佐藤征爾 自分の正義を疑う

 私が生徒から好かれていると気づいたのは私が25歳、初めてクラスを持った時だった。

 私が初めて赴任した学校で、二年目に副担任に就かせてもらった。当時の担任は、体育教師でスーツもろくに着ない、年中ジャージ姿の「春藤一」という男で、彼は叱る、生徒を征服させることが上に立つ教師の務めであり、見せるべき背中だと思っている男だった。

 男は、この令和の時代に、たびたび生徒に手を挙げることがあり、学校では話題に事欠かない男だった。自分よりも20センチは大きいその巨躯に、面と向かって「よくない」といえる人は、先生の間では誰一人おらず、また、春藤に目をつけられれば生徒も先生も例外なく居場所がなくなるという現状だった。副担任である私は、何かと春藤と会話をすることがあるのだが、口癖のように「最近の若い奴は」とか「運動が足りちょらん」としわがれた声で言った。私は、その声を聞くだけで震え上がるように躾けられた。春藤から直接手を下されたわけではなかったが、春藤に目をつけられた生徒や先生を目にし、本能が「こいつには逆らえない」と学習した。唯一、校長や教頭が春藤を叱責するのだが、私が見上げるほどの岩のような男を、校長は太陽でも見るかのように首を反らし、目を細めてなるべく視界に入れないように、蚊の鳴く声で諭すのだった。

 どうかこれで少しはおとなしくなってくれ……。私はすがるような思いで校長の声に祈りを込めた。誰もが、そうしただろう。そうでなければ、あんな軌跡が起きるはずが無い。

 私が中学、高校性の時は教育環境が整っておらず、暴力、折檻は黙認は日常的に行われ、そして黙認されていた。春藤が「今の若いものは」と苦言を呈する気持ちは、7年たった今なら多少思うことはある。だがそれを口にしてしまえば、途端に私をよりどころにする生徒は居場所を失ってしまうことを知っていたので、何とか口をつぐんで声に出ることを我慢した。

 自分のいけ好かない生徒が春藤の餌食になっているとき、思わず口角が上がることもあった。好印象の生徒が叱責されていると、先生失格だと、自分を恨んだことも。

 そんな劣悪な環境に身を置き続けた私が、生徒を守るべき対象と認識するのは当たり前のことだった。春藤の悪事を目の当たりにし、それを黙認してきた回数は、ほかの先生や生徒に比べて、多かった。私が春藤を野放しにして暴力をふるう度、頭の中で春藤にこぶしを振るう自らの姿を想像した。春藤のあごの骨を砕き、小刻みに痙攣しながらしたたかに背中を地面に打ち付けるその姿を。

 私に力があれば。親指の爪を人差し指に立てると、赤い汁が木目調の床に滴った。それを心配した生徒が私に声をかけ、雑音の混じった教室に気づいた春藤がこちらを振り向く。生徒は短く声を上げ、その出来事をなかったことにしようとしたが、生徒の生み出した一瞬の歪みが、春藤の理性を取り戻させることに成功し、窓ガラスを揺らすほどの怒号は約15分続いたのちにようやく収まった。

 私は、声をかけてくれた女学生と一緒に医務室へ行き、保健教師に応急の治療を受けた。この小手先だけの治療も、「早く戻って一刻も早く春藤を止めてくれ」というメッセージなのかもしれなかった。私だって、そう何度思ったことか。しかし、私と女学生が教室を抜けている間にも、本能のままに生徒をむさぼる悪漢の姿を想像すると、何ができるわけでもないのに保健室から足を動かさずにはいられなかった。

 身の安全を案じた女学生が私の手を取って、首をぶんぶんと振った。言葉にせずとも、行くなと、そう言っているのが伝わってきた。

 けれども、逃げ続けた私が、ここで教室にいる生徒よりも安全なところで隠れていると生徒に知られたら……。

 私の腕を囲むように取る女学生の手をそっと解くと、私は彼女に微笑みかけた。

 保健教師を一瞥し教室を出ると、私の教室からもっとも離れた保健教室は、聖域のように静まり返っていることに気づいた。

 後ろから足音がし、先ほどの女学とも私の後をついてきた。その眼には決意がこもり、赤くうるんでいた。自分だけ逃げるわけにはいかないという風だった。

 私たちは、廊下を駆けながら自分たちの教室へと戻っていった。


 どうか何も起こらずにいてくれ、その願いだけでも叶えてほしいと神に祈るような気持ちで教室へと急ぐ。放課後の廊下は生徒たちがたむろしており、春藤の罵声もかき消されてしまうほどだった。真偽を確かめるためには、一刻を争う現場に向かわなければ確かめることができない。生徒をかき分け、喧騒の中を二人して進んだ。女学との息遣いだけがつぶさに聞こえ、かくいう私も高鳴る心臓が今にも張り裂けようとしていた。

