よく分からないけど、君は何か特別だってわけね」
ゼフラはネブロの頭に手を乗せた。
「もし本当に『塔』の力に完全に侵されたら、意識が戻ることはない。苦しんでいるってことは、いま彼はそれに抗っているということ。私も君もどうしようもない。ただ、彼をこの危険な場所から逃がすことぐらいはできる」
「僕らはあの穴の中から来たんです。『地下都市』を通って。その時に立派な兵器を見ました。あれを使えば敵を追い払えるんじゃないの?」
「驚いた。『地下都市』を見たの? 私でさえ見たことはないのに」ゼフラはノアをまっすぐに見て、考えを巡らせた。
――この少年は確かに特別だ。少し腑抜けた顔はしているが、纏う空気も、口から出る言葉もただものではない。そんな彼が、シンアルへ行くというのだ。
ゼフラは迷う。城の外から、激しい爆音が聞こえる。
――私はここに骨を埋める覚悟だった。だが、王を追ってシンアルに行くという選択肢もある。この少年と共に。私には勇気がなかったのだ。はるか遠くの強大な国へ潜入し、救い出すことなどできないと諦めていた。私は逃げるのだろうか。ここで死ぬことで満足してしまうのだろうか。こんな少年が、見るからにひ弱な少年がそれをやると言っているのに?
「あなたは、どれくらい本気でシンアルに行きたいと思っているの?」
「僕は、ヨセフスを助けにシンアルに行く。それまでは、どこにも帰らない」ゼフラはノアの目を見て、心を決めた。
「私もシンアルへ行こう。王はシンアルへ連れ去られた。君が見た地下の軍は、王の号令でしか動かせない。私は王を連れ帰り、このゴルン王国を救う」ノアは顔を上げたが、すぐに俯いた。
「でも、もしかしたらシンアルのやつらはその間にこの国を全部壊してしまうかもしれない」
「なら、作り直せばいい」
ゼフラは何でもないように答えた。
「そんな……ずっと続いてきた国なのに。ゼフラが呼びかけて、今からでもあの兵器を動かせないの?」
破壊音が激しくなってくる。ゼフラはノアと目線を合わせ、微笑んだ。
「ノア、私たちが守り続けてきたのは形があるものじゃない。あの美しい都市でもないし、代々続いてきた王の血筋でもない。そんなものはどうでもいい。ただ、私たちは今までやってきたように、地下都市さえ守れればそれでいい。
ねえ、君は西の辺境の村から来たんでしょう? 君たちは色んな人たちから忌み嫌われてきたけど、私はそんな風には思っていない。どこか気高く、揺るぎない芯のある一族だと思っている。さあ、シンアルへは一緒に行こう。着いた後は別行動だけど。私たちの目標は一致している。ネブロだってすぐに元通りになるさ」
ノアたちは空襲が落ち着くまで、半日ほど城に潜伏していた。城から見えるゴルンの街並みは、もはや原形をとどめていない。日が落ちてくると、さすがに敵の爆撃の強度は落ちていった。ゼフラとノアたちは瓦礫の中から這い出て辺りを見回した。ノアはネブロを背負った。
「今、ゴルンの移動手段はすべて潰されてる。仕方なくみんな馬で出ていった。悪いけど、私たちも馬で行こう。まずは東の山脈のふもとまで」「僕たちは、どうやって敵の包囲を抜けるの?」
「それが問題だ。ノア、さっき君はどうやって敵を倒した? 何か道具を使ったようだけど」
「それは……使ったら、相手も倒せるけど、あなたも巻き込まれる。多分ネブロはそのせいでこうなった。こうなるのが一番嫌だったのに……」
「君は大丈夫なのに?」
「うん。そういう武器なんだ」
「そうか……。それで、あいつは仲間なの?」
ゼフラが指さす。ノアたちのことと同じくらいカクレが気になっていたようだ。ノアは説明した。
「西の森で出会ったんだ。山の上の楽園を探して東へ旅してる」
ゼフラは頷いた。
「あれは珍しい野の者だ。一度だけ砂漠の端で見かけたことがある。破壊された『塔』の力で姿を変えられたと言われてる。めったに人前には現れないんだけどね」
二人がカクレを見ているのと、突然カクレは小さな体を懸命に動かして何事か訴え始めた。
「来る、敵!」
ノアとゼフラは振り返った。見ると、黒い飛行機の大軍が空を埋め尽くすように飛んでくる。
「まずい!」
ゼフラはノアとカクレに覆いかぶさり、身をかがめた。同時に轟音が辺りを包み、あらゆるものが瓦礫となって舞い上がる。激しい衝撃が身を貫き、視界が揺れる。ノアたちは物陰から投げ出され、無防備な姿を敵前に晒した。ノアは自分の上に爆弾が降ってくるのを見ながら、意識を失った。
気づくとノアは空を飛んでいた。体中が痛かった。そしてその体を大きな鉤爪が掴んでいる。耳に響く力強い羽ばたきの音。見え隠れする鋭いくちばし。ノアは、また鷲が助けてくれたのだと気づいた。下を見ると、ゼフラとネブロとカクレがもう一羽の鷲の背中に乗ってこちらを見ている。ゼフラが大声でノアを呼ぶ。
「ノア、気が付いた? 鷲のおかげで助かった。なぜかわからないけど。このまま山脈を越えて飛んで行ってくれるらしい。カクレは動物と話せるんだってさ」
ノアは呆然と聞いていたが、包み込まれるような安心感を覚えていた。優しく体を掴む子の鉤爪に任せておけば、もう何も怖いものは無いような気がしたのである。この鷲はゴルンの守り神なのだろうか? それとも誰かの差し金で、自分を守ってくれているのだろうか?
ノアは飛びながら、遠くの夕焼けの空を見ていた。すると、空に浮かぶ小さな黒い点をに気づいた。それはどんどん大きくなってくる。飛行機の形をしているのが分かった時、既にそれは目と鼻の先に来ていた。
「ねえ、あれ、近づいてくる」
ノアは下のゼフラに向けて言った。
「ああ、見えている。おそらく……」ゼフラが何か言いかけた瞬間、バリバリという音がして、頭上を赤と黄の閃光がかすめていった。
「威嚇射撃だ! 敵だ!」
ゼフラが叫ぶと、鷲は体を傾け、翼をはためかせて速度を上げた。すでに戦闘機は触れられるほど接近している。二頭の鷲は銃弾をかわす間もなく翼を射抜かれ、よろよろと地面に落ちていった。鷲は優しくノアとネブロを下ろすと、鋭く鳴き声を上げた。ノアはまだ動けず、横たわったまま剣に手をやっていた。
旋回してきた戦闘機は爆音を上げて近くに着陸し、中から黒ずくめの武装兵が銃を構えて出てくる。鷲はノアたちを守るように立ち上がり、血の滴る翼をあらん限り広げ、威嚇の声を上げた。
「逃げるよ!」
ゼフラはノアとネブロを抱えて敵と反対方向へ走り出した。カクレは鷲たちを気遣うように脚元に立っている。二頭の鷲は敵の一斉射撃の前に声もなく倒れていく。ノアはゼフラに背負われながらそれを見ていた。そして、倒れた鷲の向こう側に現れた姿を見て、心臓が跳ね上がるほどの衝撃を感じた。
そこにヨセフスの懐かしい顔があるのに気づいたのである。
「ヨセフスだ! ヨセフスだよ! ゼフラ、降ろして。もう安心だ」ノアは喜びのあまり叫んでいた。
「何を言ってる。誰だろうと敵に決まってる。撃ってきたんだ」ゼフラは振り返らず叫び返した。
「ヨセフスは敵じゃない! 助けに来てくれたんだ!」ノアは遠ざかるヨセフスの顔を見続けた。
「諦めなさい。あの顔は……」
ゼフラはヨセフスがノアの助けようとしている人物だということは分かっていた。ノアはぶつぶつと言い返す。
「いや、違うよ。敵に捕まってるんだ。僕が助けてあげなきゃ……。ほら、見て」しかしヨセフスは、ノアが見たこともないような冷たい表情をしていた。
彼はゆっくりと銃を構える。
銃口は、まっすぐにノアを狙っていた。
ヨセフスは、ノアを撃った。
「残念だ」
『技術部』は囚われのヨセフスに言った。
「どういうことだ」
「任務の内容を伝えなければならない」
「…………」
「お前は今から『ノア』という少年をここへ連行する」
「何だと?」
ヨセフスは声を荒げた。
「なぜ『ノア』を知っている?」
「『剣』の力を引き出しうる人物が見つかった。そしてたった今、ゴルンの城で兵士がある少年に打ち倒された。兵士の状態は塔にやられた者と全く同じだったという」
「ゴルンだと? いや、そんなことはどうでもよい……」ヨセフスは額に汗を浮かべ、弱々しく言った。
「その任務は拒否する」
「お前にその権利はない」
「お前たちは塔をどうしたいのだ。破壊する気なら、彼に全てを託し、我々が一丸となって塔に立ち向かうべきではないのか」
