誰も知らない

土屋正裕

誰も知らない

50年以上も内戦が続く南米コロンビア。日本人青年・長沼寛人は反政府ゲリラに拉致されてしまう。ゲリラへの報復を誓い、愛人との逃避行の末に彼が見たものとは?地球の裏側を舞台に繰り広げられる愛と復讐の冒険ドラマ!



主な登場人物



長沼寛人ながぬまひろと


この物語の主人公。東京都稲城市出身。親友の山田陽介と南米縦断の旅に出てコロンビアで反政府ゲリラに拉致される。正義感が強く涙もろい性格。趣味はサッカーとスペイン語の勉強。将来の夢はジャーナリスト。



山田陽介やまだようすけ


長沼の親友・東京都町田市出身。大学でスペイン語を専攻。南米の旅で長沼の通訳を果たす。冷静沈着な性格で長沼とは対照的。父親は単身赴任で滅多に家におらず、母親に溺愛されている。長身で天然パーマ。



オマイラ


反政府ゲリラ「コロンビア解放軍(Ejército Liberación de Colombia,ELC)」の女性兵士。地雷で弟を失い、ゲリラに売られた少女。長沼の逃亡を援助し、彼の愛人になる。長い黒髪につぶらな瞳が印象的。



ロハス


ゲリラと戦う準軍事組織(パラミリタール)の司令官。ゲリラへの復讐を願う長沼に訓練を施し部下にする。冷酷な性格で直情径行の長沼と対立する。口ひげがトレードマーク。ウイスキーが好物。



ガルシア


反政府ゲリラELCの最高幹部。長沼と激しく対立し、彼の宿敵となる。キューバ革命の英雄ゲバラを真似た風貌で葉巻を好む。



山田の母親


人懐こい性格で眼鏡をかけている。過保護気味で息子に旅費を与える。鰐皮のハンドバッグを持ち歩いている。ひょんなことから長沼と出会い、そして……。




誰も知らない



1999年の夏。

大学生の長沼寛人と山田陽介は夏休みを利用して、南アメリカ大陸をヒッチハイクで縦断する旅に出発した。

長沼と山田は高校の同級生で、大学は別々だったが、山田はスペイン語を学んでおり、長沼はジャーナリストになりたいという夢に向かって勉強していた。

無謀とも言える冒険旅行に両親の強い反対を押し切って出発した理由は、

「どうせ大学を出て社会に出たら、こんなことは経験できないんだ。今のうちにいろんなことを体験して、人生の幅を広げておきたいんだよ」

長沼は旅行計画に大反対の両親を説き伏せ、

「帰ってきたらバイトでも何でもして返すからさあ……」

と粘り、4つ年上のOLの姉から旅費を借りた。



「ヤマさんとこはどうだった?」

成田からアメリカに向かう飛行機の機内で山田に聞いてみた。

「うちはオヤジが単身赴任で滅多に家に帰ってこないしね。オヤジが知ったら猛反対しただろうけど、うちはオカンが理解あってね。おかげでバイクも乗れたし、何でも好きにさせてくれるよ」

「いいなあ、ヤマさんとこは理解があって」

長沼は羨ましそうに言った。

「うちのヨースケちゃんはね、親思いの優しい子でね、お勉強もできるし、バイトも頑張るし、小さい頃から全然手がかからなくって、本当にいい子なんですよ……」

山田とは高校で知り合い、東京郊外の稲城市に住む長沼は、町田市に住む山田の実家によく遊びに行ったが、小柄でメガネをかけた人懐こい性格の山田の母親から何度も息子の自慢話を聞かされたものだった。

「かわいい子には旅をさせよ、ってね。旅費も出してくれたよ」

山田は天然パーマの髪をゴシゴシこすりながら言った。

「いいなあ。俺もヤマさんとこに生まれたかったなあ」

色白で、まだ少年のあどけなさが残る長沼は、何かにつけて実家が裕福な山田と比較しては羨望のまなざしを向けるのだった。



長沼と山田はアメリカ経由で出発地となる南米最南端のチリに向かった。

首都サンティアゴからさらに南のプエルトモントという町に向かい、この町からヒッチハイクで南米を縦断する計画だった。

「いよいよだね、ヤマさん」

「なんか緊張するね」

長沼と山田は段ボールの板にマジックで行き先を記して道路脇に立った。



旅は順調に始まった。

トラックや自家用車に乗せてもらい、夜はなるべく安い宿に泊まりながら、長沼と山田はチリからボリビア、ペルー、エクアドルと国境を越えた。

ボリビアでは標高4千メートル級のアンデス山脈の高地でソローチェ(高山病)に苦しみ、ペルーの首都リマでは警察官に「偽札を持っているな」と難癖をつけられ、危うく所持金を奪われそうになった。

エクアドルではヒッチハイクした車の運転手がキ印で、スピードを出しすぎ、くねくねと蛇行した狭い山道でカーブを曲がりそこね、車ごと横転して死にかけたりとアクシデントの連続だったが、スペイン語に堪能な山田のおかげで何とか乗り切ることができた。

「ヤマさんのおかげだよ。ここまで来れたのも」

「なんの。俺だってナガヌマちゃんがいなかったら張り合いがなかったよ」

「次はコロンビアか。いよいよ旅も終わりに近付いてきたね」

「そうだね。もう一息だ。がんばろう」

エクアドルで事故に遭ったとき、長沼は肘と膝を思いっきりぶつけ、山田は首を痛めたのかしきりに首筋をさすっていた。

「ヤマさん、大丈夫?」

「なんの。これくらい、どうってことないさ」

あちこちに擦り傷をこしらえ、持っていた絆創膏は使い果たしてしまったが、山田は健気に言った。

「この傷は俺たちの勲章だよ。痛みもいい思い出になるさ」



長沼と山田はエクアドルの首都キトからコロンビアに向かうトラックに乗せてもらった。

「お前たち、どこに行くんだ?」

髭面の運転手は明るい性格で、気さくに話しかけてきた。

名前は「チコ」という。

「俺たち、日本から来たんだ。南米を縦断するんだよ、ヒッチハイクで」

「そりゃ大変だなあ」

チコは笑った。

トラックは国境を越えてコロンビアに入国した。

コロンビア西部の大都市・メデジンまで荷物を運べば仕事は終わるという。

チコは帰りを待つ家族の話をし、愛する妻と子供たちの写真も見せた。

長沼は運転席の日よけに挟み込まれた雑誌を見つけた。

何気なく手に取ってみると、いわゆるエロ本である。

「チコは奥さんもいるのに仕事中はやっぱり淋しいんだろうな」

「家庭を大切にしてるんだよ」

山田がたしなめるように言った。

「なんだ、意外とエロくないね」

日本のエロ本と違い、きわどいヌードは載っていない。

「キリスト教カトリックだからね。案外、そういうのには厳しいんだよ」

「でも、みんな美人だね」

「コスタリカ、コロンビア、チリの頭文字を取って美人3C国と言われるくらいだからね。混血が多いからだろうね」

「ああ、なんかしたくなってきた」

長沼は旅に出てからずっとマスターベーションをしていないことに気付き、慌てて股間を手で押さえた。

「ヤマさん、これでオナニーしたくなってきたよ」

「おいおい、そんなこと俺に言わせるつもりか?」

「チコに頼んでみてよ」

「自分で言うんだな。なんて言うかは自分で考えるんだ」

山田は苦笑した。



トラックはアンデスの緑美しい山道を走っていく。

と、急に停まった。

「インスペクシオン(検問)だ」

チコが言った。

前方に車列が並び、軍服姿の兵士たちが検問をしているのが見えた。

「やべえ!これ隠さなきゃ」

長沼は慌ててエロ本を日よけに戻した。

「なーに、平気さ」

山田は冷静だった。迷彩服を着た若い兵士が近寄ってきて、運転席を覗き込んだ。

「お前たちは何者だ?どこから来た?」

「俺たちはハポネス(日本人)だよ。ヒッチハイクで南米を縦断するんだ」

山田が説明した。

「トゥーリスモ(観光)か?危険だぞ。ゲリラが獲物を狙ってるからな」

「ゲリラ?」

「ああ、お前たちのような外国人は狙われる。高く売れるからな」

そう言われて少し不安になったが、

「なーに、うちは貧乏だから平気だよ」

と長沼は笑った。

次の瞬間、ドンッという鈍い爆発音が響いた。

「ゲリラだ!」

左側の山の斜面から茂みに潜んでいたゲリラ部隊が一斉に襲いかかってくるのが見えた。

赤いスカーフで覆面をしたゲリラ兵士が旧ソ連製のカラシニコフ小銃を構え、映画でしか見たことのない銃撃戦が本当に目の前で始まった。

トラックのフロントガラスに蜘蛛の巣状のヒビが走り、空気を切り裂く銃声が耳を打った。

恐怖で体がすくんで何もできない。座席で固まっていると、

「逃げろ!早くしないと殺されるぞ!」

チコに押されて長沼と山田はトラックから飛び降り、荷台の陰に隠れた。

「お前たちは外国人だ!奴らに捕まったら生きて帰れないぞ!」

とチコが言った。

「な、なんだって?!」

「俺は金を持ってない!捕まれば殺される!逃げるなら今のうちだぞ!」

「チコ!どこへ行くんだ?危ないぞ!」

長沼が呼び止めようとしたが、チコは銃弾を掻い潜って逃げ出そうとした。

が、チコの背中から血煙が吹き上がった。

ゲリラ兵が背後から銃弾を浴びせたのだ。

「チコ!」

うつ伏せに倒れたチコはピクリとも動かない。

「そ、そんな……死んだ……」

人が殺されるのを見たのは生まれて初めてだ。言葉を失って震えていると、

「来い!こっちだ!逃げたら撃つぞ!早くしろ!」

ゲリラたちに引き立てられ、長沼と山田は他の車やバスの乗客たちと一緒にゲリラのトラックの荷台に押し込まれた。

「撤収するぞ!」

ゲリラが政府軍のジープやトラックに手榴弾を投げ入れた。

耳をつんざく爆発音とともに赤い炎と黒い煙が上がった。

道路のあちこちに射殺された死体が転がり、流れ出た血が生々しい。

トラックが激しく揺れながら走り出した。

まだ信じられなかった。自分たちがゲリラに拉致されてしまったことが。

(ああ……これから俺たちはどうなるんだろう……?)

頭の中は不安で一杯だった。トラックは舗装されていない凸凹の山道をバウンドしながら猛スピードで走っていく。



どのくらい走っただろうか。

トラックから降ろされた長沼と山田は、他の人質たちとともに山道を何時間も歩かされ、ようやくゲリラの本拠地らしき場所にたどり着いたとき、ほとんど日が暮れていた。

「こっちだ!こっちに来い!もたもたするな!」

凶暴そうな髭面のゲリラに怒鳴りつけられ、人質たちはゲリラの司令官らしき男のいる小屋に連れて行かれた。

「お前たちは何人だ?」

順番が来ると、国籍を訊かれた。日本人と答えるのは嫌だったが、黙ってパスポートを差し出した。

「お前たちはハポネスか?」

猛禽類のような獰猛そうな目つきの男に問われて、「シー(そうだ)」と答えると、

「お前たちはプリソネーロ・デ・グエラ(捕虜)だ」

男の言葉を山田が日本語に訳して長沼に伝え、長沼の言葉を山田がスペイン語で伝えた。

「捕虜?冗談じゃない。何のつもりだ?」

「お前たち日本人はリコ(金持ち)だ。お前たちを捕虜にすれば高く売れる」

「レスカテ(身代金)を取ろうって言うのか?俺の家は金持ちなんかじゃないぞ」

「お前たちの家族に払わせるんじゃない。お前たちの国に払わせるんだ」

「日本政府に身代金を要求するのか?俺たちのために払うわけないじゃないか」

「いや、払うさ。日本政府は身代金を払う」

「何故、そんなことが言えるんだ?」

「日本はアメリカーノ(アメリカ人)と違って人は出さない。金は出せるが人は出せない。金を出すしかないんだ」

その言葉に、長沼は怒りを覚えながらも認めざるを得ない、と思った。

これがアメリカ政府ならテロリストと交渉せず、特殊部隊を送り込んで人質の救出作戦をするだろう。

しかし、日本政府にはそれができない。

憲法で海外派兵を禁じているし、事なかれ主義だから金で解決しようとする。

テロリストたちはそのことを知っているのだ。

アメリカ人より警戒心が薄く、しかもリッチで、政府は弱腰なのだ。

「一体、いくら要求するつもりなんだ?」

山田が冷静に尋ねた。司令官らしい男は薄笑いを浮かべ、

「ドスシエントス・ミロネス・ドラー(2億ドル)だ。お前たち二人合わせて2億。一人につき1億だ」

「2億ドルだって?!」

あまりの高さに思わず長沼が叫んだ。

「そんな大金、俺たちのために政府が払うわけないじゃないか!」

「払わせるさ。払うまでは解放しない。それだけのことだ」

「クソッ!!」

長沼は絶望感に打ちのめされた。

「さあ、こっちに来い!早くしろ!」

ゲリラに引きずり出された。



背中を押されながら連れて行かれたのは豚小屋のような粗末な小屋だった。

草で葺いた屋根はあるが、壁は板で囲っただけで、山田とともに入れられると外側から扉に閂(かんぬき)をかけられた。

どうにか立つことはできるが、歩き回れないような狭さだ。

照明もないし、トイレもない。

「おい!開けろ!俺たちをここから出せ!」

長沼は扉を叩いて叫んだ。

「無駄だよ、ナガヌマちゃん。じっとしておいた方がいい」

山田はいつでも冷静だった。

「くそっ……俺たち、これからどうなるんだろう?」

「なるようにしかならないさ」

「2億ドルなんて、ふざけてる!払えるわけないよ!」

「まあ、奴らだって、本当にそれだけ取れるとは思ってないだろうね。これから交渉して、少しずつ金額を下げていくはずだ。要求額の10分の1でも取れれば満足するんじゃないかな?」

