最後の晩餐

土屋正裕

最後の晩餐

平成から令和に改元され、内憂外患に揺れる日本。世情が不穏になる中、東京の世田谷に暮らす児玉家を襲った悲劇。この国に希望の未来はあるのか?



主な登場人物



児玉敏雄こだまとしお


この物語の主人公。埼玉県本庄市出身。大手旅行代理店に勤務している。



児玉智子こだまともこ


敏雄の妻。旧姓・横山よこやま。神奈川県川崎市出身。専業主婦。



児玉伸人こだまのぶと


敏雄の一人息子。23歳。大学を休学し、自宅に引きこもっている。



山中里美やまなかさとみ


児玉家の隣家に住む主婦。智子と親しい。



篁尋海たかむらひろみ


伸人の従姉妹。長い黒髪とつぶらな瞳が印象的な幸薄そうな少女。



片山昭彦かたやまあきひこ


元公認会計士の経営コンサルタント。株式投資でかなりの財を成す。彫りの深い顔立ちだが純粋な日本人。紳士的で話題が豊富。孤独死はしたくないと思っている。



最後の晩餐



児玉家の夕食はいつも遅く、家族全員が集まることはほとんどなかった。



令和3年(2021年)2月1日夜、いつものように敏雄は世田谷の自宅に帰宅した。

「ただいま」

とも言わず、玄関で革靴を脱いでスリッパに履き替える。

「お帰りなさい」

の声も聞こえてこない。

児玉家では日常的な光景だった。

ダイニング・キッチンに入ると、青ざめて疲れた顔をした妻の智子が椅子に座っていた。

薄いビニール製のテーブルクロスの上には、すっかり冷め切って白く凝固した脂肪をまとった焼豚の薄切りが青い皿に並べてあった。

智子は眠そうに敏雄を見上げた。

敏雄は黙ってショルダーバッグを椅子の上に置き、小脇に抱えていた濃い灰色のコートを背もたれに掛けた。

そして、面倒臭そうに背広のボタンをひとつずつ外していった。

東京は暖冬で日中は汗ばむくらいの陽気であり、とても2月とは思えない暑さだったが、敏雄は几帳面にネクタイを締め、額にはうっすらと汗を浮かべていた。

智子が沈んだ声で言った。

「お食事は?」

敏雄は脱いだコートを丸めながら、

「もう済んだよ」

と言って椅子のバッグの上に置いた。

「なにを食べたの?」

「ラーメン」

「どこで?」

「駅前のラーメン屋。6時ごろかな」

「じゃあ、お腹すいたでしょ。ごはん、温めましょうか?」

智子が席を立とうとするのを、

「いいんだ。もう食べないよ」

と言って制した。

「この頃、小食になったのね」

敏雄はダークグレーの背広を脱いで、背もたれに載せた。

「腹が出てきたからね。カロリーを控えてるんだ」

「ラーメンはカロリー高いでしょ」

敏雄はネクタイを引っ張って緩めた。

「それに塩分が高いわ」

「スープは残したさ」

敏雄は腕時計のベルトを外した。智子はテーブルの上に目を落とした。

「これ……」

智子は白い大きな封筒を示した。敏雄はそれを手に取った。

「今日、学校から届いたの。伸人の復学手続き」

敏雄は封筒を広げ、薄い用紙を取り出した。

「本人にはまだ言ってないけど……」

智子は遠慮がちに言った。

敏雄は大学の復学手続きの用紙に目を通した。

締め切りは3日後。回答がなければ自動的に退学になる、という素っ気ない説明だった。

「明日には学校に出さなきゃいけないじゃないか」

敏雄は怒気を含んだ声で言った。

智子は顔を曇らせた。

「だから言ってるんじゃない」

「伸人はなんて言ってるんだ?」

「何も……」

敏雄は再び用紙に目を向けた。

氏名も住所も空欄のままである。

「勝手に書いて出せばいいじゃないか」

「だって本人にやる気がないんじゃどうしようもないじゃない」

「今時、大学も出さないでどうするつもりだ?高卒なんて、どこも雇ってくれないぞ」

智子はため息を吐いた。

しばらく沈黙が続いた。

「伸人は?」

「自分の部屋」

「ちょっと呼んでこいよ」

「呼んだって出てこないわよ」

テーブルの上に置きっ放しのサラダが物語っていた。

薄切りのキュウリは干からびて白く変色していた。

「伸人!」

敏雄はスリッパをペタペタ鳴らしながら階段に向かった。

「伸人、ちょっと出てこいよ!」

敏雄はよく通る声で息子の伸人を呼んだ。

エプロンを着けたまま智子も2階に上がってきた。

「伸人!伸人!」

敏雄は伸人の部屋のドアノブをつかんだ。

ドアは内側から施錠されている。

敏雄はドアを拳で叩いた。

「おい、伸人!聞いてるのか?開けろ!」

何度も叩いているうちにドアが開いた。

「うるせえんだよ」

青黒い隈を浮かべた顔をのぞかせ、伸人はだるそうに言った。

「伸人。ちょっと話があるんだ。下に来いよ」

伸人はボサボサに伸びた頭髪をバリバリ掻き毟った。

白い雲脂が飛び散るのが見えた。

「話って何だよ?」

「いいから下に来いよ。話がしたいんだよ」

敏雄は努めて感情を抑えつつ、穏やかな口調で言った。

伸人は長いため息を吐いた。

「俺は話なんかねえよ」

いかにも億劫そうに背を丸め、両手をブラリと垂らしている。

「伸人。お前、これからどうするつもりなんだ?」

伸人は顔を背けた。

「学校には行かないし、働くわけでもない。昼と夜を取り違えたような生活をしていて、それで社会に出てやっていけると思うのか?」

「…………」

「それとも、何かやりたいことでもあるのか?」

「…………」

「お前がどんな人生を選ぼうと、父さんは文句は言わない。できることなら協力するし、相談相手になってやりたいと思ってるんだ」

「…………」

「でも、今の伸人を見ていると、これから何をしたいのか、さっぱり分からないんだよ」

「…………」

「何をしたいのか知りたいんだよ。だから話をしたいんだ」

伸人は終始、黙っていた。

口を尖らせ、うつむいている。

敏雄の言わんとすることは分かっているが、話をしたところでどうせ分かってはくれないのだから、こうして黙っているしかないのだ、と伸人は思っていた。

「さあ、分かったら下に来て話をしよう」

敏雄は伸人の肩をポンと叩いた。

伸人は即座に拒否した。

「話なんかしたくねえんだよ」

敏雄は呆れたように言った。

「お前、話もできなくなったのか?それじゃあ人間のクズじゃないか」

自分がこんなに心配して言っているのに、その言い草はなんだと怒りが込み上げてきた。

つい感情的になり、思わず声を荒げた。

「うるせえな。放っておいてくれよ」

そっとしておいてくれればいいのに、どうしていつも大人は干渉してくるのだ。

自分は外に飛び出して親に迷惑をかけているわけではないのだ。

ただ自分の部屋にいるだけで、なぜこうも責められなければならないのか。

「放っておけるわけないじゃないか!俺はお前の親なんだぞ!」

敏雄は声を震わせて怒鳴った。

敏雄の背後で智子は黙って事の成り行きを見守っていた。

時折、額に垂れてくる前髪をそっと耳の後ろに掻き上げた。

「伸人。お前、いつからそんな人間のクズになったんだ?」

またか、と伸人は思った。

だから放っておいてくれと言ったじゃないか。

話ができないのはそっちの方だろう。

これだから親とは話なんかしたくないんだ。

「話ができなきゃコミュニケーションも取れないじゃないか。それで社会に適応できると思ってるのか?」

敏雄は情けなくなった。

昔はもっと素直だったのに。

いつからこんなに聞き分けのない子になったのか。

「とにかく、下に降りよう。話はそれからだ」

敏雄は伸人の左腕をつかんだ。

伸人が子供っぽく叫んだ。

「やめろよ!やめてくれよ!」

「いいじゃないか。もっと素直になれよ!」

「やめろって!」

伸人は敏雄の手を振りほどいた。

敏雄を押しのけ、階下に駆け下りた。

「伸人!」

敏雄は伸人を追った。智子も続いた。

「放っといてくれって言ってんじゃねえかよ……」

伸人はダイニング・キッチンに駆け込むと、冷蔵庫からミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出し、じかに口をつけて飲んだ。

敏雄はテーブルの上に広げたままの学校の復学用紙を取り上げた。

「伸人。大学に行くか行かないかは、お前が決めることだ。もう義務教育じゃないんだし、いつまでも甘えてるわけにはいかないんだ。行きたくなければ行かなくてもいい。ただし、勉強する気がないんだったら、仕事を見つけてちゃんと働くんだ。このまま何もせずにダラダラ過ごすのだけは許さんぞ」

「…………」

「伸人。お前も知ってるだろうけど、今は大学くらいは出ておかないと、働こうにも雇ってくれるところはないぞ。このままだと伸人の最終学歴は高卒だ。働くと言っても、この不況だし、アルバイトですら難しいかもしれないぞ。体力がないと肉体労働もきついし、人と満足に話もできないんじゃ、どこで働くにも苦労するぞ。学校は社会生活の訓練の場なんだから、嫌なことでも我慢して、精神を鍛えておかないと……」

敏雄の説教にうんざりしたのか、伸人はペットボトルを冷蔵庫にしまうと、そのまま2階に戻ろうとした。

「伸人、待て。まだ話は終わってないんだ」

敏雄が伸人の肩をつかむと、伸人はその手を振り払って言った。

「うるせえって言ってんだよ」

「親に向かってうるさいとはなんだ!こんなに心配してやってるのに!」

親子はもみ合いになった。

ついこの前までは体力では息子に負けるとは思わなかった敏雄だったが、想像以上に強い伸人の膂力に押し切られ、ダイニング・ルームの床に突き飛ばされてしまった。

鈍い物音がして、敏雄は食器棚に後頭部を強くぶつけた。

「伸人!」

智子が叫んだ。

伸人は呆然と突っ立っている。

「あなた、大丈夫?」

智子が駆け寄ると、敏雄は目を閉じて眼鏡を外した。

「ちょっと、手を貸して……」



智子に立たせてもらい、敏雄は椅子に座ると後頭部に手をやった。

出血はしていないが、相当に強く頭を打ったらしい。

「病院に行ったら?」

智子がしきりに心配したが、

「いいよ。大したことない」

敏雄は気丈に応えた。

「でも、心配じゃない」

「何が?」

「伸人のこと」

「どうしろって言うんだ?」

「やっぱり、精神科の先生に診てもらった方が……」

「伸人を精神病院に閉じ込めろって言うのか?」

「そんなこと言ってないわよ。ただ、相談するだけでも……」

「これは親子の問題なんだ。何も知らない医者に何ができるって言うんだ」

「でも、手遅れにならないうちに……」

「伸人を病院に入れたら、ますます社会から孤立するだけじゃないか。嫌がっても学校に行かせるべきなんだよ」

敏雄は精神科医に偏見を持っていた。

なんでも「心の病」にして患者を薬漬けにするだけの商売。まともな連中ではないと考えていた。

家庭内の問題は、あくまでも家庭内で解決すべきであり、特に親子の問題は親でなければ分からないと信じていた。

赤の他人に何が分かる。伸人の場合は甘えているだけで、もっと厳しく接するべきだと思った。



伸人は今年で23歳になる。

都内の私立高校を卒業後、中野の大学に入学した。

本人は「デザインの勉強をしたい」と言っていたが、入学後まもなく休学してしまった。

理由を訊いても返事ははかばかしくない。

教授や学生とそりが合わないのかと思ったが、ただなんとなくやる気が出ないのだという。

それから4年近く伸人は自宅に引きこもっている。

大学は休学を続けていたが、4年制大学の修学年数が上限なので、今年復学しなければ大学中退ということになってしまうのだった。

敏雄も智子もずいぶんと心配し、煮え切らない態度の伸人と激しくやり合うこともあったが、最近は腫れ物に触るような扱いになっていた。

伸人は一日中部屋に閉じ籠もり、パソコンで動画を見たり、ネットサーフィンをしている。

このまま復学も就職もせず、一体何をするつもりなのか、敏雄も智子もさっぱり分からず、不安を募らせるだけなのだった。



翌朝。

敏雄はストライプのネクタイを結びながら朝の食卓に着いた。

キッチンのガスレンジの上で豆腐と葱とワカメの味噌汁が煮立っている。

智子はぬか漬けを刻んでいたが、どこか上の空だった。

「汁が沸いてるよ」

見かねて敏雄が言った。

一度では伝わらず、二度同じことを言って、ようやくガスの火が消された。

火傷しそうなくらい熱い味噌汁とごはん、過剰発酵したのか酸っぱいぬか漬け、木っ端のような鮭の切り身、少し力を加えれば割れてしまう殻の薄い鶏卵。

以上が今朝の朝食の献立だった。

敏雄は朝刊にざっと目を通し、箸で味噌汁を掻き回した。

椀の底に沈殿していた味噌がワッと広がる。

箸の先にへばりついたワカメを椀の縁になすりつけ、熱い汁を一口含んだ。

目は新聞の活字に移る。

今日も新聞は新型コロナウイルスの感染拡大のニュース一色だった。



令和元年(2019年)末から始まった新型コロナウイルスの世界的な感染拡大(パンデミック)の影響を受け、国際オリンピック委員会(IOC)は2020年3月24日、同年夏に開催予定の東京五輪を「2021年夏まで延期する」と決定した。