「馬鹿なことを言うな。破壊する気はない。上手く利用するんだ。『管理者』がそうしたように。それにたとえ破壊する気でも、そんなガキ一人にやらせてはこっちの面子が持たん」
「利用などできるはずもない」
「『ノア』の力があればできるのだ。お前も分かっているだろう」ヨセフスは黙り込んだ。少しして、彼は諭すように言った。
「お前たちは、もう『塔』に支配されている。『塔』を人間の力でどうこうすることは不可能なのだ。お前たちは、それができると思い込まされているだけだ。『塔』は洗脳ができるほど強い力は持っていない。だが『塔』は『外』の世界を、人間たちを対立させ、操り、それによって『塔』自身を守っている。我々が争えば争うほど、『塔』の術中にはまっていく。かつてサハルは、『塔』の思惑をくじく一歩手前まで行ったのだ。それさえ、この世界の人間たちのくだらない不和のせいで、実を結ぶことはなかった。
いつになったら分かる? もう千年以上続けてきたこのいざこざを、いつになったら無くせる? もう我々しかいない。もう『神の裁き』は起こらないし、それが『塔』を破壊してくれるわけでもない。我々の手で『塔』に鉄槌を下すしかないのだ」
『技術部』はせせら笑った。
「その鉄槌をシンアルによって下してやろうと言っているのだ。少なくとも、もうお前にその力はない。お前こそ我々に力を貸せ。サハルによってもたらされた『管理者』と同等の力を」
ヨセフスはその言葉を聞き終わる前に、深い意識の底に沈んでいった。
ナラムは殺風景な白い部屋の窓から、遠くの空を覆う黒い雲を眺めていた。その下はかつてのシンアルの土地であり、今は嵐が吹き荒れる荒野と化していた。彼は黒い瞳でまっすぐにそれを見据え、口は真一文字に結ばれていた。しばらくして彼は手元の資料を取り、戦線の最新の報告書に視線を移した。
「ナラム殿、剣山に兵を送るべきではありません」
そばにいたレイスが焦り気味に言った。ナラムは報告書から目を上げ、レイスをじっと見つめた。
「剣山の民族を相手にしてはいけません」「駄目だ。山の蛮族こそ徹底的に潰さなければならない」
「彼らは無関係です」
「この世界に『塔』と無関係な者などいない」
「別の道があると言っているのです」
「別の道?」
「これ以上領土を拡大する意味がありますか?」
「あんな国にもう何も望むことはない。シンアルの領土を広げるのだ。それが民の願いなのだから」
「確かにシンアルの民はそう願っていますが、ヤマトの民は? 南の辺境国の民は? 西側世界をもいずれあなたは侵略するのでしょう? 気づくべきです。すべては塔の思惑です。あなたはすでに気付いているはずなのに、何がそこまであなたを意固地にさせるのですか?」
「黙れ!」
ナラムは紙の束を机にたたきつけた。
「『塔』が憎いのは俺も同じだ。だが、この世界の奴らの方がもっと憎い。他の国の奴らが憎い。奴らは無条件の敵意を我々に向けてくる。俺に向けてくる。奴らは『塔』がシンアルを潰せばいいと思っている。先に我々を排除しようとしたのはどっちだ? シンアルは『管理者』を倒した。そして『塔』にすら一矢報いようとした。そんなシンアルを奴らは蔑視し、「敵」と見なした。そんな奴らを叩かない理由があるか? シンアルの民は、悪か? それ以外は正義か?」
「それでも、ナラム殿、今更他国を侵略しても何の意味もありません」レイスは冷たく言った。
「それとも、何か別の意味があるのですか? 民の命を危険にさらしてまで無駄な出兵を繰り返すに値する意味が?」
「レイス、誇りは力によって保持されなければならない。降りかかる火の粉は自らの手で払い落さなければならない」
「なぜそこまでシンアルに拘るのです」
「まだ分からないのか?」
「私怨ではないのですか」
「私怨?」
「あなたが西の出身であることは分かっています。国から追い出され、あらゆる国々に拒否され、逃れ逃れ東へ渡り、シンアルにたどり着いたという過去も」ナラムはレイスをにらみつけて言った。
「だとしたらなんだ? 私がそれを恨んで仕返しをしているとでも?」
「別のことです」
「別?」
「その苦難の旅にはいつも支え合う人がいたのでしょう。『塔』の犠牲になったサハルという少女です」
ナラムは無表情でレイスを見ていた。
「彼女は責任を負って調査を強行し、行方不明になった」
「…………」
「あなたは唯一の肉親を無謀な試練へ追い込んだこの世界を恨んでいる。その恨みを晴らすため、シンアルの統治者になった」
レイスは淡々と言った。ナラムは手で口を隠して目を閉じた。彼はしばらく黙っていた。
そしてレイスに向かって言った。
「馬鹿なことを言うな。過去の話だ。もう死んでしまった人間の話などするな」
「では、彼女は関係ないということですか?」
「そうだ」
「隣国が滅亡するまで軍を出す気だと?」
「あたりまえだ。もともとあの二国はシンアルの民のものだったのだから」レイスはため息をついてナラムを見た。
「それこそ、『塔』に煽られた禍根です」
「黙れ!」
ナラムは鋭く言い、レイスを睨みつけた。
「西の軍を増強し、山へも兵を出す。セムを呼べ。お前は話にならない」レイスは肩を落とし、部屋を出ていった。
ノアはヨセフスと向かい合っていた。
――ノア、私は君のことがずっと嫌いだった。君は自分のことしか考えないのだから。私が捕まったのも君のせいだ。
ヨセフスは手を伸ばし、ノアの頭を掴む。
――死ね。
ヨセフスは不気味に笑っていた。その顔はだんだん変色していき、目は血走り、口は耳まで裂け、無数の鋭い牙が見えた。
――君のせいだ。さあ、私の命令に―― 声がノアの頭の奥底に響く。
――従え! 従え! 従え! 従え!……
狂ったように「従え」という言葉が繰り返される。ノアは声も出せず、身動き一つできず、深い闇の底へ落ちていく……。
「起きろ!」
誰かの声が聞こえて、ノアは目を覚ました。夜空に丸い月が浮かんでいた。ノアは肩で息をしながら、心臓が激しく胸を打つのを感じた。
「ノア……」
覗き込んできたのは、リティの顔だった。
「リティ……」
「ノア!」
リティはぱっと顔を晴らした。しかしすぐに真剣な顔になった。
「肩を撃たれてるんだ。傷が深くて、このままじゃ……良くない」
「なんでここに?」
「君を追ってきた」
「僕は……君を置いてきたのに。あんなにひどいことを言って」
「いいんだ。僕のことを思ってくれたことくらい分かってるさ。それに、そのおかげでできたこともあるからね」
リティはにやっと笑って言った。ノアはそれを見てほっとため息をつき、また目を閉じた。
「どうなったの? 僕らが襲われた後……」
「この子とそこのパイロットが戦闘機で助けに来たんだ」
そばの木にもたれて座っていたゼフラが答えた。横でネブロとカクレがうつぶせになって寝ていた。リティは頷いて得意げな顔をした。
「彼はオトっていうんだ。ヨセフスの友達だ。村がシンアルに襲われたんだけど、オトのおかげで敵を追い払えたんだ。そのあと東に向かったんだけど、森に入る前に敵の残党に襲われた。戦闘機でね。そしたら、「あの戦闘機を奪う」ってオトが言って、本当に敵をたたき出して奪ったんだ。それで、それに乗って砂漠を越えてきた」リティは興奮気味に喋り続けた。
「で、山に向かって飛んでたら戦闘機と鷲が闘ってて、鷲は落ちていった。空から見たら誰かが襲われてるのが見えて、よく見たらノアだったんだ。敵もすぐに気づいて空戦になった。でも何とか追い払った。本当に、オトは天才だよ。燃料が無くなっちゃって、飛行機にはもう乗れないけど……」
「もういい」
奥から現れたオトはリティの口をふさぎ、ノアを見つめた。ノアは、何も言えずに震えていた。
「ノア、どうしたんだ」
リティは聞いたが、ノアは俯いたまま何も言わなかった。
「とにかく、ノアは今動けない。ゼフラもカクレも足を撃たれてる。ネブロも意識が戻らない。だけどここにいてはまた追手が来る」
「かといって山には入れないよ」
「そうだな……」
オトはあごに手を当てて考えたが、すぐに口を開いた。
「山脈の北に、深い森がある。そこに人が住んでいると聞いたことがある。穏やかな民族だという話だ。彼らに会いに行こう」
「森? そんなところに人が住んでるの?」
