私の大好きなあなた。
清仁
一日目
最悪だ。
心の中だけでなく、声に出して叫びたかった。でもそれができないのは、私をそういう気持ちにさせた当事者がすぐ目の前にいるから。せっかく違う高校に進学したのに、帰りに偶然会うなんて。
「…も…もう……やめて…」
どうにか口から出せた言葉は、なんとも情けない懇願だった。泣けば余計に相手を興奮させるだけなのに、それでも涙が勝手に出てくる。どれだけ心の中で毒を吐こうが、長年蓄積された恐怖には勝てない。
彼女たちは、そんな願いを聞き入れるわけもなく、地面に叩きつけた私のスクールバッグから、教科書やノートを足で取り出して地面に散らかし、乱暴に踏みつけて、土をかけていく。
「え?何?なんか言ったー?」
「やめてえ、だってさ」
「ばーか。泣くなよ、きめえ」
そう吐き捨ててから、私の所持品をすべて踏み終わると「死ね」と言って三人は帰っていった。
私は地面に散らばった物の中で、一番大切なお守りを見つけて、それを抱きかかえるようにして、座り込んだ。
先月亡くなった母がくれたお守りだった。これも三人に踏まれて、汚れてしまった。
お母さん。私も早く死にたい。
病気で亡くなる直前の母に、一人でも頑張って生きていくと誓ったはずだったのに、そんな誓いはあっさりと砕かれてしまった。
涙が止まらない。つらい。苦しい。
「ねえ」
突然声をかけられて驚いた。声がした方を向くと、秋の夕焼けを浴びて、大学生くらいの背の高い男が立っていた。
「高校生?」
「は、はい…」
「さっきの三人は?」
「あの人たちは、私の中学の同級生で……」
「君さ、いじめられてるの?」
見ればわかるだろ、と思った。というか、見てたなら助けろ。あと、そんな当たり前のこと、いじめられている本人に軽々しく聞くな。
私が何も言わないでいると、彼はそのまま散らばっている物を拾い始めた。もういらないから、拾わなくてもいいのに。
「何年生?」
拾った物を抱えながら質問してきた。
「一年…」
「ふうん」
男は、自分で聞いてきたくせに、なんの興味もなさそうだった。
「家まで送るよ」
普通なら、知らない男にそんなことを言われて、はいお願いします、なんてならない。でも私はそのとき普通じゃなかった。
大事な物をボロボロにされて悲しかったのもあるし、その男がモデルみたいにかっこよかったからかもしれない。私は、断ることなく、男にアパートまで送ってもらった。一緒に歩くとき、涙を見せないように、自分の長い髪で顔を隠すようにした。
「家族は?」
私の家の中を見ながら、男が言った。別に家に入らせたわけではない。勝手にドアから顔を突っ込み、家の中を見渡しているのだ。図々しいとも思わなかった。
「いない」
「なんで?あっ」
男がテーブルに置かれた遺影と、遺骨に気がついたようだった。
「お母さん、死んじゃった……」
聞かれてもいないのに、口から勝手に言葉が出ていた。同時に涙も勝手に流れてくる。
「わ、私、今日、が、学校辞めてきたの……このア…パートも……もう…家賃…払えないから……だから…早く仕…事見つけて…働かないと……」
嗚咽でうまく話せなかった。
「そっか。お母さん、君にそっくりだね」
男は、そんな私を見ても、同情するような態度はしなかった。
「家、お邪魔してもいい?」
「…う…ん」
見ず知らずの若い男を、家に上げることがどれだけ危険なことか、わかっている。
押し倒されて犯されるかもしれない。そのあと殺されるかも。でも、もうどうでもよかった。殺してくれるなら、それでいい。そうじゃないなら、近いうちに自分で死んでもいいかも。