「それでも2千万ドルだよ。俺たちのために政府が20億円も払うと思うか?」

「政府は事なかれだからね。払う可能性はあるね」

山田が客観的に分析した。

「ゲリラの目的は金だ。金が目的なら、俺たちを簡単には殺さないだろう」

「でも、もし政府が払わなかったら?」

「その時は殺すかもしれない。でも、二人なら見せしめにどっちか一人を殺して脅すだろうね」

「どっちかって……まさか、俺が先じゃないよね?」

山田は笑った。

「ハハハ……そんなこと心配したって始まらないさ。今は生きることを考えなきゃ」

長沼は、いつも落ち着いて事態を見極めようとする山田に感心した。

「そうだね。さすがはヤマさんだ。俺と考えることが違うね」

「人間は生まれてきた以上、いつかは死ぬ。だから、死ぬことは考えちゃダメなんだよ。そんなことは考えたってどうしようもない。まず、生きることを考えるんだ」

「生きることか……よし、生きよう。生きて日本に帰るんだ」

長沼は自分に言い聞かせるように言った。



夜が更けた。

長沼と山田は疲れ切っていたので眠ることにした。

が、むき出しの地面に、ベッドもなければ毛布一枚ない。

仕方なく板壁にもたれかかるようにして目を閉じたが、拉致されたことの衝撃と、これから先の不安で一睡もできない。

その上、猛烈な空腹が襲ってきた。拉致されてから水一滴、与えられていないのだ。

「ヤマさん、起きてる?」

たまらずに長沼が言った。

「起きてるよ」

「腹減ったね」

思わず腹が鳴った。この空腹をどうにかしなければ眠れそうにない。

「何か食わしてくれるよう頼んでみようか?」

「頼んでもいいけど、ここはホテルじゃないんだ。ルームサービスは期待できそうにないね」

山田の冗談に長沼も笑った。

「そうだね。ルームサービスの時間も終わっちゃったみたいだしね」

「とにかく、朝まで待とう。奴らだって殺す気がないなら何とかしてくれるだろう」

「おやすみ、ヤマさん」

「おやすみ」

とは言ったものの、長沼は一睡もできずに朝を迎えた。



夜が明けた。

「起きろ!これから出発だ!」

ゲリラが荒っぽく扉を開けて怒鳴った。

「どこへ行くんだ?」

ゲリラは答えない。

「早くしろ!殺されたいのか?」

「ちょっと待ってくれ!俺たちは昨日から何も食べてないんだ!」

「それがどうした?」

「何か食わせてくれ!アンブレ(空腹)で死にそうだ!」

「死んだら、腹も減らんだろ?」

ゲリラはニヤニヤ笑いながらカラシニコフ銃の銃口を向けた。

「この野郎……」

長沼は怒りを抑え、よろよろと立ち上がった。



長沼と山田の新たな旅が始まった。

まだ朝靄が漂っているうちにゲリラのキャンプを出発した。

昨日、一緒に拉致された人質たちも、いくつかのグループに分けられ、どこか別の場所に移されるらしい。

「なんで、こんなに急いで出発するんだろ?」

長沼は寝不足で充血した目をこすりながらぼやいた。

「政府軍が追ってくるんだろう。早く人質を安全な場所に移しておきたいのさ」

山田が言うと、ゲリラが「グアルダルロ!(黙れ!)」と怒鳴った。



長沼と山田は15人のゲリラに連れられて山道を下った。

足場は悪く、疲労と空腹が重なり、長沼は何度も転んだ。

「お前たち、遅れたら、ここに置いていく!」

とゲリラの隊長に脅されていたので、足を止めるわけにはいかなかった。

泥まみれになりながら急な坂道を下り、ツルツルと滑る石ころだらけの小川を渡り、今度は上り坂……。

小学生の頃からサッカーに打ち込み、体力に自信はある長沼でさえ、

(こんなにキツイのは生まれて初めてだ)

と思った。



どのくらい歩いただろうか。

気がつくと、谷間の小さな村にいた。

ゲリラの支配下にあるのだろう。

銃で武装したゲリラたちが入ってきても、村人たちは怖がる様子もなかった。

その代わり、見慣れない長沼と山田に村人たちの視線が集中した。

「ここだ!お前たちは今夜、ここで寝るのだ!」

長沼と山田は、また家畜小屋のようなところに押し込まれた。

ここで初めて、食事らしい食事が与えられた。

アルミの皿に盛られたジャガイモとライスだった。

長沼も山田も夢中でかき込んだ。塩で味付けしただけのパサパサの米だったが、あっという間に平らげた。これだけではとても空腹を満たせなかった。

「お代わりしようか?」

「いや、空腹時にあんまり沢山食べると体に良くない。これで我慢しておこう」

「そうだね。ヤマさんは偉いなあ。いつも理性が働いて。俺も見習わないとなあ」

食事が済むと、睡魔が襲ってきた。他にやることもないので、二人とも眠った。



「起きろ!これから出発だ!」

ゲリラに叩き起こされ、長沼は目をこすりながら、

「ええっ?だって、まだノーチェ(夜)だぜ……」

「早くしろ!嫌なら人質は一人でいいんだぞ!」

まだ外は真っ暗である。夜明け前から出発だ。

「明るいと目立つからね。奴らも必死なんだろう」

と山田が言った。



夜が明けると、どこからかヘリコプターの爆音が聞こえてきた。

長沼たちは昼でも薄暗い密林の中を歩いていたが、木々の間から軍用のブラックホーク・ヘリが見えた。

「あれ、政府軍かな?俺たちを捜してるのかな?」

「たぶんね」

「ヤマさん、何とかして知らせようよ」

「やめといた方がいい。そんなことしたら俺たちも殺されるよ」

「俺たちは人質だぜ?人質がいるのに撃ってきたりしないよ」

「人質がいようがいまいが、政府軍はゲリラを見つけ次第、攻撃してくるさ」

むしろ人質が死ねばゲリラのイメージ・ダウンにつながるから政府軍にとっては好都合なのだ、と山田は恐ろしいことを言うのである。



急流にかかる吊り橋を渡り、激しいスコールに打たれながら歩き続け、長沼と山田は着ている服が所々破れ、ボロキレのようになっていった。

「あいつら、もう政府に要求はしたのかな?俺たちのこと、日本でニュースになってるかな?」

「さあ、どうだろうね。テレビも新聞もラジオもないしなあ」

「日本じゃ今頃、みんな心配してるだろうなあ……」

長沼は日本に残してきた家族や友人のことを思い浮かべ、泣きたくなってきた。

日本にいれば、エアコンの利いた涼しい部屋で、よく冷えたビールを飲める。

平和な生活を捨ててまで、一体自分は何をしに来たのだろう、と思うと悲しかった。

(ああ、俺はバカだった。父さん母さんを怒らせて、姉さんから金を借りてまで、こんなところに来て何をやってんだろう……本当に俺はバカだ。ヤマさんまで巻き込んじゃって……)

今回の旅行を計画したのは長沼である。

こうなったのは自分の責任だと思った。

「ヤマさん、ホントにゴメン。こんなことになったのは俺のせいだよ」

「いいって。気にするな。それよりも、何とかしてここから帰ることを考えよう」

「そうだね。マジでヤマさんはいいやつだよ。俺は幸せ者だ」

思わず涙があふれてきて、長沼は慌てて手で拭いた。



長沼と山田はゲリラの支配地を転々と移動させられていた。

夜明け前に出発し、昼は人目を避けるように密林の中を移動し、粗末な小屋に閉じ込められ、家畜の餌のような食事を与えられる。

トイレは土に穴を掘り、周りを草で覆っただけの粗末なものだった。

常に銃を持ったゲリラに監視されているので、脱走のチャンスはなかったし、たとえ逃げられたとしても、ここがどこなのか分からない。

鬱蒼たる大密林の中で道に迷い、ゲリラに見つかって殺されるか、猛獣に喰われるか、食べ物がなくなって餓死するかのいずれかだった。



拉致されてから1週間が経過した。

政府との交渉はどのくらい進んでいるのか。

狭苦しい小屋に閉じ込められ、空腹を抱えながらじっと辛抱強く待つしかないのだ。

「ああ、体がかゆいなあ」

ずっと風呂にも入っていない。

髪も髭も伸び放題で、体から異臭が漂っている。

「せめて、水浴びくらいできないもんかな」

「交渉してみようか?」

流暢にスペイン語を操る山田が見張りのゲリラと交渉してくれた。

「俺に言ってもダメだ。コマンダンテ(司令官)に言え」

「コマンダンテに取り次いでくれないか」



ようやく水浴びが許された。

密林の中を流れる小川で体を洗い、着ているものを洗濯した。

冷たい川の水が心地よく肌にしみた。

「ヤマさん、痩せたね」

「ナガヌマちゃんも。ろくなもの食ってないからなあ」

お互いに裸体を眺め、肉の落ちた腕をさすった。



「なあ、カンビオ・デ・ロパ(着替え)は?」

パンツ一枚になってシャツとジーンズを洗い、川辺の岩の上に並べて干しながら長沼が見張りのゲリラに言った。

「着替え?そんなものない」

そっけない返事。

「やれやれ、着替えもないのかよ……」

仕方なく、ボロボロに擦り切れたシャツを着る。

(毎日三食食えて、体を洗って、着替えもしてる俺たちって、ものすごくゼイタクなのかもな……)

と思った。



「ねえ、あの女の子、かわいくない?」

「誰?」

「ほら、いつも見張りの中にいるじゃん。髪の長い、あの娘だよ」

「ああ、あの娘ね」

「あの娘のこと考えてると、チンコがビンビンに立っちゃうよ!」

長沼が興奮して叫んだ。

「何て言うんだろうね、あの娘は」

「今度、名前を聞いてみようか?ついでに電話番号も」

「おいおい、ここは日本じゃないんだぜ」

「そうだったよな……チクショウ、あんな娘と一発やりてえな!」

「コロンビアは確かに美人が多いね」

「俺、ああいう娘と一発やれたら、ここで死んでもいいよ」

「ジャーナリストの夢はどうするんだ?」

「諦めるよ」

「諦めが早いな」

「ピチピチのコロンビア娘を連れて帰るよ」

「言うことがオヤジっぽいな」

「確かに」

「ま、口説いてみるのもいいかもね。オーケーなら日本に連れて帰れるかもよ?」

山田が慰めるように言った。



ゲリラと日本政府の交渉は難航しているようだった。

ゲリラから手紙を書けと言われた。

「日本のファミリア(家族)に書け。早く助けてくれと書くんだ」

家族を揺さぶり、政府に圧力をかけるつもりらしい。

長沼も山田も夢中になって書いた。

「お前たちが生きていることを証明するんだ」

長沼と山田は新聞紙を持たされ、写真を撮られた。

その日付を見れば、少なくともその日までは生きていたことになる。

手紙も写真も送った。

が、いつまで待っても返事は来なかった。



長沼も山田も正気を失うまいと努力していた。

毎日、足が棒になるまで歩かされ、わずかな食物で生かされているだけだ。

食って寝て、じっと解放を待つしかない日々。

何かしていないと気が狂いそうだった。

ゲリラから手紙を書くために与えられたノートに日記をつけたり、ゲリラに頼んで水汲みや食事の準備を手伝ったりした。

(本当に俺たちは生きて帰れるのだろうか……?)

なるべく考えたくないことだったが、考えずにはいられなかった。

「日本政府は俺たちを見殺しにしたんじゃないよね?」

「それはないだろう。あらゆる手段を尽くしてるはずだ」

「交渉が失敗したら?救出に来てくれるかな?」

「どうかな?日本から救出部隊を送るのは無理だし、現地の政府に頼むと言ってもね……」

政府軍の内部にもゲリラのスパイが潜り込んでいる。

情報は筒抜けだろうし、政府軍が来る前に殺されてしまうだろう。

「人質の救出よりゲリラの殲滅が優先だ」

と考え、無差別攻撃を仕掛けてくるかもしれない。

逃げることも考えないわけではないが、失敗すれば命の保証はない。

ゲリラの兵士たちは司令官から何かあればすぐに人質を射殺するよう命じられていた。



拉致されてから数ヵ月が経過した。

この間、長沼と山田はゲリラに連れ回され、厳しい監視と粗末な食事の中、お互いに支え合って生きていた。

「日本は今頃、クリスマスだね。みんな平和に浮かれてるんだろうなあ」

「去年の今頃は俺たちも飲んで歌って一晩中はしゃいでいたね」

「みんな、俺たちのこと心配してるだろうなあ」

「ナガヌマちゃんは日本に帰ったら何したい?」

「そうだな……温泉に入って、それから冷たいビールを飲みたいね」

「ハハハ、言えてるね」

「ヤマさんは?」

「俺は、まずラーメンを食いたいね。醤油ラーメンを腹いっぱい食いたいな」

「ああ、いいねえ……ラーメン食いたいなあ」

長い間、忘れていた日本の味が脳裏に浮かぶ。

ラーメン、寿司、カツ丼、すき焼き、刺身、天ぷら、白いご飯に味噌汁……。

拉致されてからは毎日、米と豆とジャガイモとプラタノ(甘くないバナナ)だけの食事で、肉はおろか野菜も果物もほとんど与えられないのだった。

思わず涎を垂らし、腹の虫が鳴った。



「日本政府は冷たいな。お前たちのために身代金を払う考えはないらしい」

とゲリラの司令官。

「そんな……」

「5万ドルなら払えると言ってる。つまり、一人につき2万5千ドルだ」

「たったの2万5千ドル?」

それを知って長沼は失望した。

日本の将来を担う自分たちにはもっと価値があると思っていたからだ。



「ヤマさん、俺たちは本当に帰れるだろうか?」

「ナガヌマちゃんらしくもないな。コロンビアの娘を連れて帰るんじゃなかったのかい?」

「だけど、交渉は難航してるみたいだし、助けも来そうにないし……」

「それでも俺たちは生きている。違うかい?」

「それはそうだけど……」

「生きたくても生きられない人間もいる。それに比べれば俺たちはずっとマシだよ」

「でも、ただ生きているだけだ。いや、金のために生かされているだけだ。俺たちには自由がない」

こんな生活が何年も続くくらいなら、いっそのこと死んでしまおうか、と思うこともある。

逃げて、一瞬だけでも自由になって、ゲリラに撃ち殺されるのもいい、と思うことさえあった。

(ああ……俺はただ、じっと解放を待つしかないのか……)

今日も日が暮れる。

今日はダメだった。だが明日は?

その繰り返しだった。



拉致から半年が経過した。

ゲリラは身代金の金額を徐々に引き下げてはいたが、相変わらず交渉は困難を極めていた。

「なんだよ、貧乏な国じゃないんだから、1億円くらいなら払ってくれてもいいのに……」

「テロには屈しないという建前があるから、日本政府も簡単に金で解決するわけにもいかないんだろう」

と山田は言ったが、長沼は自分たちがすでに見捨てられているような気がした。



交渉に進展が見られず、ゲリラたちは苛立っているようだった。

長沼と山田はジャングルの奥深くにある人質収容所に連れて行かれた。

そこでは大勢の人質が監禁されていた。

ゲリラとの戦闘で捕虜になった軍人や警官、身代金目的で拉致された企業の重役や資産家、外国人などであった。

日本人は長沼と山田の二人だけ。

二人は他の人質たちと一緒に周囲を有刺鉄線で囲っただけの場所に押し込まれた。

人質の中には10年以上も監禁されているというツワモノもいた。

「10年に比べたら、俺たちなんてハナタレ小僧もいいところだね」

長沼は、平和な日本では想像すら及ばない世界が現実に存在することを否応なしに思い知らされたのだった。



拉致から1年が経過した。

長沼も山田も見違えるような姿になっていた。

長沼は姉に似て色白で女性的な顔立ちだったのだが、灼熱の太陽に焼かれて真っ黒に日焼けし、顔は頬骨が浮き出て精悍に引き締まり、まるで博物館に展示されている原始人のような野生的な顔つきに変貌していた。

山田も顎から鼻にかけて髭に埋もれ、天然パーマの髪はさらにチリチリに縮んで堅くなり、まるで動物園のヒグマを見ているようだった。

「もう1年か……早いもんだなあ。俺もひとつ歳を取ったわけだ」

「なんだかんだ言って、こんなところでも1年も生きられたんだ。案外、人間ってのはしぶとい生き物なんだね」

「俺たち、あと何年生きられるかな?」

「だからさ、ナガヌマちゃん、言ったろ?人間、いつかは死ぬ。黙っていても必ず死ぬんだ。だから、死ぬことは考えちゃダメなんだよ。無意味なんだ。生きることだけ考えなくっちゃ」

