罪人の秘恋

水月 −すいげつ−

第1話 告白

 誰しも、心に一生仕舞い込んでおくと決めた秘め事の一つは有るのではないだろうか。例えば、テストで悪い点数を取ってしまったとか、家族の大切にしていた何かを壊してしまったとか、色々。

 私――仲島鞠ナカジマ マリの場合それは、小学生の頃、ある男の子の心を、深く傷つけてしまったことだ。

 その男の子は名前を巽洸助タツミ コウスケという。小学校六年生で同じクラスになるまで全く接点のなかった相手で、お互いを認識したのは一学期半ばの席替えで偶々隣の席になったことがきっかけだった。席替えをしたのは六時間目の総合の授業の終わりで。次は誰と隣になるのか、近くの席になるのか、口下手な自分だがちゃんと話し合えるようになりたいなと、期待よりも不安の勝る心で席番の籤を引いた。そうして私は巽洸助という男の子と隣同士になったのだ。新しい席についた時、隣がおとなしそうな子で確かに安堵していた筈だった。

 最初は私が巽に嫌われないようにするので寧ろ精一杯だった。授業で事あるごとにペアワークをさせられる、隣の子に嫌われては面倒なことになる、と。それに、私にとって人から嫌われるということは大きな恐怖であった。誰だってできれば多くの人に好かれていたいと思うのは当然だ。当時、私はその気持ちが一番強い時期だった。

 しかし段々と巽とも打ち解けてきた頃、巽が国語の教科書を忘れてしまったから見せてほしいと頼んできたことがあった。私は快くそれを了承して、並んだ机の真ん中に私の教科書を置いた。授業中、音読の順番が回ってきて、ふたり教科書を覗き込んだ――その時だった。

 ツンと鼻を刺激した汗の臭い。それはすぐ隣にいる巽のものだと瞬時に悟った。そして、言いようのない不快感が胸に沸き立ったのだ。それが全ての元凶だった。

 それからは気にしないようにしても鼻がその臭いを拾ってしまうばかりか、臭い以外の事もいちいち気に障るようになってしまった。

 着古された黒のTシャツが少し白っぽく色褪せているのを見て、不清潔だと感じた。洗濯を繰り返せば色落ちだってするだろうに。

 汗ばんだ首筋をかいたその手でベタベタと色んなところを触らないでほしいと思った。私も、他の誰でも、同じようなことをしているだろうに。

 最初は単なる臭いへの不快感だったのが、いつしか巽自身への嫌悪感へと変貌していた。髪も肌も服も手も臭いも、気にかけまいとすればするほど気になって苛立って仕方がなかった。その臭いが私にまで移って自分まで友達に嫌われたらどうしようと考えて、起こってもいないのにひどい被害妄想だ。それでも夏休み明けには次の席替えがある。それまでの辛抱だと自分に言い聞かせて、それとなく巽のことを避け続けていた。

 ある日道徳の授業で、ペアの子の良い所をお互い紙に書いて交換し合うというワークをさせられた。私は与えられた三分だけじゃ全く一文字も一言も書くことができなかった。真っ更な紙を見つめたまま、手が動かない。既に先生の話は次の工程に移っている。横から巽が書けたかを訊いてくる。「まだ書けてないから待って」と言う声にはおそらく苛立ちが滲んでいたのだろう。巽は一瞬黙り込んだ後に、こんなことを訊いてきたのだ。

「仲島はどうして僕のこと避けるの」

 その言葉を聞いた途端、心が凍りつく思いがした。

 『分かってるならどうしてそんなこと訊くの』

 喉元まで出かかった言葉を呑み込む。

『察してるなら貴方もさりげなく私から距離を取ってよ』『近くにいたら私は貴方に酷いことをしてしまうの!』『だから距離を取ってるの!』『その臭いが私まで届かない距離を』そうしてくれたら事は丸く収まるのに、なんて、心の中は場違いな怒りで満ちていた。

 一体いつからこんな風になってしまったのだろう。

 その日私は思い知ったのだ。自分は既に人の悪いところしか見られないような人間になってしまった。そんな自分を嫌いになったし、そんな風に私に思わせる巽のことも嫌いになった。

 その日から何度も何度も巽は同じことを訊いてきたが、私は授業のペアワークの時は喋ってもその質問にだけは絶対に答えなかった。答えてしまったら、巽を傷つけるばかりではない。醜い自分が露呈する。皆はきっと私に失望するだろう。それが何よりも怖かったのだ。

 ただ夏休みも目前になったある日、ついに我慢ならなくなって、ぽそりと言ってしまった。

「……汗臭い」

 泣かれるかもしれない。怒鳴られるかもしれない。と、私は身構えた。私の予想に反して巽は何も言わなかった。

 私は顔を上げられなくて、巽がこの時どんな表情をしていたのかなんて判らないけれど、彼の心を深く傷つけてしまったことは解っていた。明確に人を傷つけるとわかっている言葉を吐いた途端に、私の胸も握り潰されたように苦しくなったから。それ以降、私の願っていたように巽も距離を取ってくれるようになって、すぐに次の席替えが行われた。それにどれだけ安堵したことだろう。

 だが新しい席になって巽から離れたとしても、この出来事は度々フラッシュバックしては私を苦しめた。二ヶ月間、いや、今でもやってしまう私の彼への言動の数々。さりげなく忍ばせる『私に近寄るな』というサイン。彼がそれにどれだけ傷ついたか。自分が同じことをされたらどれだけ傷つくか。何度も何度も想像しては、嫌悪感は時とともに薄れ、代わりに罪悪感に苛まれるようになっていた。

 私は彼に謝るべきだろうか?

 いいや、謝るべきだ。私は彼に酷いことをした。

 でも、もし彼がそのことに関して話にも出されたくないと思っていたら?

 思い出すのも嫌だと思っていたとしたら?

 私の顔なんて見るのも嫌だと思われていたとしたら?

 私は彼の前に現れるべきではないだろう。今まで通り、他の誰にも、先生にも、親にも、クラスメイトにもバレないように、初めから何も無かったかのように過ごす、それが一番なのではないか?

 そう考えて、謝罪を先延ばしにし続けた。

 彼が近くに居るとまた酷いことをしてしまうかもしれないから。と、席替えの度に『巽が近くになりませんように』と祈る日々。卒業して中学に入学したときですら、『巽と同じクラスにはなりませんように』と願っている私。それは彼のためであると同時に私のためだった。これ以上私に私を嫌いにさせないで、醜くさせないで、お願いだから、と。

 月日が経つに連れ、フラッシュバックの回数は減ったものの完全に忘れられたわけではない。寧ろ、未だに謝れていないという事実が、胸を埋め尽くす罪悪感をどんどん肥大化させているような気がしてならない。

 そしてその度に耳元で囁く声がはっきりと大きくなっていくのだ。

 ――――『お前は嫌な人間だ。』

 と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

罪人の秘恋 水月 −すいげつ− @mizu-tsuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