そうだ、どうせ死ぬならその前に、この男に、女にしてもらうのもありかもしれない。正直、こんな顔のいい男、そんな簡単に出会えるとは思えない。それに、初めてはやっぱり、かっこいい人がいい。
そんなことを考えている私を放置して、男は勝手に冷蔵庫を開けた。
「なんもないね」
こっちの気も知らないで、いきなり冷蔵庫を開けるなんて、何を考えているんだ。
「何…してんの…」
涙を拭きながら尋ねた。
「何か作ってあげようかと思って。でもなんも食材ないね」
あるはずないだろう。母が倒れてからずっと忙しくて、学校に行って勉強して帰って、自炊なんかしてる時間はなかった。それからずっとインスタントだったり、食べなかったり。母が亡くなって、学費を納められないほど生活が苦しいのだ。ここ最近は、水道水しか飲んでない。
「何も食べてないでしょ」
どきっとした。なんでわかるんだろう。
「うん」
「ファミレスでも行く?」
「……行く」
この男に会ってから、自分が自分じゃないみたいだ。こんな提案、絶対うなづかないし、そもそも私は、男が苦手、いや嫌いなのだ。
学校で人気のあった男たちが数人、私に告白してきて、振られた逆恨みから、取り巻きの女たちが私を攻撃してくるようになった。高校に入ってからも、何回も告白されて、男性が苦手だと断っても、しつこく誘ってきて、うんざりだった。
容姿は自慢だけど、自慢じゃない。だって男が寄ってきて迷惑だから。
でもなぜか、この男は私の容姿目的じゃない気がした。
「あんま泣かない方がいいよ」
「……なんであなたにそんなこと言われなきゃならないの」
ファミレスに向かっている途中で、急に言われてむかついた。私が泣こうが笑おうが、私の勝手だ。今日会った名前も知らない男のくせに、偉そうに言うな。
「笑ってた方が幸せが逃げないと思う。あとそっちの方がかわいい」
前言撤回だ。こいつもきっと私の顔が目的で、近づいてきたのだ。
「笑えるなら、私だって笑いたい」
それができないから困っているのだ。ずっといじめられてきて、うまく笑えない。それに、たった一人の、笑い合える家族も逝ってしまったのだ。
「まあ、そうだよね」
「あなたこそ、笑ったらどうなの」
口調がきつくなってしまう。でも、彼は何も気にしていないようだ。
「笑えるなら、俺だって笑いたい」
「ねえ、真似しないで」
おかしい。少し笑ってしまった。きっとこの男の顔がいいせいだ。この詐欺師め。
「ごめん」
男も薄い笑顔を見せた。かっこいいとは思ったが、私は騙されない。
ファミレスに着いてから思った。お金なんて、持っていない。
「俺が払うから、好きなの食べな」
私の心を見透かしたように男が言った。
なんなのあなた。どうしてそんなに優しくしてくれるの。名前も知らないのに。
そう思ったが、口にはしなかった。
「うん」
それしか言えなかった。
ファミレスなんて何年ぶりだろう。お父さんが生きているころに三人で行った以来だ。メニューを見てオムライスが食べたいと男に伝えようとする。
「…オ…オム…ライス」
「いっぱい食べなよ」
「なんで、食べてないってわかったの…」
それはうまく言葉にできた。
「腕、ガリガリ」
言われて気がついた。私の腕も、脚も、骨と皮しかないくらいガリガリで不気味だった。お腹を触ってみると肋骨が浮き上がっていて、まるで骸骨女だ。
自分の顔を触ってみる。身体と同じように骨ばっていて、よく自分の容姿が自慢だのと言えたものだ。恥ずかしくて顔が赤くなったのを感じる。
「だから、いっぱい食べな」
「……ありがと」
今日初めて、男にお礼を言った。
久しぶりで、一人前すら食べられなかった。余ったオムライスは、男が食べてくれた。
「アパート、いつ退去?」
ファミレスの帰りに、男が尋ねた。
「なるべく早くって言われてる。だから、数日中には出なきゃかな」