長沼は、いつも山田の励ましに勇気付けられてきた。

山田がいなければ、とっくに絶望して自ら死を選んでいたかもしれない。

「そうだね。ヤマさんの言うとおりだよ。俺、いい友達を持って本当に良かったよ」

「日本に帰ったら、二人で温泉に行って、冷たいビールを飲もう」

「ラーメンも食おう。約束だよ」

「ああ、約束だ」



1年半たった。

この間、何人もの人質が解放されていった。

「政府とゲリラの和平交渉が進んでいるらしい。うまくいけば俺たちも解放されるかも……」

と期待を寄せたが、長沼と山田は経済大国・日本を代表する人質なのだ。

あくまでも巨額の身代金奪取を目的とするゲリラにとって、そう簡単に手放せるわけがなかった。



2年たった。

単調な生活に少しでも変化をもたらすために始めたスペイン語の勉強で、長沼は今や通訳なしでも日常会話は成り立つくらいに上達していた。

出口の見えない人質生活の楽しみと言えば、週に1回のラジオ放送だけである。

毎週土曜の深夜から早朝5時まで、ラジオ番組『誘拐された人々の声』が放送されるのだ。

誘拐された被害者の家族がラジオを通じて励ましのメッセージを寄せるのだ。

この時間帯だけがジャングルの中でもラジオの電波がはっきり届くのである。

日本の音楽が流れたので長沼と山田は驚いたが、家族がボゴタの日本大使館を通して手配したらしかった。

ラジオ局のDJが片言の日本語で、

「ガンバッテクダサイ」

と言うのが聞こえて、長沼は思わず涙があふれた。



「そういやもう2年もテレビを見てないんだよなあ……」

ある夜、長沼はポツリとつぶやいた。

「2年も布団で寝てないし、ラーメンも食ってないし、ビールも飲んでないんだよなあ……」

「カラオケも行ってないし、バイトもしてないし、合コンもしてないよなあ……」

隣で山田もつぶやくように言った。

「俺たち、このまま日本に帰ったら家族もびっくりするだろうね」

「ハハハ……別人だと思うだろうね」

「家に帰る前に、髪を切って、髭も剃った方がいいね」

「行きつけの店でも、俺たちだとは気付かないだろうね」

「マスコミが押し寄せるだろうね。ちゃんと、記者会見で何をしゃべるか決めておかないとなあ」

「俺、ここでの体験談を本に書こうと思うんだ」

「いいねえ。ベストセラー間違いなしだよ」

「ナガヌマちゃんが書いたら?」

「どうして?」

「ジャーナリスト志望だったろ?」

「そうだったね」

「それに印税が入ってきたら、お姉さんから借りた金も返せるだろ?」

「なるほどね。さすがはヤマさんだ」

「テレビや新聞の取材が殺到するだろうから、マスコミ関係にコネもできるしさ」

「そこまで考えてたとは……やっぱヤマさんはいいやつだ!」

まだ解放されると決まったわけでもないのに、長沼と山田は解放後の話に夢中になった。



生きることにこれほど夢中になったこともなかった。

毒虫や毒蛇、猛獣や疫病が蔓延しているジャングルでの生活なのだ。

人質たちは逃げられないよう首に鎖を巻かれ、寝るときもそのままだった。

鎖の一端は地面に置かれた丸太につながれ、人質たちは地面にビニールシートを敷いて寝るのだ。

もはや人間ではなく、動物以下の扱いだった。

最も恐ろしいのはマラリアである。

熱帯地方に多いこの病気は、ハマダラカによって媒介され、発病すると40度の高熱を出し、死亡率は高い。

満足な医薬品もない。

ドクトル(医者)と呼ばれるゲリラが一人いるだけで、彼が持っているのは胃薬とアスピリンだけだった。

何年も監禁された挙げ句、病気で命を落とす人質もいた。

(何年も我慢して、こんなところで死んだんじゃ浮かばれないよなあ……)

と思っても、過酷な環境に長くいると、悲しいとか、悔しいとか、人間的な感情も薄れてしまうようだった。

(これって、やっぱり異常なのかな?それとも精神が鍛えられたってことになるのかな?)

日本にいたときは、生きることについて真剣に考えたこともなかった。

ただなんとなく生きて、面白そうなことをやっていただけだ。

日本が平和すぎるのかもしれない。



2年半たった。

コロンビア政府と反政府ゲリラの和平交渉が決裂したらしい。

ジャングルの上空を小型のプロペラ機が飛び回るのが見えた。

コカ畑に除草剤を散布しているのだ。

政府の支配も及ばない貧しい農村では、農民たちが生きていくためにコカの木を育て、麻薬の原料となるコカイン・ベースを作り、それを麻薬商人に売って、わずかな生活の糧を得ている。

食っていくためには仕方のないことだ、とゲリラは言う。

ゲリラは農民のコカ栽培を認め、課税することで莫大な軍資金を得ている。

コロンビアは世界最大のコカイン生産国であり、全世界で消費されるコカインの8割を生産していると言われる。

アメリカ政府は1999年、コロンビアのコカ生産を6年で半減させるという「コロンビア計画」を開始し、コロンビアのコカ栽培地にグリホサートという強力な除草剤を撒き散らしてきた。

除草剤はコカだけでなく、農民が食べるイモやバナナまで枯らしてしまい、地下水も汚染し、住民は深刻な健康被害を受けているとされる。

ゲリラは除草剤の散布中止を求めていたが、アメリカの後押しを受けた政府は応じなかった。



「ゲリラにもそれなりに言い分があるんだな」

長沼は自分たちを拉致・監禁し、ひどい扱いをしてきたゲリラにもほんの少しだけ同情する気持ちになった。

「ナガヌマちゃん、いけないよ。ストックホルム症候群ってやつだ」

と山田が忠告する。

1973年8月、スウェーデンの首都ストックホルムで銀行強盗が人質を取って立てこもるという事件が発生した。

この時、人質たちが犯人に協力して警察に敵対的な行動を取り、解放後も人質が犯人をかばい、警察に対して非協力的な態度を示した。

犯人と人質が閉鎖的な環境で非日常的な体験を共有すると、人質が犯人に同情的になり、犯人に共感・共鳴し、愛情すらも覚えるようになる。

こうした現象をストックホルム・シンドロームという。

「ゲリラに感情移入するのは禁物だ。あいつらは犯罪者なんだからね。どういう事情があろうと、麻薬や誘拐や殺人が許されるわけないじゃないか」

「それはそうだけど……」

「俺は奴らと友達になるつもりはないし、敵対するつもりもない。距離を置くことだね」

山田の言うとおりだろう。

甘い考えは捨てなければやっていけない、と思った。

が、心のどこかで、敵にも愛されたい、という気持ちがあったのは否めなかったのである。



アメリカの麻薬撲滅作戦に怒ったゲリラは、除草剤を散布していた飛行機を撃墜した。

そして、乗っていたCIA(米中央情報局)の工作員を捕虜にし、除草剤の散布中止を要求した。



それは突然始まった。

長沼と山田はジャングルの収容所で寝ていたのだが、月も出ていない闇夜の中、いきなり雷鳴のような閃光と爆音が走った。

「敵襲だ!」

ゲリラの怒号と銃声、名状しがたい衝撃と混乱。

一体、何が起きたのかさっぱり分からなかったが、スペイン語に混じって英語も聞こえてきたので、米軍が捕虜の奪還作戦を始めたのだ、と瞬時に察した。

「どうやら、陽動作戦らしいな」

と山田が言った。

ゲリラの注意を人質から逸らしておき、その隙に捕虜を救出する作戦なのか、銃声は一方向から集中して聞こえる。

果たして、顔を迷彩色に塗った米兵が現われ、人質たちを囲む鉄条網をナイフで切り始めた。

「我々はデルタフォースだ!諸君を救出に来た!」

アメリカ陸軍の精鋭部隊だ。正式名称は第1特殊部隊デルタ作戦分遣隊であり、アメリカ政府は公式にはその存在を認めていない。つまり、極秘の作戦に投入されるのである。

「やったぞ!ついに日本に帰れるんだ!」

長沼は飛び上がらんばかりに小躍りして喜んだ。

「ヤマさん、やったね!」

「ああ、苦労した甲斐があったよ」

誰もがこれで帰れる、自由の身になれると思った、その瞬間……。

デルタ部隊の兵士が頭から血煙を噴き上げた。

長沼の顔に血飛沫が飛び散り、思わず目を閉じた。

耳を聾する凄まじい銃弾の嵐。血と肉片が乱舞し、長沼と山田は本能的に地面に伏せた。

ゲリラが丸腰の人質たちに容赦なく機銃掃射の雨を浴びせたのである。

長沼と山田は人質の死体の山に隠れ、息を殺してじっと身を潜めるしかなかった。



血塗られた惨劇から一夜明け、人質の生存者は長沼と山田の二人だけだった。

「何をしてる!もたもたするな!さっさと働け!」

ゲリラたちは怒り狂っていた。

人質だけでなく、大勢の仲間が死んだのだ。

辛うじて生き残った長沼と山田には辛い仕事が待っていた。

ゲリラの命令で死体の処理をやらされたのである。

スコップで深い穴を掘り、無残な死体を運んできて埋める。

「グリンゴ!」

と叫びつつゲリラが米兵の死体に銃弾を浴びせ、唾を吐きかけた。

Gringoはスペイン語で余所者という意味だが、ラテンアメリカではアメリカ人に対する蔑称として使われる。

米墨戦争(1846~1848)の際、メキシコの兵士が侵略者である米兵に対し、米兵の軍服が緑色だったことから「green go!(緑は出て行け!)」と叫んだことに由来する。

自分たちは殺されなかっただけまだマシだが、アメリカ人の次に日本人が憎悪の対象になるのは時間の問題だ、と思った。

「なんだって俺たちがこんな目に遭わなきゃならないんだ?」

山田と死体の手足をつかんで運びながら長沼がぼやいた。

「さあね。これも運命なら仕方ないさ」

「運命?運命って誰が決めるんだ?神様か?」

「たぶんね。生まれたときから決まってるんだろうよ」

「神なんて糞喰らえだ!俺は運命なんかに従わないぞ!」

悔しくて涙があふれた。

何があろうと絶対に生きて帰ってやろう。理不尽な運命などに翻弄されてたまるか、とファイトが燃え上がった。

血と汗と泥にまみれながら、長沼と山田は黙々と死体を運び、穴に埋める作業を繰り返した。



米軍による救出作戦の失敗後、長沼と山田に対する待遇はさらに悪化した。

二人は別々に竹で作った籠のようなものに押し込まれ、地面に掘った縦穴に入れられた。

まるで生きながら埋葬されたような感じである。

食事も減らされ、やせ衰えた体はさらに痩せ細った。

(俺たちを弱らせて、餓死させるつもりか……?)

空腹と疲労は、考える気力すらも奪い取った。

(こんなところで生かされるくらいなら、いっそのこと一思いに殺された方がマシだ)

と思った。



数日後、長沼と山田は穴から引き出された。

ゲリラに小銃で背中を小突かれながらフラフラした足取りで歩いていくと、小屋の中にビデオカメラが置かれていた。

「何のつもりだ?俺たちに命乞いをさせようって言うのか?」

長沼は嘲笑を浮かべた。

「無駄だよ。日本政府は俺たちのために金を払う気なんてないさ」

すると、ゲリラの司令官が腰から拳銃を引き抜いた。

黒光りするコルト・ガバメントの冷たい銃口が向けられた。

「人質は一人で十分だ。二人もいらん。どっちが先に死にたいか言え!」



とうとう殺されるのだ。

家畜以下の扱いを受けるくらいなら死んだ方がマシだと思っていたが、いざ自分が殺されるかもしれない状況に置かれてみると、長沼は自分でも情けなくなるくらい動悸が高鳴り、体中が勝手にブルブル震え出すのを感じた。

「う、嘘だろ!俺は死にたくない!頼む!助けてくれ!」

人間、死に直面するとこうも生にしがみつこうとするものなのか。

生存本能がいとも簡単に理性やプライドを消し去ってしまうものなのだ、ということを知った。

「ポルファボール!ノー・マター!(お願いだ!殺さないでくれ!)」

長沼は跪いて拝むように言った。

「無駄だよ、ナガヌマちゃん。どうせこいつら、俺たちを生かしておく気なんてないんだ」

いつも不気味なほど冷静な山田。

「人質は二人いるんだ。どっちかを殺して、見せしめにしなきゃ金は取れない」

「そ、そんな!」

「じゃんけんで決めよう。どっちが犠牲になるか」

「や、ヤマさん!何言ってんだよ!」

「俺が死ぬか、ナガヌマちゃんが死ぬか、二つに一つしかない」

「ヤマさん、頭おかしいのか?!俺は……」

「フェアに行こうよ。どっちかが死ぬしかないんだ」

「バカじゃねえのか?!俺は絶対に死んでやらねえぞ!!」

「俺だって死にたくないさ。でも、誰かが死ななきゃ誰も助からない」

「ひ、ひでえよヤマさん!さんざん希望を持たせておいて最後はこれかよ!」

「じゃあ、俺にどうしろって言うんだ?何か名案はあるのか?」

「こんなことになると分かっていたら、二人で協力して逃げることだってできたじゃないか!」

「逃げる?どこへ?地図も持ってないのにどこへ逃げるんだ?」

冷たく突き放されるような言い方をされて、長沼はムラムラと怒りがこみ上げてきた。

「最初からそのつもりだったんだな?!卑怯だぞ!!」

「卑怯?俺は卑怯な真似をした覚えはないが」

「俺の気持ちを弄んでたんだろう!!」

「そんなことをして俺に一体何のメリットがあるんだ?」

「チクショウ!あんた、鬼だ!見損なったぜ!!」

悔しくて涙があふれてきた。

ヤマさん、ヤマさん、と慕っていた自分が情けなかった。

苦楽を分かち合ったこの3年は一体何だったのか?

「よし、分かった!ペレア(喧嘩)はやめろ!そこまでだ!」

遮るように司令官が怒鳴った。

「続きはあの世でやってもらおう」

銃口を向けられた。

(殺されるっ……!!)

長沼は思わず目を閉じた。

鋭い銃声が響いた。

身が竦み上がったが、どこも痛くない。

恐る恐る目を開けると、

「ああっ、ヤマさん!!」

長沼の視界に飛び込んだのは頭を撃ち抜かれた山田の姿だった。

「や、ヤマさん!死んじゃ嫌だ!目を覚ましてくれよ!ヤマさん!」

長沼は号泣しながら山田の体を揺さぶった。

山田は額から血を流し、ピクリとも動かない。

おそらく即死だったのだろう。

「チクショウ!ヤマさんが何したって言うんだ!お前ら人間じゃねえよ!なんだってヤマさんを……!!」

司令官は拳銃を腰に差して言った。

「そいつはいつもカルマ(冷静)だった。何かを企んでいると思った。生かしておくのは危険だ」

長沼は山田の死体にすがり付いて泣き伏した。

「ヤマさあん!俺を独りにしないでくれよお!一緒に日本に帰ってラーメン食おうって約束したじゃんかよお!!」

他の人質の死にはあまり心を動かされなかった長沼も、山田の死には慟哭した。



「アミーゴ(友達)を葬ってやれ」

スコップを渡され、長沼は山田を埋葬するための穴を掘った。

山田の死体を横たえ、土をかぶせる。

土を盛り上げておいて、木の枝で作った十字架を突き立てた。

手を合わせ、長沼は山田の冥福を祈った。

「ヤマさん、疑ったりしてゴメンよ。俺が悪かった……」

長沼は両手で土を握りしめた。

「一緒に日本に帰って、温泉に入って、冷たいビールを飲みたかったよ……」

山田が言うように、これも運命なのかもしれない、と思った。

「ヤマさん、一緒にいて楽しかったよ。ヤマさんのことは絶対に忘れないよ」

いつも笑顔を絶やさなかった山田との思い出を脳裏に焼き付けておいた。



山田が殺されて長沼は決意を固めた。

(俺は何としてでも生きて日本に帰るぞ!!)

どんな困難が待ち受けていようとも、山田の分まで生きて、日本に帰ろうと心に誓った。

そして、可能ならば山田の無念を晴らしてやろうと思った。

(俺は死なないぞ!日本に帰るまでは絶対に死んでやらんぞ!!)

