人気者になれる道具、奇跡を起こす薬

福留渉

立花麻里 日常が面白くなる

 いつもだ。私を取り巻くのは男の野太い声でもなく、黄色い嬌声でもなかった。ピロンという軽快な通知音か、私への無関心だけだ。日々を机とにらめっこして寝たふりをするか、首が折れるんじゃないかと勘違いするほどに曲げて、机の下でゲームなり漫画なりを読むことで消化していた。私にとって学校という空間は、『退屈』そのもので、ゲームや漫画は『退屈をしのぐため』の道具に過ぎなかった。ソシャゲのキャラクターのユリア様が強くなって、私に「ありがとう、強くしてくれて」と声かけるたびに、私の心臓はキュッと音を立てて息が苦しくなった。

 いいなぁユリア様は。

 ゲームの中のユリア様は、自分の意志で、自分の力で強くなっていると信じで疑わないのだろうけれど、本当は違うことにつゆも気づいていない。本当は、自分よりも下等な生き物に操られるようにして、何回も傷を負わされて、何回も絶命させられて、何回も境地を乗り越えさせられている。それも嫌な顔一つせずに、何がありがとうだ。私は、自分の行いを恥じた。

 教室に、4限の終業を告げるチャイムが鳴り響いた。先生はキリの良いところまで進めようと、授業中よりもやや駆けて早口だった。徐々にその声が、喧騒でかき消されてゆく。弁当を取り出す者、前後左右の生徒としゃべりだす者、財布を片手に教室を出てゆく者など、様々だった。先生はついに話すことをやめ、まるで生徒が原因であるかのように「あーもう」と言って教科書類の角を揃え静かに退室した。私の所属する教室は、これがいつもの光景だった。

 かくいう私も、学校ではノートを広げてからは一切授業を聞いていないので、寝ている生徒と同価値の存在か、それ以下だったが。

 お昼休みになれば、いつも食べる子が今日も私の机の前にやってきた。

「あさりちゃん、一緒にたべよぉ」

 私のことを「あさりちゃん」という彼女は、クラスでもハブられている「かきちゃん」だ。私とかきちゃんは、高校二年生の時に同じクラスになり、磁石のように吸い寄せられていくのは必然だった。

 私も、高校一年生でクラスから居場所を失った。失ったもの同士が引合うのは、あたりまえだ。

「あさりちゃんはさ、彼氏いないの?」

 かきちゃんは、私にそんなことを聞いたことがあった。女子高生なんだから、そんな話題の一つや二つ持ち合わせていても何ら不思議ではないのだろうけれど、心の中ではそう思っているけれど。かきちゃんがしきりに私とその話をしたがることが不思議でならなかった。クラスでハブられている私とかきちゃんが、一般生徒が交わす崇高な会話をしていいはずがないと考えているからだ。私たちは、コイバナに興じる時間をクラスになじむための計画思考に充てる必要があるし、クラスメイトのことをより深く、自分たちとの共通点をより多く見つけるために話しかけに行くべきなのだ。

 かきちゃんがしている会話は、私たちがもっと女子高生をしてからすべき会話なんだ……。私は、かきちゃんが見栄を張っているようにしか見えなかった。

 だけど、かきちゃんが私の恋人の有無について話すとき、自分が気になっている異性のことを話すときの笑顔を見たら、その顔をゆがめたくなくて、「私たちがそんな話しちゃだめだよ」とはなかなか言い出せなかった。私も、たった一人の友達を失いたくはなかった。

「私は、いないよ。恋愛とかあんましよくわかんないし」

 決まって、そういう。かきちゃんはそろそろ新しい返事を聞きたがっているだろうけれど、私はこの話を書きちゃんとこれ以上続けたくない。かきちゃんのことを真っ向から否定しない代わりに、私ができる精一杯の反逆だった。

「そっかぁ、でもあさりちゃんは可愛いし、そのメガネをコンタクトにしたらクラス中の男はもう獣の形相であさりちゃんを取り合っちゃうだろうなぁ。あ、でもやめてね?あさりちゃんはあさりちゃんのままでいいし、あさりちゃんに彼氏ができたら、私今度こそ一人になっちゃう」

