第32話


 言われた意味が分からず、『つけられる』という言葉の意を精査してようやく、誰かに尾行されていると言われているのだということに気付く。

 そういえば、なんて暢気な枕詞を付けて言う事じゃないだろうに。


 というか尾行?

 俺が? 

 どうして?


 ファンにストーカーされるような人気アイドルという訳でもなければ、国家の重要機密を握っているスパイでもない。浮気だってしていないし、なんなら相手がまずいない。

 一介の大学生に過ぎない俺が、どうして尾行なんて。


「あ、やっぱり気付いてなかったんだ」

「そりゃ……」

 男は意外そうに言うが、そんなもの気付いていたはずがない。もし気付いていたなら、こんな無防備に歩いているはずもない。


「わかってたから、俺の誘いに乗ったわけじゃないのか」

「え?」

 男は小さく何か呟いたようだが、動揺していたためかよく聞こえなかった。


「よし、じゃあ聞いてみるか」

 ちょっと待って、誰に? と尋ねるより早く、男は背後の誰もいない空間に向けて呼びかける。否、この男に言わせれば、誰かがいる空間なのだろうが。

「あの、すみません。何かこの人に御用ですか?」


 大声を張り上げた訳でもないのによく通るいい声だなと、そんなすこぶるどうでもいい事を思った。

 つまり、この状況に全く理解が追い付いていなかった。

 そんな俺が、遅ればせながらようやく危機感を覚えたのは、そこで電柱の影から、本当に男が姿を現したからだ。


「あ、出てきた」

 自称探偵男は、特に動じた様子もない。尾行に気付いたこともそうだが、この男もこの男で得体が知れない。


「知ってる人?」

 男の問いかけには、俺は「はい」とも「いいえ」とも言う事が出来なかった。非常に答えに困る質問だったからだ。


 結論を言うと、電柱から現れた、俺をつけていたらしいその男は、俺の知っている人間ではなかった。しかし、見たことはある人間だった。


 姿を現したのは、先ほど川崎を追いかけていった開襟シャツの男だった。


「おい、ガキ」

 開襟シャツの男は、俺を睨みながら言う。

「お前、川崎の知り合いだろ?」


 彼は一瞬だけ自称探偵男を警戒するように一瞥したが、臆する様子は見せずゆっくりと大股で近づいてくる。

 人を脅し威圧することで常に自分が優位に立ってきたという自負を感じさせる、嫌な歩き方だった。


「川崎? 誰ですか?」

 咄嗟にしらばっくれたのは、川崎が言い残したことを思い出したからだ。

 自分の事を誰かに聞かれても知らないふりをしろ。

 俺との別れ際、彼はそう言った。

 その言いつけを律儀に守る健気さは我ながら見上げたものだと思うが、この状況ではさすがに無理がある。


「お前の顔は覚えてんだよ。さっき川崎と走って逃げてただろうが」

 全くもってその通りだ。だから、この男は俺を尾行したのだ。

「まあ、それは間違いないです」

 俺は観念して白状する。

 

「でも、知り合いというほど知り合ってはないですよ」

 実際、川崎については、むしろ知らないことだらけなのだ。

 なぜ川に流されていたのか、なぜ河童に変身できるのか、そしてなぜさっきこの男に追いかけられていたのか、こちらが色々聞きたいくらいだった。

「全く深い関係とかではないです」


 開襟シャツの男は、苛立ちをぶつけるように足元の小石を蹴り飛ばす。小石は民家の塀に当たり、その上で気持ちよさそうに昼寝をしていた猫が飛び上がるように起きて逃げ去っていった。