2019年11月22日、中華人民共和国湖北省武漢市において「原因不明のウイルス性肺炎」が初めて確認された。

その後、武漢市内から中国大陸全土に感染が拡大。さらに中国以外の国・地域に伝播していった。

新型コロナウイルスの特徴は、これまでの重症急性呼吸器症候群(SARS)や中東呼吸器症候群(МERS)などと同じとみられていたが、過去には見られなかった潜伏期間の長さ(約2週間)から全世界に瞬く間に拡大し、2020年1月30日、世界保健機関(WHО)は「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」を宣言した。

同年2月28日、WHОは新型コロナウイルスが世界規模で流行する危険性について最高度の「非常に高い」と評価。

同3月11日、WHОは「パンデミック(世界的流行)相当」と発表した。

航空機などの交通機関が格段に発達したことを背景に感染者は短期間に世界規模で爆発的に急増し、2020年10月2日現在、感染者は世界215の国と地域で約3400万人、死者約102万人を記録した。

新型コロナウイルスの特徴として、咳やくしゃみで出た飛沫や手に触れたものを介して人から人に感染し、感染から発症までの期間は2日から2週間と幅がある。

宿主は感染したことに気付かないことが多く、その間に多くの人々に感染させる。

症状は発熱、咳、息切れ、味覚・嗅覚の異常(味や匂いが分からない)、寒気や悪寒、頭痛、喉の痛み、筋肉痛など。

重症化すると患者は無自覚のまま血液中の酸素濃度が危険な水準にまで低下し、呼吸困難の症状が出てから病院に搬送されても酸素吸入が間に合わず、呼吸不全で死亡する。

特効薬はなく、ほとんどの人間が免疫を持たず、有効なワクチンも存在しなかったため、全世界の人々を恐怖に陥れた。

世界各国が人の移動を厳しく制限した。空港と国境は閉鎖され、人々の外出を禁止するロックダウン(都市封鎖)が実施された。

世界中が事実上の鎖国状態に突入する中、日本政府は4月7日、史上初の「緊急事態宣言」を発令し、国民に不要不急の外出を控え、人が多く集まる飲食店に営業の自粛を呼びかける事態となった。

世界経済に与えた影響は甚大であり、国際通貨基金(IMF)は2020年の世界のGDP(国内総生産)成長率はマイナス4.4%になるとの予測を発表した。

これは2008年9月15日に起きたリーマン・ショック(アメリカ合衆国の投資銀行リーマン・ブラザーズ・ホールディングスが経営破綻したことによる世界規模の金融危機)でのマイナス0.1%をはるかに上回る数値であり、1929年の世界恐慌※以来の大恐慌となった。

日本経済に与えた影響も深刻であり、中小企業の倒産、従業員の解雇、雇止め、賃下げ、賞与減が相次いだ。

日本政府は緊急経済対策として23兆円の赤字国債発行を決定。売り上げが落ち込んだ中小企業などに資金援助し、特別定額給付金として全国民に1人当たり10万円を給付した。

令和2年(2020年)の日本の国内総生産(GDP)成長率はマイナス4.8%を記録し、平成21年(2009年)以来11年ぶりのマイナス成長となった。



※世界恐慌。1929年9月ごろからアメリカの株価が大暴落し、10月24日の株式市場の暴落で始まった世界的な大恐慌。1929年から1932年の間に世界の国内総生産(GDP)は推定15%も減少した。個人所得、税収、利益、物価は下落し、国際貿易は50%以上も減少した。米国の失業率は23%に達した。農作物の価格は65%も下落した。世界恐慌の影響は第二次世界大戦の終結まで続いた。



日本政府は平成25年(2013年)以降、「異次元の量的緩和」を続けてきた。国が発行する国債を日本銀行が買い上げることで市中に出回るカネを増やし、株価を上げ、景気を上向かせる政策だ。

この政策は一見、成功したかのように見えたが、目隠しをして綱渡りをするような危険を孕んでいた。

日銀が国債の買い上げをやめれば国債は大暴落する。平成27年(2015年)、日本国債は約152兆円発行され、うち約110兆円を日銀が買い上げている。

これほどの買い手がいなくなれば代わりの買い手はいない。国は高い金利では入札できないためカネが足りなくなり、財政は破綻してしまう。

財政破綻を防ぐには量的緩和を続けるしかないが、無秩序にカネを刷っていれば日本円の価値は下がり、インフレが止まらなくなる。

平成30年(2018年)、日本のマネタリーベース(日銀が供給する通貨)は500兆円にのぼり、日本の3倍の経済規模の米国(350兆円)をも上回る規模となった。

異常な通貨過多状態が続く中、日本でもハイパーインフレが発生する懸念が高まっていた。

意図的にインフレを起こし、日本円を暴落させ、日本の債務を削減しようとする政府と日銀の思惑に反し、日本ではこれまでインフレは起きなかった。

これは政府が発行する国債を預金金融機関が保有し、それを日銀が購入するという形を取っていたためである。

つまり、預金銀行が保有する国債を日銀が購入していたのである。日銀が預金金融機関から国債を購入する際、新しい円が増刷され、預金金融機関に支払いを行なう。

しかし、預金金融機関が新しく増刷された円を市場で貸出先を見つけることができないため、日銀に預金して日銀から預金金利を受け取っていたのである。

そのため、日本円の流通量が増加しながら市中に流入する量が少なく、インフレは起きなかった。

しかし、預金金融機関の保有する国債が枯渇した場合、日銀が金融緩和を続けるために政府から直接国債を引き受ける可能性がある。

政府債務は2018年の時点で1400兆円にのぼり、家計資産(1800兆円)を超えるのは時間の問題とみられていた。

日本経済を牽引してきた大企業は450兆円以上もの内部留保を貯め込んでいるという。大企業は内部留保を社員の給与引き上げには回さず、自社株買いに回し、自社銘柄の株価の下落を防ごうとする。

仮に米国市場が大暴落し、日本株も連動すれば、内部留保で自社株買いをした大企業は含み損になり、内部留保を使い果たした大企業は債務超過(デフォルト)に陥る可能性がある。

相次ぐ大企業の倒産で預金金融機関も連鎖倒産する事態になれば、日銀が国債を直接引き受けるしかなくなり、日本でもハイパーインフレが起きる可能性がある。



敏雄は何度もため息を吐きながら、テーブルの上に置いた新聞の活字を目で追っていた。

「いただきます」

遅れて食卓に着いた智子はトーストにマーガリンを薄く塗った。

トマトとレタスのサラダにマヨネーズをかける。

野菜は驚くほどの高値だった。

敏雄は和食で智子は洋食。伸人の席はない。

伸人がまともに朝食を摂らなくなって久しかった。



小鳥のさえずりが聞こえてくる頃、伸人はようやく眠りにつく。

雨戸を閉め切った部屋で一日の大半を過ごす伸人にとって、両親が活動中の日中は何かと干渉されるため、睡眠時間に充てる必要があった。

昼夜逆転の生活を長く続けていると時間の感覚も狂ってしまい、朝になると眠くて起きていられない。

夜になると目が冴えて眠れない。

一晩中、パソコンの前に座ってネットをしたり、ゲームをして過ごすことになる。

いつも目の下に隈を作り、あくびばかりして、麻薬中毒者のように生気のない目をしていた。

人生で最も多感で希望に満ちたはずの青春時代を自ら狭い部屋の中に封じ込めてしまっているのだ。

「どうせ死ぬんだから、どうでもいいよ」

というのが伸人の口癖だった。

社会と接点のない伸人にとって、インターネットは唯一の社会との窓口だった。

ネットの情報は暗く悲惨なものばかりだ。

新型コロナウイルスで人類は滅亡する。社会秩序は崩壊する……。

破滅願望を抱えた者たちが集まるネットの世界にどっぷり浸った伸人は、もはや学校に行くことも、外に出て働くことにも何の意味も見出せなくなっていた。

「日本人は福島原発の放射能※で癌や白血病になって早死にする」

というのが伸人の持論だった。

「フクシマはチェルノブイリ※の2倍以上だ。関東の人間は毎日、放射能を浴びている。そのうちみんなバタバタ死に始めるさ」

ネットで仕入れた情報を元に伸人は暗い日本の未来像を熱っぽく智子に語るのだった。

智子から聞いた敏雄が、

「考えすぎだ。原発事故では誰も死んでないじゃないか」

と言うと、

「東京は水も空気も汚染されている。みんな放射能にやられて頭がおかしくなってるんだ。もう日本はおしまいだ」

と狂ったようにわめき散らすのである。

敏雄は放射能を気にして外に出ようとせず、魚も野菜も食べようとしない伸人を時には厳しく叱責し、たまには外の空気を吸え、日を浴びて体を動かせと諭すのだった。

だが、伸人の態度は変わらなかった。

人間は皆、いずれ死ぬ。

どうせ死ぬのに頑張って生きるなんてナンセンスだ。

大人は「命の大切さ」なんて言うけど、生きる意味がないのに命に価値なんてあるはずがない。

俺は生まれてきたくて生まれたわけじゃないんだ。

親の都合で勝手に生んでおいて、勉強しろ、働け、嫌なら出て行けなんて、あまりにも身勝手じゃないか?

学校なんて面白くないし、やりたいこともない。

教師も同級生もつまらない奴ばかりだ。

くだらない暗記とイジメと恋愛ごっこ。他人と群れることでしか自分の存在を確かめられない連中だ。

生きていたくはないけど、死ぬほどの理由もないから仕方なく生きているだけだし、他人と関わるのが面倒だから引きこもるしかないのだ。

第一、政府だって言ってるじゃないか。

新型コロナの感染を避けるために不要不急の外出は控えてください、って……。

親父は毎日、外に出て行くけど、一体何をやっているんだ?

この国はもうすぐ終わる。

きっと首都直下地震※や南海トラフ巨大地震※が起きて、オリンピックもできなくなるだろう。

生き残った者は食料の奪い合いになり、生き地獄が待っているはずだ。

その前に核戦争が起きて何もかも消えてなくなればいいのに、と思った。



※福島第一原子力発電所事故。平成23年(2011年)3月11日、宮城県沖を震源とするマグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震により福島県双葉郡大熊町の東京電力・福島第一原子力発電所で起きた事故。地震と津波で稼働中の3基の沸騰水型軽水炉(BWR)が冷却不能に陥り、次々に炉心溶融(メルトダウン)と水素爆発を起こした。放射性ヨウ素換算で約90京ベクレルが放出され、国際原子力事象評価尺度(INES)で最悪のレベル7となった。


※チェルノブイリ原子力発電所事故。昭和61年(1986年)4月26日、ソビエト連邦(現在のロシア連邦)ウクライナ共和国のチェルノブイリ原子力発電所で起きた事故。試験運転中の黒鉛減速炉(RBMK)が暴走し爆発。大量の放射性物質が環境中に放出され、消防士ら31人が死亡。放出された放射性物質の総量は14エクサベクレル(広島原爆500発分)とされ、半減期30年のセシウム137で1平方km当たり1キュリー(370億ベクレル)以上の汚染を受けた土地は13万平方km(ギリシャの総面積と同じ)に及んだ。


※首都直下地震。関東地方南部の神奈川県・東京都・千葉県・埼玉県・茨城県南部で歴史的に繰り返し発生するマグニチュード7級の大地震の総称。フィリピン海プレートが北アメリカプレートの下に沈み込む相模湾はプレート境界の相模トラフを形成しており、相模トラフ領域を震源としてマグニチュード8級の巨大地震が200~400年間隔で発生している。これとは別に相模トラフより北側の領域を震源域とするマグニチュード7前後の地震が数十年に一度発生しており、これらを総称して南関東直下地震と呼ぶ。発生時の被害や影響が甚大であり、内閣府の中央防災会議は平成15年(2003年)に「日本の存亡に関わる喫緊の根幹的課題」と位置付けた。間接的被害は全世界に長期間及ぶと考えられている。


※南海トラフ巨大地震。フィリピン海プレートとアムールプレートとのプレート境界の沈み込み帯である南海トラフ沿いが震源域と考えられている巨大地震。約90~150年(200年以上)の間隔で発生し、東海地震、東南海地震、南海地震の震源域が一定の間隔を置いて、あるいは同時に連動して起こるとされ、マグニチュード9クラスの超巨大地震になる可能性もある。内閣府の中央防災会議は平成24年(2012年)8月、最大で32万3000人が死亡すると発表した。