 階段を上り、あと十メートルで教室へ到着しようとしたその時、ドアを揺らすような衝撃が三階一帯を包んだ。

 遅かった。私は間に合わなかった。

 春藤は、再び怒りに身を任せて暴虐の限りを尽くしていた。野次馬である生徒たちも顔を青くしたまま立ち尽くしており、対照的に激昂する春藤の顔は赤黒く光沢していた。坊主頭は汗でにじみ、ところどころ欠陥が浮かび上がっている。

 自分の後ろに隠れている女学生は腰を抜かし、自らの肩を抱きかかえて震えている。

 私は、背をしたたかに打ち付けられたであろう生徒を見ながら、なぜかとても冷静にその状況を整理していた。

 逃げようものならお前も殺す、春藤の放つ怒気は殺意すらまとっており、誰一人として椅子から尻を話そうとする者はいなかった。

 私は、逃げない。保健室を後にした私は、春藤を止める覚悟でここへ来たのではないか。

 ゆっくりと時が進むような感覚があった。轟音を聞いてから、どれほど時間が経過したのかはわからない。ただ、春藤をこの場で抹殺するという覚悟が決まったのは、つい今しがたのことであった。

 私は手当てを受けた左手を固く結び、教室に入った。まるで春藤のために用意されたリングに足を踏み入れるような感覚だった。私の殺意を、体育教師のお前が察知しないはずもない。

 戦いのゴングが鳴れば、私と春藤は突如として激突することになる。春藤は肩で息をしながら、標的を私へと切り替えた。

 据わった目が私を射抜くように見つめている。春藤の眼にも、明確な殺意が私を威圧する。緊張から手先が冷え、しびれるような恐怖が全身を駆け巡った。

 その恐怖を逃すように、首に巻いたネクタイを緩めた。春藤の眼が見開かれ、いよいよ戦闘態勢に移った。レスリング特有の、腰を低くした姿勢で私をにらみ、襲い掛かって一瞬で私の心も体もへし折ろうとする決意が読み取れた。

「先生!」

 女学生の甲高い声が、多胎のゴングのように聞こえた。私と春藤は、その音を合図にお互いに向かって駆けだした。

 スタートはほぼ互角だった。走ったから距離から一瞬にしてトップスピードに達した私は、運動量をピンのようにそびえ立つ春藤に襲い掛かった。

「やめろ!」

 私は、どれだけ力を加えても動かすことのできない山のような男に腕を回して、そう叫んだ。顔を向けた先に、生徒の顔が見える。女学生の何人かは頬を伝う涙をぬぐおうともせず、ただ私と春藤の決闘の行く末を見ていた。

「な、なにしやがる……」

 叫びすぎて枯れた声が、春藤の威圧感を増幅させる。しかし、頭に血が上った私には一切その声は入ってこなかった。

 決闘は拮抗したように思えたが、それは春藤が失った戦意を取り戻すのに時間を取られていただけに過ぎなかった。徐々に私が後ろに押し返されるようになり、形勢はいとも簡単にひっくり返った。

 私の足は地面との抵抗を徐々に弱め、次の瞬間宙を浮いているような感覚が私を包んだ。この男に持ち上げられ、ずんずんとリングの橋に追いやられる。春藤は何かを叫んでいたが、やはり私の耳には何も届かない。私が対峙することで恐怖から解放された生徒たちは、徐々に私を応援する歓声を上げ始めていたのだ。

 しかし、その応援もむなしく私の体は放り出された。教室の壁に体を打ち付け、首が鞭のようにしなる。同時に頭もぶつけ、視界がざわめいた。

 暗転する視界のなか、女学生の悲鳴だけが脳内をこだましていた。


 目が覚めると、冷房の効いた涼しい部屋に私はいた。誰が私を運んだのか、あとで礼を言いに行く必要があった。どのくらい気を失っていたのか、あたりは蛍光灯の淡い光に照らされるだけで、窓の外は深い闇が広がっていた。