長沼は、ひたすら耐えることにした。

いつの日か自由になれることを信じて、粘り強くチャンスの到来を待つしかないと思った。



山田の死から数日後、長沼はゲリラに連れられて長い旅に出発した。

昼間でも太陽の光がほとんど差さない鬱蒼たる熱帯雨林を歩き続けた。

広大な川を小船で渡り、灼熱の陽光が降り注ぐ大草原をひたすら進んだ。

どこに行こうとしているのかは分からなかったが、高温多湿のジャングルを出て、次第に冷涼で湿潤な高原地帯に向かっていることが分かった。

日本の3倍強の面積を持つコロンビアは国の中央を長大なアンデス山脈が走り、国土の大半は険しい山岳地帯と奥深い密林に人跡未踏の湿原が広がっている。

軍隊や警察の力が及ぶ範囲は限られており、ジャングルとアンデスという“天然の要塞”に守られ、言わばゲリラや無法者にとっては好都合な条件が揃っているわけだ。



標高が高くなるにつれ、どんどん気温は下がり、天気も悪くなった。

(暑いところから今度は寒いところか……)

長沼は寒さが苦手だ。

震えながら歩いていると、ゲリラに同行していた地元のインディオの男がポンチョを与えてくれた。

インディオが作った帽子をかぶり、食糧や武器を運ぶバターラ(戦闘)というラバに乗せられた。

山道は険しさを増し、吐く息は白くなった。

長沼は、かつてコロンビアをスペインの植民地支配から解放した英雄シモン・ボリーバルが解放軍の兵士を率いてアンデスを乗り越え、スペイン軍の裏をかく作戦で独立を勝ち取ったという昔話を誇らしげにゲリラから聞かされた。

ゲリラの兵士たちは、ろくに読み書きもできない無学で貧しい若者だが、どの目もキラキラと輝いていて、生き生きとしているのが印象的だった。

そして、彼らの多くは親切で友好的で、自国を愛し、とても誇りに思っているのが特徴的だった。

貧富の格差が激しく、暴力の絶えない絶望的な国なのに不思議だ、と思った。

平和で豊かな日本では、誰もが疲れた顔をして、何かに追い立てられるように生きている。

世界に誇る経済大国と言われながら、どの顔もあまり幸せそうには見えない。

いつしか長沼は、コロンビアという国に強い愛着を覚えるようになっていた。



アンデス山中の標高3千メートルを超えるゲリラのキャンプにたどり着くと、長沼は粗末なテントの中に閉じ込められた。

足を鎖でテントの支柱につながれ、自由に歩き回ることは許されなかった。

寒さは厳しく、焚き火で暖を取るが、酸素が薄いせいか火力は弱く、長沼は汚い毛布に包まって夜を明かした。

山の天候は急変する。晴れていると思っていても、いきなり鉛色の雲が空を覆い、刺すように冷たい風が吹き荒れ、小石のような霰が降ってくることもあった。

震えながらテントの中でうずくまって横たわっていると、

「これ、食べて」

ゲリラの少女が人目を忍ぶようにして食べ物を持ってきてくれた。



少女が持ってきたのはパンにケソ(チーズ)とサルチーチャ(ソーセージ)を挟んだものだ。

「グラッシアス(ありがとう)」

長沼は礼を言い、夢中して食べた。

やわらかいパンだった。

ケソは塩気がきいていて、サルチーチャの脂気も口の中でとろけた。

こんなにうまいものを食べたのは何年ぶりだろうか。

あっという間に食べ終わると、

(ヤマさんにも食べさせてやりたかった)

と思い、涙があふれた。



「ムーチャス・グラッシアス!デリシオサ・エラ!(どうもありがとう!うまかったよ!)」

長沼は合掌して言った。

「コモ・セ・リャマ・ウステ?(名前は?)」

見たところ、少女は15,6歳のようだ。

長い黒髪を腰まで垂らし、大きく澄んだ瞳が印象的な美少女だった。

「あたし、オマイラ」

「オマイラか。いい名前だ」

「あたし、もう行かなきゃ。また持ってきてあげる」

「ありがとう……」

オマイラという少女ゲリラは恥ずかしそうに小走りに去っていった。



(あの娘、かわいかったなあ……)

どうやらゲリラの少女に恋をしてしまったらしい。

相手は自分を拉致・監禁したゲリラなのだ。

(感情移入は禁物だよ……)

という山田の忠告を思い出す。

(でも、彼女は違う。俺を助けてくれたんだ)

オマイラのことが頭から離れなくなった。

(彼女、俺に気があるんだよな……)

そうでなければ人目を忍び、こっそりサンドイッチを持ってきてくれるわけがない。

(かわいいな、あの娘……)

出来ることならば日本に連れて帰りたい、と思った。



翌日もオマイラは食事を持ってきてくれた。

アルミの皿に熱々のジャガイモのスープが湯気を立てて盛られている。

牛肉の燻製が入っていて、トロリと濃い味付けでじつに美味だった。

今までにない扱いである。

ずっとパサパサのライスか、クタクタになるまで茹でたパスタに煮豆とイモやバナナのフライだけの食事だったのだ。

長沼がスープ皿を空にして返すまで、オマイラは長沼をじっと見つめていた。

それに気付いて、

「君はどうしてここにいるんだ?」

と訊ねた。

「あたし、売られたの」

オマイラはつぶやくように答えた。

彼女の話では、家庭が貧しく、親がオマイラをゲリラに売ったのだという。

ゲリラは貧しい家庭から少年少女を買い取り、訓練して兵力にしているのだ。

「つまり、君が望んでゲリラになったわけじゃないんだね?」

「あたし、お家に帰りたい。ママに会いたい。ここは嫌。毎晩、男の人に殴られるのよ。逃げたら、お前の家族を殺してやるって……」

オマイラの円らな瞳から涙があふれた。

「あいつら、君に性の相手を?なんて奴らだ!でも、君は家にも帰れない……」

哀れだ、と思った。

何とかしてやりたい、と思った。

「オマイラ、君は僕のことが好きか?」

思い切って訊いてみた。

「好きよ」

その返事を長沼は本心と受け取った。

「よし、オマイラ。僕と一緒に逃げよう。ここから逃げるんだ。自由になるんだよ」

「ダメよ、そんなこと……それに見つかったら、あたしたち、殺されてしまうわ」

オマイラはあまり乗り気ではなかった。

無理もない。逃げたところで帰る場所もないのだ。

「プレグンタ!(頼む!)ソロ・セ・セバサ・エン・ウン・ド!(君だけが頼りなんだ!)」

長沼はオマイラの小さな手を握りしめた。

「君も自由になりたいだろ?僕と一緒に逃げよう!」

「そんなこと言われても……」

「プロメーサ!(約束する!)ここから逃げられたら、君をお母さんのところへ帰してあげよう!」

逃げたい一心で長沼は思わず口走った。

「レアルメンテ?(本当に?)本当にママのところに帰れるの?」

「ああ、本当だ!一緒に逃げよう!逃げて助けを求めるんだ!僕は日本に帰れるし、君は家に帰れる!」

長沼は必死だった。

何とかオマイラを説き伏せ、ここから逃げ出すしかないと思った。

すでに拉致されてから3年になる。

ここでチャンスを逃せば、自分は一生、祖国の土を踏めないだろうと覚悟を決めた。

「頼むよ、オマイラ!君は僕が好きだろう?僕も君が好きだ!君しか頼りにならないんだ!一緒に逃げて自由になろう!」

長沼はオマイラの手を強く握った。

「エンテンディド(分かった)。ウン・ポコ・エスペラール(少し待って)。アオラ・クエーロ・ピエンソ・デ・エルラ(考えてみる)……」

オマイラは煮え切らない様子で去っていった。



次の日、オマイラは暖を取るための薪を持ってきた。

「オマイラ、僕の言ったことを考えてくれたかい?」

長沼は待ち切れずに身を乗り出して訊いた。

「本当にママに会えるの?」

「ああ、本当だ!すぐに会えるよ!」

「分かった。じゃあ今夜、ここから逃げましょう。鎖を切る道具を持ってこなくちゃ」

「ありがとう、オマイラ!」

「デセスペラード(命がけよ)。あたしたち、見つかれば殺されるわ」

「ア・シド・プレパラード!(覚悟している!)」

しくじって殺されたとしても、その時は運命だと思って諦めればいい。

何もせずに殺されるよりはずっとマシだ、長沼は自分に言い聞かせた。

(生きよう!生きてここから出るぞ!そして、ヤマさんの仇を討つんだ!)

長沼は日が暮れるのを待った。

少しでも体を休めておこうと思い、横になったが、とても眠れるものではなかった。



夜になった。

オマイラがどこからかヤスリを持ってきて、長沼の足を繋ぎとめている鎖を切り始めた。

「うまく切れるといいんだけど……」

頑丈な鎖はなかなか切れない。見かねた長沼が手を貸そうとした。その時、

「ヤル・ケ・アセ?(お前ら、何をしている?)」

暗闇から大声がして、長沼は肝を冷やした。

焚き火の炎に照らし出されたのはゲリラの司令官だった。

カルロスと呼ばれている男だ。顎鬚をたくわえ、残忍そうな鷲鼻をこすって言った。

「やっぱり、お前たち出来ていたんだな?どうも怪しいと思って泳がせておいたのだ!」

万事休す、と思った。

「オマイラ!貴様、逃げてどこへ行くつもりだ?お前の親はお前を売ったんだぞ!逃げて戻っても、お前に居場所はない!育ててやった恩を仇で返すつもりか?」

「黙れ!彼女は俺が連れて行く!お前の好きにはさせないぞ!」

長沼は怒りを込めて叫んだ。

「何だと?インキャパシタード・バスタルド!(役立たずのろくでなしめ!)モリー!(死ね!)」

カルロスが腰のマカロフ拳銃を抜いた。

「デハール!(やめて!)」

銃声が轟いた。

カルロスがのけぞった。オマイラがカラシニコフ小銃で撃ったのだ。

もはや一刻の猶予もない。オマイラは長沼の足の鎖に銃口を向けて引き金を引いた。うまい具合に鎖が弾け飛んだ。



長沼とオマイラは必死に逃げた。

銃声を聞きつけてゲリラたちが追ってきた。

「ノー・エスカパール!(逃がすな!)マタール!(殺せ!)」

暗闇に包まれた急な斜面を転びそうになりながら下る。

足元がおぼつかないので、気が急いても速くは逃げられない。

銃声が立て続けに響き、空気を切り裂いて銃弾が飛んでくる。

「オマイラ、こっちだ!」

長沼はオマイラの手を引き、山肌の窪みに身を伏せた。

「どこだ?奴ら、どこへ逃げた?!」

ゲリラたちの足音が迫る。

長沼は息を殺してゲリラたちをやり過ごした。

わずかな月明かりを頼りに長沼とオマイラは慎重に山を下った。



次第に東の空が白んできた。

青白い夜明けの中、長沼とオマイラは息を切らして山道を走っていた。

「ここまで来ればもう大丈夫よ」

追っ手は来ない。

長沼とオマイラは疲れ切って岩の上に腰を下ろした。

長沼は解放感に浸った。

酸欠の金魚のように口をパクパク開けて空気を吸い込んだ。

山の風が汗に濡れた肌を心地よくなぶった。

「うまくいったなあ……!やっと、自由の身になれたんだ!」

オマイラは今にも泣きそうな顔になって言った。

「逃げられたけど、あたし、もう戻れない……」

オマイラは上官を殺して脱走した。

ゲリラに見つかれば殺されるに決まっている。

「エスタ・ビエン!(大丈夫さ!)君は僕のデネファクトール(恩人)だ。何があろうと僕が君を守ってみせる!」

「本当に?」

「ああ。僕と日本に行かないか?」

「でも……あたし、日本語できない。お金もないし、住むところもないのよ」

「言葉なら僕が教えてあげるよ。僕と一緒に日本で暮らさないか?」

「あなたと日本で暮らす……?」

「誤解しないでくれ。こんなつもりじゃなかったんだ。でも、僕は君が好きだ。君と離れたくないんだ」

長沼はオマイラを抱き寄せた。オマイラは抵抗しなかった。長沼は強く抱きしめた。彼女の小さな胸が潰れそうなくらい強く……。



すっかり夜が明けた。

明るい場所にいることがためらわれた。

「もっと遠くへ逃げよう。グズグズしているとゲリラに見つかるかもしれない」

長沼とオマイラは先を急いだ。

行くアテはなかったが、楽しかった。

好きなところへ行けるという自由が何よりも嬉しかった。

突然、銃声がこだました。

耳元を銃弾がかすめた。

「ペリグロッソ!(危ない!)バハール!(伏せろ!)」

慌てて岩陰に身を隠した。

銃撃は続き、銃弾が岩肌にえぐり、白煙を上げた。

「ゲリラか?見つかったのか……?!」

心臓が爆発しそうなくらい高鳴った。

「おい、あそこだ!あそこに隠れているぞ!」

さらに銃弾を浴びせられた。長沼は声を振り絞って叫んだ。

「やめろっ!俺たちはゲリラじゃない!逃げてきたんだ!撃たないでくれ!」

AK47突撃銃を構えた兵士が警戒しながら近付いてきた。

モスグリーンの戦闘服を着ているので政府軍かと思ったが、

「あたしたち、パラミリタール(準軍事組織)に見つかったのよ!」

とオマイラが叫んだ。

パラミリタールとは極右の民兵組織のことである。

社会主義革命を掲げて武装蜂起した反政府ゲリラに対抗し、大地主たちが自分の土地と財産を守るために結成した私兵集団のことだが、近年は政府軍の別働隊としてゲリラへの攻撃やゲリラ・シンパとみなした市民・農民への無差別テロを行ない、その残虐さでゲリラよりも恐れられていた。



「お前はチーノ(中国人)か?」

パラの司令官が訊ねた。

頬から顎にかけて大きな傷跡のある男だった。

「ノー・エスト・イ・ハポネス(いや、日本人だ)」

と長沼。きっと、事情を説明すれば助けてくれるだろうと思った。

「お前たちはゲリラか?」

司令官が酷薄そうな視線を射つけた。

「違う!俺はゲリラなんかじゃない!レエン(人質)だ!逃げてきたんだ!」

長沼は懸命に弁解した。

ゲリラの仲間と間違われたら容赦なく殺されてしまうだろう。

「ドゥエルメ!(嘘つけ!)じゃあ、この女は何だ?ゲリラじゃないのか?」

司令官が小柄なオマイラには似合わないダブダブの軍服の襟首をつかんで引き寄せた。

「よせ!彼女も一緒に逃げたんだ!今はゲリラじゃない!」

「ノー・エス・ウン・ゲリジェーロ?(ゲリラじゃないだと?)」

「彼女はゲリラに売られただけだ!家に帰りたいと言ってるんだ!」

「ふん……」

司令官は嘲笑した。

「売られようが、逃げようが、ゲリラはゲリラだ。こいつは殺す」

「やめろ!彼女に手を出すな!俺も彼女もビクティマ(被害者)なんだ!」

長沼は、山田とともにゲリラに拉致され、山田が殺されてからオマイラとともに脱走するまでの経緯を話した。

司令官は黙って聞いていたが、

「では、お前はアミーゴのベンガンサ(復讐)のために逃げたと言うのか?」

逆に問うた。

長沼は一瞬、返事に窮した。

本当は、このまま日本に帰りたいが、オマイラを見捨てるわけにはいかない。

オマイラは命の恩人なのだ。

彼女がいなければ逃げることさえ叶わなかっただろう。

オマイラを見殺しにはできなかった。

それに、山田の仇討ちのために逃げたと言えば、パラミリタールの兵士たちも自分に同情してくれるのではないか、と考えた。

「ああ、そうだ!俺はゲリラが憎いんだ!あいつらに復讐したいんだ!殺されたアミーゴのレセンティミエント(恨み)を晴らしたいんだよ!」

長沼は涙ながらに訴えた。



長沼の訴えが功を奏したのか、パラミリタールの兵士は長沼とオマイラを殺すことはなかった。

が、二人はパラミリタールのキャンプに連行され、またしても粗末な小屋に監禁されてしまった。

「あたしたち、これからどうなるの?」

オマイラが不安げに言う。

「さあね。クエ・シルクンダ・ビエネ・アルレデドール(なるようにしかならないさ)」

まるで、山田の口癖が移ってしまったようだと思い、苦笑した。

「あなた、殺されたアミーゴの復讐をしたいって本当?」

「ヤマさんはいいやつだった。何も悪くないのに殺されたんだ。黙っているわけにはいかないよ」

長沼は語気を強めて言った。

「ヒロト、気持ちは分かるけどやめて。お願い。そんなことをすれば、あなたも殺されてしまうわ」

「何年も自由を奪われた挙げ句、虫けらのように殺されたんだ。殺した奴を絶対に許さない!」

山田を殺したゲリラが法の裁きを受けるとは思えない。

第一、犯人が何者で、どこにいるのかも分からないのだから捜しようがなかった。

手がかりさえつかめれば、何としてでも捜し出して、この手で報復の鉄槌を振り下ろしてやりたいのだが……。

囚われの身では、それさえ叶わないと思った。



翌日、長沼とオマイラは小屋から引き出された。

(いよいよ、殺されるのか?それとも……)