「そっか」
「うん」
いつの間にか、自然と話せるようになっていた。彼の口数が多くないところが、心地よかった。
「俺の家、住んでもいいよ」
「え?」
なぜ。どうして。そこまでよくしてくれる理由がわからない。骨と皮ばっかりのガリガリ女で、色気も魅力もないのに。そういう特殊な性癖の持ち主なのだというのか。
「いいの?」
「うん」
なぜ。私はそう言われて喜んでいるのだろうか。もしこの男の家に死体があったら。私もその死体の一つにされるとしたら。なんて。そんなことは思わなかった。危ない人じゃないって、なんとなくわかった。
「あ、でも」
お母さんの遺影や、遺骨はどうしよう。今ある家具とか。水道とか電気の解約もしないと。
「手伝おうか?」
私が何か言う前に、彼が口を開いた。
「うん。手伝ってほしいかも」
「いいよ。じゃあ明日退去しよう」
「え?そんなすぐに?」
「着替えとか、必要な物は今から持ってくればいいよ。お母さんの写真も遺骨も、ね」
その言葉、すごく嬉しかった。普通気味悪がるんじゃないか。でも、名前も知らない人間に、家に住んでいいなんて言うくらいだ。普通じゃないのはわかっていたはずだ。
アパートに着くと、すぐに荷造りを始めた。彼も、一緒に手伝ってくれた。
「家電とか、必要?それなら明日業者に頼んで運んでもらうけど」
「んーん。いい」
服とかは、全部彼が持ってくれた。私は、お母さんの写真と遺骨を持った。
「重くない?ごめんね」
不思議と、彼を気遣う言葉が出た。
「大丈夫だよ。ありがとう」
彼がお礼を言ってくれたときの、柔らかい笑顔がかっこよくて、かわいくて、心臓が飛び出そうだった。
「明日買い取り業者に来てもらうことにするけど、いい?」
「うん。お願い」
彼にそう言うと、ずっと住んできたアパートに頭を下げた。
「どうしたの?」
「ん。お世話になりましたって思って」
「そっか」
彼はそう言って、先に歩き始めてしまった。
「あ、待って」
置いていかれないように、小走りで追いかける。ゆっくり歩いてくれていたので、すぐに追いついた。
「ねえ。なんでこんなによくしてくれるの?」
「なんでだろ……なんとなくかな」
「変な人」
「まあね」
かっこよくて、スタイルもよくて、優しくて、ちょっと不愛想で、ちょっといいなって思った。
「退去費用は、俺出すよ」
「あ」
そうだ。退去するのに、クリーニング代が敷金の金額を越えたら、その分負担しないといけない。でも、私にそんなお金はなかった。
「お金、ないでしょ」
「う、うん。でも、あなた、大丈夫なの?お金あるの?」
「あるよ。いっぱい。だから気にしないで」
二十歳前後に見える彼は、どうしてそんなにお金を持っているのだろう。そもそも、彼の家って、彼の家族もいるんじゃないだろうか。じゃあ、家族が相当なお金持ちということなのか。
「ねえ、あなた。家族は?」
「いない」
即答だった。でもだからこそ親近感を覚えた。
「私と一緒ね」
「そうだね」
返事は冷たかったが、優しい笑顔だった。
さっき行ったファミレスまで戻ってくると、彼は「もう少しだ」と言った。
駅のすぐ近くで、大きなマンションがいくつも建っている。彼の家は、そのマンションの部屋らしい。
「すごい。こんな高い階に住んでるの?」
「結構風で揺れるよ」
「景色よさそう」
「景色はいいよ」
エレベーターで上がりながら、そんな話をした。
彼の部屋は二十五階だった。こんな高いところ、来たことがない。
「すごい」
部屋に入って、それしか言えなかった。綺麗な部屋。広くて、大きな窓から見える夜景は最高だった。
「こっち来て」
彼に呼ばれて行くと、部屋があった。ベッドだけがぽつんと置かれている。