 うなり声をあげながら体を起こすと、すぐ横で女学生が座りながら船をこいでいるのを見つけた。彼女が運んだとは到底思えない。おそらく、看病するとか言って下校時間を過ぎても私が目覚めるのを見届けようとしてくれたのだろう。その彼女の献身さに、私は目頭が熱くなった。女学生の頬にもどこにも痣や創傷が見当たらないことから、春藤は彼女には手を挙げなかったことが分かった。それだけで、私の心は幾分軽くなった。

 私は、か細い寝息を立てる彼女の肩を数回ゆすった。おもむろに目を開ける彼女の眼は虚ろで、夢と現実の区別がつかないでいるようだった。しかし、彼女は私が目を覚ましたのに気づくと、途端に泣き出したのだった。余程、私のことを心配してくれていたらしい。私は、彼女の背中をさすりながら泣き止むのを待った。

 しゃくりあげながらしきりに目をこする彼女は、何を言っているのかわからなかったがとぎれとぎれに私の名前を叫んでいた。彼女には、過酷な選択を覚悟を強いたと後悔した。

「大丈夫、先生無事だから」

 私は、そう言って彼女を励ました。肩の震えも徐々に落ち着き、私はベッドのわきに備え付けてあったティッシュを数枚手渡した。

 洟をかみ、続いて涙を拭いた彼女と、ようやく目が合った。赤く充血していて、けれどもルビーのように輝いてい見えた。とてもきれいだった。

「佐藤先生、私、本当に目が覚めないのかと……」

「ごめんね、横山さんには、心配かけたね。二回も保健室に連れてくることになってしまった」

「いえ、私のことはいいんです」

 そういって、恐怖を思い出したかのようにその瞳がまたうるんだ。私は、箱ティッシュごと彼女に差し出した。

「ありがとうございます。佐藤先生、体はもう無事なんですか?」

 彼女は、私の体のことを訊いてきた。余程、私の安否が心配らしかった。

「ああ、おかげさまで。打ち所がよかったのかな。けど」

 首を思うように回すことができない。強い力が首にかかったのだろう。刺すような痛みが、首全体にほどばしる。

「ちゃんと、病院に行ってください。保健室の先生も心配していました。先に帰ってしまいましたけど、サッカー部のみんなが先生を担いでここまで運んできてくれたんです。先生、あれから四時間も眠っていたんですよ」

 時計を確認すると、確かにあれから四時間以上が経過していた。

「そうだったんだ。本当に、心配かけたね。わざわざ、先生が起きるまでそばにいてくれたなんて」

 そういって、私は彼女の頭をゆっくりと撫でた。彼女の髪は絹のようにさらさらとしていて、悠久の時を過ごせるほどにこの時間が幸福に感じられた。

 手を放そうとすると、不意に彼女にそれを阻まれた。私の腕は、彼女の小さな手につかまれて、行く末を失った。

 私の手は、それから彼女が満足するまで頭の上を往復し続けた。

「ここへ、校長先生が一度来ました。『お大事にしてくれと伝えておいてくれ』って。あと、帰ったら何時でもいいから、電話をよこすようにと」

 校長の電話番号を、赴任した当時に教えてもらったが、それに電話をかけることは一生来ないだろうと思っていた。もしかけることがあれば、私がここで仕事を辞めるときだろうと思っていた。もしかしたら、電話越しに私が仕事を辞めることを説得するかもしれない。そんな、嫌な創造ばかりが膨らんでゆくのを止められなかった。

「先生、顔色が悪いですよ」

 女学生が、私の顔色を窺いそう尋ねた。やはり、思い込みが顔に出ていた。彼女にこれ以上心配をかけるわけにはいかない。

 ここからは、私一人で戦う時間だ。彼女を巻き込むのは申し訳ないと思った。

「先生なら大丈夫。それより、これ以上ここに長居してしまっては、親御さんに心配をかけてしまう。横山さんだけでも、先に帰りなさい」

「でも……」

 彼女は、私の親切を固辞した。これ以上私と一緒にいては、彼女が春藤の標的にならないとも限らない。その恐怖から彼女を遠ざけようとするが、私の善意が彼女を傷つけてしまうことが怖かった。

「なら、先生が送っていこう。親御さんには、私の口から話すから」

 彼女の顔色が、幾分明るくなったように感じた。親に殴られる覚悟を、うきうきする彼女の傍らでしていた。


 思いのほか親御さんの反応は明るく、しかも気を遣って接してくれた。春藤の悪行は生徒先生の間のみならず、保護者の間でも話題になっているようだった。そのことから、私のことを、『娘を不純なことに貶めようとする教師』だとは思わないようだった。