敏雄は早食いである。

仕事に追われているうちに自然とそうなった。

食事は空腹を満たすためのものであり、食事中に会話らしい会話を交わすことはない。

今朝もそうだった。

飯をかき込み、汁を含み、あまり噛まずに飲み下す。

目は新聞の活字を追っている。

鮭の身を箸でほぐし、卵を割って小鉢に落とし、醤油を注ぐ。

機械的に手を動かすだけで、うまいとも何とも思わないのである。

智子も黙ってトーストをちぎり、ボソボソと口を動かすだけだ。

10分もしないうちに敏雄は朝食を済ませた。

心得たように智子が言う。

「お茶入れましょうか?」

「うん」

敏雄は智子が淹れた熱い番茶を口に含み、歯磨き代わりに口をすすいでから飲み込んだ。

その間も目は新聞に釘付けだ。

敏雄は新聞のテレビ欄を抜き取ってテーブルに放り投げ、丸めた新聞紙を小脇に抱えて席を立つ。

椅子に置かれたショルダーバッグと上着をつかみ、無言で玄関に向かう。

智子が、

「行ってらっしゃい」

と言っても返事はない。

玄関のスチール製のドアを閉める音と表門の軋む音が返ってくるのみだ。

残された智子は黄ばんだマヨネーズのかかったサラダを突きながら、朝のワイドショーをぼんやりと見る。

食事が済むと皿を片付け、洗い物をする。

洗濯機を回し、掃除機をかけ、2階のベランダに洗濯物を干す。

伸人は自室で寝ている。



昼過ぎになって伸人が階下に降りてきた。

明け方に寝て、昼頃起きるという生活が続いていた。

寝癖でインコのように跳ね上がった前髪を擦りながら、だるそうにダイニング・キッチンに入ってきた。

腐った魚のような生気のない目を瞬き、冷蔵庫の扉を開けた。

ペットボトルのミネラルウォーターをごくごくと喉を鳴らして飲んだ。

伸人は舌打ちを鳴らし、冷凍庫から冷凍食品の炒飯の袋を取り出した。

袋を開け、凍った炒飯を食器に放り込む。

電子レンジに入れ、ダイヤルを回す。

数分後、湯気を立てる炒飯を取り出して、面倒臭そうにスプーンでかき込む。

空になった食器とスプーンをシンクに置き、伸人は2階の自室に戻った。



部屋に戻った伸人は黒いトレーニング・ウエアに包んだ体をベッドにごろりと横たえた。

ぼんやりと天井を眺めていた伸人は枕の下から何かを引っ張り出した。

目の前で広げる。

女性の下着だ。

白いフリルの付いた水色のパンティだった。

伸人は両手でパンティを広げ、鼻孔に近付けた。

ほのかに甘い香りがする。

洗剤と柔軟剤の匂いだ。

伸人はパンティを顔に載せて自慰をした。

手淫を済ませると精液をティッシュにくるみ、床に放り投げた。

窓のカーテンから漏れた光が床に散乱する紙くずや漫画本、空のペットボトル、菓子の袋などを照らし出した。

光の中で浮遊する無数の埃はあてもなく漂い、ペットボトルの底に残ったコーラは琥珀色に輝いた。

昼でも薄暗い室内は空気清浄機の発する機械的な音が支配していた。



その頃、智子はスーパーで買い物をして帰宅するところだった。

去年の今頃は新型コロナウイルスの影響で感染予防のマスクや消毒液が品薄になり、買い物に行っても手に入らなかったのを思い出した。

10年前の東日本大震災の時、直接の被害がほとんどなかった東京でも買い占めが起こり、スーパーやコンビニの陳列棚から商品が消えたのも記憶に新しい。

いつ何時、商品が手に入らなくなるか分からない。

智子は「買えるうちに買っておこう」という癖が身についてしまい、買い物に行くと不必要なものまでつい買い込んでしまう。

だから、いつも両手に大荷物を持って歩く羽目になるのだった。

重たい買い物袋を提げて息を切らしながら歩いていると、不意に背後から呼び止められた。

「児玉さん。こんにちは」

智子は立ち止まって振り向いた。

「あら、こんにちは。ご無沙汰してます」

智子を呼び止めたのは児玉家の隣に住む山中家の主婦・里美である。

児玉家の隣に引っ越してきて、かれこれ20年の付き合いがあり、気さくな里美を智子は信頼していた。

智子も里美も布製のマスクを着けていた。

新型コロナ感染予防のため、政府は外出時のマスク着用と手洗いの徹底を呼びかけていたが、息苦しいマスクを着けたままの生活にもすっかり慣れていた。

里美も買い物帰りらしく布製の手提げ袋を提げていた。

里美はショートヘアを掻き上げて言った。

「あの、ちょっと言いにくい話なんですけど、いいかしら?」

智子は里美の様子が普段と違うことに気付いた。

微笑んではいるが、目は笑っていない。

どことなくよそよそしい態度だった。

「ええ、どうぞ。なんでもお話しして」

智子は大凡の事情を察した。

コロナの影響で今やどの家庭も生活に困窮しているのだ。



新型コロナの影響で世界各国の経済成長は低迷し、各国政府は金融緩和を進めた。

金融緩和余地のある国が軒並み金利を0%に利下げしたため、金融緩和余地のない日本と欧州は苦境に立たされた。

日本の財政状態は悪化の一途をたどっていた。

債務残高の対GDP(国内総生産)比で日本は主要先進国で最悪の水準だ。

日本は債務を削減する必要があったが、景気が回復しないため税収が上がらず、高齢化で社会保障費が増大し、国の支出は増える一方だ。

出生率も低く、若い労働人口が減り続けているため、日本人の稼ぐ力は衰える一方なのだ。

平成から令和に改元された2019年の税収は大幅に下方修正され、消費税が8%から10%に増税されたにも関わらず、税収は2兆円以上も減ったのである。

追い打ちをかけるような新型コロナの大流行で国の支出は増えるばかりであり、債務を減らせるような税収の増加も見込めない。

五輪の延期で五輪特需も望めず、新型コロナによる内需の冷え込みで日本経済はどん底に落ち込んでいた。

日本の景気回復には円安になることが必須だが、米国と中国の貿易戦争や英国の欧州連合(EU)離脱問題(ブレグジット)、中東情勢の緊迫化などからリスク回避としての日本円が買われやすい状態(有事の円買い)が続いていた。

また、欧州最大のドイツ銀行が破綻するのではないかとの憶測が流れ、ドイツ銀行が破綻した場合、欧州発の世界大恐慌が起きる可能性も指摘されていた。

この円高傾向が日本の景気回復の大きな障害となっていた。

有事の際の円高の原因は「円キャリー取引」にある。かつて日本円は他国通貨と比較して低金利だった。低金利の円で金を借り、ドル転して投資することで短期的にはさやが抜けた。この際、円売りの需要が生じ、円安になっていた。

金融市場にリスクオフの動きが強まると、保有している有価証券を売る動きが生まれる。その際、借りた円を返さなければならず、逆の「円買い」需要が生じる。有事の円買いは、このようなメカニズムで発生していた。

ところが、新型コロナの影響で世界各国が金利を引き下げたため、日本と諸外国の差がなくなった。そのため「円キャリー取引」が消滅したのである。

日本の財政状態が不安視される中、日銀による金融緩和への警戒が強まった。金融緩和は円安につながる。それを見越した円売りが進んだのである。

一方、急激な円安は「輸出産業にとっては追い風になる」と歓迎する声も聞かれた。

バブル崩壊後、30年にわたる長期不況が続いた日本経済を回復させるには、急激な円安以外にないという意見も多くあったのである。

しかし、円が暴落すれば輸入品が高騰し、国民生活は急激に悪化する。一方で、円安は景気回復の近道だ。

つまり、日本政府は円安で国民生活を犠牲にしてでも国家を延命させる道を選んだのであり、庶民の暮らしは今後も良くなることはないということを意味していた。



里美の夫はサラリーマンである。

伸人と同い年の息子がいて、大学に通っている。

家計のやりくりに苦心しているのはどこも同じだ。

以前、智子は里美に50万円を無利子・無担保で融資したことがある。

里美は6ヵ月の返済期限を守った。

信用のおける相手だったし、智子はできる限りの協力は惜しまないつもりだった。

「いいのよ。どうぞ、お話になって」

里美が話を切り出しにくそうなので、智子は自分から促した。

里美はうつむき加減に言った。

「あの、お宅の息子さんのことなんですけど……」

「え?」

意外な展開に智子は戸惑いを隠せなかった。

「うちの伸人がどうかしたんですか?」

「あの、お宅の息子さん、どこかで働いてらっしゃるの?」

「いいえ。どうして?」

智子は里美が言わんとすることを理解できなかった。

伸人が大学に行かず、自宅に引きこもっていることは誰にも明かしていない。

無論、里美にもだ。

「いや、夜になると一人で出歩いているのを見かけるから、どうしたのかと思って……」

智子は里美の話で初めて伸人が夜歩きしていることを知った。

終日、家の中にいるものとばかり思っていたが、伸人は敏雄も智子も知らないうちに外出しているらしい。

智子は悪い予感がして胸騒ぎを覚えた。



里美は右手で頬を押さえ、智子から目をそらして言った。

「それで、お宅の息子さんがね、こないだの夜……」

「こないだの夜?」

「ええ、3日前くらいかしら。うちに入ってきたの」

「えっ?」

智子は目を丸くした。

「入ってきたって言うか、出て行くところを見たのよね」

「出て行ったって?」

「そう。うちの塀をよじ登っていったの」

「伸人が?」

「そう。それで、外に干していた私の下着がね……」

「下着?」

「パンツがなくなっていたの」

「えっ!」

智子は小さく叫んだ。

心臓が震えた。目の前が暗くなった。

伸人が下着泥棒をしていたなんて!

それも、お隣に盗みに入っていたとは!

「あ、もちろん、息子さんに悪気があったとは思わないの。男の子だし、そういうものに興味があってもおかしくないし……」

里美が庇うように言ったが、智子の耳には何も入らなかった。

全身が熱くなり、今すぐ逃げ出したい衝動に駆られた。

「それに下着だけだから大したことじゃないし」

「…………」

「ただ、そのことは伝えておいた方がいいかなと思って」

「…………」

「気を悪くなさらないでね。息子さん、寂しかったんじゃないかしら。あんまり怒ったりしないでね。済んだことだし、もういいから」

智子は死にたいほど恥ずかしかった。

伸人は里美の下着を盗んで何をしたのか?

自分が生んだ子とは思いたくなかった。

「ご、ごめんなさい。伸人がしたことは本当に……」

「いいの、いいの。別に訴えようなんて思ってないから」

「盗まれたものは必ずお返ししますから」

「本当に気にしないで。お宅とは長いお付き合いなんだから」

「すいません。本当に申し訳ありません」

智子は何度も頭を下げた。



どうやって家に帰り着いたのか覚えていない。

足取りは鉛のように重く、家までの道のりが永遠の長さのように感じられた。

伸人は変質者になってしまったのか?

夜な夜な出かけては女性の下着を漁っているのか?

そのうちにそれだけでは満足できなくなって、恐ろしい性犯罪に手を染めるようになってしまうのではないか?

智子は伸人が里美の下着を盗んでいる光景を脳裏に思い浮かべた。

何故、伸人は里美の下着を盗んだのか?

伸人にはできる限りの愛情を注いできたつもりだ。

それなのに何故、伸人は親の期待を裏切ることばかりするのか。

伸人は恩を仇で返すようなことばかりしている。

勉強をするわけでもなく、働くわけでもなく、一日中部屋に引きこもって何をしているのか分からない。

そればかりか隣家に盗みに入り、里美の下着を盗んでいたのである。

これから伸人はどうなるのか。

ワイドショーを騒がせる猟奇的な犯罪者になるのではないか……。

次から次と不安が湧いてきて、恐怖に変わっていく。



智子は帰宅してからも悩み続けた。

ダイニングのテーブルの上で頭を抱えたまま、日が落ちても照明もつけず、石のように動かなかった。

ため息ばかり漏らし、このままでは気が狂いそうだった。

智子は初めて息子の死を望んだ。

(いなくなってくれればいいのに……)



すっかり暗くなってから智子は意を決したように2階に上がった。

伸人に様子を探りに来たと思われたくなかったから、足音を立てて階段を登った。

伸人の部屋の前に立つと、ドア越しに人の声が聞こえてきた。

伸人はネットでアイドルの動画配信を見ているらしい。

智子は拳を握り、ドアをノックした。

「伸人、開けなさい」

返事はない。

智子は続けてノックした。

「伸人、聞こえないの?ドアを開けなさい」

しばらくして、人声が止んだ。

「なんだよ」

ドア越しにだるそうな伸人の声が聞こえた。

「伸人。お母さん、話があるの。ここを開けてちょうだい」

「俺は話なんかねえよ」

伸人は大学の復学手続きのことだと思って相手にしない。

智子は構わず話を続けた。

「伸人、お願いだからドアを開けて。大事な話なの」

「だから、俺は話なんかしねえって言ったじゃねえか」

「じゃあ、話だけ聞いて。お母さんね、今日、山中さんと会ったの」

「…………」

「知ってるでしょ、山中さん。それでね、山中さんから聞いたの」

智子は胸が苦しくなった。



「山中さんの家でね、この前、下着が盗まれたらしいの」

伸人の返事はない。

智子は続けた。

「それでね、山中さんは伸人がいるのを見たって言ってるの」

「…………」

「山中さんはそう言ってるんだけど、伸人はどうなの?」

「…………」

「山中さんは許してくれるって言うの。だから、もし伸人がやったとしても、許してくれるそうよ」

「…………」

「誰にでも出来心はあるんだから、ちゃんと謝れば許してもらえるのよ」

「…………」

「それとも、伸人はやってないの?」

返事はまったくない。

智子は苛立ってきた。

「どうなの?伸人、返事をなさい」

「…………」

「やったことはもう仕方ないんだから、山中さんに謝って、盗んだものをお返ししなさい」

「知らねえよ」

伸人の声は明らかに狼狽していた。

「伸人、やったなら素直に謝りなさい。お母さんがついていってあげるから……」

「知らねえって言ってんだろ」

「じゃあ、伸人はやってないって言うの?ちゃんとそれを証明できるの?」

「…………」

「伸人、とにかくここを開けなさい。出てきてちゃんと話をしなさい」

重苦しい沈黙が続いた。

智子は決意した。

「伸人、開けないなら開けるわよ。いいのね?」

返事はない。

智子は手にした鍵を鍵穴に差し込んだ。

カチャッと音がして、ドアは難なく開いた。

智子はドアノブをつかんだ。

その瞬間、

「キャッ!」

伸人がいきなりドアを内側から押し開けたのである。

智子は額を思い切りドアにぶつけた。

「痛い」

あまりの激痛に智子はその場にしゃがみ込んだ。

「伸人!出てきなさい!」

「うるせえんだよ!勝手に入ってくるんじゃねえよ!」

伸人は荒れていた。

力任せにドアを閉めると、再び内側から施錠してしまった。



智子は諦めて階下に戻った。

洗面台の鏡を見ると、ぶつけた額が赤く腫れている。

智子は深いため息を吐いた。

(もうダメ。とても私の手には負えない……)