「妹が使ってた部屋だけど、ベッドのシーツとか、全部クリーニングしてあるから、使って」
「妹さんがいたの?」
彼は、家族はいないと言った。ということは、別れたか、亡くなったのだと思った。いや、別れたのであれば、いない、の一言で終わらせないだろう。つまり、亡くなったのだと思った。
「死んだよ」
そう言った彼の顔が、すごく寂しそうだった。
リビングに行くと、妹さんの写真があった。彼に似て、かなりの美人だった。ただ少し幼い。私よりも年下だろうか。
「俺の四個下。生君と同じ年齢だね」
そうか。生前の写真だから幼いんだ。あれ、じゃあ彼は四個上。私はそこで、彼が二十歳なのだと知った。
「あの、ごめんなさい。年上だってわかってたのに、生意気で」
「いいよ。今のままで。その方が嬉しい」
「ほんと?」
嬉しいと言われて、こっちまで嬉しくなった。
「うん。あ、そうだ」
彼はそう言うと、キッチンへ走っていった。
「これ」
私にプリンとスプーンを渡してくる。
「これは?」
「ファミレスで、デザートメニューずっと見てたから、甘いの好きかなって」
気づいていたのか。彼の言うとおり、オムライスで満腹にはなってしまったが、甘いのは大好物だった。節約と思い、普段の食事からは遠のいていたが、本当はずっと食べたかった。
「いいの?」
「いいよ。なんとなく買ったんだけど。ちょうどよかった」
「ありがと。ねえ、一緒に食べよ」
私がそう言うと、彼はうなずいた。
一つのプリンを二人で半分ずつ食べた。「おいしいね」と私が言うと、彼は子供のような笑顔を見せた。
「こっちがお風呂。先に入っていいよ。湯舟はお湯張ってもいいから、好きにして」
彼はそう言ってくれたが、大きな湯舟で、時間がかかりそうだったので、シャワーにした。置いてあるシャンプーやトリートメントは、全部サロン専売品の高いもので、使うのが申し訳なかった。使ってみると、自分長い髪が驚くほどサラサラになった。サロン品ってすごい。市販品でも、頑張って髪の毛の手入れしてきた私は少し悔しくも思った。
「ねえ。シャワーありがと」
髪の毛も乾かしてから、私がリビングにいる彼に言うと、何やらパソコンをいじっていた。
「何してるの?」
「仕事だよ」
「何のお仕事?」
「これは株」
見ると難しそうな画面で、混乱しそうになった。株とかって難しいイメージだが、簡単なのだろうか。簡単じゃないにしても、それで稼いでるからこそ、こんなマンションに住めるのだろう。才能がある人ってすごい。
「俺も、もう少ししたら、風呂入って寝るから。気にしないで寝ていいよ」
「ん。ねえ」
「なに?」
「本当に、なんでこんなによくしてくれるの……私、何もお礼できるものなんて、ないよ?」
彼の真意が、まったくわからなかった。なんとなくと言っていたが、それでもここまでしてくれるなんて。
「別にいいよ。ただ俺が親切にしたいからしてるだけ」
「誰にでもそうなの?」
それはそれで嫌だった。どうしてだろう。もし私じゃない人にこんなに優しくするって考えたら、なんだかむかついた。私どうしたんだろう。
「誰にでもってわけじゃないかな。あの三人には絶対にしないだろうし」
「ん。ならいいけど」
なにがいいんだ。私は何様なんだと自分で思った。まるで彼女にでもなったつもりか。恥ずかしい。
「寝るね。おやすみ」
「うん。また明日」
恥ずかしさから部屋に行こうとした私に、また明日と言ってくれたのが嬉しくて、立ち止まった。
「うん!また明日ね!」
彼にそう言った私の顔は、ここ数年で一番の笑顔だったと思う。
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