 眼鏡越しに、かきちゃんの箸を持っている手が細かく震えた。かきちゃんは、私に恋人ができることを明確に恐れている。あいにく、かきちゃんは彼氏がいたことがないのだろう。初恋の味を知らないでいる。甘いとか、酸っぱいとか、苦いとか。

 知らないでいい。あんなもの。

 かきちゃんに、なんて声をかけてあげるべきだろう。私は返答に窮した。かきちゃんは、今にも泣きだしそうで、私の一挙手一投足が今後の書きちゃんとの関係性を決定するといって差し支えなかった。

「大丈夫だよ。私に彼氏なんてできるわけないし、もし告白されても断るって決めてるんだから」

 そういうと、かきちゃんはぱぁと明るい表情を取り戻した。私の返答は正解だったようで、ほっと胸をなでおろした。

「やった、これからも一緒だ」

 かきちゃんは先ほどの出来事などなかったかのように弁当に視線を戻すと、それからは一言も会話をせずに黙々としてた。

 かきちゃんは、私のことを一蓮托生の中だと思っているかもしれない。私も、弁当を一人で食べることを回避できているのは助かっているが、もし私がこの教室から消えたら、かきちゃんはどうなってしまうのか。私とかきちゃんの関係性は不純で、もろく弱い鎖のようだった。


「昨日の有機化学の小テストの一位はー、立花麻里。みんな拍手ー」

 昼食を食べてうとうとしていた私は、突然自分の名前を呼ばれ起立をさせられた。眠気は遠い彼方に消え去り、脈打つ心臓が全身に血管を送り届け、顔は熱くなり目頭がひりひりと痛かった。

 私のことを名前で呼ぶのは、学校が始まってからは理科教師のSが初めてだった。今日この日、私のことを知ったクラスメイトは少なくなかったはずだ。

 Sは、ことあるごとに生徒を褒める。どんなに些細なことでも。生徒が働いた悪事をSが叱っている場面を偶然目にしたことがあった。Sは「何してんだ」とか「どうしてこんなことをしたんだ」など一通り先生が言うことを言ったのち、「お前ら頭いいんだから、もっと別のことに頭使おうな。そん時は先生も協力してやるから」とその生徒の品格やプライドを否定するようなことは言わなかった。生徒も、途中からは気を抜き、片足重心のままへらへらとしていた。

 ほめる姿勢がいいのか、Sは学年のみならず全校生徒からの人気が高かった。生徒からの人気が高いということは、先生からの評価は妬みや嫉みが多いということを意味し、先生の間ではずるいだの、そんなのは指導とは言えないだのと醜い罵声の対象となっていた。

「麻里は、ほかの単元はからっきしなのに、有機化学だけは得意なんだな」

 Sは、授業が終わってから私を呼び出した。いつもはチャイムが鳴ったらすぐにうるさくなる教室も、Sが授業を終えるまでは忠犬のように静かに待てをしている。Sは、女子生徒に異常な人気がある。リアコと呼ばれる本気でSのことを好きでいる女子生徒も一定数いるらしい。しかし、大多数はSに話しかけるのがやっとで、たいてい遠目で男子生徒とSが会話をしている姿を眺めることに興じている。

