二日目

 彼に与えてもらった寝室で目を覚ました。リビングに行くと、ソファでそのまま寝てしまったであろう、彼がいた。本当に、何もしてこないんだなと思った。私、女として見られてないのかな。

 時計を見ると七時だった。彼はいつも何時に起きているのだろう。そもそも、昨日は何時に眠ったのだろうか。起こしていいのか迷った。

「あ、おはよう」

 私が迷っているうちに、彼が起きた。

「ん。おはよ」

 朝起きてすぐに挨拶をするのは、久しぶりだった。

「待ってて、朝食準備するから」

「あ、ねえ。よかったら、私やるよ?」

 起きてすぐキッチンに行こうとする彼を止めた。私だって、本来は料理だったり、家事は得意なのだ。ずっとお母さんと一緒に助け合ってきたのだから。ただ、最近は忙しくて、そこまで手が回らなかっただけ。

 そのままキッチンに向かい、冷蔵庫を開けた。

 中には、お酒や水といった飲み物だけで、食材は入ってなかった。

「何もない……」 

昨日の彼の行動を思い出す。その行動と、自分の行動が同じことに気がついて、恥ずかしくなった。

私は、あのとき彼が勝手に冷蔵庫を開けたことを、非常識だと思ったのに、同じことをしている。

「自炊しないから」

 彼がぼそっと言った。

「できないの?じゃあなんで、昨日私に何か作ろうかって言ったの?」

 別に責めているつもりじゃない。気休めで優しくしてくれたのだろうかと思っただけ。

「できるよ。でも、もう食べてくれる人いないから」

「えっと…ごめん」

 きっと彼は妹さんにいつも料理を作ってあげてたんだと思った。悲しそうな顔をしたから。

「冷凍のお弁当があるから、それ食べよう」

「うん」

 彼はそう言ってお弁当を取り出すと、レンジに入れてスイッチを押した。

「サバの味噌煮弁当だけど、嫌いじゃない?」

 彼の言葉を聞いて嬉しくなった。私はサバの味噌煮が大好きなのだ。

「好き。おいしいよね」

「うん。俺も好き」

 さっきの悲しそうな顔じゃなく、優しい顔で笑った。この人の笑顔、好き。


 お弁当を食べてから、彼と一緒にリビングのソファに座って、朝のニュースを見た。

 女優が噂のあった歌手と結婚した。老人が高速道路を逆走した。政治家が不正で辞任した。そんなニュース。

 隣を見ると、彼のコーヒーを飲む姿が大人っぽくて、胸が少しざわざわした。

「コーヒー飲みたいの?」

 私の視線でそう思ったようだ。別にそういうつもりじゃない。私はコーヒーが好きじゃない。苦いし、何がおいしいのかわからない。でも香りはいいと思う。

「うん」

 それなのに、なぜか彼の言葉にうなずいていた。飲まなくてもいいのに。

「待ってて。いま淹れるね」

 彼はそう言って立ち上がり、キッチンへ行った。豆を挽くガリガリという音がする。そんなに近くにいるわけでもないのに、部屋中にコーヒー豆のいい香りが広がった。私は、ただ彼に甘えたかったのだと思った。

 腕をくるくると動かしながら、丁寧にコーヒーを抽出していく動きに目を奪われた。ビジュアルのよさも、手際のよさも、絵になる。この人が喫茶店でも出せばきっと大人気になるだろう。