智子は伸人の更生をほとんど諦める気持ちになっていた。

これまではなるべくそっとしておいて、伸人が自分から立ち直る気になってくれるのをひたすら待とう、という考えだった。

だが、今の伸人は尋常ではない。

頭がおかしくなっているとしか思えない。

「東京の人間は放射能で頭がおかしくなってるんだ!」

などと叫ぶ伸人こそ、本当に頭が狂ってきたのではないか。

これから先、伸人がどんな恐ろしいことを仕出かすか、考えるだけでこちらの頭もおかしくなってしまいそうだった。

(やっぱり精神病院に入れた方がいい……)

智子は決心した。

伸人を病院に入れてしまえば、少なくともその間は安全が保たれる。

はっきり言えば、智子は伸人を突き放してしまいたかった。

伸人が自分から家を出て行ってくれたらどんなにいいだろう。

これまでに何度となく願ったことだ。

半年でも1年でも社会に出してしまえば、社会の荒波に揉まれて立派に立ち直ってくれるかもしれない。

だから、アメリカへのホームステイを計画したり、北海道の牧場に住み込みで働きに出してみようとしたり、夫婦でいろいろと話し合った。

だが、当の伸人は、

「うざってえ」

「かったりい」

「つまんねえ」

の一言で拒否した。

今の状態で伸人を社会に放流すればどのようなことになるか知れている。

人と満足に会話もできない。

規則正しい生活を送れない。

食事も睡眠も不規則で、食べたいときに食べ、寝たいときに寝るだけだ。

こんなことで社会に出て、まともな生活を営めるわけがない。



夜が更けた。

智子は夕食の支度もせず、敏雄の帰宅を待っていた。

空腹は感じず、お茶漬けを一杯食べただけだった。

味わう余裕もなく、ただ機械的に喉に流し込んだだけだ。

日付が変わる頃、ようやく敏雄の気配がした。

玄関に座り込み、革靴を脱いでいる敏雄の背中には疲労感が漂っていた。

「お帰りなさい」

敏雄は返事の代わりにため息を漏らした。

「お食事は?」

「いいよ。コンビニ弁当を食ってきた。なんだか腹にもたれる」

敏雄はビール臭い息を吐いた。

珍しいことだ、と思った。

普段は晩酌もせず、喫煙もせず、これと言った趣味もなく、仕事一筋の男なのだ。



敏雄は昭和37年(1962年)生まれ。

埼玉県本庄市出身の敏雄は東京の大学を卒業後、神田の神保町に本社がある大手旅行代理店に入社した。

神奈川県川崎市出身の横山智子と見合い結婚したのは敏雄が27歳のときだった。

智子は地元の高校を出て、都内の食品メーカーに勤務していた。

年がら年中世界中を飛び回る仕事だから、結婚しても敏雄が家にいる時間はほとんどなかった。

それでも敏雄は実家に金を出してもらい、都下に一軒家を建てたのである。

敏雄の実家は地主で、バブル期に土地を売り払い、かなりの財産を持っていた。

一人息子の伸人が生まれたのは敏雄が36歳、智子が31歳のときだった。

智子の実家は貧しく、狭い社宅に一家がひしめき合って暮らしていた。

兄弟がひとつの部屋を共有し、自分専用の部屋など考えられなかった。

子供部屋に憧れていた智子は、せめて伸人にはちゃんとした教育と家庭環境を与えてやりたい、と思った。

敏雄はたまの休日には伸人を連れて釣りに行ったり、近所の公園でキャッチボールをしたりした。

将来は一緒に酒を飲みに行くのが楽しみだ、というのが敏雄の口癖だった。

しかし、伸人は夫婦の期待とは裏腹に内気で人見知りをする子供だった。

落ち着きがなく、小学校では授業中に勝手に教室をうろついたり、先生の注意を聞かず、問題児とみなされることもあった。

伸人は発達障害※なのかもしれない、と智子は考えたが、敏雄はあまり気にしなかった。

家庭を顧みる余裕がなかった、と言った方が正しいのかもしれない。

海外への長期出張で家を空けることが多いため、敏雄は伸人とゆっくり話をすることもなかった。

それが伸人の人格形成に悪影響を与えたのかもしれない、と敏雄は自分を責めたこともあった。



※発達障害。身体や学習、言語、行動のいずれかにおいて発達が遅れた状態。コミュニケーションパターンが稚拙であるため人間関係で問題を抱える。原因は先天的であることがほとんどで、発達の遅れに伴う能力不足は生涯にわたり治ることはない。医学的な知識が一般にも広まり、未成年者に限らず様々な年齢における事例が認知されるようになった。



バブル崩壊後、不況の波は旅行業界も容赦なく襲った。

不景気になれば人々は当然、財布のひもを固く締める。

無駄な出費を極力抑えようとする。旅行などは無駄の最たるものだ。

「旅行業界って言うのは、世の中が平和な時しか成り立たない商売なんだよ」

敏雄が世話になった先輩はいつもそう言っていた。

国際化と交通機関の発達で地球は狭くなった。

1日あれば地球の裏側に行ける時代だ。

だが、ヒトとモノの移動が格段に自由で容易になったことで、様々なリスクも一緒に持ち込まれるようになった。

アメリカ同時多発テロ事件に代表される国際テロ。そして新型コロナのような疫病の世界的な大流行である。

人々はリスクを恐れてあまり外を出歩かなくなり、特に若者は海外に行かなくなった。

バブル崩壊以降、日本の若者が貧しくなり、海外旅行に行ける金がなくなったのと、インターネットの普及で家にいながら世界中の情報が容易に手に入る時代になったことが大きい。

さらにネットで誰もが格安の航空券やホテルを手配できるようになり、旅行代理店を介さずに安価で気ままな旅を楽しめるようになったことも大きかった。

「俺が若い頃は借金してでも、みんな海外に行きたがったもんだが……」

というのが敏雄の口癖だったが、時代は変わったのである。

すべてがそうではないが、今時の若者は伸人のように自宅に引きこもり、他人と関わることを避けようとする傾向が強い。

これも平和で豊かな時代の弊害なのか。

みんなが貧しかった時代は引きこもりたくても引きこもれる場所がなかったし、親も働かない子供を養えるだけの余裕がなかった。

(伸人に子供部屋を与えたことが失敗だったんじゃないかしら……)

しかし、伸人は敏雄も智子も知らないうちに外出し、あろうことか女性の下着を盗んでいたのだ。

疲れて帰宅した敏雄にそのことを伝えなければならないと思うと、智子は胸を締め付けられるような息苦しさを覚えた。



「あの、ちょっと話したいことがあるんだけど……」

智子は敏雄が脱いだ背広を受け取り、伏目がちに言った。

敏雄は不愉快そうにネクタイを解きながら言った。

「明日にしてくれないか?今日はもう風呂に入って寝たいんだ」

「大事な話なの」

「なんだよ?」

敏雄はワイシャツの袖のボタンをはずしにかかった。

「伸人のことなんだけど……」

「もう君に任せるよ。学校なんかどうだっていいんだ」

昨日とは打って変わって敏雄は投げやりに言った。

学校?大学?それがどうしたって言うんだ?

