よぞらのほし
天瀬智
よぞらのほし
この作品は、『流星群の下であなたを見つけた』の続きになります。
未読の方は、そちらを読んでから本編を読んでいただけると、より一層お楽しみいただけると思います。
※
「はっ、はっ、はっ——」
薄暗い住宅街を走りながら、腕時計を確認する。
『20時50分』
あと10分。
ぎりぎり間に合う。
観光関係の仕事柄、どうしても土曜日や日曜日に仕事が入ってしまうため、休日出勤は当たり前となっている日々。
代休はあるが、特に今年は最悪だ。
まさか、今日——7月7日が日曜日になるなんて。
集客には絶好の日であることには間違いないが、私にとってはまさに多忙な日となってしまった。
それでも、まさに今からイベントが始まるこの時間に、早く退社することを許してくれた先輩には感謝だ。
「はぁ、はぁ……ま、間に合った……」
到着した建物を前に、私は一度立ち止まり、ぜぇぜぇと息を吐いては吸い込んだ。
走ったせいで汗ばんでしまったが、どちらにしても仕事をしていたから、今更だ。
「くんくん……」
とは言っても、今から恋人に会うのだから、匂いには気をつけたい。
肩に担いでいたカバンから、夏には欠かせない冷却スプレーを取り出す。
場所が場所なだけに、無香性だ。
シューっと体にかけると、ひんやりとした感触が全身を駆け巡る。
汗がひいたところで、私は前髪を指で梳くようにして整え、首の後ろでゆるく結んでいたロングヘアーを肩から胸の前へと持っていった。
「よし」
準備を整えたところで顔を上げると、店名が目に入った。
『よぞらのほし』
私の恋人が営んでいるカフェだ。
ドアを開けると、小さなベルの音が鳴った。
「あ、姫ちゃん」
店内に入ると、カウンターの向こうに立つエプロン姿の恋人が顔を上げる。
「ただいま、夜空」
「おかえりなさい」
にこりと微笑む夜空に、一日の疲れがすーっと体から抜け落ちていく。
「間に合ったんだね」
「走ってきたから」
「そうだったの? 水でも飲む?」
「キンキンに冷えたビールが飲みたい!」
「ごめんね。お店にはビールは置いてないから。お水でいい?」
「うん。お願い」
ビールがないことは分かっているので、私としては冗談で言ったつもりなのだけれど、夜空はほんわかとした雰囲気で律儀に応じてくれていた。
それが可愛くて、和んでしまう。
夜空がカウンターの向こうにある冷蔵庫を開ける。
「カーテン、閉めとくね」
「あ、お願い」
窓に設置されているシェードカーテンの紐を引っ張り、カーテンを下ろしていく。
「はい」
「ありがと」
受け取ったコップに入った水を一気に飲み干す。
「ぷはぁ~」
「もう一杯、飲む?」
自然な流れで私から空になったコップを受け取った夜空が、私の瞳を覗き込む。
「ううん。もう大丈夫。それよりも、夕食の準備手伝うよ」
「ありがと、姫ちゃん。でも、もう出来てるから、あとは盛りつけるだけだよ」
「うう~。本当ならもっと早くあがれるはずだったのにぃ~!」
「今日ばかりは仕方がないよ」
「分かってるけどさぁ」
「むしろ、仕事を早く切り上げさせてくれた先輩さんに感謝しなくちゃ」
「その代わり、朝の6時過ぎには出社してたけどね」
ハハ、と乾いた笑いを漏らす。
「ごめんね。私のわがままのせいで」
「わがまま上等。むしろ、甘えてくれて嬉しかったよ」
「姫ちゃん……うん」
申し訳なさそうにしていた夜空の顔が、ぱっと輝く。
「お待たせ~」
両手に平皿を持った夜空がテーブルに運んできたのは、パスタだった。
「冷製パスタだよ」
「おいしそ~!」
私はキッチンに入ってシンクで手を洗うと、ワインとワイングラスを用意した。
その間に夜空が、市内でパン屋を営んでいる師匠から学んでつくったバゲットを切っていく。
「う~ん、いい香り」
バゲットに鼻先を近づけ、小麦の香りを堪能する。
「もう、姫ちゃんったら」