「はい。お待たせ」

 彼が淹れてくれたコーヒーは、すごくいい香りがした。一口飲む。おいしい。苦すぎず、酸っぱすぎず、ちょうどいい。

「おいしい……」

 初めて思った。今まで飲んだコーヒーと、何が違うのだろうか。

「ねえ。コーヒー、好きなの?」

 好きに決まってるだろう。豆から自分で挽いているんだ。わかりきったことを尋ねてしまったと思った。

「うん」

 予想どおりの返事だ。

「私、コーヒー詳しくないけど、いい豆だとおいしいの?」

 彼のことを、少し知りたくなった。でも、知らないことが多すぎて、何から聞けばいいのかわからない。

「そうだね。でも値段が高いから、それがいいとは限らないよ」

「猫のコーヒーってすごく高級なんでしょ?」

 そこまで詳しくないが、有名な話だ。浅い知識を披露して、少しでも詳しいふりをした。

「ジャコウネコのやつ?高いよ。五百グラムで二万か三万か。俺も飲んだことはないけど」

「飲んでみたいとは思わないの?」

「機会があればかな。飲みなれたのが一番だって思うから」

「たしかに」

 ふと思った。今結構喋れてた。会話が弾んだ気がする。私からいっぱい話しかけたら、もっとたくさん返してくれるだろうか。

「ねえ、今日はこれから、どうするの?」

「十時に君のアパートに業者が行く。それに立ち会って、そのまま不動産屋と手続きしよう」

 そうだった。昨日のことだったのに、すっかり忘れてた。

「あの、ありがと。いろいろしてくれて」

 何か恩返しをしたい。こんなによくしてくれてるのに、何もしないなんてできないと思った。

「私に何かしてほしいこと…ない?」

「どうして?」

「だって……申し訳ないから」

「じゃあ、このまま一緒に暮らしてよ」

「え?」

 それしか言えなかった。それじゃあ、私は何もしてない。ただここに住まわせてもらっているだけ。それとも、何か別の思惑があって、そう言っているのだろうか。彼の考えが理解できない。

「何それ。新しい家見つかるまでじゃなくて?ずっといていいってこと?」

「そう」

 わけわかんない。付き合ってるわけでもないのに。それを言ったら私もそうだけど。どういうことなの。

「嫌ならいいよ。好きなタイミングで出るとき教えて」

 そう言われて、すごく嫌な気持ちになった。やだ。たしかに、居候させてもらって申し訳ないとは思う。早く自立して出ていくのが正解だと思う。でも、なんかやだ。そう言われるのは、悲しい。

「ん。でも……結構長くお世話になります…」

 結局、強がった言葉しか言えなかった。彼は「うん」と短く答えた。


「いつ業者さんにお願いしたの?」

 アパートから家電や家具を搬出している男たちを見ながら、横にいる彼に尋ねた。

「昨日メールでいくつかの業者に依頼した。急だったけど、来てもらえてよかった。

 いつの間に、と思った。

「あなた、すごいね。なんでもできるっていうか、しっかりしてる。まあそうだよね、二十歳で大人だもんね」

 二十歳なんていったら、まだまだ子供だと思っていたが、彼を見ていると、やけに達観しているというか、私のイメージする二十歳とは全然違うように思えた。成人式で、恥ずかしい髪や服で、奇声を上げているイメージが強かった。

「こちらが、金額になりますね」

 業者の一番偉いと思われる人が、彼にお金を渡してきた。

「俺じゃなくて、彼女に渡してください。彼女の家だったので」

「これは失礼しました」

 金額は五万ちょっとだった。お金を受け取ると、業者の人たちはトラックで去っていった。アパートの中は、何もない。不用品も処分してくれるとのことだった。急に、お母さん一緒に住んでいた光景が頭に浮かんだ。ここでの生活は、楽しかったなあ。思い出がいっぱいあったのに。何もなくなっちゃった。自然と涙が出た。

 頭に、何かが当たった。見ると、彼が私の頭を撫でてくれてた。意外だった。昨日みたいに何も言われないし、無反応だと思ったから。頭を撫でてくれている彼の顔は、無表情だった。でも、手は温かかった。なんだ、やっぱり優しいじゃん。

 不動産屋はしばらくするとアパートに来た。どうやらこちらが出向くのではなく、退去時の確認があるとのことだった。それも全部彼が進めてくれた。私は、ただ見てただけ。高校一年生で中退した、世間知らずのガキに、できることなんて何もなかった。