学歴なんて何の意味があるというのだ。

俺は大学を出て35年も勤めた会社を今日、クビになった。

新型コロナの影響で旅行代理店はかつてない苦境に立たされており、深刻な業績不振の中、各社はボーナスのカットや人員・店舗の削減に踏み切っていた。

敏雄の勤める会社も人員の3割削減、国内店舗の6割削減を打ち出し、容赦のないリストラを断行したのである。

コロナ前から大手旅行会社は多くの店舗を抱え、対面形式で旅行商品を販売する店舗型が主力だった。

しかし、インターネットの普及でオンライン型の旅行会社に押され、店舗型からオンライン型への移行を迫られていた。

パソコンが苦手な敏雄のような年配社員はコロナ前から“お荷物”であり、いずれはお払い箱になる運命だったと言える。

今日から俺は無職だ。これからどうやって家族を食わせていけばいいのか……。

まっすぐ家に帰る勇気がなくて、敏雄はコンビニで買ったビールを痛飲したのだった。

どのタイミングで智子に打ち明けようか考えていると、智子の方から面倒な相談事を持ち込んできた。

「そうじゃなくて、伸人がね……」

「また何かあったのか?」

敏雄は嫌な予感がした。

智子の額が腫れているのに気付いて。

「じつは……」

智子は伸人が下着泥棒をしたということを敏雄に打ち明けた。

予想通り、敏雄の反応は激しかった。

「あいつ、そんなことを……」

「山中さんは許してくれるって言ってるの。だから、伸人を連れて謝りに行こうとしたんだけど……」

智子が言い終わらないうちに敏雄は叫んでいた。

「おい伸人!伸人!降りてこい!」

敏雄の声は怒気が満ちていた。

昨日とは格段に違う。

敏雄は猛然と階段を登った。

「伸人!何やってんだ、お前!開けろ!」

敏雄がこれまで見たこともないくらい激昂しているので、智子は不安に駆られた。

「ねえ、あなた。もういいじゃないの」

智子はすがるように敏雄の腕をつかんで言った。

「冗談じゃないよ!犯罪じゃないか!」

敏雄の怒りは収まらない。

敏雄は伸人の部屋のドアノブをつかんだ。

ドアは施錠されていなかった。

「伸人!出てこい!謝れ!」

敏雄はドアを叩きつけるように開けると、室内の照明のスイッチを探した。

白い冷たい光が室内を照らし出した。

伸人はベッドの上で毛布をかぶってふて寝していた。

「おい伸人!馬鹿!出てこい早く!」

敏雄は毛布を引きはがし、胎児のように手足を丸めている伸人の手首をつかんで引きずり出そうとした。

伸人は情けない声を上げた。

「なんだよ!やめろよ!やめてくれよ!」

敏雄は伸人の足をつかみ、ベッドから引きずり下ろした。

「まったく、お前ってやつはどこまで親に心配かけさせれば気が済むんだ!」

敏雄は泣きそうな顔で激しく感情をぶつけた。

自分は身を粉にして朝から晩まで働いているのに、伸人は働きもせず、家に閉じ籠もり、あろうことか他人の家に盗みに入るとは。

本当はこの手で伸人を打ちのめしてやりたかった。

敏雄はともすれば感情的になるのをかろうじて堪え、伸人の襟首をつかんで引き起こした。

「立て!ほら!謝りに行くんだ!ついていってやるから!」

「放せよ!放してくれよ!」

「お前、自分が何をしたのか分かってるのか?!」

「だから、放っておいてくれって言ってるじゃねえか!」

「お前のやってることは犯罪なんだぞ!ほら、謝れ!」

敏雄と伸人は階段の上で激しくもみ合った。

「謝れ!男らしく謝るんだ!」

「放せ!放せよ!」

「お前、母さんの気持ちにもなってみろ!」

敏雄は激しく抵抗する伸人を力ずくで引っ張った。

「今のままじゃ人間のクズだぞ!早く来い!」

「放せって言ってんだよ!」

伸人は力任せに敏雄を突き飛ばした。

敏雄の足が床から離れた。

「あっ……」

敏雄の上体がぐらりと傾いた。

敏雄は何かにつかまろうとしたが、手はザラザラした壁紙に触れるだけだった。

敏雄は背中から階段に叩きつけられた。

ドシンという衝撃と鈍痛。

呼吸が一瞬、止まった。

転倒は止まらず、敏雄は階段を転がり落ちた。

頭と首、腰と膝をしたたかにぶつけた。

眼鏡はどこかに吹っ飛んでしまった。

めまいがして、意識が薄れかけた。

気を失わなかったのが不思議なくらいだった。

すべてが一瞬の出来事だった。

「あなた!」

智子が悲鳴にも近い声を上げ、慌てて階段を駆け下りた。

「あなた!しっかりして!あなた!」

階下で倒れている敏雄にすがりつき、智子が揺さぶると、敏雄は目を瞬いて低く唸った。

起き上がろうとすると、全身に激痛が走った。

敏雄は顔をしかめた。

智子は敏雄を抱きかかえるようにして、ゆっくりと上体を起こした。



首の付け根と後頭部に焼けつくような痛みがある。

頭皮を指で探ると強打して内出血を起こしたのか膨らんでいる。

首を動かそうとすると突き刺すような痛みが走った。

「あなた、大丈夫?救急車を呼びましょうか?」

「いや、大したことない……」

敏雄は深呼吸してみた。

胸がキリキリと痛む。肋骨が折れたのかもしれない。

「立たせてくれ」

智子に手を貸してもらい、ゆっくり立ち上がると、腰も激しく痛み、どうしても猫背になってしまう。

「サロンパスか何かあったろ。持ってきてくれ」

敏雄は智子に支えてもらい、ダイニングの椅子に座った。

首を捻挫したらしく、寝違えたように痛くて首を動かせない。

「どこが痛いの?首?腰?」

智子が救急箱にあった市販の湿布を剥がしながら言った。

「両方……」

敏雄は力なく答えた。

智子はひんやりする湿布を敏雄の首筋に貼った。

「病院に行ったら?」

「明日な……」

敏雄は痛みに顔をしかめて言った。

今日は風呂に入って寝てしまいたかったのに、この状態ではとても風呂など入れないし、痛みで安眠も妨げられるだろう。

敏雄はもう怒る気力もなかった。



伸人は敏雄が目の前で転げ落ちるのを見て気が動転してしまい、自室に駆け込んでドアを施錠してしまった。

伸人はドアにもたれて座り込んだ。

信じられなかった。

昨日に続いて、今日もまた父親を傷つけてしまうとは……。

伸人は深い自己嫌悪に襲われた。

もし敏雄の打ちどころが悪くて後遺症が残るようなことがあればどうなるのか。

敏雄が働けなくなれば児玉家は貧窮するだろう。

自分が慣れない外の世界に出て働かなければならないのか。

仕事はあるのだろうか。この不況で失業者があふれ、自殺者も急増しているという。

ネットでは近いうちに東京に大地震が来るという噂が流れている。

コロナと不況で人々が困窮しているところに大災害がやってくれば東京は大混乱に陥るだろう。

食料を求めて暴動と略奪が起こり、児玉一家が暮らす閑静な住宅街にも暴徒が押し寄せるかもしれない。

これから大変な時代になることは確実だ。

敏雄がいなくなったら、一体誰がこの家を守るのか。

暴徒から母親を守れるのは自分しかいないのだ。

とにかく体力がなければ自分の身を守ることもできない。

そう考えた伸人は最近、人々が寝静まった深夜にこっそり家を出て、近所をランニングするのが日課になっていた。

1日に30分だけ外に出て走るだけでも違うということが分かった。

汗をかけば腹も減るし、腹が減れば食欲も湧く。

しっかり食べれば眠くなってくる。

人間は食べて寝て体を動かさなければならない。

たとえ生きる意味がなくても、死ぬまで食べて寝て体を動かすしかないのだ。

ランニングを続けることで、ひ弱だった伸人もだいぶ自信をつけていた。

最初は少し走るだけで息切れし、足が痛くて仕方なかったが、今は1キロでも2キロでも平気で走れるだけの体力があった。

父親がいなくなったら自分がこの家を守る。

ひとつの目標が生まれたことで、伸人は少しずつ変わろうとしていた。

里美の下着を盗んだのはほんの出来心だった。

体を動かせば腹が減る。食欲が満たされれば性欲だ。

風俗に行くのは気が引けるし、変な病気をもらうのが怖い。

夫婦共働きの山中家では深夜に洗濯物を干す習慣があった。

伸人は山中家の庭に侵入し、生乾きのパンティを盗んで逃げたのだが、その一部始終を里美に目撃されていたことを知らなかった。



その夜。

風が唸りながら吹き荒ぶ。

地球温暖化※の影響なのか、近年、東京は強風が吹き荒れる日が目立って多い。

庭木がサワサワと揺れる音、風に押された雨戸がガタガタと揺れる音を聞きながら、智子はベッドに身を横たえていた。

児玉夫妻が別々の寝室で休むようになって久しい。

敏雄はこの晩、1階の6畳和室で寝ていた。

智子は2階の洋間である。

伸人のことや敏雄の怪我の具合が気になり、なかなか寝付けなかったが、風の音を聞いているうちにいつしか眠りに落ちていった。



※地球温暖化。地球の気候系の平均気温が長期的に上昇する現象。温暖化の主原因は二酸化炭素、メタン、亜酸化窒素などの温室効果ガスの排出とされ、化石燃料の燃焼や農業、森林破壊が重要な役割を果たしているとされる。温暖化の影響で海面上昇、降水量の変化、異常気象の頻発、砂漠化、洪水、干魃、山火事などが増加し、気候変動で農作物の収穫量が減少し食糧危機の発生が懸念されている。



智子の目の前に誰かが座っている。

よく見ると里美である。

里美はリビングのカーペットに正座し、洗濯物を折り畳んでいた。

そこに誰かがやってきた。

里美が気付いて見上げた。

「伸人くん……」

次の瞬間、里美は黒い影に押し倒された。

里美の唇を力ずくで奪おうとするのは伸人である。

「ちょ、ちょっと、やめて!伸人くん!」

里美は伸人を押しのけようとするが、伸人は狂ったようにむしゃぶりつく。

「好きだ!俺はおばさんが好きなんだ!」

伸人は幼稚な愛情を求め、成熟した男の肉体で里美に迫る。

「ダメよ、伸人くん。私は君のお母さんじゃないのよ」

「好きだ!」

伸人は里美の白いブラウスを引き裂いた。

乱暴に里美の乳房に顔を埋める。

まるで獣である。

「やめてちょうだい。おばさんと遊びたいならトランプでもしてあげるから……」

里美は適当にあしらおうとする。

「俺はおばさんとセックスしたいんだ!」

伸人は里美のスカートをたくし上げた。

里美の白い足が露わになる。

「セックスはダメよ。君はまだ子供なんだから。もっと勉強しなさい。ほら、そんなものはしまって……」

里美は伸人のいきり立った分身を押し戻そうとする。

「セックスしたいんだ!」

伸人が泣きわめき、里美のパンティを引き下ろした。

「こらこら、ダメよ。そこは。君もしつこいね」

里美は右手で局部を覆った。

「私には好きな旦那がいるの。旦那としかセックスはしないの」

伸人は里美にのしかかる。

里美の股を手で押し広げようとするが、里美は頑なに伸人に体を許さない。

伸人はどうすればよいのか分からず、赤ん坊のように泣きじゃくって体を震わせた。

「ムラムラしたら運動で発散させなさい。うちの宏幸とサッカーでもしたら?」

里美は穏やかに諭す。

伸人は子供扱いされるのが我慢ならないのか、

「うわあああっ!……」

野獣のような雄叫びを上げると、その場で射精してしまった。

「これでスッキリした?」

里美が微笑み、その手を広げると、べったりと精液が付着している。

里美は伸人に手淫を施したのだ。

「ひっ、ひっ、ひい、ひい……」

伸人は笑っているのか泣いているのか、よく分からない表情を浮かべ、里美に凶暴に襲いかかった。

「あっ……」

里美が小さく叫んだ。

伸人は里美に馬乗りになり、里美の顔を拳で殴った。

里美は鼻血を流した。

伸人は獣じみた声を上げ、満たされぬ思いを稚拙な形で里美にぶつけた。

伸人は里美の細い首に手をかけた。

「うっ、ううっ……」

里美はあえいだ。

伸人の顔は狂人そのものだ。

両目を血走らせ、黄色い犬歯をむき出し、里美の首を絞める腕を震わせている。

このままでは伸人は里美を絞め殺してしまう。

智子はたまりかねて叫んだ。

「伸人!やめて!伸人!」

喉が引きつって声にならない。

「お願い伸人!やめて!」

里美の恐怖に満ちた顔が目の前に浮かんだ。

「伸人!」

次の瞬間、智子の視界が真っ白になった。

「息子さんに今、一番伝えたいことは何ですか?」

カメラのフラッシュが無遠慮に浴びせられる。

記者らしい男がマイクを突きつける。

智子は無数のマスコミ関係者に取り囲まれていた。

「あ、あの、ちょっと、どいてください……」

新聞社の腕章を巻いた男が非難するように言った。

「お宅の息子さんは人を殺したんですよ。何も言うことはないんですか?」

「えっ?」

智子の目の前に新聞紙が突きつけられた。

大きな活字で、

【大学生、隣家の主婦を殺害】

とあった。

「息子さんは殺人と婦女暴行の罪を認めているんですよ」

「そんな……」

智子は足元から崩れ落ちていくような恐怖と絶望を覚えた。

深い奈落の底に落ちていくのだ。



智子は目覚めた。

全力疾走したように心臓が高鳴っている。

まるで水の中に落ちたかのように全身寝汗でびっしょりだった。

(夢か……)

智子は枕元の目覚まし時計に目をやった。

時刻は午前6時を少し回ったところだった。

智子は起きて熱いシャワーを浴びた。

出てから敏雄の寝室をのぞくと、いつも早起きの敏雄がまだ布団の中にいる。

「あなた、起きてる?」

「ああ」

敏雄が呻くように言った。

首が痛くて寝返りできず、おかげで全身の筋肉が痛む。

智子に手伝ってもらい、布団の上に身を起こした。

「そんなに痛いの?」

「うん」

「今日は休んだら?」

「いや、病院に寄ってから、会社に行くよ」

敏雄は生気の抜けた声で言った。

どんなことがあろうと会社にだけは行こうとする。

敏雄の悲しい習性だった。

「お食事は?」

「いや、いいよ」

「でも、何かお腹に入れておかないと体に悪いわよ」

「そうだな……」

敏雄は牛乳をコップに一杯だけ飲み、智子から渡された布マスクを着けて家を後にした。

「あなた、保険証は?」

「持ってる」

智子は敏雄を家の外まで見送った。

敏雄は足を引きずるようにして歩いて行った。

智子はその背中に敏雄の痛々しい尊厳を見て取り、働くことしか知らない敏雄の虚勢のように見えて、一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。



暗くなってから、家にいた智子に電話があった。

自宅近くの総合病院に行っていた敏雄からである。

診察の結果、頸椎捻挫と分かり、首にコルセットを巻くことになったという。

CTスキャンで調べたが、幸い、脳は異常なし。

「全治2週間だそうだ。参ったよ。今日は会社に行けないな」

もう行くべき会社はないのだが……。

敏雄はコルセットで喉がつかえて鬱陶しいと漏らした。

病院の待合室は患者であふれ返り、長時間待たされ難儀したという。

「これで東京に大地震が来たら病院はパンクするな……」

敏雄は暗い声で言った。

智子は敏雄の怪我が思ったより軽かったことに安堵したが、今日見た悪夢が脳裏から離れず、暗澹たる気持ちになった。

伸人が里美を暴行・殺害してしまうリアルな夢を見ただけに、今後、悪夢が正夢になってしまう可能性は高いと思った。

今年に入ってから児玉家は不吉な出来事ばかりだ。

敏雄を二度も突き飛ばし、階段から突き落とした伸人。

山中家に忍び込み、里美の下着を盗んだ伸人。

次は一体何が起きるのか?

夢で見たように里美を襲って殺してしまうのか。

そうなれば児玉家は破滅である。

伸人は警察に逮捕され、智子は敏雄とともに世間の好奇の目に晒され、殺人犯の親という烙印を押されるのだ。

暗い未来であった。

そうなる前に何とかならないのか。

伸人を精神病院に入れてしまうのもひとつの手だ。

しかし、敏雄は児玉家の体面を考えてか、精神科医を嫌ってか、あるいは自分の息子を精神異常と認めたくないのか、頑なに認めようとしない。

「親が体を張れば子供は必ず応える」

というのが敏雄の口癖だった。

だが、伸人はちっとも応えようとしない。

伸人が立ち直るのを待っていても、そのうち親が先に死んでしまう。

親の死後、伸人はどうやって生きていくのか。

ある程度の遺産は残してやれたとしても、これから日本は大変な時代を迎える。

増税で貯金は見る見る目減りし、いずれ遺産も枯渇する。

政府が近々、預金封鎖※を実施するのではないか、という噂も流れていた。



※預金封鎖。銀行預金などの金融資産の引き出しを制限すること。財政が破綻寸前になった場合、政府が銀行預金などの国民の資産を把握し、資産に対して課税し政府収入に充てることで破綻を回避しようとすることがある。また、市場に出回った通貨の流通量を制限し、インフレを金融政策で抑える方法として実施されることもある。その場合、通貨切替をして旧通貨を無効にし、市場通貨を金融機関に回収させることもある。この際も預金封鎖が実施される。



夜になって敏雄が帰宅した。

白いコルセットを首に巻いているので、まるで別人のように見えた。

「参ったよ。舌はもつれるし、頭は重いし、足元がよく見えなくて歩きにくいし……」

敏雄は「参った」を繰り返した。

しばらくはこの状態で我慢しなければならない。

食事や入浴、着替えも不便だし、智子の介助が必要になる。

智子の負担は増える一方だった。

「伸人はどうしてる?」

「昨夜から下りてこないけど……」

「そうか」

敏雄は力なく言った。

智子はイライラと指をよじり合わせた。

「伸人」という言葉が出てくるたびに胸が締め付けられるような思いだった。

(いっそのこと死んでくれればいいのに……)

智子の脳裏に「伸人を殺す」という選択肢が浮かんだ。

不眠症に悩まされている智子は睡眠薬を持っている。

心療内科から処方されたベルソムラ(スボレキサント)というオレキシン受容体拮抗薬に分類される新しい睡眠薬だ。

覚醒の維持に重要な物資であるオレキシンの働きをブロックし、睡眠を促す薬であり、世界に先駆けて日本で2014年から発売されている。

自然な眠気を強くし、依存性が極めて少なく、処方日数の制限がないというメリットがある反面、薬価が高く、眠気が残り、悪夢を見やすくなるというデメリットも指摘されている。