「ああ」と、隣で自称探偵男が憐れむような声を上げる。


「てめえと川崎の仲なんてクソほども興味ねえよ」

「それなら何が知りたいんですか」

「決まってんだろ。あいつの居場所だよ」


 その一言で、俺はやっと今の状況をなんとなくだが理解する。

 どうやら川崎はさっき俺と二手に分かれた後、無事にこの開襟シャツの男を撒くことができたらしい。開襟シャツの男は川崎を見失ったのだ。


 だからこの男は、一旦あのマンションに戻った。そしてそこで、偶然かどうかはわからないが俺を見つけ、川崎の居所を探るため俺をつけていた。

 そういうことのようだ。


「残念ですが、彼がどこにいるかはわかりません」

「とぼけてんじゃねえぞ。てめえ、あいつの事匿ってんだろ」

「匿う? いや、本当に知らないですよ。さっき別れてから、俺は会ってないですから」

「この後どこかで落ち合うつもりだったんだろうが」

 開襟シャツの男は、物分かりの悪い子供を相手にしているかのように苛立った声を出す。

「言えよ。どこを隠れ蓑にしてこそこそ逃げ回ってんだ、あいつはよ」


 隠れ蓑? それはどういう意味なのか。

 単にさっき追いかけた時に逃げられて行方を見失ったというより、もっと長い期間で居所がわからないと、そう言っているように聞こえる。


「てめえの家に転がり込んでんじゃねえのか? あ?」


 ふと、川崎が昨晩言っていたことを思い出す。

『しばらくの間俺をここに泊めてくれないか?』

 彼は確か、そう言っていた。


 あの時は意味が分からなかったが、川崎はこの開襟シャツの男に追われているため、自宅に戻ることができないのではないか。

 だから、初対面で、しかも川で拾ってやったなんて言う怪しい大学生に対して、泊めてくれだなんてお願いをせざるを得なかった。

 そう考えると合点がいく。


「おい、俺だ」

 気付くと、開襟シャツの男は携帯電話を取り出して誰かと通話している。


「川崎の居所を知ってそうなガキを見つけた。今から吐かせるから、お前たちも来い」

 聞いていると、どうやら仲間を呼びつけて俺から川崎の居所を聞き出すつもりらしい。なぜ仲間を呼ぶのか。それはまあ考えたくもない。


 俺が無事に家に帰るためには、今すぐこの場から逃走を図るしかないわけだが、マンションの10階からよーいどんで降ってエレベーターに追いつくような奴を相手に逃げられるとも思えなかった。

 そうこう考えている内にも、「一旦倉庫まで連れてくから、ハイエースで来いよ」なんて穏やかならざる指示まで出されている。

 

「場所は」

 男がそう言いかけたところで、彼の膝が唐突に、屈伸運動のごとく、かくんと曲がった。


「は?」

 開襟シャツの男はよろけながら後ろを振り向く。

 いつの間にか、そこには自称探偵男が立っていた。


「てめえ、何すんだよ」

「え? ひざかっくん」

 自称探偵男は悪戯が成功して喜ぶ子供のように笑っていた。

「あのさ、二人だけで楽しそうに何話してんのよ。俺も混ぜてくれって」

 そう言いながら、開襟シャツの男の携帯電話をさっと取り上げる。


「ふざけんな。返せ」

 いつの間にか背後に立たれていたことに驚く表情は見せたが、開襟シャツの男はその後すかさず携帯電話を取り返すべく手を伸ばす。

 それを、自称探偵男はさもない風にひょいと避けた。


「スポーツテストでさ、ハンドボール投げってあったじゃん」

「何の話だ」

 開襟シャツの男は、身の回りを飛び回る羽虫を叩き落そうとするかのように次々に手を繰り出す。はじめは携帯電話のみを狙っていたのが、次第に自称探偵男への暴力行為に変わっていく。