不思議と死は怖くなかった。

もう何があろうと、すべて運命として受け入れようと決めていた。

人生は川の流れに似ている。

流れに逆らって泳いでも、流れに任せて浮かんでも、行き着くところは同じだ。

運が良ければ岸にたどり着けるかもしれない。

運が悪ければ必死に泳いでいても溺れ死ぬしかないのだ。

長沼とオマイラは司令官のいる小屋に連れて行かれた。

そこで待っていた答えは意外なものだった。

「お前たちをソルダード(兵士)として鍛え直すことした。嫌なら殺す。どうだ?」

パラミリタールの兵士になれ、というのだ。

「ナガヌマ、と言ったな?お前はゲリラにアミーゴを殺されたんじゃないのか?ゲリラが憎いだろう?俺たちと一緒にゲリラと戦うんだ。ゲリラを殺せばアミーゴの恨みも晴れるだろう。違うか?」

さらに、オマイラにはこう言った。

「お前はデセルトール(脱走兵)だな?親に売られ、ゲリラにも戻れない根無し草だ。家に戻っても、またどこかへ売られるだけだ。ゲリラに戻れば殺される。どうだ?死にたいか?まだ死にたくはないだろう?」

司令官は言った。

「お前たちを殺すなど訳もないことだ。オ・エン・ビボ(生きるか)、オ・モリー(死ぬか)、デシディール・ポル・ウノ・ミスモ(自分で決めろ)」

長沼は迷ったが、結局、そうするしかないと思った。

山田の恨みを晴らしたいし、このままオマイラと一緒にいたい。

ふたつの願いを叶えるには、パラミリタールの兵士になるしかないのだ。

「分かった。俺をコンパニェーロ(仲間)に入れてくれ」



長沼とオマイラは新兵の訓練所に送られた。

山の中のキャンプで厳しい訓練の日々が始まった。

兵士の卵は皆、年端もいかぬ少年少女ばかりだ。

(なんだか、学生時代の合宿みたいだな)

と思ったが、訓練は生やさしいものではなかった。

最初に習ったのは7.62ミリと5.56ミリ口径の小銃の扱い方だった。

長沼は以前、家族旅行でグアムに行ったとき、射撃場で拳銃を撃ったことがある。

しかし、小銃は重く、分解して組み立てたり、オイルを染ませた布で拭いたり、すべてのことを自分でやらねばならない。

訓練を施すのは元軍人たちで、いささかも容赦がなかった。

テストに合格しないと殺されるのだ。毎日が命がけだった。

鉄条網の下を匍匐前進で進み、手榴弾を標的に投げつけ、小銃で的を撃ち抜く。

音を立てずに敵に接近し、ナイフで殺す方法も学んだ。

格闘技の訓練もあった。

長沼は試練に耐えた。

3年に及ぶ過酷な捕虜生活は彼の肉体をいささかも損ねてはいなかった。

小学生の頃からサッカーで鍛え抜いた体力がモノを言ったのだろうか。

オマイラもよく耐えた。

長沼はオマイラがテストに落ちて殺されやしないかと気が気でなかったが、

(オマイラもなかなかやるなあ……)

と思った。



3ヵ月に及んだ訓練が終わった。

「ナガヌマ、よくやった。これでお前も一人前の兵士だ」

教官が長沼の肩を叩いて褒め称えた。

「だが、まだやらねばならないことがある」

「何ですか?」

「こっちに来い」

教官の後についていくと、オマイラが木の幹に縛り付けられているのが見えた。

「彼女に何をするんですか?放してやってください!」

長沼が抗議すると、教官がマチェーテ(中南米の農民が使う大きな山刀)を引き抜き、

「人を殺さなければ一人前の兵士とは言えん。これで、あの女を切り刻むんだ」

と命じた。長沼は狼狽した。

「じょ、冗談じゃない!そんなこと俺にはできません!」

「やれ!ペチョ(乳房)を抉り取るんだ!やらなきゃ貴様を殺す!」

教官にマチェーテを押し付けられ、やむなく長沼は柄を握った。

オマイラは身動きできず、猿轡を噛まされ、もがきながら必死に長沼に目で訴えている。

手が震える。命の恩人を殺すことなどできるはずがなかった。

「イラソナブレ!(無理だ!)俺には無理です!」

長沼は叫んで、マチェーテを地面に突き立てた。

「もう、いいだろう。そのくらいにしておけ」

司令官が止めに入った。おかげで救われた。長沼は全身の力が抜けるのを感じた。



その夜。

長沼が一人でカラシニコフ銃の手入れをしていると、

「ヒロト、あたしを助けてくれてありがとう」

オマイラがやってきて言った。

「あたし、あなたが殺されるんじゃないかと思って、すごく怖かった……」

「君は俺の命の恩人だ。俺が君を殺せるわけがないじゃないか」

「分かってる。あなたはそんなことをする人じゃない」

「俺は君を殺すくらいなら殺された方がマシだよ」

あの教官は自分を試していたのだ、と思った。

オマイラを殺せば、長沼は簡単に仲間を裏切る男とみなされ、その場で殺されていただろう。

「俺はいつでも死ぬ覚悟はできている。君のためなら死んでもいい」

「ダメよ。ヒロト、死んじゃダメ。お願い、生きて。あたしをひとりにしないで」

オマイラが泣きそうになって長沼に抱きついた。

「誰が君をひとりにするものか。死ぬときは一緒だよ」

「フェリーズ(うれしい)……」



コロンビア中部を流れる大河マグダレーナの支流リオ・ネグロ(黒い川)の畔の山の斜面の茂みに長沼は身を潜めていた。

眼下にはゲリラのキャンプがあり、30人ほどのゲリラが野営していた。

川辺で洗濯をしたり、仲間とサッカーに興じるゲリラもいた。

ロハスという司令官の率いるパラミリタールの部隊に加わり、初めての戦闘に参加した長沼は、

(何としてもヤマさんを殺した奴を見つけて殺してやりたい!)

と思っていた。

3ヵ月の猛特訓に耐え抜き、自信もあった。

長沼から5メートルほどの距離に見張りのゲリラがいた。

仲間たちがサッカーを楽しんでいるのを眺めながら、マッチを擦ってタバコに火をつけた。

長沼は腰に差しているナイフを抜いた。

音を立てぬよう注意しながら、ゆっくりとゲリラの背後に迫る。

相手はまだ若い髭面の男だ。

長沼とさほど年齢は違わないだろう。

息を詰め、長沼は右手にナイフを構えて一気に襲いかかった。

「うっ……!」

ゲリラの口を左手で封じながら前のめりになるようにして頭を押し倒し、喉笛にナイフの刃先を滑り込ませて掻き切った。

こうすると首にシワができてナイフの刃がうまく入る。

訓練で習ったとおりだった。

長沼はゲリラとともにうつぶせに倒れ込み、血に塗れた右手を引き抜いた。

生温かい血が頬に飛び散った。

ゲリラはわずかな呻き声を漏らし、やがて動かなくなった。

生まれて初めて人を殺したのだ。

体中が燃えるように熱していて、そのくせ頭の中はどこまでも冷たい。

長沼は左手の甲で顔に散った血糊を拭った。

(これが、人を殺すということか……)

恐怖はなかった。

目の前に転がるのは敵であり、死ねばただの肉の塊だ。

得体の知れない衝動が長沼の胸に突き上げてきた。



この日の戦闘で長沼は2人殺した。

ゲリラにカラシニコフの銃口を向け、引き金を引いたとき、長沼は獲物を狩る猟師のような興奮に包まれていた。

山間にこだまする乾いた銃声、ずしりと肩に響く反動、甘いようなコルダイト火薬の硝煙の匂い。

発射された銃弾は敵の頭を貫き、血と脳漿をぶちまけ、素手ではとても敵わない相手でも紙人形を倒すようにいとも簡単に打ち負かせる。

この、何物にも代えがたい快感が長沼を魅了した。

戦争はダメだ、平和が一番だといくら口で唱えても、人間は絶対に争いをやめないし、この世から戦争が消えてなくなることもない。

人間の怒り、恨み、憎しみ、そして敵を圧倒したいという本能的な征服欲。

これらのものがある限り、人間は殺し合い、傷つけ合うことを決してやめようとはしない。



ここでコロンビア内戦の背景について少し触れておかねばなるまい。

コロンビアは日本の3倍強という広大な国土を持ち、温暖な気候と肥沃な大地、豊富な資源に恵まれた国である。

日本ではコーヒー豆の世界的な産地という印象が強いが、石油や石炭、天然ガス、金、銀、銅、ニッケルなどの地下資源も産出する。

が、国民の半数はその日の食べるものにも困るという貧困層であり、中南米でも特に貧富の格差の激しい国である。

300年近くにも及んだスペインの植民地支配から独立を果たした19世紀前半以降、コロンビアでは基本的に議会制民主主義による政治体制が続いてきた。

中南米では当たり前のように繰り返されたクーデターや独裁もほとんど経験せず、コロンビアは「西半球で最も古い民主主義国家」と評されたほどだ。

しかし、大地主やカトリック教会などの支配層を支持基盤とする保守党と、零細農家や都市労働者などを支持基盤とする自由党の二大政党制の下で、政党対立を背景とした内紛が繰り返され、多くの国民は植民地時代から続く貧困の中に置き去りにされてきた。



1899年、コーヒー価格の暴落で国家経済が破綻すると、コーヒー農家による反乱から「千日戦争」と呼ばれる大規模な内戦が発生。死者は全国で10万人以上に達したとも言われる。

その後の半世紀はアメリカ資本の導入による経済成長で安定した時代が続いたが、貧困の根本的な解消には至らず、「労働者の楽園」を公約に掲げた自由党のカリスマ的政治家ホルヘ・エリエセル・ガイタンが1948年に首都ボゴタで暗殺されると、これを契機に全国的な騒乱に発展した。

以後の10年間はラ・ビオレンシア(暴力の時代)と呼ばれ、自由党・保守党双方の党員による凄惨な殺戮と内戦で犠牲者は20万人にも及んだとされる。

その後、政党対立は終息したが、土地を求める農民の反乱が相次ぎ、1959年のキューバ革命を機にコロンビアでも社会主義革命を掲げる反政府ゲリラが次々に武装蜂起した。

1964年、政府軍による農民弾圧をきっかけに最大の左翼ゲリラ組織「コロンビア革命軍(FARC)」が結成されると、翌年にはキューバから帰国した学生たちにより第二のゲリラ勢力である「民族解放軍(ELN)」が結成された。

政府軍と反政府ゲリラの内戦が始まると、コロンビアの共産化を恐れたアメリカが介入し、共産主義ゲリラの脅威に対抗すべく右翼の民兵組織を結成、ゲリラとの戦いに従事させる。

こうして政府軍、左翼ゲリラ、右派民兵による三つ巴の内戦が始まった。



コロンビア内戦を泥沼化させたのは麻薬である。

1970年代後半、アメリカはベトナム戦争の敗北で社会は退廃的になり、道徳が失われて麻薬が蔓延し、空前のコカイン・ブームが巻き起こった。

コロンビアのマフィオーソ(マフィア)がペルーやボリビアで生産されるコカの葉をコロンビアに運び、コカインに精製し、アメリカに密輸するルートを確立すると、莫大なコカイン・マネーで政府をもしのぐ力を持つようになった麻薬カルテルは米国の後押しで麻薬を取り締まる政府と激しく対立した。

この時、政府軍との苦戦を強いられていたゲリラに絶好のチャンスが訪れた。

麻薬カルテルと協力関係を築いたゲリラは、コカインの精製工場や密輸ルートを守る代わりにカルテルから多額の軍資金を受け取り、政府軍よりも優れた武器を装備することで急速に勢力を拡大させたのである。

その規模は、1995年にコロンビア政府が麻薬カルテルを壊滅させると、FARCがコカイン取引に直接関与することで急成長し、6千人ほどだった兵力が最盛期には2万人にも膨れ上がり、コロンビアの3分の1(日本と同じ面積)を支配下に置くようになった。

支配地を広げたゲリラは要人誘拐による身代金奪取にも力を入れるようになり、資産家や大企業の重役のみならず、金を取れそうな一般市民や外国人まで手当たり次第に拉致し、軍隊も警察も手を出しにくいジャングルやアンデスの僻地で監禁した。

2000年には外国人22人を含む3706人が誘拐され、5年間にゲリラが手に入れた身代金の総額は1030億円にも達したと言われる。

麻薬と誘拐で毎年8億ドルもの軍資金を調達するゲリラは、冷戦後も衰えることなく、貧困に苦しむ若者や農民をリクルートし、まさに「国家の中の国家」と呼ばれる状況に発展していったのである。



こうした中、コロンビア政府は1999年からFARCと和平交渉を始めた。

だが、交渉に反対する軍部と右派は、コロンビア全土の右派民兵を統合し、「コロンビア統一自衛軍(AUC)」を結成する。

AUCもコカインを資金源としながら、ゲリラと関係があるとみなした農民を毎年千人も虐殺し、コロンビア内戦は泥沼の深みにはまり込んでいったのである。

アメリカ政府は2001年、AUCをFARCやアルカーイダ(イスラム原理主義のテロ・グループ)と並ぶ国際テロ組織に指定したが、一方でAUCを水面下で支援し、ゲリラの封じ込めに利用した。

ゲリラを叩く側も、ゲリラを助けている側も、同じアメリカという皮肉な構図である。

50年以上にも及ぶ内戦の犠牲者は20万人以上、国内避難民はイラクよりも多い700万人以上にも達するとみられている。



長沼のゲリラを追う旅は続いた。

激しい戦闘を重ねる中で、長沼は彼なりにコロンビアの内戦の実態をつかめてきていた。

ゲリラとパラミリタールの戦いは、もはや政治的な対立ではなく、豊かな土地やコカ畑の権利を巡る縄張り争いに過ぎない、ということである。

ゲリラもパラミリタールもコカインを主な資金源とする以上、コカ畑を広げるために農民たちを土地から追い出し、または農民にコカ栽培を強制してコカイン取引に課税するしかない。

お互いに縄張りを広げ、あるいは守るために血で血を洗う凄惨な殺し合いになる。

いつも犠牲を強いられるのは無力な庶民であった。

武器を持たない農民たちはコカを作るか、長年住み慣れた土地を捨ててアテのない旅に出るしかない。

パラミリタールはゲリラ支配地の農民をすべて追い出すか、皆殺しにしてゲリラへの補給路を断ち切るつもりだった。

ゲリラは農民たちに食糧や隠れ家、政府軍やパラミリタールに関する情報の提供を要求し、若者を新たな兵士として徴用する。

徴税や徴兵を拒否すればゲリラに殺され、ゲリラに協力したとみなされればパラミリタールに殺されるのだ。

(この世界では、力のない人間は虫けら以下の存在でしかないのか……)

長沼は黒いベレー帽をかぶり、迷彩服を着てカラシニコフ小銃を携えて歩いていると、どこの村や町でも尊敬されることを知った。

戦場では武装していない者など誰からも尊重されないし、武器を持つことで自分の弱さをカバーするとともに戦う意思を示すことで初めて一人前の人間として認められるのだ、ということを否応なしに思い知らされたのだった。

いくら口で平和共存を唱えても、丸腰で抵抗の術を知らない人間など誰も守ってはくれない。

日本政府は無力だし、ゲリラに拉致された自分を救ってくれるスーパーマンなど存在しない。

自分にもっと力があれば、武器を持ってさえいれば、あるいは拉致されることもなかったし、親友を殺されることもなかったかもしれない。

(だが、もう俺は弱かった頃の俺じゃない。もっともっと強くなるんだ!)