 そんな女子生徒の視線が、痛かった。何を話しているのかわからないという状況も相まって、ますます刺すような視線が私の背中を貫いていた。

「だけって、何ですか。それより、いくら成績がよくたって、みんなの前でほめるのはやめてほしいです」

 私は、敬語を使いながらもSを批判する語調を緩めなかった。Sはにこやかな表情を崩さず、頭を掻きながら言った。

「それを別のことに使えば、もっとうまくいくのにな」

 Sは私の背景をすべて知っているかのような口ぶりで、そういった。細く鋭い目は、私の内側などいとも簡単にのぞくことができるぞと、脅すような目つきだった。

 私だって、そんなの解決方法がわかっていればとっくに実践しているのに。眼鏡の奥から、反抗する目をSに押し返した。

 ややひるんだSは私に背を向けると、理科実験室へと姿を消した。白く、壁のように大きい白衣に身を包んだSは温厚で、冷淡だった。

 6限を受けるために教室へ戻ろうとした廊下の真ん中で、聞き覚えのない高い声を聞いた。それを背中全体で受け止めた私は、びくりと肩を揺らし、ゆっくりと振り返った。

「ねぇ、さっき、Sとどんな事話してたのよ」

 やはり。私はそう思った。のちに、この女はSのリアコの一人だと分かった。またも、私の返答次第で今後の私を決める選択が待ち受けた。

「何って、さっきの小テストこの子だけど」

 私は事実をありのままに伝えた。テストでいい点を取ったことを褒めてもらえたことを自慢するような口調が混じっていた。何より、私の実力でつかみ取ったも褒美なのだから、褒めてもらいたければ頑張るしかないと、冷たい現実を突きつけたくもあった。

「そう、あんた、なんかずるとかしたんじゃないの?」

 あらぬ言い分に、私の頬はかっと熱を帯びた。私が不正をしたといいたいらしい。こんな小テストごときに躍起になるSファンと違い、私はテストのために全力を尽くしたまでだったから、女と自分の目的を一緒くたにされたのが心外だった。

「そんなわけないじゃない。なんであんな小テストごときで。第一、Sに褒められたいなら勉強すればいいのに、私の不正を疑うのは間違ってる」

 うっと小さく退いたのが見て分かった。Sに褒められたい一心で、私の不正を疑ったのはどうやら図星らしかった。

「なら、私に勉強教えてよ。はっきり言うけど、Sに褒められたいのは事実だし……」

 白状した彼女の眼はうるんでいて、いつもは喧騒の一つとなってクラスの中心に存在している女でも、かきちゃんのように恋に身を投じる一人の人間に過ぎないことをこの時気づいた。

 今の彼女は、私がSと自分をつなぐ架け橋のような存在であることを認めて、縋り付いているように思えた。

「別にいいけど」

 私は冷めた口調で女を見ながら言った。

「ほんと!?ありがとう、てかこんなこと聞くの失礼かもだけど、名前聞いてもいい?」

 確かにこんな子の聞いてくるなんて失礼な奴だなと内心は思いつつも、私もこの女のことを知っているわけではなかった。知らない人の名前を聞くのは当然のことのように思った。

「立花麻里。あなたは?」

「山田久実。好きに呼んで」

「じゃあ、山田さん」

「いや、そこは久実だろ」

 いつも横目に見聞きするだけだった笑い声が、今はすぐ近くで聞こえている。いつもうるさいだけだと思っていた甲高い声が、今はすごく心地よいさえずりのように耳にそよいだ。

「私たちの友達にも麻里のこと紹介してもいい?みんな化学苦手なんだって」

 そういって、携帯電話を取り出した。私は、彼女が何をするのかをじっと見つめていたが、「麻里も携帯出して」というので慌ててポケットから携帯電話を取り出した。

「交換しよ、メルバトルって知ってる?」

「知ってるけど、やってない……」

「じゃあ今からいれよーよ!フレンド申請しとくから」

 そういわれるまま、彼女に携帯電話を手渡す前に奪われた。

「麻里のホーム画面、ゲームばっかり。いつもゲームしてるの?」

 いきなり距離感を無視した質問に、やっぱり居心地の悪さを感じた。彼女の特性なのだから仕方ないけれど、周りに集まるのはこの距離感を心地いいと感じる人しかいないのだから、自分の性格を見つめなおす機会などありはしないのだろう。

「まぁ、授業の暇つぶしにしてるだけだよ」

「え~?授業は授業を聞く時間でしょ」

 正論を返された。それでも私のほうが成績いいよとは、言わないでいた。

「これで良し、名前、本名で登録してるといろいろ不便だから、適当につけといたからあとで変えといてね!」

 そういって、彼女は私にスマホを返却した。名前は、「アサリ」となっていた。本名でやっていると不便なことがあると言っていたが、どういうことなのかはわからないでいた。しかしメルバトルをしている彼女らの言うことなら、今は聞いておいたほうがいいだろうと思い、「アリサ」と名前を変更した。単純に名前を入れ替えただけの名前も、別人格の自分になったようで、少しわくわくした。同時に、自分の作り出したアリサも、所詮は私に操られる存在でしかないという感情が沸き起こり、ユリア様同様申し訳なく思った。

