佐藤征爾 生徒の笑顔のため

 性格柄、規制するとき以外に家族とあまり口を利かない私は、生まれて初めて経験する社会人がどのようなものか家族にまるで話していなかった。私が、生徒ではなく教師ともめ事を起こしたと聞いたら、母はきっと卒倒してしまうだろう。厳格な父は、大人げなく私を殴り飛ばすだろうか。「生徒を守るためのお前が、それをできなくてどうする」と、叱る姿が瞼の裏に浮かんだ。本当に、私は何をしているのだろう。

 この一週間を少しでも有意義なものにするため、私は重い腰を上げて帰省することを決意した。もちろん、帰省するからには今回のことを説明しないわけにはいかなかったが、頼れる存在のなくなってしまった私が唯一心穏やかでいられるのは、もはやこの空間しかないように思えた。

 すがるような思いで、実家に電話をかけた。まだ、古ぼけた黒電話を使っているのだろうか。そんなことを考えていると、受話器が取り上げられ懐かしい声が聞こえてきた。

『はい、もしもし、佐藤ですけれども』

 電話に出たのは、母だった。母の柔らかい声が鼓膜を揺らし、そのなつかしさに思わずこみあげてくるものがあった。どうして私は、大学時代逃げるように実家を出てまで他県の大学に進学しようとしたのか。電話の一つもよこさなかったのか。

「もしもし、俺、征爾だけど」

 母は、電話越しにはっと息遣いをした。突然息子が電話をかけてきたことに、余程驚いているらしかった。

「ごめん、急に電話なんかかけて、もし出なかったら、明日また掛けなおそうと思ってたところだけど」

『いいのよ、お父さんもまだ起きてるけど、変わろうか?』

「いや、いいよ。母さんで大丈夫」

『そう、でもどうして急に、電話しようと思ったの?』

 やはり聞かれるであろう質問に、先ほどまで固まっていた決意が崩れそうになった。ははや父に心配をかけないために、ここはとっさの嘘で切り抜けるべきか。それとも、本当のことを言うべきか。決断一つで結果が決まってしまうというプレッシャーが、私の全身に重くのしかかる。

「実はさ……」


『そう、そんなことがあったのね、征爾は昔から優しかったから、仕方ないよ。でも、生徒を守ったっていう行動は、絶対間違ってない』

 母は、ことあるごとに絶対という言葉を口にした。半ば口癖のようなものだったが、私はその絶対という言葉に何度も救われてきた。みんないう正しいの方向性がばらばらでも、母の言う絶対正しいという言葉は信用することができた。暗示のように唱えられる言葉を久しぶりに聞くことができ、私の心は以前より安らいでいた。

 結局、私はうそをつかず起こったことをありのまま伝えることを選んだ。両親に迷惑をかけたくないということよりも、両親に誠実でいたいということを選んだ末だ。幸い、母は卒倒することはなかったけれど、かなり慌てた様子ですぐに父に伝えに走った。

『征爾、確かに、お前のしたことは間違っちょらん』

 父も、母と同じことを口にした。息子だからではなく、私のしたことははたから見てもやはり正しかったのだ。私は、私の正義を誇りに思った。

『ただ、生徒の前で先生と衝突したらあかん。お前の頭の良さで、それがわからないはずはなかろ?』

「でも父さん、あの時は生徒の一人が体育教師に手を上げられた後だったんだ。それでついカッとなって……」

『そうか……。お前は心優しいから、よほどのことがない限り生徒の前で危険なことはしないと思っていたけど、そういうことなら、あの体育教師が全面的に悪い。お前の正義は間違っちゃおらん』

 そういわれて、腹の底がぼうっと熱くなるのを感じた。私は、両親に頼ってやはり正解だと思った。

『帰省するなら、いつでも待っちょるけ、どうせ年末も仕事がーとか抜かしおるんやろ』

「まぁね、夢にまで見た先生で、今年からクラスを持たせてもらえることになったんだ。それも、副担任だぜ。来年こそは担任になってみせるよ」

『そりゃあ、楽しみだな。また、帰ってきたら話そう。おいしい寿司と酒を用意して待っとるよ』

 五分ほどの短い電話だったが、久しぶりに触れる家族の温かさに、胸が締め付けられる思いがした。このタイミングで謹慎を告げられたことも、捉えようによってはマイナスばかりではないと私は思った。私はスーツケースに私服を詰めながら、そんなことを考えていた。


 私が生まれ育った地には、電車で帰ることにした。飛行機で二時間で帰るという手はあったが、せっかくの連休だからと鈍行列車でのんびりと帰ることにしたのだ。若いころはできなかったことが、社会人になってある程度のたくわえができ始めると幾分かハードルの下がるものがあった。鈍行で帰ることは、結果的に飛行機より高くついてしまったが、金額よりも心の安らぎを優先した。