「私も聞いたことがある。古いが、この世で最も美しい言葉を話す民だ。地下都市には住まず、地上で生き残ってきたといわれてる」ゼフラも頷いた。
「それなら、めっちゃくちゃ強いんじゃないの?」リティは心配そうに言った。
「さあな。ここにいるよりはまだ生き延びる可能性はあると思うが」オトは立ち上がって準備を始めた。ノアたちは北へ出発した。
リティはノアを背負い、オトはゼフラを背負い、カクレは半ばネブロを引きずりながら、ごつごつとした岩場を走り続けた。
「あなたはどこから来たの?」
ゼフラはオトに背負われながら聞いた。
「未来から」
オトは短く答える。
「未来から? そんなことってある?」
「まあ、そんなことは重要じゃない。私はシンアルの王を殺すために動いている」ゼフラは少し黙って、ゆっくりと話した。
「私もシンアルには借りがあります。あの国を見たのでしょう? いずれ私もシンアルに行き、国を取り返します」
「あなたが?」
「ええ。情けなくも今は背負われていますが、いつかゴルンの王の号令の下に起こる大軍勢に加わります」
「王はどこに?」
「私たちは彼を探しています。私はシンアルに連れ去られたと思っている。だからシンアルに向かっています」オトは首を振った。
「ただ一人、王だけに権限が与えられているのか」
「仕方が無いのです。強大すぎる軍事力はそうそう動かせるものではないですし。そして王はあらゆる英知をもってゴルンを治めていました」ゼフラは言い聞かせるように言った。
「それより、あなたの方は王を倒す当てはあるの?」
「シンアルの兵の話を聞いた。もうヤマトは持ちこたえられそうにない。私は西側大陸で兵を募ったが、上手くいっていない。だが平原の数少ない兵だろうとシンアルを打ち負か
すことはできる」
オトは淡々と言う。ゼフラは黙ったが、少ししてまた口を開いた。
「まだいる」
「どこに?」
「私の国の軍に、そしてこの剣山に」オトは思わずゼフラを振り返った。
「あの荒くれ者たちを?」
「あなたならできます」ゼフラは力強く言った。
「私には無理だ」
オトはまた首を振った。
少し後ろをリティとノアが走っていた。
「どうした? 傷が痛む?」
リティは後ろのノアに話しかけた。
「いや。大丈夫」
「心配しなくていいさ。ヨセフスもきっと無事だ」リティは明るく言ったが、ノアは顔を青ざめた。
「リティ、ヨセフスは……」
「ん?」
「いや、何でもない……」
「そう? それより、ネブロはどうしたんだ? 全然目を覚まさないじゃないか」
「ネブロは、僕のせいで塔の力に侵されてしまったんだ。今それと心の中で戦ってるんだ。僕は何度もネブロに助けてもらったのに、こんなことになってしまって……。一番恐れてたことだ。自分が情けなくてたまらない」
リティはそれを聞くと、すぐに明るく言った。
「ネブロはすぐに起きるさ。いつも寝坊ばっかりしてたんだから。それに僕はこんなことにはならないから大丈夫さ」
ノアはそれでも顔を伏せたまま、リティに背負われながら眠った。
ノアたちは剣山の領域に入らないようにそのふもとを沿うように走った。夜は敵の目を欺けるが、昼にはどうしても遮るものの無い大地で彼らは目立ってしまう。夜が明けると仕方なく彼らは剣山に足を踏み入れ、岩場の多い地形に身を隠しながら森へ急いだ。
真上に太陽が昇るころ、ノアたちが休憩中に頭上を飛行機のエンジン音が鳴った。三機の黒い軍用機が何かを探すように通り過ぎていった。
「奴らは何か特殊な索敵手段を持っているのか? 全然引き離せない」オトは空を睨みつけた。
「多分、僕の体が特殊で、それを奴らは見つけられるんだ」
ノアは申し訳なさそうに言った。「僕はいっそ……」
「ノア、そうだとしても何も問題はない。森に入り込めば奴らも簡単には追えなくなる」オトは遮り、立ち上がった。
「出発しよう」
彼がそう言った瞬間、甲高い破裂音がして、身を潜めていた岩が粉々に爆散した。彼らは巻き上がる白い岩の破片に包まれ、視界を奪われた。
「敵だ!」
誰かが叫び、砂煙の中を影が走り回る。彼らの頭上を銃弾がかすめていった。リティは動けずに転がっているノアとネブロを何とか抱え上げ、引きずりながら銃撃が来た方と逆方向へ走り出した。オトが煙の中から火花を散らして応射する。彼らは別の岩場まで必死で走り身を隠すが、隠したそばから岩ごと破壊されていく。破壊された岩の破片が肌を切り裂き、肉をえぐる。
ノアは背負われながら、戦塵の隙間から敵を見た。図らずも、彼の目にそ、の、顔、が最初に飛び込んできた。彼が何よりも見たい、そして今は何よりも見たくない顔。そこにはいつも優しく楽しい話をしてくれていた、大好きなあの老人の姿があった。彼は自分のせいで敵に捕まり、そして操られている。自分を狙って銃を構えている。夢ではなかった。何度も夢であってほしいと望んだ。決して信じることはできなかった。だがその希望は今、完全に崩れ落ちる。
彼は敵になったのだ。
「リティ、振り返っちゃいけないよ」ノアはささやいた。
「あたりまえだよ。そんなの恐ろしくてできないし、余裕もない」
リティはうまく岩の隙間を縫うように逃げるが、銃撃が激しくなり、敵が徐々に包囲網を狭めてくるのが感じられた。応射し続けるオトを含め、全員が諦めかけた時、急に銃撃がやみ、塵は消え、視界は晴れた。向こうに山を見上げる兵士たちが見えた。山の上から唸り声、叫び声が上がる。何かが崩れ落ちるような重く響く音と細かい振動。次の瞬間、落石が雪崩となってふもとのあらゆるものを飲み込んだ。
ノアは岩に挟まれたまま気を失っていたことに気づいた。完全に夜になっている。敵も被害は甚大だったようで、すでに撤退した後である。
「大丈夫か? 探したよ」
オトが岩を持ち上げ、ノアを抱え上げる。
「一旦ここを離れよう。敵は退いたが、このあたりは何がいるか分からない。向こうに洞窟があったから、皆そこに身を隠している。幸いみんな軽傷で済んだが、とにかく疲れている今宵は休まねばならない」
オトはノアを抱いたまま歩き出した。
「ノア、ヨセフスについて話がある」
しばらくして、オトは声を潜めて腕の中のノアに話しかけた。
「彼が君を襲った集団にいたのを見た」ノアは思わずオトを見上げた。
「彼はどうなった? 君に何をした?」
「……ヨセフスは、やつらに操られてるんだ」
ノアは、ヨセフスに撃たれたことは言わなかった。
「ヨセフスが君を守るため、村の地下に隠した。その時に敵に捕らえられたと聞いた」
「うん」
「君は、ヨセフスをどうしたい?」
「助けたい」
ノアは小さな声で言った。
「たとえまた襲われても?」
「うん」
「手はあるのか?」
「分からないけど、ヨセフスは見たこともないような悲しい目をしていた。これは、僕のせいなんだ。僕がヨセフスを助けないと」ノアは自分に言い聞かせるように言った。「分かった。だが、気負いすぎるな。私もできる限り協力する。私にとっても彼は友人だから」
オトはノアの目を見て言い、話をやめた。
「洞窟だ。着いたぞ」
見ると、他の仲間たちが奥の方で横たわっている。
「襲われたりしない?」
「私が見張りに立つ。ノアは寝なさい」
オトはノアを火の近くに寝かせ、上着をかけた。皆が寝静まり、何の音も聞こえない静かな夜が訪れた。
オトは月を見ながら、じっと考え込んでいた。
――私は何をしているのだろう。何のためにこの世界に来た?
頭の中で、鮮明な映像が蘇る。砂埃を上げて王都へ突撃する義勇軍。初歩的な装備で無謀に科学の王国に挑む彼らは、ミサイル弾、光学兵器、爆撃機といった凶悪な兵器の前になす術もなく倒れていく。彼らができるのは、倒れる寸前に王への呪いの言葉を吐き捨てることだけだった。オトは彼らの先頭を走った。敵の弾を避け、はじき返し、爆弾を敵の部隊に投げ込む。オトは腕を撃たれ、脚を撃たれ、地面に倒れた。そして敵に捕らえられた。指揮官を失った義勇軍は四方へ散り、やがて全滅した。
――なぜ私たちは戦っていたのだろう……。何と戦っていたのだろう……。それは抑圧だ。私たちを押さえつける何かと戦っていたのだ。
オトは常に脳を締め付けられるような感覚を思い出した。頭の中を覆う黒い影。あれは『塔』によるものなのだろうか。『塔』を守り続けていたあのシンアルは何が目的だったのか? 彼らは『塔』を意のままに操れたのだろうか?