 それを彼は難なく躱しながら雑談を始めた。


「高校の時さ、あれで俺40メートルくらい投げたんだよな。間違いなくクラスで1番の記録だった。自慢じゃないけど、昔から運動は結構得意だったんだよ」

 自称探偵男が一体何の話をし始めたのかはまるでわからないが、運動能力が高いことはまさに今実感しているところだった。

 強靭な脚力を持ち、喧嘩にも慣れているであろう開襟シャツの男の攻撃が、ただの一度も当たっていない。


「それなのにだ。クラスのガキ大将、いやガキって年齢でもないか、じゃあ青少年大将だな。そのクラスの青少年大将が測定係やってたんだけど、俺の記録を35メートルって言いやがったんだよ」

 べらべら喋っているにも関わらず、自称探偵男は息一つ乱れていない。


「信じられるか? ちゃんとボールの跡ついてるのにだぜ? あいつは確か37メートルとかで、暫定クラス1位だったからな。俺に抜かれるのが許せなかったに違いないね」

「だから、何だってんだよ」

 開襟シャツの男の声はかなり息切れが激しくなっていた。


「だからさ、その時の青少年大将に、あんたが似てるって話」

 俺と開襟シャツの男が「は?」と声を上げるのが同時だった。


 次の瞬間、自称探偵男は大きく振りかぶって、開襟シャツの男の携帯電話を背後に向かって投げた。

 先ほどハンドボール投げの話もあながち眉唾ではないと思えるほど、大きな弧を描き遠くへと飛んでいった。


「どうだ、これであの時の借りは返したぜ」

 自称探偵男はそう言うが、その青少年大将と目の前の開襟シャツの男は、何の関係もない全くの他人であることは言うまでもない。


「ふざけんなてめえ、機種代あと何ヶ月残ってると思ってやがる」

 開襟シャツの男は激昂し、遥か遠くの車道に落ちた携帯電話を追いかけ走っていく。


「よく見たら、そんなに似てなかったかもな」

 自称探偵男は平然とそんなことを口にした。


「ほら、君も早く逃げないと。あいつまた追いかけてくるよ」

「え?」

 自称探偵男は、開襟シャツの男が携帯電話を拾いに行ったのと逆の方向を指差す。


「俺一人で? ですか?」

「そりゃそうでしょ。何よ、一人じゃ寂しい訳? 可愛いけど甘えちゃ駄目よ、もう大学生なんだから」

「そうじゃなくて」

 

 道案内はどうするのだ。

 火事のあった家までわざわざ案内しろと言っていたじゃないか。


「あの……」

「いやいや、お礼なんて全然いいから。名乗るほどの者でもございませんから」

 わけがわからず戸惑っていたところ、男は「じゃあ俺はこの辺で」などと一方的に言い残し、しっかりとした足取りですたすたと立ち去っていく。

 あんた、道に迷ってたんじゃないのかよ。


「ん?」

 もう何が何だかと呆然と立ち尽くしていたところ、道の脇に一枚の小さい紙きれが落ちていることに気付く。

「なんだこれ……」


 拾ってみるとメモ帳を千切った切れ端のようで、四つ折りになっていたため開いてみる。そこには、『25.2.12(+FZ) KJ/108S → S市』と、意味不明な走り書きがあるだけだ。数式か暗号かなにかだろうか?

 さっきの開襟シャツの男との攻防で、自称探偵男が落とした物だろうか?


 呼び止めようとしたところで、タイミング悪く彼に着信があった。

「はい、鵜坂です」

 通話を始めると、そのまま男は脇道に入っていってしまう。


 追いかけてでも渡すべきか迷ったが、俺もそんな悠長な事をしていられるほど落ち着いた状況でもない。

 いつ開襟シャツの男が携帯電話を拾って戻ってくるかわからない。俺も早く逃げなきゃならないのは、まさしく自称探偵男が言っていたとおりだ。


 あくまで単なるメモのように見えるし、さして重要なものとも思えなかったため俺もその場を立ち去る事にした。

 念のため俺の手元で持っておいて、万が一また会うようなことがあればその時返してやればいいだろう。

 そんな機会があれば、だが。

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カニマン 武士 @bushi4

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