 アリサは、私の意志で言いたくないことを言い、思ってもないことを言い、そして匿名の誰かに避難されるのは操縦士である私ではなくすべてをアリサが一身に背負ってくれるのだ。

 私は、神のような全能感を手に入れるのと同時に、アリサに罪悪感を抱かずにはいられなかった。私は、アサリとして自らを凶器の前に立たせる覚悟を備えていなかった。


 教室に戻った私たちは、それからひとも言葉を交わさないままそのまま放課後を迎えた。私はというと、6時間目も無意味にユリア様を操り、いたずらにユリア様を傷つけレベル上げに興じていた。ユリア様に傷を与えた敵に、体力以上の攻撃を与え一撃で倒す演出に、恥ずかしながら胸が躍った。「強敵だった」とユリア様が苦言をこぼすたび、もっと強くしなければと義務的な感情にとらわれた。この時には、ユリア様を盾にして高揚感を得ることに後ろめたさのかけらも感じなくなっていった。

 家に帰り、ふと思い立ってメルバトルを立ち上げてみると、通知が三件来ていた。そのうち二件は、山田さんと知らない人からのフォローで、通知をオンにするとすぐに返事に気づくことができますよという運営からのメッセージだった。私は、山田さんのフォローを許可し、私からもフォローを申請した。

 もう一人のフォロー通知に目を向けた。「奇跡を起こす薬売ってます」という名前からのフォローだった。いかにも怪しい名前に、私はフォロー申請を許可せず、かといってブロックするわけでもなくそのままにしておいた。おそらく、「幸せになれる薬を買いませんか?」とただのラムネを高額で売りつけてもうけを出すようなズルい商売でもしているのだろう。毎度、詐欺やらの手口を見ると、こんなものになぜ騙されるのかとばかばかしく思えてくる。楽に稼ぐ方法なんて、あるはずが無いではないか。この世の中にあるのは、楽だが稼げない仕事か、自殺者が出るほどきつい高額な仕事のふたつしかない。もし楽で高額なバイトがあったとして、それは死体を溶かすバイトか、得体のしれないバッグを指定された箇所に置きに行くバイトの類だろう。

 山田さんから、メッセージが届いた。「やっと許可してくれた!通知はオンにしておいたほうがいいよ」と送られていた。私は、「さっき運営からも同じこと言われた」と返すと、間を置かずに「それはウケる笑」と返ってきた。この頻度でメッセージが返ってきては、別の作業をする暇が無いではないなと私は思った。でも、よく「あの子だけ返事が遅いからハブこう」といじめの対象になるという話を聞いたことがある。せっかくできた友達(?)をこんなことで失うわけにはいかないと私は決意を固くした。

「そういえばさっき、幸福薬売ってますっていうアカウントからフォロー申請が来たんだけど、絶対怪しいことしてるよね」

 何気ない出来事を、山田さんに問いかけてみた。もしかしたら、山田さんにも手が伸びているかもしれなかった。

「いや、私のところには来てないかな。絶対怪しいよ、麻里、このアプリ入れたばっかりだし、変なのに騙されないようにね」

 山田さんは、意外にも情に厚い人なのかもしれないと思った。こんな私を心配してくれている。とりあえず、山田さんのもとへはその手が届いていないことに私はほっとした。

 しかし、山田さんの心配をやすやすと受け入れられるほど私の心は純粋ではなかった。直接コンタクトを取らないまでも、そのアカウントをブロックし未来永劫連絡を取る機会を遮断することができずにいたのだ。