 手続きが終わり、修繕費用を振り込む口座を知らされて、私たちはお昼を食べに行った。

「何食べたい?」

 歩きながら彼が私に聞いてくれた。行くところは決まっていないが、マンションの方へ向かっている。周囲は栄えていて、いろいろな飲食店があるから。

「ん。何がいいかな……」

 外食なんてほとんどしたことがないから、何が食べたいかもわからなかった。

「あ、あなたは何が食べたいの?私が出す…五万あるし…」

「いいよ。俺が出すから。そのお金は貯めておきな」

「でも…」

 そう言ったところで、私は何も言えなくなった。彼がこっちを真剣な顔で見ていたから。

「ん…わかった」

「うん」

 真剣な顔から、急に笑顔になって、どきっとした。

 彼の向こうにラーメンの看板が見えた。美味しそう。秋風が少し寒いし、温かいのが食べたかった。彼に言ったら、いいよって言ってくれるかな。

「ねえ。ラーメン食べたい。あの看板の味噌ラーメン。美味しそう」

 私の目線に気づき、彼も振り返って看板を見た。

「あのラーメン屋。休みだよ」

「え、そうなの」

「うん。最近ずっと閉まってる。今日もやってないと思うよ」

「そ、そっか……」

 温かいラーメン、食べたかったな。少し悲しくなった。

「じゃあ、行こ」

「ど、どこに」

「ラーメン食べに。ほかにもお店あるから」

 彼はそう言って歩き出した。私もその後ろに続く。

「味噌ラーメン、美味しいよね」

 彼が私の顔を見ながら言った。私も、そう思う。ラーメンの中で一番味噌が好き。あんまり食べてこなかったけど。

「うん。美味しい」

「餃子も食べようね」

「うん!」

 餃子も大好きだ。でも、この人の前で餃子食べて、息がニンニク臭になったらどうしよう。そんなことを悩みながら、彼と一緒にラーメンを食べに向かった。


 彼が教えてくれたラーメン屋さんは、びっくりするほど美味しかった。絶対さっきの看板のところじゃなくて、こっちで正解だった。濃厚な味噌に背脂が浮いていて、少し重いけど、箸が止まらない。

「そんな急いで食べなくても大丈夫だよ」

 彼が私のコップに水を注いでくれる。ああ、何やってんだ私。私が彼のコップに水を注いであげなきゃいけないのに。全然女子力を発揮できていない。そればかりか、食い意地張ってると思われただろうか。

「オムライスより食べるね」

 昨日は、急に食べ物が胃に入って、内臓がびっくりしたのだ。たぶん。今日は胃も少し大きくなったのか、いっぱい食べられそうだった。

「わ、私、そ、そんなに大食いじゃないから」

 口から出てきたのはそんな言葉だった。無駄な小食アピールをしてしまった。

「食べなよ。美味しいでしょ?」

「うん…すごく美味しい」

 正直に、味の感想を言った。たぶん、過去一の美味しさだ。

「餃子のラー油とか、こだわりある?」

「…ないよ」

「わかった。酢と胡椒で食べても美味しいんだよ」

「そうなの?」

「食べてごらん。こっちはタレとラー油」

「うん」

 彼の言うとおり、お酢と胡椒で食べると、餃子の具本来の味が際立って、美味しい。

「お、美味しい…」

 私がそう言うと、彼は嬉しそうに「よかった」と言った。

 だめだな私。この人にずっと餌づけされてる気がする。楽しかったけど。

 そういえば私、昨日まで死にたいって思ってたのに。普通に楽しんでる。自分って結構単純だな、と思った。

 昼食を済ませてから、またうろうろと歩く。

「ねえ。これからどこ行くの?」

 私が尋ねると、彼は「んー」と考える素振りを見せた。

「特に何も。君は、どっか行きたいところある?」

「えっと、別に」

 私に聞かないでと思った。普通の女子って、どんなところに行って、どんなふうに遊ぶんだろう。よく考えてみたら、私友達と遊びに行ったことない。というか、友達、いないじゃん。

 気がつくと、下を向いて足を止めていた。あっ、と思ったときには、目の前に彼がいる。そして、上から私の顔をじっと見ていた。

「…何?」

「友達、いないんだ?」

 どうしてそんなことずけずけと。優しいと思わせてみたり、配慮の足りないこと言ってみたり、なんなんだこの人は。

「だったら、何」

 少し怒ったような声を出してしまった。昨日からずっとこの人のお世話になっているのに、そんな失礼なことしたらいけないとわかっていたのに、勝手にそうなってしまった。

「スマホある?連絡先交換しよう」

「え?」

「やだ?」

「やじゃないけど……」

 友達がいないとわかって、私の友達になってくれようとしているのだろうか。

「スマホ……持ってない…」

 本当は持っていた。でも、母が亡くなってからしばらくして、解約した。本体は売って生活費になった。そういえば、全然使いこなせなかった。アプリストアとか、アカウントとか、よくわかんない。