ベルソムラの錠剤を細かく砕き、伸人の食べるものに混ぜ、伸人が眠り込んだところで殺す……。

そんな恐ろしい考えが一瞬、浮かんできて、智子は頭に手を当てた。

伸人だけでなく、自分もおかしくなっているのではないか。

智子は伸人を里美に取られたような気がしている。

伸人に殺意を覚えるのは、自分の息子を他の女に奪われたくないからではないのか……。

これまで良妻賢母のつもりでやってきたが、自分も一皮めくればただの浅ましい女。劣情に突き動かされる醜い女に過ぎないのだ、と思った。



会社をリストラされた敏雄は職探しに追われていた。

ハローワークに行くと長蛇の列。ようやく順番が回ってきたが、紹介される仕事は工場の警備員、コンビニの店長、ビルの清掃員など時給の低いものばかり。

人手不足が深刻な運送業や配達員、介護職もあったが、還暦近い自分が長時間の重労働に耐えられるとは思えない。

これでも自分は大手の旅行代理店で長年、管理職を務めたのだと言っても、そうした肩書が何の意味も持たないのである。

「児玉さん、前と同じ条件というのは100%ありませんよ」

ハローワークの職員に釘を刺され、敏雄は学歴や職歴が通用しない時代になりつつあることを痛感したのだった。

すっかり気落ちした敏雄は久々にスーパーに寄ってみた。

普段は買わないが、思い切って鰻の蒲焼を買った。

これから長期戦になる。その前に精をつけておかねば、と思った。



帰宅すると、智子が夕食の支度をして待っていた。

ダイニング・ルームのテーブルの上にはコロッケと鮪の中トロの刺身が載っていた。

「なんだ、ずいぶん豪勢じゃないか。何かあったのか?」

「ううん。あなたに早く元気になってもらおうと思って……」

智子は敏雄を元気付けようとして言った。

「珍しく鮪の中トロがあったの。あなた、鮪が好きでしょ?」

敏雄が買ってきた鰻の蒲焼をレンジで温め、智子は皿に並べて食卓に置いた。

「いただきます」

敏雄は箸を取った。

コロッケはスーパーで買ったものだが、申し訳程度にキャベツの千切りが添えられている。

「このトマト、うちで作ったのか?」

敏雄は添えられたプチトマトを口に運んだ。

「ええ。お野菜が高いから。うちで自給しようと思って」

トマトは夏野菜だが、水耕栽培キットを使えば冬でも室内で栽培できる。ほうれん草や小松菜、さやえんどうも作れるのだった。

食料価格は高騰しているが、自宅で野菜を自給できれば、この先何があっても飢える心配はなさそうだった。

「いいな。暖かくなったら庭にジャガイモを植えるといい」

日本の食料自給率はカロリーベースで37%。残りの63%を海外からの輸入に依存している。

日本は世界5位の農業大国だが、農業従事者の高齢化は深刻だ。農業人口の6割が65歳以上であり、農家の平均年齢は68.5歳。ほぼ70歳近い。

日本は農業のみならず漁業も衰退している。

国連食糧農業機関(FAO)によれば、2025年までに世界の漁獲量は17.4%も増加する。一方で、日本の漁獲量は13.4%も減少する。

漁業規制がなく乱獲が行なわれているため、日本近海の魚は減少し続けており、漁師の廃業も相次いでいる。

国産魚の入手が困難になり、魚介類も輸入に依存しているが、世界的な需要の高まりで水産物の国際価格は高騰し、輸入魚も日本に入らなくなっているのだ。

敏雄は鮪の刺身に山葵と醤油をつけ、口に運びながら、いずれ鰻も鮪も食卓から消えるかもしれない、と思った。



相変わらず食卓に伸人の姿はない。

智子は敏雄が食べ残した鰻と鮪にサランラップをかけ、冷蔵庫にしまった。

最後に伸人と一緒に食事をしたのはいつだろう、と考えた。

仕事が忙しく、滅多に家で夕食を囲むこともなかったが、伸人が小学生の頃は休日に人を呼んで食事をすることもあった。

智子の妹・雪江はIT企業に勤める夫を持ち、神奈川の津田山に住んでいたが、一人娘の篁尋海を連れて世田谷の児玉家に遊びに来ることがあった。

伸人にとって尋海は従姉妹に当たる。長い黒髪とつぶらな瞳が印象的な色白の子で、どことなく幸薄そうな雰囲気があった。

「今夜はひろみちゃんの好きなものにしましょうね。ひろみちゃん、何が食べたい?」

「コロッケ」

というので、智子が材料を買ってきて家で作ったのである。

その頃は伸人も一緒に食事をしていた。思えばあれが家族と食事をした「最後の晩餐」だったのかもしれない。

「マブちゃんにおさしみをあげてもいい?」

尋海が敏雄に訊いた。当時、児玉家ではマーブルというキジトラの雌猫を飼っていた。マーブルが尋海に食卓の鮪の刺身をおねだりしたのだ。

尋海から鮪の切り身をもらったマーブルは喜び、尋海の足首に喉をこすりつけてゴロゴロ鳴らした。

尋海がマーブルを抱いた写真が今もリビングに飾ってある。

その後まもなく、尋海の一家はシンガポールに移住した。

「日本に明るい未来はない。尋海には英語教育を受けさせ、将来は海外移住させたい」

というのが尋海の両親の口癖であった。

少子高齢化で国力が衰退の一途をたどる日本。

日本の将来は悲惨であり、子供には日本を出ても生きていけるように英語を習わせ、海外での生活に慣れさせておくしかない。

それが篁家の教育方針であった。

その後、篁一家とはすっかり疎遠になり、尋海が児玉家を訪れたことは一度もない。

マーブルも数年前に老衰で死んだ。そして、伸人は家族と食事をしなくなって久しい。

すべては遠い昔の記憶に残るのみだ。もう二度と戻れない過去の思い出に敏雄はしばし浸った。



令和3年(2021年)春。



敏雄は日曜日も休まず家を出た。

すでに行くべき会社はないのだが、

「今日もお仕事なの?」

と心配する智子に、

「うん。俺が行かないとこの国が回らないからな」

と言って家を出た。

出ても行くアテはない。ハローワークも今日は休みだ。

敏雄はくたびれた背広を着てショルダーバッグを肩から提げ、色褪せた革靴を履いてとぼとぼ歩いた。

自販機の前を通ったが、買い物は極力控えるようにしている。お茶も缶コーヒーも買わず、家から持参した水筒に詰めた熱いコーヒーを公園のベンチですすった。

働こうと思えば働けないことはない。街には失業者があふれているが、選り好みをしなければ仕事はいくらもあるのだ。

ただ、これまで毎日着ていた背広を脱いでネクタイを外し、ツナギの作業服を着て床に這いつくばり、トイレ掃除をする覚悟はあるのか……。

きつい肉体労働の求人ならいくらでもあるが、そういう仕事は拘束時間が長い上に給料がお話にならないほど安い。

伸人に働け、と言っていた自分が今は無職になり、働くことを躊躇している。皮肉なものだ、と思った。



伸人は昼頃に起きてパソコンの前に座った。

いつものようにブラウザを立ち上げ、ネットの大型掲示板にアクセスした。

オカルト系のスレッドをチェックするのが日課だった。

近日中に大震災が起きる、戦争が始まると言った書き込みは今年に入ってから目立って増えていた。

出口の見えない新型コロナの大流行で人々は閉塞感に包まれ、現状の打開を強く願う気持ちが破滅願望を募らせているのかもしれなかった。

伸人は気になる書き込みを見つけた。


「突然の書き込み失礼します。今月中に東京に大地震が来ます。今年の東京オリンピックは開催されません。地震の後は水も食料もなくなり、疫病が大流行します。今すぐ東京から逃げてください。これからものすごい数の日本人が死ぬんです」


「予言者」と名乗る投稿者は続けてこう書き込んだ。


「政府は震災のどさくさに紛れて預金封鎖を実施します。金融機関が休業する土日に預金封鎖が行なわれます。週末が危ないです。銀行に預けているお金が引き出せなくなります。今のうちに預金を下ろしておいてください」

「今後はお金も価値を失います。水と食料を確保してください。東京は住めなくなります。今のうちに大切なものを持って田舎に逃げてください」

「こんなことを書いてごめんなさい。でも、残念ながら、私が書いたことはこれから本当に起きることなんです。政府の言うことは信用しないでください。自分の頭で考えてください。誰も頼らないでください。もう平和な時代は終わったんです。今までの生活には二度と戻れないと思ってください」

「私の書き込みをできるだけ多くの人に伝えてください。拡散希望します。もう時間がないんです。急いでください。少しでも多くの命が助かることを祈っています」



掲示板では「フェイクだろ」「ただの目立ちたがり屋」という辛辣な意見も多かったが、伸人は胸騒ぎを覚えた。

うちはどこの銀行に預金があるんだっけ?通帳や印鑑は?

何もかも親任せの伸人は預金を引き出すと言っても何をすればいいのか分からなかった。

ただ、日本の財政状況がヤバイことは分かっていた。

大震災は財政再建のまたとないチャンスだろう。政府は預金封鎖で国民の財産を巻き上げ、国民を切り捨ててでも生き残りを図るに違いなかった。

伸人の部屋は食料が豊富にあった。こうなることを予想し、ネット通販でコーラやポテトチップスを箱買いしていた。

それだけではない。

コロナを恐れて部屋中の窓に目張りをし、十数万円もする高価な高性能空気清浄機をネット通販で購入。

自分の部屋をまるで無菌室のようにして、部屋の中にはコロナも放射能も一切入れさせないつもりだった。

最近は智子が掃除しようと部屋に入るのさえ嫌がるようになっていた。

伸人は部屋の中でもマスクをし、

「コロナがうつるからしゃべらないで。筆談でお願い」

ペンとメモ帳を部屋の外に置いていた。

そして、智子が触れたものすべてを水で薄めたアルコールで消毒し、バケツに水と塩素系漂白剤を入れて神経質に雑巾で床を拭くのである。

食事は智子が作った料理は一切受け付けず、レトルトのカレーやごはん、冷凍食品ばかり。

家族と一緒の冷蔵庫や電子レンジは使いたくないから、と言い、わざわざ自分専用の冷蔵庫と電子レンジを通販で購入し、部屋に持ち込んでいた。

伸人がネットで購入した商品は代引きで送られてくる。

宅配業者から商品を受け取り、代金を支払うのはいつも智子だ。

代引きできない商品は智子のクレジットカードを使って購入している。

伸人が使い込む金額は毎月かなりの額になる。

自分が汗水流して稼いだ金ではないから、伸人は何のためらいもなく、湯水のごとく自分のために金を使う。

智子は金遣いの荒い伸人が心配になる。

親がいなくなった後、伸人はどうやって暮らしていくのか。

筆談では話もしにくいし、一度、伸人とちゃんと話をしたいのだが、当人はコロナ感染予防を口実に拒否する。

「コロナが終わるまで、俺はどこにも行かないよ」

コロナが収束するまであと何年かかるか分からない。

その間に大地震が来て、家が潰れたり、火事で焼け出されて否応なしに家から出ていかなければならなくなったらどうするのか。

そうしたことは何も考えていないようだった。



智子はガスレンジに点火した。

サラダ油を満たした鍋を火にかけ、衣をつけた鶏肉を熱した油に静かに入れた。

パチパチと油が爆ぜる音とともに食欲をそそる香ばしい匂いが広がる。

鶏の唐揚げは敏雄と伸人の好物だった。醤油に味醂、酒、にんにくと生姜をすりおろして加えた特製のタレに鶏肉を漬け込み、片栗粉をまぶして揚げる。

よく油を切った唐揚げを皿に並べ、水耕栽培で作ったリーフレタスとプチトマトを添える。

敏雄はどこに行っているのだろう。敏雄が失業したことは女の勘で分かっていた。

今日も仕事を探しに出かけたのか。自分も職探しをしなければ。専業主婦だったのは敏雄が家を留守にすることを望まないからだ。女の身では大した仕事はないかもしれないが、スーパーのレジ打ちでも収入がないよりはマシだろう。

鶏肉は栄養価が高い。敏雄に食べてもらい、一日も早く元気になって、次の仕事を見つけてもらわねばなるまい。

本当は伸人にも働いてほしいが、今の状況では無理だろう。

これからどうやって生活の手段を確保するか考えているうちに、智子は敏雄の背広のポケットから出てきたデリバリーヘルスの名刺を思い出した。

堅物の敏雄が性風俗店を利用しているとは思えなかったが、敏雄だって男だ。たまには妻以外の女の肌にも触れたくなるだろう。

もう敏雄とは何年も性交渉はない。敏雄に愛情がないわけではないが、敏雄がデリヘルを利用したからと言って、責める気にはなれなかった。

智子は自分もデリヘルで働いてみようか、と思った。もう若くはないが、世の中には「熟女好き」の男もいると聞く。外で働いていないせいか、智子は実年齢より若く見られるのが武器だった。

智子の初体験は高校の時、先輩と。痛いだけで何がいいのか分からなかった。

敏雄と結ばれた時、わざと受け入れやすい仕草をしたが、敏雄は気付かなかった。もしかしたら、智子が初めての相手だったのかもしれない。

伸人は将来、結婚するのだろうか。奥手な子だから一生独身かもしれない。もう成人だが、おそらく童貞だろう。異性の話をしたこともない。だから、里美の下着を盗んだことを知ったときは衝撃だった。

里美は何故、下着を盗まれやすい外に干しておいたのか。智子は自分の下着も、敏雄と伸人の下着も部屋干しにしている。他人に下着を見られるのが恥ずかしいからだ。

里美は自分から伸人を誘ったのではないか。里美も実年齢より若く見える。女優の誰かに似ていると敏雄が言っていたっけ。伸人が欲情するのも無理はないのかもしれない。

敏雄のデリヘル通いには何も感じないのに、里美に嫉妬している自分が恨めしかった。



「俺、この家を出ようと思うんだ」

敏雄が唐突に切り出した。

好物の鶏の唐揚げを興味なさそうに箸で突きながら、敏雄は智子に早口で言った。

「出るって、どこへ行くの?」

「うん。会社の部署が変わってね、この家からだと遠いから、どこかにアパートでも借りて、そこから通おうと思ってさ……」

会社をリストラされたことはまだ智子にも話していない。

智子はまだ気付いていないと思い、敏雄は勝手に話を進めた。

敏雄の新たな職場は千葉県内のショッピングモールでの清掃の仕事だった。

ハローワークに通ううちに敏雄はもうトイレ掃除でも妥協しなければ仕事なんかないことに気付いた。

世田谷の自宅から背広を着て出勤し、作業服に着替えてトイレ掃除をし、また背広に着替えて帰宅する。

そうした生活を続けるうちにいつか智子に気付かれるのではないか、と思った。

だから、会社の部署が異動したということにして、職場の近くに引っ越そうと思ったのだ。

「今までは営業所の窓口勤務だったけど、このコロナでさ、窓口が閉鎖になったんだよ。で、今度はウェブサイト経由で申し込みのあった個人旅行の手配なんだよね。けど、サイト経由だから窓口と違って、ホテルやツアーも自動的に手配できるシステムなんだよ。俺の仕事は客からの問い合わせやトラブルへの対応なんだけどさ、このコロナで申し込み自体が激減しちゃってね、今後はオフィス勤務と自宅でのテレワークの半々になるみたいなんだ」