 最寄りでは通勤通学のために締め付けられるほどごったがえしていた人も、一時間後にはただの空き箱のようにがらりとしていた。私は文庫本を取り出し、乗り継ぎの駅まで読書の世界にふけることにした。

 読んでいる小説は、とある高校の科学部員が、アルコールを人工的に合成し、パーティーをしようとする話だった。高校生が飲酒することも、アルコールを人工的に作り出すことも犯罪行為だったが、若いが故の後先考えない言動が、私の失われたわくわく感を適度に呼び起こさせてくれる本だった。

 タイトルの『奇跡を起こす薬』にも惹かれるものがあった。電車に揺られながらする読書はとてもはかどった。

 時間があれば、いつもこうしていた気がする。趣味もろくになかった私がしていたこととすれば、勉強か、あるいは読書だった。読書から得られることは多く、そのどれもが私の狭い世界を内側から押し広げてくれるものだった。

 ふと私は思いついてスマホである単語を検索した。

 ドーピング……。もしや、そう思ったときに電撃の走るような思いが私の頭を駆け巡った。

 あの時の青く燃えるような殺意は、春藤の生命活動を完全に停止しようという決意そのものだった。しかし、今私の中にあるのは、殺人なんてやわな方法ではない。むしろそれよりも残虐非道な行為により、殺さずして春藤の人としての尊厳を完全に失わせる事足りうるのではないか。

 しかし、私にはその手の知識がまるでなかった。うまくいくという保証もない。もし失敗すれば、春藤は学校にのさばり、私の正義は否定され牢獄で一生を終えるかもしれなかった。

 それを回避するには。春藤を貶めるための準備と知識を、十分に身に着ける必要があった。幼いころから勉強だけは得意だった。私の確固たる正義と知恵をもってすれば、春藤一人を消すことなど簡単なことのように思えた。

 突如湧き上がる尿意に体が震えた。私は顔を掌で覆い、その場にうずくまる。幸い人の眼はなく、私はこの空間で自由でいられた。心臓が全身の血液を送り出すためにバクバクと鳴り、途端に全身が熱くなった。自慰をする興奮にも勝る感情の高鳴りが、私の股間を熱くさせた。実現可能性の低い思い付きと、それを可能にする知性。春藤を『排除』する計画が、蜘蛛の巣のように膨らんでいった。


 実家に到着して間もなく、母親に呼ばれた私は台所向かった。母は、「少しくらい、料理できるようになったか」と私に向かって呟いた。私は、「まあまあ」と答えた。

 味噌汁を作っている間、私たちの間に会話はなかったが、そこには朗らかな空気が流れていた。会話などせずとも、伝わるいろはがあった。

「できたよ」

 私は、母の背に語り掛けた。「ありがとうね、部屋、戻って結構」と背中越しに言われた私は、部屋に戻ることにした。

 二回に上がる階段がきしむたびに、この音すら懐かしく感じた。十八年間住んだ我が家は、今でも目をつむっても生活ができるほどだった。

 ふすまを開けると、私が大学を卒業して一度帰ってきたきり、そのままとなっていた。しかし部屋に誇りは一つもなく、私がいつでも帰ってこられるような状態にしてくれたのには感謝せざるを得なかった。

 勉強机の中には、当時使用していた教科書たちが褐色に変色しながらもそこにたたずんでいた。そのどれもが、私の帰りを待っているようだった。

 目的の教科書は、ようやく見つかった。現代有機化学。私が大学を卒業して、封印した教科書の中でもひときわ目を引く、赤と青の上下巻の教科書。生物学科の私は大学一年生の時に買ったきり、開くことなく卒業した。使わない教科書に一万五千円も支払ったことに苦笑しながらも、その教科書を開いた。折れ線とアルファベットが目いっぱいに入り込んできて、蕁麻疹が出そうだった。しかしそんな弱音も吐いてられるほどの暇はなかった。ここに、春藤を排除する設計図があるのだ。春藤を排除する奇跡の薬、ドーピング薬を合成することができれば、奴を殺さずして抹消することができるのだ。ここまで来ておいて今更苦手などと、言っていられるものか……。私は決意を新たに、日夜その教科書を読みふけった。

 ドーピング薬と言っても、アドレナリンのような強心薬から、エリスロポエチンのような造血薬など作用も構造も様々で、優に百種類を越えるドーピング薬が存在するらしかった。この中に、科学から逃避した私なんかが合成できるような物質は存在し得るのだろうか。