腰を振って私をキッチンから追い出すような動きをする夜空に、私は両手に持ったワインとワイングラスを落とさないように気をつけながら、テーブルにそれらをセッティングしていった。
輪切りにしたバケットを並べた平皿を、夜空がテーブルの空いたスペースに置く。
「もうすぐ時間だね」
「私が火を点けるから、夜空は照明をお願い」
「うん」
私はカウンターに用意されていたチャッカマンを手に取ると、テーブルの中央に置かれていたキャンドルに火を灯した。
小さく顔を出す芯に、小さな火が灯る。
「いいよ」
私の合図に、夜空が掛け時計を見つめている。
秒針が11から12へと向かい、そして短針が9を示すと、
「えい」
謎の気合いを入れて夜空がスイッチを押すと、店内の照明が消えた。
「わぁ」
だけど、完全な暗闇にはならず、テーブルのまわりだけが、ほのかなオレンジ色に照らされていた。
「きれ~だね」
「本当に」
暗闇に紛れていた夜空がテーブルに近づくと、その姿がキャンドルの明かりで見えるようになった。
「それじゃあ、いただこうか」
「うん」
エプロンを外した夜空が席に着くのに合わせて、私も椅子に腰を下ろした。
キャンドルの火の明かりで浮かび上がる夜空の顔を見つめる。
夜空と、夜空が用意してくれた料理以外、何も目に映らない。
「ワイン、開けるね」
「うん」
『よぞらのほし』では、地元の『白山ワイナリー』のワインを提供している。
今日は冷製パスタだから、白ワインをチョイスした。
ボトルを傾けて見せると、夜空がグラスを差し出す。
そのグラスに白ワインを注ぎ、自分の分は自分で注ごうとすると、夜空がグラスをテーブルに置き、手を差し伸ばしてきた。
「いいよ、自分で注ぐから」
「だ~め。姫ちゃんのは、私が注いであげたいの」
仕方ないな、とボトルを夜空に渡し、代わりにグラスを手に取る。
「はい」
夜空に注いでもらったワインは、きっと自分で注いだものよりも、格別においしいだろう。
ボトルを端に置いたところで、私と夜空はワイングラスのステムを掴み、
「「乾杯」」
カラン、とグラスとグラスを軽く触れさせ合うようにして鳴らし、それから口に含んだ。
「はぁ~、おいしい」
「今日も一日、お疲れさまでした」
「うん、ありがと」
もうひと口飲んだところで、すぐに空になる。
「きっと今頃、みんな楽しんでるかな」
「そのために今日まで頑張ってきたんだから、楽しんでくれなきゃ困る」
「あはは、そうだね」
夜空が空になった私のグラスにワインを注いでくれる。
「今日のパスタは?」
「こちら、『アボカドとシーフードとトマトの冷製パスタ』になります」
カフェ『よぞらのそら』では、ランチタイムにパスタを提供するようにしている。
種類はひとつだけだが、日替わりであるため、それを楽しみに毎日通ってくれる常連さんもいる。
夜空がつくるパスタなら、私だって毎日通いたいくらいだ。
そんな時間ないから、私はお弁当なんだけどね。
「ああ、おいしそう。ってか、絶対においしい。食べる前から分かるから」
フォークを手に、パスタをいただく。
「うまい! 食べる前から分かってたけど、それの100倍おいしいよ」
「ありがと」
私の感涙するような声に、夜空がにこりと笑む。
「あ~、こんなにおいしいパスタなんだから、毎日食べたいよぉ~」
「市役所勤めだからね」
「夜空のつくったパスタが食べられないなら、辞めてやる」
「冗談でもそんなこと言っちゃヤだよ。せっかく観光の仕事ができるようになったんだから」
「あう、ごめん」
「ううん。そんな風に思ってくれるのは嬉しいから」
オレンジ色の明かりに照らされた夜空の表情が、嬉しそうに影をつくる。
「もう8年かぁ」
「早いね~」
「あっという間だった」
「まさか、姫ちゃんが市役所で働くなんてね」
「私自身が驚いてるよ」
「でも、嬉しかった」
夜空のためと言ったら、どんな顔をするだろうか。
「まぁ、私も星空には興味があったから」
「うん」
16年前、夜空の両親が亡くなった。