――この世界は心地よい。あらゆる呪縛から解放された気分がする。私はもう何もせず、美しいこの世界で朽ち果てても良いのではないだろうか。今のシンアルの王は倒れた。もうあの地獄が訪れることはないのではないか? いずれ塔は、ふさわしいものの手に渡るはずだ。そう、ふさわしい者の手に……。
オトは洞窟の奥で眠るノアの顔をじっと見た。差し込む月明かりが、寝顔に浮かぶ苦痛の表情を映しだした。オトは銃剣を握りしめた。
その時、洞窟の外で何かが動く気配がした。オトはすぐに立ち上がり、銃を構えた。入り口に向かってゆっくりと歩く。大きな影が通り過ぎるのが見え、オトは立ち止まる。唸り声がして、洞窟内にまで響く。影はどんどん増えていき、唸り声も大きくなっていく。
――猛獣か? 獲物を狙っているのか?
オトは冷静に次の手を考えるが、相手が飛び込んでくるまでもはや時間は無いように思われた。
――仕方ない。
オトは覚悟を決めて外に出ようとした。
「なかま」
後ろから突然声がして、彼は踏みとどまった。カクレが起きてオトの方を呑気に眺めている。その声で他の三人も目を覚ます。
「何? どうしたの?」
リティが目をこすりながらオトを見る。
「ねえ、外に何かいるよ!」
「あれ、猛獣だよ。僕らを食べるつもりなんだ」ノアも怯えて壁に掴まった。
「静かに。カクレが何か知ってるみたいだから」オトがカクレに言った。
「仲間ってどういうことだ?」
「同じすみか。助け、欲しい」
「助け? あいつらが助けを求めているのか?」
カクレは頷いた。そして洞窟の入り口まで行って、外の珍客と何事か話していた。
「そうだ。そういえば、カクレは動物と話せるんだよ……」
ノアは壁から離れ、カクレの近くによろよろと足を引きずりながら寄っていった。やがて二人は帰ってきて説明した。
「仲間、だいじ……危険」
「それで、その病気の仲間を助けて欲しいって。その仲間が死んじゃったら、居場所がなくなるんだと。その場所は、カクレがはるばる旅をしてきた目的なんだ」ノアが引き取って言った。
「お礼に『落水の谷』の集落まで案内するって」
「居場所がなくなるってどういうこと?」ゼフラが聞いた。
「なかま、強い。けど、ひとり」
「要するに、その仲間がいなくなったら敵にすみかを狙われる。今まで一人で全部追い払ってくれていたんだ」
「なるほどね」
「どうするの?」ノアはオトを見た。
「行こうか」オトは頷いた。
「彼らは体形を奇妙に変えられて、その壊れた血のせいで何世代も奇形が生まれ続けている。結局他の群れや種族から追い出され、追い出されたもの同士で集まり、どこかでひっそりと暮らしている」
ゼフラは歩きながら言った。もう傷はほとんど回復していた。
「カクレは群れから逃げ出したんだ。あのひどい群れから。動物と話せるのも、ちょっと変わってたのかな」
ノアは洞窟を囲んでいた六本脚の、異常に首の長い黄色と黒の虎のような動物の背に乗っていた。
「この動物もヘンだ」
「うん、まあ可愛くはないよ」
リティもその動物の頭をなでながら言った。
「セクル」
カクレが振り返って、自分の乗っている動物を指さした。
「名前だよ。多分。セクルっていうんだ。誰が名前つけたんだろう……」リティはまた頭を撫でた。そして声を潜めてオトに言った。
「ねえ、『野伏』だってそんなにひどい奴らばっかりじゃないってことだね。それでも、ちょっと名づけのセンスはどうかと思う」
「ああ、そうだな」
六人と数頭で歩いていた一行は、だんだんと大所帯になってきた。角の生えた小鳥がどこからともなく現れ、さえずり始める。双頭の鹿が現れ、六足の獣に寄り添って歩く。一行の足元を、体中が棘で覆われたヘビがすり抜けていく。
『病気の仲間』までの道は予想外に過酷だった。岩山と鬱蒼とした森が交互に現れ、足を遅らせた。ところどころに溶けたような穴があり、底は見えなかった。そしてついに完全な登山になり、まだ暗い中で、ごつごつした岩山を、ゆく手を覆う深い草木に阻まれながら越えていく。『野の者』たちは平然と歩いていた。
「こりゃ大変だ……ノア、代わってくれよ。セクルに掴まってるだけじゃないか」
「僕は掴まってるだけで精いっぱいなんだ」ノアも息を切らしながら言った。
「かなり道草を食ってしまうのでは?」ゼフラが言ったが、オトは首を振った。
「いや、森の民に会うにはどちらにしろ通るべき道だったのだろう。傷は大丈夫か?」
「ええ、背負われたおかげで」
ゼフラはその場で駆け足をして見せた。
ノアたちはほとんど休みなしで、数日かけて過酷な山路を踏破した。もはや何日目か分からなくなった夜、ほとんど岩も木も無くなり、短い草原が覆うなだらかな丘に辿り着いたのである。一行はよろよろと丘の頂上に向かって歩いた。気づくと空はかすかに白み始め、早朝の冷気が辺りに漂っている。
「ついた。あの向こう」
カクレは頂上に着くと、登ってきた反対側を指さした。見下ろすと、そこにはどこまでも続く水面が張り、その周りを豊かな森と草原が囲んでいた。
「あれって、海?」リティが聞いた。
「みずうみ」
カクレが答えた。
「嘘だ。こんな広い湖見たことが無いよ」それでもカクレは、
「みずうみ」
と繰り返す。
「病気の仲間というのは?」オトがカクレに聞いた。
カクレはただ湖を見ながら、
「出てくる」と言った。
オトが「どこに?」と聞こうとした瞬間、彼は前方に光を感じ、はっと顔を上げた。
水平線の向こう側から太陽が現れ、その光が丘の上に立つ彼らの目に差したのである。
朝日は草木の緑を美しく色付け、湖の水面をきらきらと輝かせた。周りの山々はオレンジ色に照らされ、空には紫、赤、黄、白と移り変わる色の帯が描かれていく。湖からさわやかな心地よい風が吹き、草木を揺らし、彼らの頬を撫でた。
ノアたちがその光景に声もなく見入っていると、眼下の森がざわめき始めた。動物たちが次々に鳴き声を上げ始める。まるで何かを祝福するかのようである。すると突然湖の中央がさざめき立ち、山のように盛り上がった。その水の柱は止まることなく伸びていき、天まで届くかと思われた。そして滝が落ちるような音とともに激しいしぶきが上がり、ついに水の幕の中からそれは姿を現した。まさに、それは竜であった。長い首に、胴は白銀の鱗に覆われ、尾は水平線の向こうまで続いている。とにかく巨大な竜だった。その頭部は、丘の上からでもなお見上げなければならないほどの位置に達している。その目は世界のすべてを見渡すのではないかと思えるほど高い場所にあった。竜は朝日に照らされ、銀色の光を周囲に放っていた。
「すごい」
ノアは思わず独り言を洩らした。
「なんて大きいんだ」
リティも言った。しばらく一人も声を出さず、その竜を見ていた。
「これが病気なの?」
ゼフラが聞くと、カクレは頷いた。
「苦しい、言ってる」「あれと話せるの?」
思わずノアが聞くと、またカクレは頷いた。
「見たところ外傷はないな……」オトは冷静につぶやく。
「おそらく、この竜も変異した何かの動物だろう」
「もしかして、『大きすぎる』っていう奇形?」
「ああ。もとの大きさの身体機能のままこれほど大きくなれば、どこかに不具合は出るだろう。例えば心臓だ。大きすぎる体に対して心臓には大きな負荷がかかる。体の隅々まで血を送る必要があるから、普通に生きるだけで常に死の危険と隣り合わせだ」オトも同意した。
「じゃあ、どうするの?」
「安静にすることだ。もう外敵を追い払うような激しい行動はしてはならない」オトがそう言った時、竜の頭上を一機の黒い飛行機が通り過ぎた。それに気づくと、竜は飛行機に向かって地響きのような咆哮を浴びせた。この山が崩れんばかりに地面を揺らし、木々はざわめき、水面には大波が立つ。やがて飛行機はふらふらと去っていき、咆哮は止んだ。同時に竜は力尽きたように首をゆっくりと降ろし、ノアたちがいる丘の上にもたせかけた。
「あれは何?」
「おそらくシンアルの偵察機だ。もうこの山は次の標的になっている。竜はやつらを追い払おうと負担が増えたわけか」
「じゃあ、この竜は、このすみかはどうなるの? またここを追われたら……こんなにきれいな場所なのに。彼らはどこへ行くの?」
「大丈夫だ」
オトは苦しそうにうめく竜の顔に近づき、優しく言った。
「もう無理はするな……」
オトは「私が救う」とは言えなかった。
「カクレ、私はこの竜を正常に戻してやることはできない。だが、平原の戦いが終われば、おそらくこの山脈にも平穏が訪れる。そうすれば竜も次第に良くなるだろう。私がしてやれるのは、平原の戦いを終わらせることだけだ。それは約束する」カクレは頷いた。