山田を殺した奴を見つけ出して、この手で息の根を止める。

自分がやらなければ、この世界で一体誰が正義の裁きを下してくれよう?

俺が殺すのは敵だ。俺を拉致し、俺の親友を殺した憎い敵だ。

殺人が悪なんて言っていられるのは平和な時、法律が機能している時だけだ。

俺はやる。仇を討つ。そのためには何人でも殺してやる。

その手を敵の血に染めるたびに、長沼は復讐の快感に酔い、良心の呵責に悩まされることもなくなっていった。



ある夜、野営を張ったキャンプで、長沼はオマイラと初めて結ばれた。

仲間たちの目を避け、森の中にオマイラを連れ込むと、長沼は待ち切れずに彼女と唇を重ねた。

「オマイラ……俺は明日、死ぬかもしれない。ここではいつ死んでもおかしくないからね。でも、もう、いつ死んでもいいんだ。君と一緒ならいつでも死ねる」

「あたしもよ……ヒロト、あなたとならいつ死んでもいい」

「本当か?俺もだ。俺も死ぬ。いつでも一緒に死ぬよ……」

長沼はオマイラの軍服のズボンを下ろし、熱く硬くなったそれを濡れた茂みに潜り込ませた。



コロンビア中部・アンデス高原の町・サンタフェ――

コロンビアでは、どんな小さな町にも必ずイグレシア(教会)がある。

スペインのコンキスタドール(征服者)たちは平和に暮らしていた先住民インディオを徹底的に虐殺し、強姦し、生き残った者を容赦なく奴隷にして酷使したが、侵略者たちはランス(槍)とともに聖書を持ってやってきた。

今も各地に残る教会はその名残だ。宣教師たちはまず教会を建て、地元民をキリスト教に改宗させ、植民地支配がスムーズに運ぶようにした。

かつてはカトリックが国教の地位を占めていたこの国では、今なお敬虔なクリスチャンが多く、貧しさの中でも幸せを感じる人間が非常に多い。

教会の前にはプラザ(広場)があり、ここを中心として街並みが広がっているのもコロンビアの特徴である。

スペイン統治時代の面影を色濃く残す赤茶けた瓦屋根の家屋が建ち並び、石畳の広場では市場が開かれ、色とりどりの野菜や果物、肉や魚、生活用品などが所狭しと並べられ、多くの人々で活気に満ちあふれていた。

コロンビアではありふれたこの町を政府軍とパラミリタールがゲリラの支配から解放したのはつい最近のことだった。

家々の壁にはまだ生々しい弾痕が無数に残り、戦闘の凄まじさを物語っていたが、町の人々はもはや血塗られたラ・ビオレンシア(暴力)の記憶などすっかり忘れ去ったかのように旺盛な生活力を示し、まるで何事もなかったかのように平穏な日常の喧騒に埋没していた。



サンタフェから南に20キロほど離れた山間にラ・カンデラリアという寒村があった。

そこはこれと言った産業もない小さな村だったが、

「村人がゲリラに協力している」

という情報を受け、長沼たちの極右民兵部隊が向かった。

民兵たちは村に入ると、村の広場に村人たちを集めさせた。

司令官のロハスは村長を呼び出し、ゲリラの協力者を差し出すよう迫った。

が、50歳くらいの痩せた小柄な村長は、

「我々はゲリラに協力などしていない。ゲリラは態度が横柄だから嫌いだ」

という。ロハスはそれがトレードマークの口髭を指でしごき、村長の幼い孫娘を抱きかかえ、シグP220拳銃を突きつけて脅した。

「大人しくコラボラドール(協力者)を出せ。でないと、こいつを殺す」

娘が泣き叫ぶ。母親が出てきて懸命に訴える。ロハスが大声で叱りつけた。

「ルイドッソ!(うるさい!)下がってろ!ゲリラはどこだ?答えろ!」

長沼はハラハラしながら事の成り行きを見守っていた。母娘が哀れだった。

「答えんのか?ならば、こうしてやる!」

ロハスが無造作に銃口を母親に向けて引き金を引いた。母親の額に丸く小さな穴が穿たれた。母親は信じられないという表情をして、目を開けたまま死んだ。

火がついたように娘が泣き叫び、母親の死体にすがりつく。長沼は無性に腹が立った。

「こんなことが許されるんですか?」

ロハスに抗議すると、

「お前は何も分かっていない」

吐き捨てるように言った。

「いいか、こいつらはゲリラの仲間だ。ゲリラを匿い、情報を提供している。だから追い出すのだ」

「何故です?彼らはカンペシーノ(貧農)だ。なぜ追い出す必要があるんです?」

「ゲリラどもの補給路を断ち切るためだ。村から人が消えれば、奴らも何かと不便になる」

「それだけ?それだけのために、こんな酷いことをするんですか?」

「どうせ、奴らはまともな人間じゃない。ポーブレ(貧乏人)はどこへ行ってもポーブレだ。人として扱われることはない」

「何故です?彼らも同じ人間じゃないですか。どこが違うと言うんです?」

「奴らはペレーサ(怠け者)だ。情けをかけるに値しない。どこへ行こうが路上を不法占拠し、犯罪とエイズを蔓延させるだけだ。ラ・バスーラ(ゴミ)のような存在なのだ」

「ゴミだって?」

「そうだ。我々はパトリオタ(愛国者)だ。コロンビアを愛している。この国を良くしたいと思っている。ソシアル・デ・プリフィカシオン(社会の浄化)だ。これはリンピエサ(掃除)なのだ」

ロハスは胸を張って言った。

「我々の行動は多くの国民から支持されている。我々のおかげでゲリラの脅威は薄れ、ホームレスは減り、犯罪も少なくなった。すべてはナシオン(国家)のためだ」

「国のためにデスバリド(弱者)を殺すのがウスティシア(正義)なのですか?」

「正義?我々はテロリスタを排除し、この国に正義を取り戻すために戦っているのだ」

「目的のための、イネビタブレ・サクリフィシオ(やむをえない犠牲)だとでも?」

「いいか、ナガヌマ。コロンビアはコムニスモ(共産主義)というペスティレンシア(疫病)に侵されている。アモール(愛)だとか、ペルドン(赦し)だとか、そんなものはクレロ(聖職者)に任せておけばいい。我々はミリタール(軍人)だ。国を守る使命がある。共産主義という疫病を根絶するには、この病気にかかった連中を殺さなければならん。この国をコムニスタ(共産主義者)どもに渡すくらいなら、少数の人間の死など取るに足らん問題だ」

「そのために何人殺すんですか?エスタン・ロコス!(狂ってる!)」

長沼は吐き気がこみ上げた。

結局、ゲリラもパラミリタールもやっていることは同じだ。

国家のため、人民のため、という言い訳で自分たちの行為を正当化しているに過ぎない。

「俺は降ります。こんなイレグラリダデス(悪事)に加担するのは御免だ」

すると、待っていたようにロハスが冷たく言い放った。

「お前、本気で言ってるのか?組織を抜けたら、お前は消される。我々の放ったアセシーノ(刺客)にな……」

「…………」

長沼は何も言えなかった。



民兵たちはカンデラリアの村に火を放ち、家畜の豚を殺し、女たちを犯した。

抵抗する者は容赦なく殺され、村には煙と死臭が漂い、息が詰まりそうだった。

これほどのマタンサ(虐殺)があっても、コロンビアの片田舎を襲った悲劇などニュースにもならないのである。

「戻ってきたら、お前たちを殺す」

ロハスはそう宣言し、母親を殺された娘は村長に背負われ、故郷の村を後にした。

彼らはレフフィアドス(難民)となり、行く先々で迫害されながら、アテのない旅を続けるのだ。

長沼は思った。

(この世は弱肉強食。弱いものはどこまで行っても強いものに喰われ続けるしかないのか……?)



長沼はサンタフェの町の目抜き通りをぼんやりと眺めていた。

子供たちが楽しそうにボールを蹴って遊んでいる。

無邪気な子供たちの笑い声が聞こえた。

(この子たちもいずれ、戦争に巻き込まれ、殺し、殺されるのだ)

と思うと、やりきれなかった。

彼らの頭の中は真っ白だ。

染められれば何でもやる。

余計な考えがないから、やるときは残酷で、しかも容赦がない。

恐ろしいことだ、と思う。

これは思想や宗教、民族の対立から生まれるものではないのだ。

金持ちが貧乏人をけしかけ、貧乏人同士が憎み合い、殺し合っている。

金持ちはますます肥え太り、貧乏人はますます痩せて飢えていく。

この社会の仕組みを変えない限り、いつまでも悲劇は繰り返されるだろう。

「ヒロト、何を考えているの?」

オマイラがやってきて長沼にすがりついた。

長沼は一点を凝視したまま、

「オマイラ、この国を変えることはできると思う?」

と訊いた。

オマイラの答えは素っ気なかった。

「できないわ。それはイラソナブレ(無理)よ」

「どうして?」

「どうしてって、あたしに聞かれても分からないわ……。ただ、あたしに言えることは、あたしたちには、どうすることもできないってこと」

「誰がそう決めたんだ?」

「分からない。生まれたときからそうなってるの」

「この国では毎日、数え切れないほど人が殺される。子供たちは人の殺し方を教わり、平気で人を殺すようになる。共産主義がどうとか、政治のことは俺もよく分からない。でも、何故、コロンビアではこうも人の命が軽いんだ?どうして、こんなに殺し合わなければならないんだ?」

「殺したくて殺してるんじゃないわ。みんな、生きるためよ。農民の暮らしがどんなにひどいものか、あなたには分かる?その日の食べるものもなくて、みんな小さな頃から働きに出されるの。それでも、仕事があるならまだマシだわ。兵士になれば、人を殺さなくちゃいけない。でも、兵士になれば、食べ物も着る物も困らないのよ。だから、人殺しの方法を覚えて兵士になろうとするの」

「君もゲリラに売られたんだったな?」

「あたしの家は、貧しい農家だったの。でも、みんなで暮らせた頃は幸せだった。小さな畑を持っていて、キャベツやインゲン豆を育てていたの。毎朝、畑でとれたものをリヤカーに載せて、町の市場に売りに行ったわ。パードレ(父)もマドレ(母)も兄弟も、みんな一緒にね。楽しかった。でも、ある日……」

「ある日……?」

「一番下のエルマノ(弟)が、おしっこをしたいと言って、道路脇の草むらに入ったの。そしたら突然、ミナ(地雷)が爆発して……。エルマノの小さな体が、ちぎれて吹き飛んだの。パードレは泣きながらエルマノを助けようとして、自分もミナを踏んでしまったのよ」

オマイラはすすり泣きながら言った。

「ラ・ポーブレ(かわいそうに)……」

「エルマノは死んで、パードレも体中に大やけどをして、片足を失ってしまったの。それからすべてが狂ってしまった……。パードレが働けなくなって、あたしたちは食べていけなくなったの。あたしは13歳だった。13の女の子が生きていくには、メンディシダッド(物乞い)になるか、ゲリラになるしかないわ」

「それで、ゲリラになったというわけか」

「兵士になりたくてなったんじゃない。人を殺したくて殺してるんじゃない。でも、生きるためにはそうするしかないのよ」

「俺は腹が立って仕方ない。この世にディオス(神)なんているのか?いるとしたら、何故、こんなインフェリーズ(不幸)を見過ごしているんだ?コロンビアには、トラヘディア(悲劇)とエフシオン・デ・サングレ(流血)とルチャ(争い)と……あるのはラ・レアリダッド・デスグラシアダ(悲惨な現実)だけだ。君は自分が不幸だとは思わないのか?」

「あたしは、今はとてもフェリシダ(幸せ)よ。あなたと、こうして出会えた。あなたと生きているだけで幸せなの」

オマイラは屈託のない笑顔で言うのだった。

「この国では毎日、誰かがセクエストロ(誘拐)されたり、殺されたりしている。でも、あたしはあなたと生きている」

「それが幸せなのか?」

「シー(うん)」

なるほど、そう考えれば確かに自分たちは幸せなのかもしれない、と思った。

Hasta Mañana(アスタ・マニャーナ、また明日)のお国柄なのだろうが、厳しい現実を苦にせず、楽天的に生きるラテン系の血がなせる業なのかもしれない。

貧富の格差が激しく、絶望的なまでに治安が悪く、暴力に支配されたこの国で、幸福を感じる国民が世界有数の多さという現実は、平和で豊かな国でありながら毎年多数の自殺者を出す日本と対照的である。



長沼は考えた。

(ここでオマイラと幸せに暮らしていくにはどうすればよいのか?)