智子は敏雄の嘘を見抜いていたが、あくまでも知らないふりをして、

「テレワークなら、うちにいてもできるんじゃないの?」

「うん。仕事も減って残業も全然なくなっちゃった。コロナ前は月に30時間残業があって、残業手当も4万はあったのよ。でも、コロナでそれもなくなった。うちは基本給が抑えられてるから、残業代が出ないと結構きついんだよ。ボーナスも出ないし、今のままだと20代の新人並みの年収だ」

敏雄は忙しなく箸を動かし、唐揚げとご飯をかき込みながら咀嚼する。

「コロナで収入がどんどん減っちゃってるし、この家のローンもまだ払い終わってないだろ。今度の部署は遠いから、交通費を節約するためにも、どこか会社の近くに安いアパートでも見つけて、そっちに移ろうと思ってるんだ」

智子は敏雄の嘘を聞き流しながら、この人は昔から嘘が下手だった、なんでこんなに分かりやすい嘘をつくんだろう、と思った。

会社をリストラされたなら、はっきりそう言えばいいのに。収入が減ったなら私も仕事を見つけて働く。夫婦が助け合うのは当たり前ではないか。

大手の旅行代理店に長年勤めたというプライドが邪魔をするのか。今は見栄や体裁など気にしている場合ではないのに……。

敏雄はそそくさと夕食を済ませると、まだ智子に嘘がバレていないと思っているのか、席を立ちながら言った。

「明日にでも不動産屋を回って探して、いい物件があったらそっちに移ろうと思う。もう荷物はまとめてあるから、俺の部屋は勝手に使ってくれていい。いらないものがあったら売ってもいいし、捨ててもいいよ」



敏雄が家を出ようと思ったのには、他にも理由がある。

伸人の家庭内暴力だ。

これまで体力では伸人に負けない自信があった敏雄だが、伸人に突き飛ばされ、首を痛めてから、

(このまま俺が家にいれば、いずれ伸人に殺されてしまうんじゃないか……)

という不安が芽生えてきたのである。

日本は世界有数の治安の良さを誇る国であり、殺人事件は昭和29年(1954年)の3081件をピークに年々減り続けている。

一方で、日本の殺人事件の半数は家族間で起きていると言われる。

親の子殺し、子供の親殺しは珍しくもない。

息子を恐れて家を出るなんて情けない親だ、と思ったが、もう年齢的にも体力的にも若い息子には太刀打ちできなくなっている。

伸人を殺人者にさせないためにも、自分が身を引くしかないのだ、と自分自身を納得させるしかなかった。



敏雄が出て行ってしまうと、智子は一人きりになった。

伸人は2階の部屋からほとんど出ようとせず、食事も一人で摂っている。

敏雄がいなくなったため、智子の負担は減ったが、何のために一人でこの家にいるのか分からなくなってきた。

孤独の穴埋めに軽い気持ちで出会い系アプリに手を出してみた。

今更、こんなおばさんに声をかける男もいないと思っていたのだが、

「お会いしたいので、そちらのご都合の良い時間と場所をご教示ください」

というので会ってみた。

その男、片山昭彦は還暦をとっくに過ぎていた。

公認会計士だったが、経営コンサルタントを開業し、株式投資でかなりの財産を築いたという。

妻とは16年前に死別。子供はなく、悠々自適の老後を送っている。

彫りの深い顔立ちで、ロシアか東欧の血が流れているのかと思ったが、

「よく言われるんですが、純粋な日本人なんです」

血色も肌艶もよく、見事な銀髪も洗練された服装もよく手入れされていて、年寄り臭さを微塵も感じさせない。

一目見て智子は好感を覚えた。何度か会ってお茶や食事をするうちに片山の方が執心となった。

「私はね、もうこの年齢ですから、女性とお付き合いして、どうこうしようという下心なんかないんです。ええ、ただもう、私の最期を看取ってくれるだけでいいんです」

片山は「孤独死はしたくない」と言い、

「死に水を取ってくれる人がいたら、それだけでいいんです。誰にも看取られずにひとりぼっちで死んで、誰にも気付かれずに朽ち果てていくのだけは嫌なんです」

親兄弟も皆死んでしまい、親類とはとうの昔に疎遠になっているという。

「縁がないというのか、親も早く亡くなり、言うに言えない苦労をしました。金運だけはあるのか、お金にはまったく困りませんでしたが、この年齢になると孤独が身にしみてくるんです。今は元気でも、体が動かなくなったら誰が面倒を見てくれるのか。自宅で一人で寝ていると、急病で動けなくなって、このまま誰にも知られずに死んでいくのかと思うとゾッとするんです……」

自分の最期を看取ってくれる人がいたら、

「私の全財産を差し上げます。冗談で言ってるのではなくて、本気です」

という。

片山の財産は、

「一生遊んで暮らせるだけのものはありますよ。なんと言っても、この世はお金がすべてですからね。お金さえあれば、ほとんどのものは手に入ります。愛なんてのも結局はお金に裏打ちされたものですからね。金のない男を無条件に愛してくれる女性なんて、まあ、いないと思いますね」

「そうでしょうか……?」

「結婚相手は収入のない男より、ある男の方を選ぶでしょう。つまるところ、世の中は金次第なんです」

智子が今まで一度も行ったことのないような高級レストランや料亭に案内し、無論、費用はすべて片山が払う。

その上、毎回会うたびに10万円もの小遣いを気前よく出すのである。

「こんなお金、受け取れませんよ。私は何もしていないんですから……」

智子が辞退しようとすると、

「ま、預かっておいてください。邪魔にはなりませんから」

屈託のない片山なのである。

話題も豊富だし、ユーモアのセンスもある。如才ない片山の巧みな話術に引き寄せられ、智子もまんざらでもないのである。



敏雄は苦しい労働に明け暮れていた。

世田谷の自宅から千葉県内の築50年は経過しているボロ・アパートに引っ越し、ショッピングモールでの清掃の仕事に従事していた。

背広姿で仕事場に行くと、人目につかない場所でツナギの作業着に着替える。

それからモップを手に床を拭き、誰が汚したかも分からないトイレで床に這いつくばって掃除をするのである。

コロナに感染する可能性のある危険な仕事だ。

還暦近いリストラされた男にはそれくらいの仕事しかない。

人々はコロナ騒動に飽きてしまったのか、政府の自粛要請にも従わず、毎日呆れるほどやってきては汚していく。

かつては世界中を飛び回っていた自分が、他人が汚したトイレの床を這い回り、年下の先輩に顎でこき使われながら、雀の涙ほどの給料しかもらえない。

この年齢になって、俺は一体何をやっているんだろう、と思い、涙があふれてくることもあった。

辛い仕事が終わってアパートの部屋に戻っても誰もいない。

コンビニで温めてもらった弁当をぼそぼそと食べ、金属臭い缶ビールを喉に流し込むと一日が終わる。

カップめんのビニールの包装を爪ではがしながら、敏雄はガスコンロにかけたケトルの湯が沸くのを待っている。

(そう言えば、親子三人でカップめんを食ったのはいつだったろう……?)

ふと思い出した。

伸人がまだ小学生の頃、大晦日の夜、児玉家の年越しそばはカップめんだった。

年中無休で家族のために働く智子に少しだけ休んでもらおうという敏雄の配慮だった。

敏雄が湯を沸かし、家族全員の分に熱湯を注いで、

「3分だぞ。ちゃんと数えろよ。伸人、3分は何秒だ?」

「うーんと、1分が60秒でしょ。だから、3分は180秒」

「正解。180数えろ。180数えたら食うんだぞ。熱いから気をつけろ」

そんな会話を交わしながら家族みんなで年越しを祝い、正月は智子が作った雑煮とおせち料理に舌鼓を打ち、お屠蘇を飲んだ。

あれは一体何だったんだろう。

俺の家族は、俺の家庭は一体どこへ行ってしまったのか。

敏雄は、もう二度と戻ってこないであろう児玉家の食卓の情景を懐かしく脳裏に思い描くのだった。



智子は家を空けることが多くなった。

敏雄が出ていき、伸人も降りてこない自宅で、智子が一人で留守番をする意味はなくなっていた。

今の智子は片山との時間がすべてだった。

片山は健康な老人で、今すぐに死ぬということもなさそうだった。

が、人生一寸先は闇だ。

コロナに感染し、あっけなく逝ってしまうかもしれない。

片山は智子に、

「私を看取ってくれたら、私のすべてを君にあげよう」

と言ってくれている。

遺言書も作成した。片山の死後、智子は片山の莫大な遺産を相続することになる。

もう経済的な心配はないのだった。

敏雄を呼び戻し、また世田谷の自宅で暮らすこともできる。

しかし、智子は敏雄や伸人と再び生活をすることは考えていなかった。

今はただ、一分一秒でも長く片山の傍にいてやりたかった。

片山の遺産が目当てなのではなく、片山という自分を必要としてくれる存在が今の智子には何よりも重要だったのだ。

「お口に合うかどうか……」

片山は智子が作って持参した手料理に舌鼓を打ち、

「おいしい、おいしい」

を連呼する。

舌の肥えた片山なら見向きもしないであろう家庭料理の数々にいちいち感動して、智子を喜ばせるのだった。

「この肉じゃが、うまいですねえ。鯖の味噌煮も結構」

「こちらも召し上がってください」

「ほう、ビーフシチューですか。どれどれ……ふむ、ふむ……絶品ですな。一流のシェフが作るのと変わらない」

「5時間も煮込んだんです。コロナであんまり外にも出られないし、暇ですから……」

「私の家内は料理をしない女でしてね、いつも出来合いの惣菜ばかりでした。どこへ行っても外で食べるのが当たり前だと思っていたから、弁当なんか作ったこともありません。子供がいないんだから、時間はたっぷりあるはずなのに、なんでも手抜きで……いや、愚痴になってしまいましたね。失敬」

片山に褒められると智子も悪い気はしない。手を変え品を変え、いろんな料理を作っては片山に食べてもらうのが楽しみになってきた。

「私はねえ、智子さん。この年齢になるまで生きてきて、あなたのような人に出会えたのは初めてなんですよ。死に別れた家内もそうでしたが、これまで私に近付いてくる人間は皆、例外なく私の財産が目当てでした。私が好きで寄ってくるのではなく、私の金が好きで寄り付いてくるだけなんです。でもね、智子さん。あなたは違う。私の金が欲しければくれてやってもいい。でも、あなたは小遣いすら受け取ろうとしない。こんな老いぼれのどこがいいのか、ほとんど無償で、甲斐甲斐しく私の世話を焼いてくれる。そんな女性は今まで見たことがないんです」

智子は片山に言った。

「いいえ、勘違いなさらないでください。私、ただ淋しかっただけなんです。夫も息子もどこか別の世界に行ってしまい、私はひとりぼっちでした。私みたいな何の取り柄もないおばさんに会ってくれて、話し相手になってくれる人がいるなんて、本当に信じられないことでした。でも、片山さんはいつも私の傍にいてくれて、私の話を何でも聞いてくださるんです。お金とかは正直、どうでもいいんです。ただ、私を必要としてくれる人がいるだけで、今の私は十分幸せなんです」

智子は片山との幸せに満ちた時間を捨てるつもりはない。

敏雄や伸人は今の智子にとって何らの必要性もない存在に成り下がっていた。



伸人は冷凍食品のパスタを電子レンジで加熱し、自分の部屋で一人で食べていた。

パソコンの画面には新型コロナウイルスの新規感染者と死者の累計が出ている。

東京には海外からの強力な変異ウイルスが流入し、今夏に迫った東京オリンピックの開催を危ぶむ声が広がっていた。

伸人はパスタをフォークに絡ませ、いかにもまずそうに口に運びながら、

「東京は大地震で壊滅する。五輪は中止だ。みんな死ね。俺は生きてみせる」

とつぶやいた。

すでに水も食糧も尋常ではない量を備蓄してある。大量の荷物の重量で2階の部屋は床が凹んできた。

親父はどこへ行って何をしているのか。おふくろは毎日どこかへ出かけていって、何をしているのだろうか。

まあ、いい。俺は一人でも生き残ってみせる。

どんなことがあろうと俺は生き延びてみせる。

人は誰も助けてくれないし、自分の味方は自分だけだ。

自分で自分にそう言い聞かせると、食事を終えた伸人は誰もいない自宅で日課の筋力トレーニングに励むのだった。



日本という滅びゆく国に生まれた君たちへ

土屋正裕



コロナ騒ぎで始まった令和時代は暗黒の幕開けとなりました。

これから日本は少子高齢化という時限爆弾が次々に炸裂し、社会の至る所が機能不全に陥っていきます。


「歴史は繰り返す」


人類は太古の昔から同じことを繰り返してきました。人類は進歩しているように見えて、実は昔から何も変わっていません。


ですから、歴史を知ればこの先何が起きるのか、だいたいのことは想像がつくのです。


これから日本で起きることはわかりきっています。


来年(2025年)には全5216万世帯の44.3%に当たる2330万世帯が1人暮らしとなり、うち65歳以上の高齢者が半数近くを占めるようになります。


今後、日本は少子高齢化が急速に進み、東京でさえ人口が減っていくため、税収は不足し、財政は破綻し、電気・水道・道路などのライフラインの維持も困難になり、あらゆる産業が人手不足で崩壊していきます。