「耐えてくれ。世界が落ち着くまで……」オトは苦しい表情で言った。
リティは湖の縁まで行って水面を見つめていた。先ほどはあれだけ元気に鳴いていた動物たちは姿を見せないが、その気配はそこら中に感じられた。湖の水は、底が見えるほど透き通っている。魚の一匹もいない。彼が水をすくって口へ持っていくと、あまりの冷たさに思わず咳き込んだ。リティが咳き込むと同時に、後ろの森が一瞬だけざわめいたように思った。振り返ると、まるで初めて見るものを恐れるかのように静まり返り、物音ひとつしない。
「もうここにはいない方が良いだろう。森へ行こう」
竜がある程度生気を取り戻すのを見て、オトはノアたちに言った。
「このすみかにいようよ」
「私たちは彼らから見たら、異質な存在なの。ここにいれば彼らの心が休まることはないでしょう」
ゼフラが湖を見ながら言った。リティは残念そうに頷いた。
ノアたちはカクレと六足獣の案内で進路を北にとり、山を下った。
カクレと六足獣は森が深くなってきたところで足を止め、辺りを見回した。もはや光は差さず、彼らの足音以外何ら聞こえない不気味な森になっている。地面は固く、落ち葉もほとんどない痩せた土の感触がした。時々冷気が流れ、彼らの肌を撫でる。ゼフラはたいまつを持って掲げ、呼吸を整える。
「もう、着く」カクレが能天気に言い、六足獣は鼻を鳴らして足を進める。ノアたちは暗闇をそろそろと歩いていく。
「こんなところに人が住める?」リティは震える声で言った。
「行ったことがあるという人は聞いたことが無い」ゼフラは答えた。
「じゃあなんでいるってわかるの?」
「分かるわけじゃない。そういう言い伝えがあるって話だ。現に彼、ら、は知っているみたいだし」
カクレの方を見ながらゼフラは言った。
「取って食ったりしないよね?」リティはつぶやくように言った。
「さあね」
誰かが答えたとたん、急に目の前が開け、明るい場所に出た。森はここで終わっていた。森が終わっているというより、そこは森の一部を切り開いて作られた集落だった。
一本の細い急勾配の川が流れる両岸に、せり出すように建物が奥まで続いている。建物はほとんどが直線で作られているのにもかかわらず、川岸の岩や草木と不思議な調和を見せている。大小さまざまな建物は白、黒、灰色で彩られ、斜めの土地に建てられたことによる不規則な、それでいて整った階段状の奥行きを作っている。まるで芸術作品のような都市を目の前に、ノアたちはしばらく魅入っていた。しかし、ノアは何となく心が落ち着かない、奇妙な違和感を覚えたのだった。
「なんか、変な感じだね。全部まっすぐ」ノアは景色を眺めながら言った。
「人がいないね」
「そうだな……」
一行は川に沿って、岩を乗り越え、草木を払いながら進んでいく。建物の壁面をよく見ると、傷があったり塗装が落ちていたり、あるいは立て直しの最中らしき部分もあったりして、人の気配はあるようだった。
「あなた方は?」
上の方から声がして、皆一斉に見上げた。建物から突き出した縁側に、背の高い男が立ってこちらを見下ろしている。床まで届く長い羽織を何枚も着こんでいて、顔には眼鏡をかけている。
「少しここで休息したいのだが、問題ないだろうか? 私はオトというもので、彼らは仲間だ」
オトは答えた。相手はちょっと一行を見て、頷いた。
「なかなか多種多様なご一行ですね。私はコルホネンと言います。ご休息ももちろんして頂けます。ところであなたは、シンアルの王族の方でしょうか?」
コルホネンの言葉に、ゼフラは思わず、
「王族? 誰が?」
と叫んだ。
「そこのひげの方ですよ」
彼は確かにオトを指さした。
「元シンアルの王アスフの子オトニエルでは?」
「本当に?」
ゼフラはオトを見て言った。オトはしばらく呆然としていたが、ゆっくりと首を振った。
「そんなはずはない。私は未来から来た、反王政軍の一人だ。なぜ今の王子に……」
「未来から来た? そんな馬鹿な」
「嘘ではない」
オトはコルホネンの真面目な顔を見た。
「あの惨劇は、しっかりとこの頭に刻まれている。あれは現実だ」
「なるほど」
コルホネンは困惑の表情を浮かべた。
「実は、今そのアスフがこの国に訪れていまして、人相がとてもよく似ていますから、もしやと思ったのです」
それを聞いたとたん、オトはコルホネンを凝視した。
「王がここにいるのか?」
「ええ、街の奥に」
「どういうことだ。なぜこんなところに」
「アスフは革命勢力に追放され、国の境界をそってここまで逃れてきました。その際に彼は重傷を負いました。もう先は永くありません」
「会わせてくれ」
「もちろんですよ。では、下の階段からこちらへ上がってきてください」ノアたちは建物に入っていった。
歩いていると、ところどころに道行く人たちを見かけた。彼らは物珍しそうにノアたちを見ている。
「ねえコルホネン、なんで森の中に住んでいるの?」ノアが六足獣の背に寝そべったまま尋ねた。
「昔からの習慣みたいなものですよ。私たちは約千年前からここに住んでいて、当時の文明をそのまま残しています。先史の文明が滅んだ時、ここだけは森に守られて安全だった。『塔』が破壊されたときも、その地獄のような異常気象を耐えきったのです」
コルホネンは少し自慢げに言った。
「じゃあ、色んな歴史を見てきたんだね」
「そうですね」
「美しい言葉を話すと聞いていたが」ゼフラが尋ねた。
「美しいかどうかは分かりませんが、私たちはあなた方とは違う言葉を話します。もちろん平野の言葉も話せますが」
「どんな言葉?」
「そうですね……言ってみれば、根は同じなのです。先史文明は全世界で統一された一つの言語を持っていました。その言葉を我々は維持している。逆に平野の方々が話す言葉は、その言葉をずっと簡略化してきたものです」
「なんで?」
「有力な説としては、塔の破壊に伴う苦しい時代を生き抜くには、統一言語では余計な体力も時間も使ってしまうからです。例えば、気候や災害に関する表現は極めて短くなっている。あなた方は『地震が起こった』という言葉を一音で表せるまでに簡略化しましたよね」
「確かに……古語で言えばそんなに長く遠回しになるのか」
ゼフラは感心したように頷いた。ノアはちょっと退屈そうにあくびをした。
「大きなくくりで言えば、シンアルもヤマトもセイシュウもゴルンも西の辺境も野伏たちも、他の多数の小国も、言葉は少しずつ違っていますが根は同じです。剣山の民たちはちょっと変わっていますが。とにかく、そのためにあなた方は問題なく意思疎通ができている」
「そのおおもとをあなた方が話しているというわけか」またゼフラが言った。
「そうなりますね」
「シンアルとはどういう関係?」
ゼフラが聞くと、コルホネンは首を振って言った。
「関係も何も、私たちは平原から、世界から身を引いた民族です。もう誰からも忘れられ、ただひっそりと生きているのです」
オトは何も言わずに歩き続けていた。
建物の裏の森はどんどん深くなっていき、岩肌もところどころ見えていた。しばらくするとひときわ大きな建物が現れ、その前でコルホネンは立ち止まった。
「皆さん入られますか? それともおひとりで行きますか?」
「いや、シンアルの王なら会っておくべきだろう。みんなで入ろう」オトは振り返って言った。
重厚だが無機質な白い扉を開けて、一行は中へ足を踏み入れた。コルホネンの後をついてノアたちは薄暗い通路を歩き、右手の部屋の前にたどり着いた。オトは少しためらって、ドアを押し開けた。
部屋は明るい光で照らされていた。自然の光がふんだんに取り入れられ、心地よい温かさで満たされている。オトは殺風景な内装の真ん中に据え置かれている、大きなベッドを見た。そしてその上には、息も絶え絶えな白髪の老人が仰向けになっていた。
「シンアル王?」
オトはベッドのそばに立って静かに尋ねた。
「お前は、オトニエルか」
かすかな声で彼は言った。彼が何か言う前に、オトは口を開いた。
「私はただ、あなたを殺すためだけに生きてきた。私があなたの子であるというのは、悪い冗談だろう。私の両親はすでにシンアルに殺された」
「冗談ではない。お前が持っている記憶は、私が吹き込んだものだ」目を見開くオトの顔を見て、アスフはゆっくりと口を開いた。
「今からお前の本当の素性を教えてやろう。今なら分かるはずだ」オトは震える拳を抑え、口を結んで聞いていた。
「お前は時期シンアルの王として東の国で生まれた。そのころにはシンアルは『塔』にほとんど侵されていた。私はまだ少年だったお前を剣山へ送った。シンアルにいては操られるだけだと分かっていたからだ。お前は何も知らないまま剣山の民として育ち、鍛えられ、やがてその本能のままに平原の戦いに参加した。かなり活躍したようだな。