「そっか」

「でも別になくても困らないし、いらない。お母さんと電話するだけだったから。友達もいないし」

 本当は、みんながやってるようなお洒落な写真を撮ってネットに上げたりしてみたかった。動画も見てみたいし、ゲームだってしてみたい。でもそんな贅沢、わがままだから。

「じゃあ、契約しに行こう」

「え、ねえ。私の話、聞いてた?いらないって言ったじゃん」

「いらないの?本当に?」

「む……」

 本当は欲しい。私だって、普通の女の子みたいに、かっこよくスマホを使いこなして、キラキラした写真いっぱい撮ったりしたい。お洒落の情報だっていっぱい集めたい。

「……ほ…しい」

「うん。知ってる」

 どうしてか、顔が熱くなった。なんで。なんでそんなになんでも私のことわかるの。私のファンなの?ストーカーなの?もしかして、私のこと、好きなの?

「なんで知ってるなんて言うの?どうしてわかるの?」

 彼は少し考えているようで、すぐには口を開かなかった。

「妹も、ずっといろんなこと、我慢してたから。そのときと同じ顔してる」

「妹さんも?」

「うん」

 あんなマンションに住んでいて、かなり裕福な暮らしをしていたんじゃないのか。見ず知らずの私を住まわせて、好きなものなんでも食べさせてくれて、お金に困っているようには見えない。それとも、私が知らない過去は貧しかったのだろうか。そのとき我慢していたってことなのか。