若い人が減り、高齢者だらけになっていく日本。近い将来、少子高齢化で弱体化した日本という国を天変地異が襲うことになります。


地球科学者の鎌田浩毅さんによると、南海トラフ巨大地震は2030年代後半から2040年代前半にかけて起きる可能性が高く、相模トラフ巨大地震と連動すればマグニチュード10クラスの超巨大地震になる可能性があるとのことです。


鎌田氏は「南海トラフ地震は92年周期で発生しており、前回の1946年から92年後の2038年に起きる可能性が高い」と指摘されています。


仮に宝永地震(南海トラフ全域が動いた日本の歴史上最大級の地震)クラスの大地震が起きた場合、日本の太平洋沿岸は大津波に襲われ、重要な港湾や工業地帯が壊滅し、津波による死者だけで47万人に達するとの見方もあります。


また、南海トラフと富士山の噴火は連動している(宝永地震の49日後に最後の噴火)ため、富士山や阿蘇山が破局噴火を起こす可能性もあり、地震列島であり火山に囲まれた我が国は悲惨な状況に陥る可能性が高いのです。


2038年には中国が経済力で米国を抜いて世界一になると言われます。


つまり、少子高齢化と未曽有の大震災で衰退した日本に対して、中国が牙を剝いて本格的に侵略してくるのは2038年以降になる可能性が高い、ということです。


台湾有事が発生した場合、日本のシーレーンは封鎖され、食料や燃料、工業製品などの重要物資が日本に入ってこなくなるため、輸入に依存する日本人の生活は壊滅的なダメージを受けることになります。


これから日本人は過酷な時代を生きていくことになります。


すでに日本人女性の半数が50歳以上になりました。日本人女性の半分は「もう子供を産めない」ということです。


2023年の出生数(日本人のみ)は72.7万人。合計特殊出生率は過去最低を更新する1.20でした。


今年(2024年)の出生数はさらに減少し、70万人を割り込む公算が大きいと言われています。


2025年には東京の人口も減り始め、2027年には認知症患者が700万人規模になり、介護する側もされる側も認知症という悲惨な状態になります。


2028年にはトラックドライバーが28万人も不足し、物流に影響が出ます。宅配は遅配が当たり前になり、スーパーやコンビニの店頭から商品が消えていきます。


2030年には80%の都道府県で客不足となり、地方から大学、老人ホーム、救急病院、映画館、飲食店などが激減し、銀行や一般病院すら消えていきます。


2033年には3軒に1軒が空き家となり、街の景観や治安が悪化していきます。


また、IT技術を担う人材が最大で79万人も不足するため、社会システムに混乱が生じます。


この頃には老朽化したインフラの更新費用が5兆5000億円に上るとみられていますが、労働力不足で設備の維持管理が困難になっていきます。


道路は穴だらけ。橋は落ち、トンネルは崩れ、停電や断水が日常茶飯事になります。バスや電車は廃線か本数削減。タクシードライバーも高齢化します。過疎化した地方は切り捨てられ、国内の移動も困難になります。救急車は呼んでも来ず、医師も病院も不足し、医療崩壊が常態化します。


2035年、日本人男性の3人に1人、日本人女性の5人に1人が生涯未婚となり、日本では結婚している人が珍しくなります。


2039年、年間死亡者数が168万人とピークを迎え、全国で墓地と火葬場が不足します。


2040年、人口減少で現在の市町村の半数が消滅します。青森市や秋田市などの県庁所在地も消滅していきます。


農業や漁業従事者の高齢化も深刻です。農家や漁師の廃業が相次ぎ、食料の生産が困難になります。


日本の食料自給率は4割にも満たないのです。円安で輸入が難しくなり、戦争や災害で輸入が途絶えれば多くの日本人が飢えることになります。


少子化対策に成功した国は存在せず、曲がりなりにもうまくいっている国は移民で誤魔化しているだけです。


日本が今の経済水準を維持しようとすれば、2050年までに3000万人の移民(家族を含め4600万人)を受け入れる必要があります。


政府は移民受け入れに積極的(すでに日本は世界4位の移民大国)ですが、米バイデン大統領が指摘したように日本人は基本的に「外国嫌い」で排外主義者が多く、移民排斥を掲げるネトウヨがネットで跳梁跋扈しているように、移民を拒否して衰退の道を選ぶことになるでしょう。


英語の通じない極東の衰退国家に好んで来てくれる移民などたかが知れています。買春や犯罪目的で来日する不良外国人はいても、優秀な人材など集まらないのです。


ゼノフォビア(外国人嫌悪)とエスノセントリズム(自民族優越主義)に毒されたレイシズム(差別主義)思考でジンゴイズム(好戦的な排外主義)を叫ぶネトウヨたちは、いずれ貧困に迫られ否応なしに移民の群れに加わることになるでしょう。


貧しい日本は「移民を受け入れる国」ではなく「移民を送り出す国」になるのです。


戦前は南米や中国大陸に大量の移民を送り出していた国です。「からゆきさん」と呼ばれる日本人売春婦が海外で春を売り、貴重な外貨の獲得源になっていました。


すでに日本人女性が売春目的を疑われ米国で入国拒否される事態になっていますが、彼女たちは海外に活路を見出して貧しい日本の男を相手にせず、豊かな外国人男性に体を売るため今後一層日本脱出の流れは加速するでしょう。


貧しい日本に残るのは英語もできず、海外に行く勇気も度胸もない人たちです。


彼らは移民に仕事を奪われ、大増税と超円安に追い詰められ、生活も苦しくなっていく一方です。


生活保護に頼る人は激増していきます。生活保護を受けられない人は犯罪を犯して刑務所に行くか、自ら死を選ぶしかありません。


政府は年金や生活保護の廃止を検討するでしょう。竹中平蔵がベーシックインカム(BI)を提唱していますが、これは年金制度と生活保護制度の破綻を匂わせているのです。


竹中平蔵の主張では「毎月全国民に7万円ずつ支給する」BI制度なら「増税せずに可能」とのこと。つまり、「小遣い程度の金をやるから、年金も生活保護も廃止する。あとは自分で何とかしろ」ということなのです。


無論、月7万円だけでは生活できません。ほとんどの国民は死ぬまで働き続けるしかなくなるのです。


政府は国民の不満を抑え込むため監視体制を強化していきます。治安維持を名目に全国に無数の監視カメラを設置しAI(人工知能)を駆使した識別システムを導入。国民はマイナンバーで管理され行動や発言のすべてを政府に監視されます。


犯罪報道の過熱と厳罰化を求める世論が政府の弾圧政策を後押しするでしょう。国民の知らぬ間に法は書き換えられ、些細な罪でも容赦なく厳罰に処されます。


治安維持法が復活し、予防検束(政府にとって危険な人物を事前に拘束する制度)が行われます。デモは禁止され、体制に批判的な人物は社会的に抹殺されます。


政府は国民の不満をそらすため対外戦争を企図します。自衛隊も少子高齢化で維持できなくなるため、国民(特に若者)を意図的に貧困に追いやり、彼らを経済的徴兵(生活苦から軍隊に志願して入隊する)に仕向けるのです。


日本人は戦後、奇跡的な経済復興を成し遂げ、世界でも稀にみる平和で豊かな国で暮らしてきました。


それが当たり前だと思っているので、自分たちが戦争に巻き込まれ、戦火に逃げ惑うという事態をまったく想像できません。


自衛隊も高齢化しています。たとえ平和憲法を破棄したとしても、日本に国を守る力はないのです。


自衛隊に実戦経験はなく、日本人の多くは銃の扱い方も知りません。戦争中の国に行ったことすらない日本人がほとんどなのです。


仮に徴兵制を復活したとして、ハイテク兵器を駆使する現代の戦場で、高齢者だらけの軍隊がまともに戦えるのでしょうか。


日本の周囲は韓国、中国、北朝鮮、ロシアという日本と敵対する国ばかりです。中国もロシアも既存のミサイル防衛システムを無力化する極超音速ミサイルを開発済みです。


たとえば、ロシアの大型ICBM(大陸間弾道ミサイル)「サルマト」は、1発のミサイルに16個の核弾頭を搭載しています。1個の核弾頭の破壊力は800キロトン(広島原爆の53倍)もあります。


核弾頭は大気圏に突入し、音速の20倍もの猛スピードで落下してきます。これを撃ち落とす技術はアメリカ軍でさえ持っていません。


日本の自衛隊が保有するイージス艦や陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」を用いても、極超音速ミサイルを迎撃するのは不可能なのです。


ロシアが配備するボレイ級原子力潜水艦は水深450メートルから16発の核ミサイルを発射できます。無論、これほどの深海に潜るロシア原潜を日本の自衛隊は捕捉できません。


東京にたった一発のサルマトを撃ち込まれるだけで日本はおしまいです。東京だけで16発もの核弾頭が別々の目標を狙って落ちてくるので、首都圏は完全に壊滅します。


米国は日本と中国の対立を煽り、台湾有事を誘発させて、自衛隊を出兵させるでしょう。そうして日中両国を争わせ、お互いの力を削ぐためです。


日本は大して強くもないのに他国に喧嘩を売り、米国に高額の兵器を売りつけられ、国民は外国人への憎悪を燃やして亡国への道をひたすら突き進むのです。


人が減れば国土も荒れます。過疎化が止まらない地方は国に見捨てられ、無人の廃墟が広がり、人手が入らない山は荒れ果てて崩れ落ち、豊かな日本の自然は無残な荒野と化していきます。


気候変動と異常気象。激甚化する自然災害。少子高齢化という時限爆弾……。


警察も消防も自衛隊も少子高齢化で人手不足が深刻化するため、国防だけでなく災害対応能力や治安維持能力も低下します。「水と安全はタダ」と言われた日本の良さも失われていくでしょう。


日本列島は戦後の地震活動の静穏期を経て、1995年の阪神・淡路大震災、2011年の東日本大震災から地震の活動期に突入しました。


人口減少で日本は災害救助や被災地の復興もままならなくなります。国は東京だけ生き残ればそれでいいという考えなので、地方は自然の暴力に打ち捨てられていきます。


日本の経済は土地本位制で成り立っているため、政府は東京の地価が暴落することを何よりも恐れています。つまり、東京が首都でなくなった瞬間、東京の地価は大暴落し、土地を担保に金を貸している銀行は倒産し、国債の多くを買い上げている銀行が連鎖倒産して、国の財政も破綻し日本経済は壊滅してしまうのです。


何十年も前から首都移転が叫ばれながら誰も手をつけようとしないのはこのためです。東京は地方からすべてを吸い上げ奪い取り、まるで癌細胞のように衰えた日本から最後の血の一滴までしゃぶり尽くそうとするのです。


すでに日本人の平均年齢は48歳になってしまいました。


高齢化で脳の前頭葉も老化していくため、日本人はどんどん無気力になっています。


「何をやっても無駄だ」

「どうせ何も変わらない」


という学習性無力感の状態に陥り、日本人は老若男女を問わず誰もがやる気を失くしています。


何事もやる前から諦めていたのではどうにもなりませんが、どうしようもないほど絶望的な無力感が日本社会全体を覆っているのです。


日本人が自国の衰亡を何もできないまま指をくわえて見ているうちに世界は急速に再編成が進んでいきます。


世界は南北アメリカ大陸とヨーロッパ大陸の「自由主義諸国連合」と、中国・ロシアを中心とする「全体主義諸国連合」、中東からアフリカ大陸にまたがる巨大な「イスラム帝国」に分裂していきます。


日本は米国の金づるとして米国の口車に乗せられ、中国やロシアを相手に喧嘩を吹っかけますが、米国は日本の利用価値がなくなった時点で切り捨てにかかります。


「日本は地政学上、重要な同盟国なので、米国が日本を見捨てるはずがない」


という意見もありますが、アメリカという国はあれほど肩入れしていたベトナムとアフガニスタンからさっさと兵を引き揚げ、あっさりと見殺しにしてしまった国です。


ベトナムもアフガンも地政学的に重要な国でしたが、米国に見捨てられ、インドシナ半島は共産化し、アフガンもタリバン支配が復活してしまいました。


東西交易の中継地で要衝であるアフガンから米軍が撤退したことで、ロシアは米国を気にする必要がなくなりました。ウクライナの戦争は米国が誘発したと言えないこともないのです。


少子高齢化で日本が衰退し、貧しくなった日本に金づるとしての利用価値がなくなり、代わって中国が軍事的・経済的に台頭し、日本という国がそれほど重要でなくなっても、米国が日本の味方でいてくれるという保証はありません。


その時、日本列島は核の洗礼で焦土と化すでしょう。戦後、日本は中国に併合され、生き残った日本人は中国人の子孫を残すことになるのです。


放射能に汚染された日本の大地は核のゴミ捨て場になるでしょう。関東以北の広大な無人地帯には世界中から集められた放射性廃棄物が捨てられるのです。


こうした悲惨な未来はほぼ確定しています。


これから日本の若者は苦難の道を歩むことになります。


日本の若者は最低限、英語とパソコンのスキルくらいはしっかり身に着け、日本を出ても生きていける力を養うべきでしょう。


しかし、日本人の大半は英語も喋れず、海外で生きていくためのカネもコネもスキルもないため、嫌でも日本という沈みゆく国にしがみついて生きていくしかないのです。


あなたが若くて知性と魅力にあふれる日本人なら、なるべく早く日本を出て異国の地で人生を切り拓くことを真剣に考え実行するべきでしょう。


間違っても「国が助けてくれる」などと考えてはいけません。昔から“棄民政策”はこの国の十八番なのです。


「真面目に勉強して働いていれば日本で幸せに暮らせる」時代はとっくに終わりました。


日本の寿命は持ってあと20年くらいでしょう。


10年、20年は長い時間ですが、あっという間にやってきます。我々に残された時間は少ないのです。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

最後の晩餐 土屋正裕 @tsuchiyamasahiro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