 私は、サイトに書かれているドーピング薬の名前を一つ一つ、調べては構造式をノートにメモしていった。そのうち、炭素の骨格が似ているものを複数見つけ、それらがすべてコレステロールと同じような構造をしていることが分かった。しかし、こんな複雑な構造を私が合成できるはずもあるまい。候補はまだ七十ほど残っているし、その中の一つ、たった一つでも合成可能な構造さえあれば、私の点のような計画は線となる。候補が減るたびに、唇が乾燥し、多量の水を求めた。手は次第に震えだし、計画をここで断念する私の姿が幾度となく浮かんだ。

 頼む……、どうか一つでもいい。

 ジャンルが興奮薬のページに移った時、私でも知っている名前がちらほらとうかがえた。アドレナリン、コカイン。ドーピングのみならず、禁止薬物としても知られるそれらは、選手生命を失うだけでは足りないほどの代償を背負うことになりそうだ。薬物に手を染めて人生を棒に振った仲間が身近にいたわけではなかったが、軽く身震いした。

【アンフェタミン】という化合物の構造を検索したとき、私は思わず声を上げた。

 ベンゼンにプロピル基をくっつけた構造の2位に、アミノ基をつけただけの簡単な構造であることが分かったのだ。

 これより簡単な構造はないか、そう考えた私はその化合物の合成方法を模索する前に残りの候補を調べることにした。

 手の震えがひどく、キーボードを打つ手はまるで言うことを聞かず、暴れる右手を左手で抑えながら、右手一本で操作した。

 残りの候補を調べたが、やはり【アンフェタミン】という構造よりも簡単な薬物は存在しないようだった。

 有機化学を足し引きで考えるなら、理論上ベンゼンとプロパンとアンモニアさえあればこの手の合成は完結できそうなものだが、門外漢の私でもその反応が起こりえないことは容易に想像ができた。そんな反応があれば、百年も前からマフィアの専属科学者が暴利を築いているはずである。

 この化合物を合成する方法を見つけることができれば、私は春藤を排除することができる。私の計画は、夢物語などではなかったんだ……!

 まずは、アンフェタミンの性質を知る必要がある。病院や通販で購入できるものなら、そうしたい。

 私はアンフェタミンをパソコンに入力した。先ほどとは違い、多少腕の震えは収まっていた。

【アンフェタミン】は、中枢神経を興奮させる作用を持ち、注意欠陥/多動性障害、通称ADHDや、ナルコレプシー(場所や状況を問わず抗いがたい眠気に襲われる病気)に対して適応があるようだった。しかし、強い精神依存性、薬剤耐性(ほかの薬が効きにくくなること)があり、この薬剤は麻薬取締法において規制をされている。

【アンフェタミン】は、覚せい剤だった。

 私はこの時、もうすでに取り返しのつかないぎりぎりのところ歩いていたのかもしれなかった。春藤を追放するための奇跡の薬が、まさかごくありふれた覚せい剤だったなんて。

 私は当初、春藤がドーピングによりレスリングの大会の出場禁止をくらい、生徒から好奇の目にさらされればいいくらいにしか思っていなかった。これで少しは、学校で肩身の狭い思いをしてくれるだろうと。

 しかし、今私のしていることは、明確に春藤のこれからの人生を刈り取る行為に違いなかった。オーバーキルでは済まない。ニュースになり、春藤は?春藤の妻は?春藤の親族は?私の計画は、もはや一人の人生をいとも簡単に破滅へと導いてしまう恐ろしさを秘めていたのだった。

(私が、春藤の人生を終わらせる……。その覚悟が、私にはあるだろうか)

(もし春藤が、謹慎を機に考えを改めてくれたら……。私だって、ここまでする必要はないかもしれない)

 自分を甘やかす言葉が二度、頭の中に浮かんだ。私が逃げれば、春藤やその関係者は後ろ指をさされることなく人生を終えることができるだろうが。

 私のクラスメイトは?学校の先生は?消えかかっていた復讐の炎は、糊付けされたように固まったまま涙を流し続けていたクラスメイトを思い出し、じりじりと再燃を始めた。もう一度、青い炎になってくれ。その炎で、私の復讐を後押ししてくれ。生徒を、もう一度守らせてくれ。


 私はパソコンを強引に閉じ、教科書を開いた。

 生半可な気持ちでは復讐などできるはずが無い。生徒たちを助けると決まったら、教師に引くという選択肢など用意してはならないのだ。ほかでもない私自身が。

 生徒の笑顔のために、私は春藤の人生を強制終了させる。そのためにも、奇跡を起こす薬の合成法をこの一週間で見つけ出さなければならなかった。

 下から、階段を上るきしんだ音が聞こえた。

 私の懐かしんだその音は、もう二度と私の耳に届くことはなかった。


第四話 『立花麻里 人気者になりたい!』 

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人気者になれる道具、奇跡を起こす薬 福留渉 @one_nobels

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