 でもちょっと待って。もしかして、私のこと、妹みたいに思ってるのかな。

 彼と一緒に、家電量販店に入る。その中にスマホがたくさん陳列してあるコーナーを見つけて、わくわくした。

「どのキャリアでもいいよ。好きなとこ選んで。機種もなんでもいいよ」

 彼が相変わらずの口調で言った。

「あなたと同じところ。機種も、一緒のがいい……」

 恥ずかしかったけど、勇気を出した。なんとなく、彼と一緒がいいと思った。こんなに優しく尽くされたら、誰だって気になるよね。かっこいいし。

 そのまま彼は「わかった」と言って手続きを進めてくれた。

 私の手に、またスマホが帰ってきた。嬉しい。

「あ、ありがとう」

 彼にお礼を言う。そのまま彼と連絡先を交換しようと思ったが、いまいち使い方がわからない。

「帰ってから、一緒に設定しよっか」

 苦戦している私を見かねて、彼がそう言ってくれた。そこで気づいた。彼のスマホは、私のと違う機種だ。

「一緒の機種って言ったのに……違うじゃん」

 わがままな自分が嫌になる。買ってもらっておいて、文句言うなよって感じだけど。でも一緒がいいってちゃんと伝えた。そこはちゃんと抗議したい。

「ごめん。俺の機種もう売ってないから。でもそれ一番新しくて、容量も大きいやつだよ」

「ん……」

 そうじゃない。お揃いにしたかったの。わかってよ。

「帰ったら、使い方教えてね……」

「うん。いいよ。帰る前に、夕飯の材料買って帰ろう」

「うん。私が作ってあげる」

 なんかカップルみたいで、ちょっとニヤニヤしてしまった。自分の顔気持ち悪くなかったかなって、少し心配になった。


「油用の鍋とか、ある?」

 スーパーの精肉売り場で彼に尋ねた。

「たしかあるよ。棚の一番奥にやったと思うけど」

「じゃあ、今日唐揚げにするね。いい?」

「うん。美味しいよね」

 彼が笑ってくれた。どきっとするし、すごく嬉しい。

「私の作る唐揚げ、美味しいんだよ。お母さんもよく褒めてくれたんだ」

「そっか。楽しみ」

 やばい。超幸せ。そんなかっこいい顔で期待しないで。私の心臓が驚くほど大きく動いた。

 スマホの時計を見ると、まだ午後三時だ。帰ってから鶏肉を漬け込む時間は充分にある。美味しい唐揚げを食べさせて、びっくりさせてあげる。

 肉や、ニンニク、醤油などの調味料、一緒に食べる野菜も買う。彼に聞いたところ、調味料もほとんどないし、必要なものはなんでも買ってとのことだった。

「ちょっと先の食材も買っていい?」

 どう恩返ししたらいいか、はっきりと言ってくれないから、私が勝手に決めることにした。彼に美味しい料理を作ってあげて、家の掃除とか洗濯とか、全部やる。

彼は別に不得意じゃなさそうだけど、私にできるのなんて、それくらいだったから。

「いいよ」

 予想どおりの返事。彼は肯定しかしないのだろうか。

 安売りの品を見定めて買う。彼は、金額気にしなくていいと言ったが、これはもう身体に染みついた癖なのだ。それに、居候の身分で、家主の財布を不必要に圧迫するのも嫌だった。

 かなりの大荷物になってしまったが、やっぱり彼がほとんどの荷物を持ってくれた。私も持つって言ったのに。

エレベーターが二十五階に着けば、もうすぐ彼の部屋だ。

「大丈夫?ごめんね。買いすぎて…」

「いいよ。大丈夫」

 両手に力を込めている彼の腕は、思ったよりも太く、筋肉があった。何かスポーツをしていたのだろうか。イケメンで筋肉あって、優しいとか、ほんとに漫画のヒーローみたいだと思った。

「筋肉…すごいね…何か運動してたの?」

 気がつくと、そんなことを聞いていた。

「筋トレと、自転車かな」

「自転車?どこにあるの?駐輪場?」

「いや。俺の部屋にある」

「自転車なのに、家の中にあるの?」

 なんで駐輪場に置いておかないのだろうか。その方がすぐに乗れて楽だと思うんだけれど。彼のこだわりだろうか。

「駐輪場は、盗まれるから。さすがにいい値段のやつだから、盗まれたらショックだし」

「高いんだ?有名なブランドが作ってるセレブ用みたいな?」

「何それ?そんなのあるの?」

 しまった。話を合わせようと、全然的外れなことを言ってしまったようだ。恥ずかしい。

「え、わかんない」

「なんだそりゃ」

 彼が少年のような顔で笑った。優しそうに笑う顔と、また違った笑顔で、不意打ちされた気分だった。しかも、口調がなんだか砕けた感じで、これも私の乙女心を刺激した。

 部屋に着くと、私はまず、特製ダレを作って、鶏肉を漬け込んだ。肉に味が染みるまで、彼にスマホの指導を受ける。みんなが使っているという、アプリも入れてもらった。これで電話もメッセージもできるらしい。

 さっそく彼と連絡先を交換した。そこで初めて名前を知った。出会ってからこの瞬間まで、なかなか名前教えて、なんて言えなかった。自分の社交性のなさに、うんざいした。

「黒田…蓮…くん」

「何?」

彼の名前をつぶやいただけなのに、呼んだと思われたらしい。

「なんでもない」

「白川朱音」

 彼が私の名前を呼ぶ。

「何?」

 私がそう聞くと「なんでもない」と言われた。

「真似しないでよ」

「これからよろしく。朱音」

 いきなり呼び捨てにされて、すごく緊張した。でも、その呼び捨てにされる感じが、なんだか嬉しい。

「う、うん。よろしくね…蓮くん」

 私に呼び捨ては難易度が高かった。でも、どうしても黒田じゃなく、蓮くんって名前で呼びたかった。頑張って、名前で呼ぶことができた自分を、褒めてもいいと思った。


「ねえ蓮くん!すごいよ。スマホって映画とか見れるんだね!」

 蓮くんが加入している映画見放題のアプリを私にも入れてくれた。家族用アカウントというのも入力してくれて、なんだかいろいろ見れるらしい。すごい。

自分がこんな、子供のようにはしゃぐなんて、何年ぶりだろうか。そんな幼稚に振る舞う私を、蓮くんは優しい顔で見守ってくれていた。

「テレビにもアプリ入ってるから、スマホじゃなくても見れるよ」

 なにそれ。テレビにアプリ?