 七色に光るオパールのような輝きを放つ好奇心に、私はいとも簡単に魅せられていた。ああ、初恋に似たような感覚だなと、鈍る頭でその快楽に浸っていた。


 次の日、私が教室の扉を開くと目線の先にいた山田さんと目が合った。彼女が手を振り、クラスメイトの群れから一人こちらへやってきた。

「おはよ、麻里」

 私は、おもむろに右手を上げ手を振った。一年間、かきちゃん以外の人と言葉を交わしたことなんて数えるほどしかなかったから、こんな経験をできるなんてと驚きであふれた。かきちゃんが見たらどう思うかなと想像したけど、その先はとてもいいことが待ち受けているとは思えず、想像するのを途中でやめた。

「おやよう、山田さん。朝、早いね」

 かけていい言葉が見つからず、ありふれた話題を提示した。何もすることがない私は、大抵朝学校に来るのが早いのだが、それよりも早く来る山田さんは、私と違って早くクラスメイトと話したくて来ているらしい。山田さんと一緒にいるみんなは顔が光っていて、ああ青春しているなとぼんやり考えていた。

「麻里も一緒に話そう~、返信遅いしチャットで話すより直接話したほうが楽しいしね!」

 その言葉を聞いて、私は昨日の妄想を撤回した。「女の子なんて」返信が遅い人をハブくに決まっていると断言していた私は、大きな間違いを犯していた。目の前ではつらつと毎日を生きる彼女は、ことの善悪の境のない純朴な少女だった。返信の遅い私でも輪に加われるようにはい処することができる心の優しい持ち主だった。

「ありがとう、長時間スマホに張り付くのが苦手で」

「そんなことだろうと思った!」

 話し言葉にも(笑)がついているような話し方に、いくらか励まされる。そして、私の返信する姿勢は、彼女が嫌うことはないということを知り、腹の底がじんわりと温かくなった。

「紹介するね、立花麻里ちゃん!昨日、有機の小テストでSから褒められてたの覚えてる?」

 何人かはそれで私の名前を憶えていたのか、口を丸く開けて顔を上下させていた。しかし全員ではなく、二、三人は首をかしげているようだった。

「初めまして、立花麻里です。昨日、山田さんと話して、勉強教えてほしいってことで仲良くなりました」

 かしこまった挨拶に、場が静まり返る。初手から、何か間違えてしまっただろうかと新お会いしていたが、杞憂だった。

 突如閾値を超えたように笑い声があたりに充満する。

「おもしれー、立花って話してみたら面白れぇな!」

 と男子。女子も、

「まあ、久実の目的は大体わかってるけど」

 と私を受け入れているのかわからない風だったが、目の形が柔らかい弧を描いており、私を嫌う目をしているわけではないことが伝わってきた。

「どうせ、Sから褒められたいだけだろ~」とからかう男子に、彼女も相好を崩した。目の前の女の子は恋する乙女だった。

「この前ちらっと聞いたけど、Sは彼女いないらしいぞ」としきりにもてはやす男子に顔を赤らめた山田さんは、まんざらでもない様子だった。このグループでは、山田さんがSに恋心を抱いているのは公認らしかった。だから、その役を奪った私を避難しようとした。すべてに納得のいった私は、この状況を受け入れて全力で笑った。腹から笑うのがこんなに気持ちのいいものだったなんて。

 私の人生は、Sに褒められたこと一つで百八十度好転した。かといって私もSに恋心を抱くかと言われたら、山田さんのようになることはなかった。夢では先生と女子高生が禁断の恋をするなんてよく言われているけれど、現実ではそううまくいくはずもない。それには、Sがあまりにも不利だからだ。第一、親にはなんて説明するのだろう。自分の親には?山田さんの親には?一回りも年の離れた相手との恋愛を成立させるには、あまりにも越えなければならない壁が高かった。山田さんもそのことを理解していないはずもあるまいし、私は彼女の笑顔が心と一致していないことに同情した。

 ひとしきり笑い終えた後で、山田さんは私に、「ってことだから、これから勉強教えてね!」と笑顔を振りかけた。今は、Sがめぐり合わせてくれたこの縁に感謝しようと、私は大きな声とともにうなずいた。


第二話 『佐藤征爾 自分の正義を疑い始める』

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