お前は最前線でシンアル軍に捕らえられた。そして私の前に引きずり出された。おそらく軍の奴らは、私の子であると気づいていた。本来なら、即座に処刑だ。だが私は何とかそれを止め、記憶を改ざんして西側世界に追放するという刑を下した。塔の影響下では、これが限界だったのだ。だが、『技術部』が行った改変は、『王アスフを殺さなければならない』と思い込ませるものだった。
お前が私を殺そうと追い求めるうちに、『塔』は新しいシンアルの統率者を得た。もう我々は『塔』にとって用済みなのだ。だが、私は幸運だと思った。お前がまずナラムという今の王ではなく、私を殺しに来ることがな。
いいか、私を殺しても構わない。どうせあと数日で死ぬ運命だ。だが、今の王に何ら責任は無い。彼を殺してはならない。シンアルを止めることができるのはお前しかいない。『塔』の支配に下り、平原の民を苦しめ続けてきたのは、古来のシンアルの王だ。我々は、その責任を果たさなければならない」
アスフは口を閉じ、蒼白になったオトの顔を見た。しばらく沈黙が流れる。
「あれが、あの記憶が、全て改変されたもの? そんな馬鹿な。では塔と戦い死んでいった者たちは全て幻想だったのか?」
オトは額に汗を浮かべ、アスフの横顔を見た。
「奴らは根本から記憶を変えられるわけではない。実体験を捻じ曲げ、重ね、ごまかし、そうやって精巧な過去を作る」
「すまない、しばらく二人にしてくれ」
オトの頼みに、ノアたちは部屋を出て、二人だけが残された。
ノアは苦痛に顔をゆがめるネブロを寝かせ、ずっと見守っていた。ノア自身も体中が痛み、銃弾の傷も癒えてはいない。コルホネンに案内された部屋は広くて自然光が溢れてはいるが、天井が低く、ノアには少し居心地が悪かった。彼はネブロのベッドを窓際に寄せ、
できるだけ外に近いところにいた。リティは「古代文明の国を探検するんだ」と言って一人で出かけていった。ゼフラは同じ部屋でカクレの傷を看ながら、手持ちの武器の点検をしている。
「カクレはあの山の上の住処に戻ると言ってる。ノア、それでもいいか?」ゼフラはノアに聞いた。
「カクレはそれを求めてわざわざ故郷を出て旅を始めたんだ。僕に聞かなくてもそうするべきだよ」
ノアがそう言うと、カクレは傍に来て手を差し出した。
「あり、がとう」
ノアは小さな手を握り返した。
「こちらこそありがとう。色々助けてもらって、おかげでここまで来れたよ。山の上でも元気にしてね」
カクレは頷き、次に苦しむネブロの顔を見た。
「これ、使う」
カクレはビンを取り出し、ノアに渡した。
「ネブロに?」
「川の毒、消す」
カクレは故郷の森の中で薬を作り、川の毒に耐えていたのである。ノアはこれがネブロに効くか分からなかったが、その気遣いに胸が詰まり、カクレがたまらなく愛おしく思えた。
カクレは六足獣に乗って落水の谷を後にした。その背中を、ノア、リティ、ゼフラの三人が見送った。
ノアは再び部屋に戻り、コルホネンの妻だというヴェルザンディ・コルホネンと共にネブロを看病していた。
ノアは彼女に、ここにきてから感じている違和感を打ち明けた。
「この街は、なんだか他とは違う気がするんです」
「居心地が悪いのですか?」
「うん、なんだかそわそわする」
「それが当然の反応です。この街と人々は、全く違っているのです。本来なら滅びるべき文明が、自然の流れに逆らって存続しているのですから。従って我々は平野には干渉せず、ひっそりと暮らしてきました。しかし、その分我々には特別な役割があります。と言っても、誰かに与えられたものではなく、自分たちで勝手にそう言っているだけなのですがね」
「どんな役割?」
「世界を外から眺め、記述する役割です」
ノアはへえ、と目を輝かせた。
「じゃあ、全ての歴史を知ってるってことだね。これまでの世界って、どうなってきたの?」
「これまでの世界? そうですね、この国の人間なら、だいたい知っています。あなたは知りたいの?」
ノアはうんうんと何度もうなずいた。
「では、先史文明の崩壊のところからでも話すとしましょうか。少しだけ、長くなりますよ」
「大丈夫です!」
ノアは身を乗り出して彼女が話し出すのを聞いていた。
「千年以上も昔、先史文明は今よりはるかに発展した社会を作っていました。今のシンアル王国ですら足元にも及ばない。科学的にも、精神的にも。私がどんな例を挙げて説明しても、あなた方には分からないでしょう。そこはあなた方の想像にお任せします。そしてある日突然、何の前触れも無しに崩壊の日が来ました。それは、当時の人々は完全にその理由を論理的に説明できたのですが、今の時代風に言えば『悪の増幅』でした。あなた方の言う、『神の裁き』ですね。要するに、あらゆる人の中にある悪や破壊の衝動が抑えられなくなり、爆発してしまう現象です。人々は理性を失い、所かまわず破壊を始めました。そして最後には力尽きて、あるいはその破壊に巻き込まれて死んでいきました。
結局、たった六日で地球上のあらゆる人工物と、ほとんどの人間と、自然の大部分は失われました。地上には、もはや住めなくなったのです。
当時の人々はこれが過去の蓄積による、言わば病気の発露のようなものだと言ったり、あるいは自然的な人類史、そして歴史の流れの一部であり不可避なのだと言ったりしました。とにかく、彼らは地上を捨て、地下都市に移りました。奇跡的にその『増幅』が起こらなかった人々もいたのです。ほんの一握りですが。それから、なぜ彼らが文明を移せるほど大規模な地下都市が既に存在していたのかは……、これも長い話になりますから飛ばしましょう。使用言語が完全に統一され、二百ほどあった国々も実質的になくなり、世界がたった三つの地下都市に別れたのもこの時です。ちなみに、この時地下に降りず、地上に残ったのが我々の祖先です。
地下に降り立った人々は、この『悪の増幅』をどうすべきか思案に暮れました。長い研究の結果、この現象は、実際には頭の中の特定の部分が引き金となって引き起こされることを突きとめました。さらに、これは全人類の誰にでも起こり得ることであり、死ぬまでに避けては通れないことだということも分かりました。それを知った彼らは肉体を捨て、精神を分離することを思いつきました。そのために、彼らはその精神のよりどころとして、『塔』を地上に作り上げたのです。そうすることで『悪の増幅』から逃れることに成功しました。
しかし、『塔』が完成し、計画が実行に移される直前、『塔』を巡って対立が起こりました。『塔』は精神を引き寄せ、ため込むことができますが、それをまた外へ放出することもできるのです。つまり塔の創作者たちは、塔の中で彼らの理想の世界を生きることに加え、未来で新たな肉体を手に入れ、復活することを計画に含んでいたのです。少数ですが、それに反対する勢力が現れました。彼らは人間としてそのまま地下で死ぬことを選びました。そして自然の流れに抗うことは、いずれ災いを引き起こすだろうと主張し、塔を破壊することを求めました。彼らと、塔の計画を果たそうとする勢力は、地下で激しく対立しました。武力的な戦闘も起こりました。それは何百年も続き、その間も人々は『悪の増幅』によって死んでいきました。結局塔は破壊されず、もともと少数だった対抗勢力はほとんどいなくなり、多くの人々が『塔』へ移っていきました。そうしなかったわずかな人々は、地上に出て、細々と暮らし始めました。
地下都市から出ていった様々な人々は次第に数を増やしていきました。いつ起こるとも知れない『増幅』と向き合いながら。何百年の地下生活の間、地上はすでにかつての自然を取り戻していたのです。この後の彼らの動き、すなわち数々の国の興亡、民族の成立と対立と調和、地球環境そのものの変化などは、今は述べないことにしましょう。ともあれ、その間も『塔』は周囲の人間の精神を引きずり込み続けました。過去の者たちの望み通りに。しかし塔は、次第に副作用を起こし始めました。塔の力は自然と決して調和せず、環境を狂わせていきました。そして数百年の時を経て、もはや塔はため込める精神の容量の限界に達し、ただ周囲の人間のそれを消してしまう力のみを発揮するようになりました」
ヴェルザンディは長く息をつき、しばらく口を閉じた。「ちょっと私が疲れてしまいました。まだ途中ですが、休憩させて頂きます」
ノアは半ば放心状態になっていた。ヴェルザンディは歴史のほんの概要を話しただけだったが、いつもヨセフスがノアに話してくれることよりも内容が濃く、長かった。だが、彼は一応すべての話は聞いていたので、しばらく目を閉じて考えた後、口を開いた。