彼女を日本に連れて帰ることはまず不可能と言ってよい。

ゲリラに見つかれば殺されるし、他に安住の地があるとも思えない。

長沼が稼いで、オマイラと暮らすのが一番よいのだが、果たして仕事が見つかるかどうか……。

考え抜いた末に長沼が出した結論は、

「シカリオ(殺し屋)になること」

だった。

サンタフェの町は長年、ゲリラの支配下にあったこともあり、必然、住民にはゲリラの協力者が多い。

政府軍やパラミリタールの情報をゲリラに売って生活する者もいる。

こうしたソプロン(密告者)を抹殺することがシカリオの仕事だ。



長沼はロハスのもとへ交渉に赴いた。

「俺をシカリオにさせてください」

ロハスはサンタフェ随一の盛り場である「サイゴン」という酒場でウイスキーを飲んでいた。

「シカリオになりたい、だと?」

「そうです」

「兵士を辞めて、殺し屋になるのか?」

「そういうことです」

「お前の腕なら問題はないだろうが……」

「お願いです。俺にやらせてください」

「殺し屋になれば、お前は町から出られなくなる。それでもいいのか?」

「構いません。その代わり、こっちにも条件があります」

「なんだ?」

「彼女も、オマイラも兵士を辞めて、二人で暮らすことを認めてほしいのです」

「お前が殺し屋で稼ぎ、あの女と所帯を持つ、というのか?」

「その通りです」

「女を守るためか?それとも、農民どもを殺すのが嫌なのか?」

「彼女のためです」

「それだけじゃないだろう。お前は人殺しに嫌気が差している。だから兵士を辞めたい。違うか?」

「…………」

「だが、殺し屋になれば、お前は好むと好まざるとに関わらず、人を殺さねばならん」

「…………」

「いいか、ナガヌマ。ここはカンポ・デ・バターリャ(戦場)だ。やるか、やられるかの世界だ。この世界では、まずウノ・ミスモ(自分)だ。次にオトロス(他人)。自分が生きたいと思えば相手を殺さなければならん。だが、今のお前は女のために生きている。あの女がお前を裏切り、お前をゲリラに売ったとしても、お前は満足なのか?よく考えろ。お前はゲリラに復讐したくて戦っていたんじゃないのか?お前自身の恨みを晴らすために人を殺していたんじゃないのか?いつから女のために戦うようになった?」

「…………」

「人殺しが嫌だと言っても、お前はもうこの世界から逃げ出すことはできん。ゲリラはお前の命を狙う。お前は戦いから抜けることはできんのだ。お前を守れるのはお前しかいない。その覚悟はあるのか?」

「俺は彼女のために戦います。彼女は俺の命を助けてくれたんです。誰のためでもありません。彼女のために戦うんです」

「女に裏切られても、お前は女のために戦えるのか?」

「戦いますよ。それが俺のデスティーノ(運命)なら」

「ふむ……まあ、いいだろう。何があってもラメンタール(後悔)するなよ」

ロハスは髭をしごきながら目を細め、グラスのウイスキーを一息に飲み干した。



その日から長沼は殺し屋として生きていくことになった。

軍服を脱ぎ、兵士から殺し屋に転身したのだ。

オマイラには何も言わず、彼ひとりで決めたことだった。

「あなた、シカリオになるって本当?」

「ああ、本当さ」

「どうしてそんなことを」

「君と幸せに暮らすためさ」

「そのために人を殺すの?」

「兵士でいても殺すんだ。同じことさ」

「何の罪もない人でも殺すの?」

「罪の有無は関係ない。ここは殺すか、殺されるかの世界だ。殺さなければ、こっちが殺されるんだ」

長沼の心にあるのはオマイラとの安住を願う気持ちである。

安住を願う心には卑屈な精神が宿る。

自分の中で良心をねじ伏せ、都合よく解釈するしかない。

「お願いだから、もう人殺しはやめて。あなたにできることじゃないわ。一緒に逃げましょう。どこか遠くへ……」

「君を危険に曝すわけにはいかない。ここにいれば安全だ。俺が守ってみせるさ」

長沼はオマイラを抱き寄せ、そっと耳元で囁いた。

「約束するよ。君を必ず幸せにしてみせる」



長沼はオマイラとともに住むための部屋を借りた。

粗末なベッドがひとつだけの狭い部屋だったが、今の長沼はオマイラと二人きりになれるだけで十分だった。

トイレは共同で、シャワーは屋上のドラム缶に溜めた水を浴びるのである。



長沼の最初の仕事はホアンという男の暗殺だった。

協力者が調べた情報から、ホアンがゲリラのスパイであることが判明した。

こうした場合、ひそかに拉致して殺害することもあるが、多くはセレクティボ・アセシナト(選択的殺人)と言い、暗殺者を雇って殺す。

それは「ゲリラへの協力者はこうなる」という冷酷な見せしめの意味もあった。

交渉の結果、暗殺の報酬は300ドルと決まった。

パラミリタールの兵士の平均月給は400ドル、公務員の平均月収が600ドルのコロンビアでは、まずまずの金額と言うべきだろう。



長沼は38口径のスミス&ウエッソンM19をジーンズの腰にねじ込み、サンタフェの町の通りに出た。

長沼は大型の自動式拳銃より、日本人の手にもなじむ小型のリボルバー(回転式)拳銃の方を好んだ。

リボルバーは装弾数が少ないものの、故障が少なく、引き金を引けばほぼ確実に発射できる信頼性の高さから、自動式が主流の現代でも愛用者は少なくない。

昼下がりの晴れた日だった。

スペイン風のコロニアル・スタイルの家屋が並ぶ通りは人通りも少なく、暗殺には絶好の場所と言えた。

(いた!あいつだ!)

事前に写真で見た顔を脳裏に焼き付けておいた。ホアンは家の外に出てくると、長沼には気付かず、石畳の通りをゆっくりと歩いていく。

昼間から酒を飲んでいるのか、フラフラとした足取りで広場の方へ向かうのを背後から近付きざま、長沼はホアンの後頭部めがけ引き金を引いた。

乾いた銃声が二発、響いた。

ホアンは死の舞踏を踏んで石畳の上に倒れ伏した。



仕事を終えて帰宅すると、

「どうだった?」

「うまくいったよ」

「そう」

オマイラの表情は沈んでいる。

長沼は彼女を元気付けようと意図的に明るく振る舞った。

「ムエルテ・インスタンターネア(即死)だよ。苦しまずに死ねたんだ」

ジーンズのポケットから報酬の300ドルを出して、

「これが今日の稼ぎだ。うまいものでも食おう。君の好きなものを買っていいぞ」

オマイラは紙幣を数えながら、

「これは教会にドナシオン(寄付)しましょう」

と言った。

バグレというナマズのスープを煮る匂いと、チチャロン(豚皮の油揚げ)を揚げる香ばしい匂いがどこからともなく漂い、サルサのリズムが流れてくる。

「何を言ってるんだ?これは俺たちの大切なプロピエダッド(財産)だよ」

「人を殺したお金で幸せにはなれないわ」

「幸せにしてみせるさ」

「あなたは変わってしまった。この国がそうさせてしまったのよ。あなたは日本に帰るべきだわ」

「オマイラ、何を言うんだ?俺との約束を忘れたのか?」

「あなたがあたしのことを思ってくれるのはうれしい。でも、ここはあなたがいるべき場所ではないわ」

「俺はここに残る。ここに残って、君と幸せに暮らしたいんだ」

オマイラが何か言おうとするのを遮るように長沼はオマイラを抱いてベッドに倒れ込んだ。

「ノー・セ・プレオクペ(心配ない)。何も心配はない。俺が絶対に守ってみせる……」

長沼はうわごとのようにつぶやきつつ、オマイラの豊満な乳房に顔を埋めた。



サンタフェでは1日に3,4人、多いときで5人から7人が殺される。

仕事の依頼は後を絶たず、長沼はゲリラの協力者を何人も片付けた。

良心の呵責は感じなくなっていたが、

「14歳の少女を殺してほしい」

と頼まれたときは、さすがにためらった。

「あの少女はドロガディクト(麻薬中毒者)だ。生かしておいては為にならん」

とロハスが言った。

少女はバスーコという安物のコカインに手を出し、その代金を得るために盗みや売春をしているのだ、という。

「しかし、相手は14歳です。ペルスアシオン(説得)して、ドロガス(麻薬)をやめさせるべきじゃないですか?」

「それだから、お前は甘いというのだ」

ロハスは長沼を戒めるように言った。

「いいか、バスーコに手を出した奴はカルネ(肉体)もエスピリトゥ(精神)もボロボロになる。しまいには、ブツ欲しさに家族まで売る。14歳だろうが、麻薬にアルマ(魂)を売った者はディアブロ(悪魔)になる」

「そんなにひどいのか……」

「コロンビアを毒しているのは麻薬と共産主義だ。麻薬中毒者と共産主義者は殺すしかない。どちらも中毒性があり、社会を蝕み、滅ぼしていく」

「しかし、麻薬で資金を得ているのはゲリラもパラミリタールも同じです。この国は麻薬マネーに毒されているのでは?」

「アメリカ人がコカインに手を出さなければコロンビアは平和な国だった。コロンビアを毒しているのはアメリカ人だ。アメリカ人が麻薬に侵されるのはスフィリール・ラス・コンセクエンシアス(自業自得)だ。我々はその金で、共産主義者と戦う。それはアメリカのベネフィシオ(利益)にもなることだ」

長沼は少女の暗殺を引き受けなかったが、数日後、少女は別のシカリオの手で始末された。



シカリオのもとに寄せられる注文も様々だ。

夫の浮気に悩んでいる主婦から、

「夫を殺してほしい」

と頼まれることもある。

無論、相手は何の恨みもない知らない男だ。

が、長沼は金次第で引き受けることにした。

殺人と暴力が日常茶飯のこの世界では、口先だけの正義など通用しない。

「人を殺すことは悪いことです」

などと唱えてみても、現実は何も変わらない。

「じゃあ、人を殺さずに生きていけるのか?パンをくれるのか?あんたが守ってくれるのか?」

長沼は町のセントロ(中心部)の教会で、聖母マリア像の前に一人たたずみ、語りかけた。

「麻薬を作るか、人を殺す以外、生きていく道のない国で、あんたは一体、誰を救えるというんだ?」

木彫りのマリア像は哀れむような目で長沼を見下ろしている。

「俺はゲリラに拉致され、何年も監禁された上にアミーゴを殺された。そして、人殺しの道具として利用された。だが、あんたは何もしてくれなかった。俺を助けてくれたのは、たった一人の女だけだ。俺は彼女を守る。彼女のためなら何人でも殺す」

長沼は飢えた野良犬のような目でマリアを睨みつけた。

「こんな俺でも、あんたは赦すというのか?赦さんでいい。同情や憐れみなど必要ない。俺を地獄へ落とせばいい。とことんまで堕ちた俺だ。どこまでも堕ちてやるさ……」

長沼は教会を出ると、その足で何の恨みもない相手を殺しに行った。

彼にとって重要なことは――報酬を得られるか、どうか、だけなのであった。



そんなある日のことだった。

長沼に仕事の依頼が舞い込んだ。

「今度はこの男を殺してほしい」

と言われ、写真を渡された長沼はアッと思わず叫んだ。

知っている男だった。

男の名はマルコ。機械の修理を生業にしている男で、銃の改造や密造も引き受けている。

長沼も何度か会って親しくなっていた。気さくないい奴である。

「この男、知っているのか?」

「マルコが何をしたんだ?」

「ゲリラのために働いているんだ」

「本当か?」

「ああ。奴はゲリラ支配地の通行許可証まで持っている」

「マルコはゲリラのために何を?」

「ゲリラに頼まれて、発電機のメンテナンスをしているらしい」

「メカに詳しいからな、マルコは」

「やってくれるか?」

長沼は返事に困った。

それが本当なら、マルコは許せない裏切り者である。

絶対に生かしておけない、と思った。

生かしておけば、いずれ自分やオマイラのこともゲリラに密告するだろう。

長沼は心を鬼にして決断した。

「よし、俺にやらせてくれ」



長沼はマルコの自宅兼作業場に向かった。

「オラ!マルコ」

「オラ!ナガヌマ。銃の調子はどうだい?」

「ああ、ちょっと見てもらいたいんだ。いいかな?」

「お安い御用だ」

長沼は愛用のS&WM19拳銃を腰から取り出すと、

「バーヤ・コン・ディオス(神のご加護のあらんことを)」

と言い、至近距離からマルコの胸に銃弾を撃ち込んだ。

作業場の床に倒れたマルコの頭にとどめの一発。

「アディオス(あばよ)」

マルコが死んだことを確かめ、長沼は彼の仕事場を後にした。

裏切られたという怒りも悲しみも何も感じなかった。



翌日。

長沼は近所の雑貨屋にビールを買いに行く途中でマルコの葬列に出くわした。

家族や親類とともに彼の棺が運ばれていく。

長沼は思わず足を止めた。

マルコの幼い娘が泣いているのが見えた。

彼女は何故、優しかった父が死んでしまったのか、誰に殺されたのか、理解できないはずだった。

泣き喚く娘の声が長沼の胸を衝いた。

(俺が殺した。俺が……)

長沼は走り出した。

人を殺した後、こんな気持ちになったのは初めてだった。

マルコはゲリラに協力していた。

いつ何時、自分やオマイラをゲリラに売り込んだとしてもおかしくはない。

長沼にとっては敵である。

敵である以上、殺さなければならない。

殺さなければ、自分やオマイラが殺されてしまう。

が、自分は何の関係もないマルコの家族から、ささやかな幸福をも奪い取ってしまった。

仕方のないことだ、といくら我が身に言い聞かせても、心の中に残った蟠りは消えてくれなかった。



長沼は町の酒場である「サイゴン」に入ると、アグアルディエンテ(サトウキビの焼酎)をストレートで呷った。

透き通るように甘いアルコールが喉でチリチリと焼けた。

いくらグラスを重ねても胸の痛みは消えない。

愛する父親を失い、悲嘆に暮れる娘の面影が脳裏から離れない。

(ダメだ……俺はただの人殺しだ……)

自己嫌悪に苛まれつつ、長沼は酔い潰れるまで飲み続けた。



その夜。

長沼はどうやって帰宅したのかも覚えていない。

ベッドに倒れ込み、荒い息を吐いていると、心配そうにオマイラが長沼の傍に座り込んだ。

「ヒロト、どうしたの?」

「オマイラ、俺を殺してくれ」

「え?」

「俺は罪深い人間だ。殺されて当然だ」

「何かあったのね」

「君は心のきれいな人間だ。この荒みきった世界にいても俺とは違う。汚れに染まらないんだ。俺は汚れきってしまった。君の手で俺を殺してくれ」

長沼は泣きながら一気に言った。

「違う。あなたは心の優しい人よ。あなたはあたしのために殺されることを覚悟したでしょ?心の貧しい人にはできないわ。あなたは人を殺した。でも、殺された人の痛みが分かる。あなたの心は汚れていないのよ」

オマイラは長沼の額を撫でながら言った。

「俺には生きる価値もない。死んで償うべきだ。君が殺してくれ」

「ヒロト、あたしには分かるの。体の汚れは洗えば落ちる。でも、心の汚れは洗っても落ちない。あなたの汚れは洗えば落ちる汚れよ」

「分かった。洗わせてくれ」

「あたしも洗うわ」

長沼とオマイラは裸になって冷たいシャワーを浴びた。

ふたりは激しく求め合った。

長沼はオマイラの熱くて弾力のある肌を愛撫しながら、このまま殺されてもいい、と思った。



コロンビア中部・アンデスの山岳地帯にて――

ゲリラのキャンプでは、二人の男が小屋の中で話し込んでいた。

「ナガヌマが生きているというのは確かなのか?」

「ああ、間違いない。奴は生きている」

「奴は女と一緒にいるそうだな?」

「カルロスを殺した女だ。奴の逃亡を手助けした」

「奴らは今、サンタフェにいるのか?」

「ああ、これがそのエビデンシア(証拠)だ」

若い男が数枚の写真を机の上に並べた。

写真を受け取ったゲリラの司令官はキューバ産の葉巻をくわえながら、

「ふむ……こいつに間違いない」

うなずいて言った。

この男――キューバ革命の英雄エルネスト・チェ・ゲバラを真似したような髭面はガルシアという。

長沼の親友・山田を射殺した男だ。

あの後、長沼がオマイラとともに脱走したことも知っている。

長沼が日本に帰った様子はない。しかも、

「サンタフェに日本人らしい男がいる」

という噂を耳にしていた。

(奴は俺の命を狙っている……)

あれから血眼になって長沼たちの行方を追っていたのである。

そして、ついに長沼の居場所を突き止めた。

サンタフェに潜入させたスパイからの情報だった。

「しかし、驚いたな。奴がシカリオになっていたとは」

「奴はプロだ。射撃の腕は最高だ」

とスパイの男が説明する。

「日本人がコロンビア解放軍(Ejército Liberación de Colombia,ELC)にデクラシオン・デ・グエラ(宣戦布告)か」

ガルシアは愉快そうに笑って言った。

「俺を殺すために腕を磨いたってわけか」

「心配ないさ。奴は町から出られない」

「俺がアミーゴの敵であることも知らないわけか」

「ああ」

「だが、俺が敵だと知れば、必ず復讐に来るだろうな」

「ハハハ……考えすぎだ。奴一人じゃ無理さ」

男は笑った。

ガルシアはニコリともせず、

「今のうちに手を打っておいた方がいい」

「刺客を送り込んで、奴を消すか?」

「いや……」

ガルシアは葉巻の煙をゆっくりと吐き出しながら、

「奴は殺さない。生かしたまま、ここに連れてくるんだ」

「奴をまた拉致するのか?」

「そうだ。再び人質にして、身代金をふんだくる」

「奴の女はどうする?」

「女も一緒に連れてこい」

「女も?」

「あの女は裏切り者だ。許せない。エヘクシオン(処刑)してやる」

「難しいな」

「金ならいくらでも出してやる。絶対に奴らを生かしたまま捕まえてこい!」

ガルシアは語気を強めて言った。

(待ってろよ、ナガヌマ。また会えるのを楽しみにしているぞ)



それから数日後。

サンタフェの町はにぎわっていた。

毎年恒例のアスンシオン・デ・ラ・バージン(聖母の被昇天の日)である。

娯楽の少ない農民たちは毎年この日が来るのを楽しみにしていた。

長沼とオマイラも見に行った。

これはキリスト教カトリックの重要な祝祭で、

「聖母マリアがその人生の終わりに肉体と霊魂を伴って天国にあげられたという信仰、あるいはその出来事を記念する祝い日のこと」

とされ、毎年8月15日に行なわれる。

町の目抜き通りは黒山の人だかりだった。

白装束をまとった人々がマリア像を載せた神輿を担いで行列を作る。

「オマイラ、はぐれるなよ」

長沼はオマイラの手を引いた。

(この混雑では、誰に撃たれても分からないな……)

と思った。

長沼は、

(ゲリラは俺たちを生かしておくはずがない)

と思っていた。

もちろん、警戒は怠らなかった。

自ら暗殺者の道を選んだのも、

「ゲリラの魔の手から身を守るため」

でもある。

だが、こうしてオマイラと暮らしていると、

(もしかしたら、ゲリラは俺たちのことを忘れているのではないか?)