「どういうこと?」

 私が尋ねると、蓮くんはテレビで、今私のスマホで再生している映画とは違う映画を再生した。

「え、すごい!これならレンタルとか行く必要ないね!」

「朱音はレンタル派だったんだ」

 そういうわけではない。借りて見ている時間もなかったし、お金もなかった。ただ、映画館で上映が終わったものはレンタルショップに行って借りるのが当然だと思っていた。

「そうじゃないけど。レンタルでしか見れないって思ってたから。こういう画期的なのって、すごいなって思って」

「音楽も定額サービスで聴けるんだよ」

「え、そうなの!すごい、あとで教えてよ」

「うん、いいよ」

「うん!夕食の準備始めるね!テレビ見て待ってて」

 私にも、ついに幸せが訪れたんだと思った。昨日まで、絶望しかなかったのに。この人に出会って、漫画みたいな急展開で、驚かされるばかりだ。

 油で肉を揚げながら、何気なく自分の腕を見る。きちんと栄養を摂取したからか、昨日よりも血色がよく、肌も張りが出た。手で顔に触れてみると、やはり昨日よりも骨ばった感じが減り、少し弾力がある。

 もうちょっと食べて、ガリガリじゃなくなった方が、きっとかわいいって思ってもらえるよね。

 私の頭の中には、彼に恩返ししたいという気持ちのほかに、女として見てほしいという気持ちも生まれていた。私、初めて恋したかも。そう思った。


「どう?食べれそう?」

失敗した。私の高まっていた気分は、底辺まで落ちた。

唐揚げを作りながら、蓮くんがテレビを見ている姿に見とれて、焦がしてしまったのだ。後半揚げたものは無事だが、前半のものは見た目も、味もよくない。

彼にいいところを見せようとしたのに。悔しい。

「全然食べれるよ」

 彼は、唐揚げを食べながらビールを飲んでいる。よくテレビとかでも唐揚げとビールがセットで映るが、そんなに美味しい組み合わせなのだろうか。

「ほんと?苦かったら、無理しないで…私食べるから…」

「作ってくれたことが嬉しいから、食べるよ。苦味はたしかにあるけど、この下味は美味しい。俺が作るよりいい味してる」

 彼に褒められて、気分が再び高まった。なんなの、ほんとに優しすぎる。意味わかんない。でも嬉しい。

「えへへ。そ、そう?よかった」

 自分でも気持ち悪いくらい、もじもじとして、髪の毛の先を指でいじる。こうすると少し落ち着くのだ。

「ね、ねえ。蓮くんはさ。長い髪と短い髪、どっちが好きとかあるの?」

 私馬鹿か。こんなこと本人に聞いたら、好きだって言っているようなものじゃないか。自分の恋愛経験のなさが恨めしい。

「どっちでもいいかな」

 つまらない答えが返ってきてしまった。どっちでもいいって。私に興味ないって言ってるみたい。

「朱音」

「は、はい!」

 突然名前を呼ばれてびっくりする。心の準備に時間が必要なのだから、急に名前呼ばないで、と心の中で抗議した。

「長い方が似合ってる」

 不愛想な言い方だったが、そう言われて思わず口元が緩んでしまう。やばい、嬉しい。どうしよ。あと名前。名前自然に呼ばれたの、嬉しすぎる。私の頭の中はお祭り騒ぎで一気に賑わった。

「あ、あ、あ、りがとお」

 自然にお礼を言おうとして、大失敗した。恥ずかしかったが、頑張って冷静を装う。

 彼が、ビールを飲み終わったようで、新しい缶を取りに行こうと立ち上がった。

「あ、待って。私持ってくる。座って待ってて」

 彼を座らせると、急いで冷蔵庫まで行く。キッチンの食卓から、それほど遠いわけではないので、すぐだ。缶を一本取り出すと彼のところへ持っていく。

「はい、蓮くん」

 自分が新妻みたいだと思った。ただ旦那様に見立てている蓮くんにビールを持っていくだけで、満たされたような不思議な気分になる。正直、唐揚げを食べるよりも、彼が食べて、飲んでの、動作をしているのを見ていた方が、よっぽどお腹がいっぱいになる。