それから夜空は、両親が遺した言葉に縋るように、夜の星空を見上げ続けていた。
8年周期で訪れる流星群と一緒に迎えに来る両親を待つように。
私は、夜空が次の流星群の日に消えてしまうのではという不安から、ずっと隣にい続けた。
夜空の味方をしながら、夜空の願いを叶えてあげたいと思いながら、心の中では夜空がどこにもいかないよう、ずっと見張り続けていた。
そして8年後の流星群の日、夜空は流星群を追いかけるように走り出し、崖のような斜面に落ちかけた。
私も連れて行って——そう言いながら走る夜空に、私はタックルをかました。
夜空を連れて行かれてたまるかと思いながら。
そこで私は8年間の夜空への想いをぶちまけた。
その想いが通じて、夜空はずっと見上げていた星空から顔を下ろし、やっと私を見てくれるようになった。
勢いでそのまま夜空のことを好きだと言った私を、夜空は受け入れてくれた。
その日から、私と夜空は恋人同士になった。
高校では、その関係を隠し続けた。
卒業すると、夜空は祖父母が営んでいた『喫茶よぞら』で働くようになり、二十歳になった年に、夜空は店を任され、それに伴い改装、店名も『よぞらのほし』となったのだ。
一方の私は、夜空の影響で星空に興味を持ち、地元の福井県大野市が『星空保護区』に認定されていることもあり、そういったイベントが開かれていたため、そこに参加したり、逆にアルバイトとして働くようにして、コネをつくったりして、なんとか星空に関われるような仕事に就くことができた。
今では、なんやかんやあって、市の観光交流課で働いている。
今日も、7月7日に開催されるライトダウンのキャンペーンの実地のため、仕事に繰り出されていたのだ。
ライトダウン・キャンペーンとは、午後9時から10時までの1時間、地球温暖化対策のため、家の明かりなどを極力抑え、CO2削減に貢献するとともに、街の明かりを減らし、夜空を見上げる機会をつくるためのものだ。
それだけでなく、7月7日と言えば七夕で、しかも日曜日が重なったため、とにかくこの日のために色んなイベントを開催し、盛り上げに盛り上げた。
今頃、六呂師高原では、天体観測のイベントが行われているはずだ。
本来なら、私もその場でいなければならなかったが、前々から今日は絶対にライトダウン・キャンペーンが実地される午後9時までには帰る! と交渉していたため、その念押しが効いたのか、先輩がちゃんと帰れるように予定を組んでくれたのだ。
ここでシェードカーテンを下ろし、店内の照明を落としてキャンドルを灯したのも、そのキャンペーンに参加してのことだった。
もちろん、それに乗じてイイ雰囲気を作り出すためでもあるのだけれど。
「ごちそうさま」
「お粗末さまでした」
両手を合わせ、空になった皿やグラスを一緒にシンクへ持っていく。
テーブルにあるキャンドルは台座が持ち運びできるようになっており、それを天板まで運ぶ。
「私、洗っておくから。夜空は用意してくれる?」
「うん」
スポンジと洗剤を両手に持つ私の隣で、夜空がコーヒーメーカーに手を伸ばす。
お店で提供するのと同じ淹れ方でコーヒーを抽出しながら、デザートの用意をする。
その間に、私は洗いものを済ませた。
食後に、デザートのアイスとホットコーヒーをいただく。
地元の牧場から仕入れている牛乳からつくった特製アイスだ。
スプーンで丸くなるように掬い、それを皿に盛りつけ、星型のクッキーを添える。
「このアイスの冷たさと、あつ~いコーヒーの組み合わせが、なんだか贅沢してる気分になれるよね」
アイスを口に含み、冷たさと甘さを堪能しながら、その余韻が残っているうちに、ホットコーヒーを口に含む。
そうすると、じわ~っと口内が温められ、それと一緒に口内に残っているアイスの甘みが、ブラックコーヒーとマリアージュするのだ。
ああ、私も夜空とマリアージュしたい。
星空クッキーを手に取り、五つの尖った部分をひとつずつかじっていく。