「あの塔の中に、過去の人たちが住んでいるってこと?」
「そういうことになります。精神だけなので、彼らは年も取らないし、けがもしない。理想の世界を生きているのです」
「じゃあ、壊したらその人たちはどうなるの?」
「精神が塔の力によって放出される前に壊せば、彼らは消えてしまいます。いつ彼らが出てくるかは誰にも分かりません。少なくとも、外の世界において彼らを支えられる人口まで達する必要があるでしょうが」
ヴェルザンディは傍らに置いてあったお茶を飲み、再び話し始めた。
「何度も世代が変わり、もはや『悪の増幅』は誰にも起こらなくなり、完全に忘れ去られました。そして、塔だけが残りました。その後の歴史の転換点は大きく二つです。一つ目は、塔の管理者たちと、平原に住む人々との戦争です。そして二つ目は、『白の塔』の崩壊です。『白の塔』とは、世界で唯一破壊されたあの塔のことです。
塔が及ぼす暗黒の力――すなわち精神を抜き去ってしまう力と、それに伴って放たれる、自然を捻じ曲げてしまう異質な波動――これは塔の創作者たちも予想していなかったことですが、確実に人間の害となり始めました。それまではあくまで世界の構成物の一つでしかなかった塔は、次第に塔、と、そ、れ、以、外、の二項対立を形成していきました。塔には、その存続を助ける『管理者』と呼ばれる集団が与えられており、塔をそれ以外の人たちがどうにかすることは不可能だったのです。
様々な国に分裂していた世界は、塔を敵として団結し、――まあ、常に外側にいた我々がいるように、完全には全ての人々がとは言えないのですが――強大な先史文明の軍事力を有する『管理者』に戦いを挑みました。二十年ほど彼らは戦い続け、世界を巻き込んだ戦争はついに『管理者』の勝利に終わりました。戦争で疲弊した平野の人々は管理者に服従し、その後は全ての国が廃止され、塔と管理者を中心にすべて統治されるようになったのです。 そして、その形態が壊されるのが、今から千年前の『白の塔』の崩壊の時です。『管理者』たちの全く予期しない方法で塔は破壊され――実はその『破壊』自体にも五年ほどかかったのですが――、その影響は全世界に及びました。世界は異常気象や地殻変動が立て続けに起こる暗黒時代に突入したのです。人々は地下に逃げ、あるいは森に逃げ、あるいは勇敢にも平原で耐え凌ぎました。もはやそれまでの国や民族などといった区別も無くなりました。『管理者』たちすらほとんどがその崩壊時にいなくなり、わずかに残った者たちは塔の近くでその時代を過ごしました。この時の地殻変動で、二つの地下都市はすりつぶされてしまいました。
数百年が過ぎ、世界は落ち着きました。次第に人口は増え、平原も豊かになっていき、国が形成されていきました。もっとも、暗黒時代のさなかにもある程度その集団形成は存在したのですが。特に、シンアル王国は歴史が長く、国としての崩壊前の記憶をいくらか持っているほどです。シンアルについて少し述べるとすれば、その創設者たちがかろうじて生き残っていた『管理者』と戦い、彼らを根絶やしにしたことは一つの歴史の転換点と言えるかもしれませんね。とにかく、暗黒時代が過ぎ去ってその後、今の時代に至ります。
これで大方の部分は話しましたね」
ヴェルザンディはノアを見て続けた。
「ノア、あなたが『破壊者』であるならば、その決断をしなければなりません。過去の者たちを過去のまま殺すのか、あるいは彼らを残し、未来へ送るのか」
ノアはぼんやりと外を見ながら言った。
「僕の祖先は、塔を破壊したって聞いた。その人は、僕と同じような状況だったの?」
「彼は、そのような時代の流れなど何も知らなかったのです。若い彼には、何にも代えがたい、たった一人の親友がいました。そして『塔』はその親友の夢と命を奪いました。彼はこれを知り、怒りと悲しみのままに塔を破壊したのです。
そして彼は確かに塔を壊しましたが、あれは彼が壊したというより、塔の力を介して彼らが壊したという方が正しいですね。塔の『管理者』の一人と、同じ力を持つ少女と、今のガルディア―ス家の血を引く者の助けを借りて。しかし、本当は絶対に避けるべき恐ろしい手段でした。彼もそれを意図していたわけではなく、偶然そうなってしまった。仕方が無かったのです」
「じゃあ、僕は、どうするべきなんでしょうか」
ヴェルザンディはノアに微笑みかけた。
「あなたの思うままにすればいいのです。ただ、今あなたはここまで流されるように旅をしてきただけで、まだ世界を十分に見たとは言えない。これから世界に起こることを見なさい。そうすればあなたがどうしたいのかがはっきりと見えてくるはずです。
だけど、ノア、これだけは覚えておきなさい。塔を破壊できるのは、あなただけなのです」
ノアはずっと外を見ていた。ヴェルザンディはもうそのあと口を開くことはなかった。
ゼフラはコルホネンと二人でしぶきを上げる川の流れを見ていた。
「イングヴァル・コルホネンさん」
ゼフラはコルホネンに尋ねた。初めに出会った男は、名をイングヴァルといった。
「あなたは、森に住むあなた方は、ゴルンの王国についてどこまでご存じなのですか?」
「炎の王国のことは、その成立から現在までのすべてを知っています。外から見た限りですが」
コルホネンはすぐに答えた。
「私は、その、何も知らないのです。歴史も、ゴルンの役割も」
「わかっています。あなたの身分も、今まであなたに起こったことも。ですが、あなたが知りたいと思っていることを全て私が話すことはしません。なぜなら、これはゴルンの王によって語られることで初めて、あなたにとって意味を持つからです」
「もしかして、あなたはゴルンの王がどこにいるかご存じなのですか?」
「ええ、知っています。彼は、おそらくシンアルに捕らえられました。もう数か月も前のことです。シンアルはゴルンの王を殺すことはせず、ずっと閉じ込めていました。そして、シンアルはゴルンの王の身柄を青洲へ渡したようです。どんな取引があったのかは分かりませんが、このことが『ヤマト』にとっては良くない状況を作り出したことは言うまでもありません。とにかく確実に言えることは、ゴルンの王は今、青洲の首都にいるということです」
「青洲? あのような影の差す国がなぜゴルンの王を必要とするのですか?」
「わかりません。シンアルは青洲を使って平原を手中に収めようとしているのかもしれません。とにかく、時間はないのです。東側世界に行かないことには、何も分からないし、何も変えられません」
「分かっています。青洲への道は知っていますか?」
「知っていますよ。しかし入念な準備と計画が必要です」
二人は建物に入り、青洲への道を話し合った。
「君も、外から来たんだって? どんな旅をしてきたんだい?」
その夜、リティが二人の「落水の民」と共にノアの部屋に戻ってきた。二人の若い男女はトラルフとエディスといって、リティと意気投合し、街を案内して回っていたのである。ノアやリティより少し年上のように見えた。
「リティ、君はなかなか口が達者だな。まあ、僕程じゃあないけどね」
「トラルフ、僕はちょっとがっかりしたよ。古代文明の民なら、もうちょっとこう、厳かに、神妙にしてるもんなんだけど。古代はみんなそんな感じだったんだね?」
「トラルフがおかしいだけよ。他のみんなはあなたのイメージ通りいつも家の中にいて本なんか読んだりして、じめじめと暮らしているんだから。歴史とか『塔』がどうとか言ってね」
「エディス、君も人のこといえたもんじゃないだろ。奥の神聖な滝を登って滝つぼに飛び込んだり、北の森を探検して斧で木を切り倒しまくったりする奴なんかそういないぜ」
「要するに、二人が変なんだよ。ああ、なんて二人に絡まれちゃったんだろう。こんなはずじゃあなかったんだけどなあ」
「まあ、確かに俺たちは変だな。元気を出せよ。よく分からないが、古代文明が好きなんだろ? まだ案内できるところは山ほどあるぜ」
トラルフは自慢げに胸を張り、リティは顔を覆う。ノアは三人の陽気な雰囲気に心が解かされるように思った。
「僕はノアだよ。西の村からここまで旅をしてきた。結構、色々あったんだよ」
「リティとは違う旅をしたのか? こいつの話ならもう聞いたんだ」トラルフがノアの目を覗き込む。
「リティとは違うよ。リティとは数日前に遭ったばっかりなんだ。聞きたい?」
トラルフは何度もうなずく。四人は時間を忘れ、お互いのことを話し、長い夜を過ごした。
旅の一行は『落水の谷』で数日ほど体を休めた。