 手を振る彼女に背を向けて、私は駐車場に停めた車に戻った。

 リングに立った時の高揚感とは真逆の静寂が、私を包み込んだ。私はやるべきことが残されている。校長先生から、なんといわれるのか、気が気ではなかった。

 携帯電話を取り出し、校長の電話番号を思い出しながら入力した。何かの手違いで電話がかからず、電話を明日に回すことができないだろうか。明日になれば、電話する憂鬱さも少しは軽減すると思うのだが……。

 三コール目で、受話器が持ち上がるスマホ越しに聞こえてきた。

『もしもし』

 聞きなれた声が、スマホ越しに聞こえていた。

「もしもし、佐藤征爾ですけども。夜分遅くに申し訳ありません」

『ああ、佐藤先生。わざわざこんな遅くにどうもありがとう』

「それで、お話というのは……」

 私は、恐る恐る校長の言葉を待った。もし、この場でやめろと言われたら、私は何のためらいもなくはいと答えるだろう。

『今日のことは、本当にすまなかった。生徒を身を挺して守ってくれたこと、感謝します。春藤先生には、三週間の謹慎を言い渡しました。さすがに、私の独断だけでは彼を辞めさせることはできない。佐藤先生や生徒の恐怖からしたら気休めでしかないかもしれない。けど、子の謹慎期間中に春藤先生に代わってくれることを祈るしかない』

「しかし校長先生、奴はまた生徒に手を上げます。今のうちに手を打たなければ、最悪学校から不登校者や自殺者まで……」

『佐藤先生、それは、生徒を見限りすぎですよ。私からも、生徒たちのケアに努めます』

 校長の生半可な決断に、私は納得がいかないかった。春藤に三週間の謹慎?奴がそれだけで丸くなるとは到底思えなかった。

『それと佐藤先生、佐藤先生にも一週間の謹慎を命じます。これは、教頭先生と学年主任の高山先生と話し合って決めましたので、この判断が揺らぐことはありません。佐藤先生も深手を負っているでしょうから、この謹慎期間はどうか体をおやすめください』

 私は、校長がそっけない口調でそういうのを聞いて、耳を疑った。どうして私が謹慎しなければいけないのだ?脳みそを埋め尽くすほど浮かび上がるクエスチョンマークを押さえつけることができずその疑問は口をついて出ていた。

「校長先生、どうして私まで謹慎なのですか。私の体はもう大丈夫ですから、お願いですから生徒たちに接させてください」

『ですがこれは、学年会で決まったことですから……。私らとしても、後始末に苦心しておりましてですね。担任と副担任が衝突して生徒たちが恐怖しているという話を、そう有耶無耶にするわけにもいかんのですよ』

「私なら、私なら生徒たちの心を救うことができますから。第一、生徒たちを身を挺して助けたと、ほかでもない校長先生がそう口にしてくれたじゃないですか」

『そうですが……、もうこれに関しては、決定したことですから今更変えるわけには』

 これ以上の反論は無意味なように思えた。校長は、もう決まったことだからという姿勢を変えることはないだろうと思った。

 私は、先ほどまで信じていた校長への信用を一瞬にして失った。私は、もうこの男を信じることができなくなっていた。私の見方は、生徒だけだというのに。生徒すらこの男に奪われてしまったら。生徒を春藤に傷つけられてしまったら。

 私は、もうこの社会で誰のことも信じることができなくなっていた。私は、誰の力を信じてこれから動けばよいのか。頼られる側の私は、誰かに頼るという手段をこの男によって断たれてしまった。

『佐藤先生、佐藤先生?』

 電話越しに私を呼ぶ声が何度も聞こえてきたが、だらりとおろした手に握られたスマホを耳元に近づける気力はもう残されていなかった。

 しばらくして、受話器がおろされるガチャリという音が聞こえ、電話は一方的に切られた。校長とはしばらく口を利くこともないし、この非礼も一週間後には忘れられていて、口から出る言葉は「生徒たちはみんな、佐藤先生が戻ってくるのを心待ちにしておられましたよ」と罪悪感もなく口にするのだろう。

 私だって、生徒たちと毎日接することができるありふれた日常を心待ちにしているに決まっている。生徒から、私からその機会を奪ったのはほかでもないお前ではないか!指をさして、その禿面を罵倒してやりたくなった。

 それも、一週間というあいまいな機関がそれを行動に移すことをためらわせていた。

「俺は、どうしたらいい」

 静寂に包まれた車内で、私は何かにすがるようにそう呟いた。


第三話 『佐藤征爾 悪知恵で悪を成敗する』

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