「ふふ」
そんな私を見ていた夜空が、笑みを浮かべる。
「何?」
「姫ちゃんって、星空クッキー食べるとき、いつも端っこを食べてから、真ん中を食べるよね」
「べ、別にいいじゃない」
「うん。好きなように食べてくれていいんだよ。ただ、ちまちまと食べる様子が、可愛いなぁって思っただけだから」
「か、かわ――!」
私は可愛くなんてない。
いや、夜空のために可愛くあろうとは思っているけど。
夜空の方が何倍も可愛いので、釣り合うようにするのが大変だ。
「そろそろ上に行こっか」
「そうね」
「お皿とカップは、あとで洗おう」
「ええ」
10時まで、あと10分もない。
私は夜空に続くように、店内の一番奥にある階段をのぼった。
階段をのぼり、外に出ると、そこは屋上だった。
ここもカフェのひとつで、夜限定で要予約となっている。
ひとりでも、カップルでも、友達でも、家族でもいいが、予約は代表を通じておひとり様のみ。
天気予報で快晴となった日のみ開かれるため、予約をしてもその日に屋上に上がれるとは限らないのだ。
今日は快晴で、しかも七夕。
だけど、今日の予約はお断りしていた。
だって、今日は私が予約していたから。
転落防止とまわりの景色が視界に入らないよう、真っ黒な塀が設置された屋上。
こっちからまわりが見えないと同時に、まわりからも屋上の様子は見えないようになっている。
何もない屋上の真ん中に、クッションの効いた厚みのあるマットが敷いてある。
私と夜空は、そこに座り、靴を脱いだ。
一日じゅう走り回ってパンパンになっていた足が解放される。
マットに座ると、私と夜空はお互いに見つめ合った。
「いい?」
「うん」
お互いの右手と左手を繋ぎ合い、
「「せーの」」
掛け声で、同時に仰向けになった。
「わ、ぁ……」
「……」
思わず声が出るも、その圧倒的なまでのスケールに、すぐに言葉を失う。
夜空に至っては、すで惹き込まれていた。
でも、もう怖くはない。
ちゃんと手を握り合っているから。
夜空はここに、私の隣にいてくれている。
「きれいだね」
「うん」
余計な言葉はいらない。
ただ、目の前の光景を感じるだけでいい。
地上の明かりを消せば、夜空の星々が地上を照らしてくれる。
夜空が何色かと訊かれれば、黒と答えるのかもしれない。
だけど、これを見たら、もうそんなことは言えなくなる。
何色なんて答えれない。
だって、夜の空には、数えきれないほどの色が散りばめられているのだから。
それに今日は、7月7日。
はるか遠い夜空の向こうに見えるのは、天の川。
ミルキーウェイという名の通り、ぼんやりと白い川が夜の空を流れている。
「日本で天の川を見ることができるのは、3割くらいの人だけなんだって」
「そうなんだ」
「その3割に、私たち大野市の市民はみんな含まれてる」
「街中を歩いてても、見えるよね」
「うん。当たり前のように見てるけど、都会では見えないんだよ」
「そうだったんだ……」
「でも、その当たり前は、市だけじゃなくて、そこに住む人たちのおかげで成り立ってるものだから……」
「みんなで、この光景を守ってるんだね」
「私は、この当たり前を、これからも守っていきたい」
「うん」
「夜空のことも」
「うん」
「大好きだよ、夜空」
「私も。姫ちゃんのことが、大好き」
体を横にして、お互いを見つめ合う。
「私を見てくれて、ありがとう、夜空」
「私を見ていてくれて、ありがとう、姫ちゃん」
顔を近づけ、唇を触れ合わせる。
この感触が、繋いだ手が、伝わる熱が、吐息が——夜空がここにいることを確かに感じさせてくれる。
夜空に瞬く星々。
だけど、私が見つけた星は、いま、目の前で、この地上で、私の隣にいてくれているのだった。
よぞらのほし 天瀬智 @tomoamase
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