(落水の谷、フィトンチッド、放射能汚染)
ノアたちとコルホネンはオトニエルに呼ばれ、別の一室に集められた。ネブロはまだ別室で療養している。オトはまだアスフを殺してはいなかった。二人はずっと話し合っていたのである。
「私は彼を父と認めたい。それでも、私が今までしてきたことは罪が深すぎる。だから私は今から平原に出て、シンアルと戦おうと思う。申し訳ないが、仲間とは離れて行動したい」
オトニエルがそういった途端、ゼフラがその正面に立ち、彼の胸に銃を突きつけた。
「オト、あなたがシンアルの王族だというのなら、私はあなたをここで殺さなければならないと思う。もちろん、別の部屋で眠っているあのシンアルの王だという老人も、この手でとどめを刺す。あなたがシンアルに戻り、いずれ世界を侵略し始める前に、悪の芽を全て刈り取る。今のシンアルの支配者も殺す」
口調に反して、彼女の眼には迷いがあった。彼女もまた、混乱していたのである。
――私がしていることは正しいのだろうか? 打ち倒すべき敵はどこにいるのか? 何か深くて暗い迷宮に迷い込んでいる気がする。それでも、私はここで指をくわえて見ているわけにはいかない。
オトニエルが静かに答える。
「ゼフラ、私が本当にシンアルの王だとしても、今のゴルンを支配している軍を引かせることはできない。殺しても無駄だ。それに、私は決して侵略などしない。シンアルは私の代で終わらせることにした。あの王がそれを望んだ」ゼフラは言葉に詰まった。
「でも、私は……」
「あなたがすべきことはやはりあなたの王を救うことだと思う。シンアルの軍は強大だ。ゴルンの力が必要になる時はきっとくる」
「王は、シンアルに捕まった」
「私はそのシンアルを終わらせに行くのだ」
ゼフラはしばらく黙っていたが、銃を下ろした。
「分かった。私は王を救いに行く。全てが明らかになった時、また会いましょう」
彼女が息をつくのを見て、ノアが口を開いた。「じゃあ、僕はこのまま東側に山を下りて、シンアルへ向かう。ネブロも、もう少しで起きてくれると思うんだ」
「僕もついて行くよ。もう臆病者とは言わせない」
リティが手を挙げて言った時、外でざわめきが起こった。コルホネンはすぐに振り返り、建物の入り口まで走っていった。
「なんだ?」
ノアたちは動かずに入り口の方を見ていた。次第に足音が近づいてくる。ノアの背中に冷たい汗が流れた。
足音は入り口の前で止まったようだった。代わりにカチャカチャと金属の音がする。すぐにその音はやみ、一瞬、辺りは静まり返った。
次の瞬間、「逃げて下さい!」というコルホネンの叫びと共に扉が大きく開け放たれ、脇に銃を構えた黒い兵士が建物に突入してきた。
「逃げろ!」
オトニエルは叫び、銃剣を握って窓の方を指さした。
「窓からだ! すぐ外に出られる。私はここで食い止める」
ノアたちは頷き、次々に窓から出ていった。ノアはまだ走れず、リティに背負われた。ゼフラがオトを振り返る。
「あなたはどうするの?」
「私も王を連れていずれ逃げる。リティにノアを頼むと言っておいてくれ。皆でシンアルへたどり着けと」
オトニエルは扉の陰から応射しながら言った。
「なら、王を連れて逃げて。私が殿をするから。私は一人で逃げられる」
ゼフラは彼に近づき、銃を掴む。
「あなたの名はゼフラ・ガルディアース、炎の王家の娘」
ゼフラははっとオトニエルを見た。オトニエルは弾を装填し、銃を構えなおす。
「なぜ分かったの?」
ゼフラはやっとささやくように言った。
「あなたのことはぼんやりとだが、私の記憶の中にある。他はすべて消えているというのに、一度だけ出会ったことがある気がしていた。やはりそうか。私が王の息子だった時、あなたも別の王の娘だった。あなたは覚えていないだろうが」彼は扉の向こうへねらいを定めながら続けた。
「あなたにも役目がある。逃げてほしい」
オトニエルはアスフの部屋の方を見ながら言った。ゼフラは少しためらったが、オトニエルから離れ、最後に声をかけた。
「あなたなら剣山の王になれる」
彼女は背を向け、窓の枠を飛び越えた。
三人は身を低くして銃声のする建物から遠ざかった。幸い包囲は完全にはできていなかった。
「どうやって逃げる? あれ、オトは?」
リティは心配そうに振り返った。
「オトは大丈夫。心配しなくていい。彼は強いから」ゼフラは後ろから言い聞かせるように言った。
「それより、ここから逃げないと。森へ」
森に向かってノアたちは駆け出した。もう少しで身を隠せる所まで達したとき、横から一斉に銃撃音がして、彼らの足を止めた。道の向こうから現れたのは、黒く武装した兵士の数々――そして、ヨセフスがそこにいた。
「え?」
リティは目をぱちくりさせて、素っ頓狂な声を上げた。思わず背中からノアを取り落とす。彼は目の前の現実が受け入れられず、夢を見ているように思えた。
「ダメだ……」
ゼフラは絶句したが、ノアは背負っていた剣を手に取り、ヨセフスの前に立った。ノアはまだ全身の傷がびりびりと痛んでいたが、不動のまま相手を見据えた。
「みんなはここを離れて。できるだけ遠くに。僕は大丈夫だから」
ノアは言った。その姿を見て、ゼフラは呆然としているリティを抱えてノアのそばを離れた。敵はゼフラには目もくれず、古びた剣を持って自分たちの前に立ちはだかる小さな少年と対峙していた。
ヨセフスはゆっくりとノアに近づき、手を伸ばした。その目は何も見ていない。見えない何かに操られ、その命令を果たそうとしている。ノアはそれを見て柄を握り直し、鞘から剣を抜いた。
ゼフラは力の限り戦塵の中を駆け、ノアから離れた。我に返ったリティがノアを助けようと暴れたが、押さえつけた。もう十分だろうと思い一息つこうと足を緩めた時、一瞬視界が真っ暗になり、ゼフラは思わず座り込んだ。それはまさにノアが剣を抜いた瞬間だった。地面を掴んで這うように進むが、次第に意識が薄れていく。ぐったりしたリティを引きずり、何とか遠ざかろうとしたが、体に力が入らない。諦めかけた時、急に頭の黒い靄は晴れ、だんだん全身の力が戻っていった。
力は戻ったが、体の震えと痺れはしばらく止まらなかった。なんとか呼吸を整えると、ゼフラはノアを残していった場所まで走っていった。向こうからは戦闘の音は聞こえない。
やがて見覚えのある通りに出た。巻き上がった埃の向こうに、人影が見える。ゼフラは祈るような気持ちで走り出す。
――ノアはかつて言っていた『武器』を使ったのだろう。ゴルンの城下で敵を打倒したあの剣を。とにかく無事でいてくれればいいが。
砂埃を駆け抜けそこで見たのは、ヨセフスの肩に担がれ、意識を失ったノアだった。そしてヨセフスは後から加わった新たな兵士たちに迎えられ、その場を後にしようとしていた。足元には数人の兵士が倒れている。
ゼフラは落ちていた銃を素早く拾い上げ、木の陰からヨセフスの頭を迷いなく狙い撃った。ところが彼の側頭部に命中したその弾は、鈍い金属音と共にはじき返され、その老人は彼女をぎろりと睨んだ。逆にゼフラは集中砲火に襲われたが、身をよじって銃撃をかわす。彼女は奪還を諦め、リティのところまで戻り、森の中に身を潜めた。
オトニエルとアスフは包囲から抜け出し、二人で深い森の中に身を潜めていた。オトニエルは肩に銃撃を浴び、アスフもかなり被弾していた。
「オトニエル、なぜ私を助けた? じきに死ぬこの老いぼれを」
「あなたが言ったことを信じます。ですが、シンアルの民はもはや王を必要としていないのです。彼ら自身が王を追放したのなら」
「確かに、もはや王にできることはない」アスフは血を吐きながら言った。「だが、責任はある。シンアルが侵略を始めたのも、王が失敗したからだと言える」
「…………」
「すまない。お前に向ける顔もない。今までの王たちの罪を、責任を果たしてくれ。剣山の民を率いて、シンアルを止めてくれ。何度でもいう。誰も望んでいない戦いなのだ」アスフはもはや視力を失っていた。
「止めればいいのですね?」
「ああ」
オトニエルはアスフを見つめた。
「分かりました。必ず」
オトニエルが言うと、アスフは安心したように目を閉じ、息を引き取った。オトニエルは森に穴を掘り、アスフをそっと下ろし、土をかけた。その上に石を乗せ、しばらく目を閉じた。
ノアを捕らえたシンアルの一団は、森の街の中央に着陸させた飛行機まで戻っていった。意識を失ったノアは厳重に拘束され、座席に乗せられた。すぐにエンジンがかかり、黒い飛行機は風を巻き上げて空の彼方へ飛び去っていった。
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