「朱音、飲みたいの?」

 私がずっと見ていたから、ビールを飲みたがっていると思ったらしい。

「未成年の飲酒はダメだよ。ちょっとだけね」

 そう言うと彼は缶をこちらに差し出してきた。ダメって言ったくせに。

 私は、何も言わず一口飲んだ。間接キスだとすぐにわかったが、嬉しかったから無反応に徹した。

「うう、苦い……」

 全然美味しくない。なんでこんなもの好んで飲めるのだろうか。コーヒーより絶対苦い。

「美味しくないでしょ?」

 私の顔を見れば、聞かなくてもわかるはずだ。でも、もうそんなこといちいち言ってくるなとか、そういう考えにはならなかった。彼と話すための話題が増えた。それしか頭にない。昨日と今日で、こんなに骨抜きにされるなんて。

「うん……美味しくないよ……」

 なんでこんなの飲ませたの。きっと昨日だったらそう言ってた。でも私の口から出た言葉は、好きな人に甘える女の子の声、そのものだった。

「蓮くん…よく飲めるね…すごい」

「量飲むとね。なんか美味しく感じるんだよ」

「そんなこと言って、二十歳じゃん。飲めるようになったばっかじゃん。さては、もっと昔から飲んでるんでしょ」

 彼女みたいなことを堂々と言って、恥ずかしくも思ったが、ちょっと達成感もあった。

 彼は、私の問いに何も答えなかった。

「ほらやっぱり。不良だ。やーい」

 私は彼をからかうようにいった。彼は、何も言わず私の頭を優しく叩いた。叩かれたのに、嬉しかった。


「蓮くん、お風呂先に入っていいよ」

 食事が終わって、食器や鍋を洗いながら、ソファでビールを飲んでいる彼に声をかけた。

「でも、朱音、音楽のアプリとか教えるって約束したよ?」

 そうだよ。でも、お風呂に入ってから、ゆっくりと教えてほしいの。その方が寝るまで一緒にいれるから。でも、お仕事あるなら迷惑かなとも思った。

「うん。でも洗い物終わらせたいから。あと、今日も株の何かするの?」

 一応彼に尋ねる。何もないといいな。

「昨日は、ただ株価の推移を見てただけだから。今日はしないよ」

「じゃあ、お風呂のあと教えてよ。あと…よかったら…一緒に映画も見たいな」

 彼がうなずいてくれるかわからなかったが、賭けてみた。

「いいよ。じゃあ先に入ってくる」

「うん。ゆっくりしてきて」

「ありがとう」

 彼がお風呂に行ってから、私はすぐ食器を洗い終えた。

 そのまま、リビングへ行って、窓の外を眺める。綺麗な夜景。昨日も思ったけど、こんな景色を直接見ることができるなんて、夢みたいだ。

 ソファの方を見ると、テーブルに、彼が飲み終えたビールの空き缶が置かれていた。何気なくそれを手に取る。

 これに口つけたら、さっきもしたけど、また間接キスだよね。手が勝手に動く。飲み口を、自分の口元に近づけていく。自分が変態みたいなことしてるってわかるのに。もう少しで唇が触れるところで、彼がお風呂から上がった音がした。

 勢いよく、缶を口元から遠ざける。それからすぐに、蓮くんが「お風呂いいよ」と声をかけてくれた。

「あ、はーい」

 バレてないか心配になった。きっと見られたら、気持ち悪いと思われる。自分の軽率な行動を反省した。いくら好きでも、こんなこと勝手にしたらダメだよね。自分に言い聞かせてから、お風呂へ向かった。

 お風呂から上がると、彼はソファで寝ていた。まだ八時で、そんなに遅い時間じゃないと思ったけれど、疲れていたのかもしれない。だって、私も結構眠くなってきていたから。

 音楽はまた明日にしよう。そう思った。

 彼の部屋に勝手に入るのも悪いし、私は脱衣所からバスタオルを三枚ほど持ってきて彼にかけた。

「おやすみ。また明日ね」

 昨日と違って、彼はそう言ってくれない。少し寂しかったが、それでもよかった。

 彼の寝顔がかわいくて、ずっと見ていたかった。

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