と思うこともあった。

(俺もオマイラも死んだと思っているかもしれない……)

という甘い期待もあった。

(このまま、オマイラと暮らせたらいいな……)

オマイラとの安住を願えば願うほど、

「生への執着」

も強くなってくる。

そんな甘えを吹き飛ばすように祭りの見物人たちの甲高い歓声が響いた。

(いかん!油断は出来ないぞ!)

と自分に言い聞かせる長沼。

(今も誰かに狙われているかもしれない……)

そう思うと、お祭り騒ぎに浮かれている場合ではないと思った。

「オマイラ、もう帰ろう」

「え?」

「危ないんだ」

「ポルケ?(なぜ?)」

「いいから帰ろう」

長沼はオマイラの手を引っ張った。

人混みを抜け、裏通りに入った。

(ここまで来れば安心だ……)

と思った。

その瞬間、後頭部に焼け付くような衝撃を覚えた。

(あっ……)

頭を殴りつけられたのだ。

体を動かそうとしても力が入らない。

目の前が真っ白になった。

長沼は意識を失った。

地面に倒れたところを抱えられた。

オマイラも殴られ、5人の男たちに抱きかかえられた。

男たちは手際よく、ふたりを人目につかない場所に運び込んだ。

そこで、ふたりとも大きな麻袋に詰め込まれた。

男たちはふたつの袋を抱え、川べりに停めてあるボートに積み込んだ。



長沼はモーターボートの爆音で目が覚めた。

(ここは……?)

頭が響くように痛む。

袋に入れられていることに気付くまで少し時間がかかった。

(俺は拉致されたのか……)

起き上がろうとしたが、近くに人の気配がするのでやめた。

男たちが何かをしゃべっている。

爆音にかき消されてよく聞こえない。

これからどこかへ向かおうとしていることが分かった。

(俺たちを殺すつもりか……?)

オマイラはどうしたのだろう。

何とかして、ここから逃げなければならないと思った。

だが、うかつなことはできない。

ここはしばらく、様子をうかがうことにした。



どのくらい経っただろうか。

ボートが川べりの船着場に停まった。

男たちが袋を開けた。

「おい、起きろ!そこから出ろ!」

長沼はのそのそと這い出した。

オマイラも袋から引きずり出された。

長沼はオマイラの無事を知って少しホッとした。

「歩け!もたもたするな!」

男に背中を押された。

長沼は川岸に上がった。

岸には軍服姿の武装したゲリラが何人もいた。

(やはり、ゲリラか……)

長沼は来るべきものが来たと思った。

(俺たちを殺さず、わざわざ拉致してきて、どうするつもりだ……?)

どこかへ連れて行って殺すのだろうか。

「こっちだ!こっちへ来い!」

ゲリラにカラシニコフ銃を向けられ、長沼は歩き出した。

オマイラも後からついてきた。



長沼たちは歩き続けた。

急斜面を登り、緑に囲まれた山の奥へ向かっていることが分かった。

長沼は逃げるチャンスをうかがっていたが、

(奴ら、なかなかスキを見せない……)

のである。

山田とともに拉致されたときのことを思い出した。

あれからすでに4年の歳月が流れている。

あの時は泣き言ばかり言っていた。

不安にさいなまれ、うろたえるばかりだった。

今の自分は冷静に状況を分析しようと努めている。

(俺もさすがに成長したな……)

と思った。

続いて、無残な死を遂げた山田の面影が浮かんだ。

(ヤマさん、本当にごめんよ。ヤマさんと一緒に生きて帰りたかったよ……)

山田のことを思うと、胸が張り裂けそうになる。

(ヤマさん、俺もこれからそっちへ行くよ。ただ……)

長沼は心の中で念じた。

(ただ、オマイラだけは助けてやってくれ。お願いだ。彼女に罪はない。親に捨てられたかわいそうな娘なんだ。彼女だけは見逃してやってくれ……)

自分は殺されても文句は言えない。だが、オマイラだけは助かってほしいと思っていた。

(ヤマさん、恨むなら俺を恨んでくれ。オマイラは関係ないんだ……)

あの世にいるであろう山田は何と思っているのだろうか。

(俺はどうなってもいい。だが、これだけは聞いてくれ。オマイラは助けてほしい。彼女は俺の命の恩人なんだ。俺からの一生のお願いだよ。頼む……!)

長沼はそれだけを伝えておきたかった。

果たして、あの世の山田はどう受け取ったのであろうか。



何時間歩かされただろうか。

長沼とオマイラは、ようやくゲリラのキャンプにたどり着いた。

ふたりを待っていたのはガルシアだった。

長沼はガルシアの顔を見て、

(こいつ、どこかで会ったような……)

と思った。

すると、ガルシアが言った。

「ムーチョ・ティエンポ(久しぶりだな)、ナガヌマ」

「あっ、お前は……!」

「覚えていたか?」

ガルシアはニヤリと笑った。

髭を落として人相を変えていたが、

(忘れもしない、ヤマさんを殺した奴……)

長沼はようやく思い出した。

自分と山田に死を迫り、山田を殺したゲリラの司令官である。

「この野郎!殺してやる!」

長沼は復讐心に燃えた。

飛びかかろうとすると、

「うっ……!」

ゲリラに銃床で腹を殴られた。

「ヒロト!」

オマイラが叫ぶ。

倒れたところを引きずり起こされた。

「この野郎!なぜアミーゴを殺した!なぜだ!貴様も死ね!殺してやる!」

飛びかかっていこうとするが、ゲリラに押さえつけられ、身動きできない。

ガルシアが葉巻にマッチで火をつけた。

ゆうゆうと煙を吐いてから、

「お前は何も分かっちゃいない」

と言った。

「この世はレイ・デ・ラ・セルバ(弱肉強食)だ。喰うか喰われるかの世界だ。富めるものはますます富み、飢えるものはますます飢える。富めるものは貧しいものから富を奪う。だから、貧しいものは富めるものから富を奪う。当然のデレッチョ(権利)だ。我々は当然のことをやったまでだ」

「当然?何の罪もない人間を殺すことが当然だと?」

「お前たちの国は身代金を出し渋った。そればかりか、アメリカに協力し、コロンビアの貧しい農民をますます飢えさせている。殺されたのは当然の報いだ」

「ふざけるな!俺のアミーゴが何をしたって言うんだ!お前たちはテロリストだ!下劣な犯罪者だ!」

「テロリスト?犯罪者?我々をそこまで追い込んだのは一体どこの誰だ?お前たちではないか!」

激しい感情の応酬が続いた。

「どのような理由であれ、テロリストはテロリストだ!死んで当然の連中だ!」

「お前はどうだ?パラミリタールと組んで罪のない人間を殺した!死ぬべき悪人だ!」

「先に手を出したのはお前たちだ!アミーゴは何の罪もない人間だった!それを殺した!」

「ほう、正義のための復讐ってわけか?」

「何とでもほざけ!俺は絶対に貴様を許さない!」

長沼は燃えるような目でガルシアをにらみつけた。

怒りと憎しみの炎が我が身を焼き滅ぼしてしまいそうだった。

ガルシアが自動式拳銃を抜いた。長沼は言った。

「俺を殺すのか?殺すがいい!俺はあの世から貴様をボイ・ア・マタール・ア・ラ・マルディシオン!(呪い殺してやる!)」



ガルシアはM1911の銃口を向けていた。

長沼は目を閉じた。

死を覚悟した。

「俺は死んでいい。だが、オマイラは見逃してやれ」

と言った。

「ヒロト!ダメよ!死んじゃダメ!あたしを殺して!」

「オマイラ、君は生きろ!」

「あなたには家族がいる!あなたの死を悲しむ家族がいるのよ!」

その言葉が長沼の胸を貫いた。

「オマイラ!君が死んで、俺が悲しまないとでも思うのか?」

涙があふれた。

「彼を殺すなら、あたしを殺して!」

オマイラが言い張る。

「彼を解放すると約束して!その代わり、あたしが死ぬから!」

ガルシアが拳銃を下げた。

「こいつは殺さない。大事な人質だ。日本から身代金を取れる」

「彼は解放して」

「お前、そんなにこの男が好きなのか?」

「好きよ」

「この男のカベサ・デ・トゥルコ(身代わり)に死ねるのか?」

「死ぬわ」

「なぜだ?」

「彼はあたしを殺す代わりに殺されようとした。だから、今度はあたしの番」

オマイラは毅然と言い放った。

ガルシアはしばらくオマイラを見つめていたが、

「エル・アモール・エス・マス・フエルテ(愛は強しか)……」

とつぶやいた。

「よかろう。お前たちにチャンスを与えてやる」

そう言って、長沼を捕らえている部下に命じた。

「おい、そいつを放してやれ」

長沼はオマイラと抱き合った。

「オマイラ!愛してるよ!」

「あたしもよ、ヒロト!あなたは生きて!」

「君を残して俺だけ日本に帰れるものか!死ぬときは一緒だ!」

長沼はとっさに決意を固めた。

自分はオマイラとともにここで死ぬ。

そして、あの世から憎いガルシアを呪い殺してやるのだ。

抱き合って泣いていると、

「よし、そこまでだ!」

とガルシアが怒鳴った。

「そいつらを引き離せ!」

「何をするんだ!」

ゲリラたちは長沼とオマイラを強引に引き離した。

ガルシアが言った。

「それだけ愛を確かめれば十分だろう」

「俺たちを殺すのか?」

「いや、お前は殺さない」

「俺を殺せ!」

「死よりも辛い現実を味わわせてやる」

「なんだと?」

「女を連れ出せ!処刑の準備だ!」

「やめろ!オマイラに何をするんだ!」

長沼はもがいたが、多勢に無勢、どうすることもできない。

オマイラは広場に連れ出されていった。



処刑の準備が始まった。

広場の中央には木の杭が打ち立てられていた。

オマイラは杭に縄で厳重に縛り付けられた。

これからフシラミエント(銃殺刑)が執行されるのだ。

「やめろ!オマイラを殺すなら俺を殺せ!このベスティア(獣)がっ!」

長沼は声を振り絞って叫んだ。

ガルシアが冷淡に言った。

「よく見ておけ。愛する女の最期を」

「やめろっ!お前ら、それでも人間かっ!」

オマイラに白い布で目隠しがされた。

6人の兵士が進み出る。

「ポストゥーラ!(構え!)」

ガルシアの号令で6つのカラシニコフ銃の銃口が向けられた。

「アプンタール・アル・オブヘティボ!(標的を狙え!)」

「やめろおっ!」

「ディスパラール!(撃て!)」

一斉に銃声が響いた。

「オマイラっ!!」

縛り付けられたオマイラの体がビクンと大きく跳ねた。

「撃てっ!」

再び銃口が火を噴く。

オマイラを縛っている縄が解けた。

上体が前のめりに傾いた。

「撃てっ!」

とどめの銃弾が浴びせられた。

オマイラの小さな体から血煙が噴き上がった。

処刑は終わった。

「ああっ……オマイラ……そ、そんな……し、死んだ……あっ、ああっ、あああっ……」

長沼は泣き崩れた。

オマイラの死体は杭に縛り付けられたままだ。

まるでボロキレのように捨て置かれている。

あまりにも無残な最期であった。

親に捨てられ、天涯孤独の薄幸な少女だった。

長沼を逃がしたばかりに、ゲリラに捕まり、処刑されてしまったのだ。

「チクショウ、チクショウ……こんなことがあってもいいのかよお……」

人間の死には不感症になっていた長沼も、この時ばかりは号泣した。

ガルシアが勝ち誇ったように言った。

「みんなもよく見ておけ!トライドール(裏切り者)の末路はあれだ!」

そして、長沼に歩み寄った。

「どうだ?愛する者を失った気持ちは?」

「あっ……ああっ、あっ……あっあっああ……」

「お前はインフィエルノ(地獄)を味わうことになるだろう。お前にふさわしい生き方だ」

長沼は両手で土をつかみしめ、満面を涙に濡らしながら涎を垂らし、痴呆のように口を開け放ったまま嗚咽した。

ガルシアは満足したように言った。

「こいつを小屋に放り込んでおけ!」

その時……。

突然、どこからともなくヘリコプターの爆音が聞こえてきた。

ガルシアが見上げると、草色の塗装を施した攻撃ヘリが飛んでくるのが見えた。

「政府軍だ!」

UH-1イロコイ・ヘリのM134ミニガン(口径7.62ミリのガトリング砲)が火を噴いた。

これは毎分2000~4000発を発射し、最大で1秒間に100発もの銃弾を発射できる。

生身の人間が被弾すれば痛みを感じる前に即死すると言われ、別名「無痛ガン」とも呼ばれる。

土煙が上がり、ゲリラたちが次々に血煙を上げて撃ち倒されていく。

「エス・ウン・アタケ・エネミーゴ!(敵襲だぞ!)ブランコ・ルチャール!(応戦しろ!)」

ガルシアが叫びつつ、ヘリめがけてコルト拳銃を連射した。

ヘリのスタブウイング下に搭載されたFFAR7発ランチャーから続けざまにMK4ロケット弾が発射された。

白い尾を引いてロケット弾が飛んでいく。

キャンプのあちこちで爆発が起こった。

次々に家屋が吹き飛ばされ、火花と破片が飛び散った。

凄まじい爆裂音が響き渡る。

キャンプは猛火に包まれ始めた。

真っ黒な煙が空を覆い始める。

長沼は辺りを見回した。

ゲリラたちが何事かを叫びながら走っていく。

ヘリは上空を旋回しながら攻撃してくる。

ヘリの爆音と銃声が耳をつんざく。

その音で長沼は現実に戻った。

ガルシアの姿を探す。

ガルシアは逃げようとしていた。

(あの野郎……!)

長沼の復讐心が再び燃え上がった。



立ち上がって武器を探すと、死んだゲリラの胸にナイフがくくりつけてあった。

それを引き抜く。

長沼は走り出した。

上空のヘリが追ってくる。

長沼はヘリに向かって叫んだ。

「待て!こいつは俺が殺す!」

長沼はガルシアめがけナイフを投げ付けた。

ナイフはガルシアの左肩に突き刺さった。

「うっ……」

ガルシアが転倒した。

「この野郎!殺してやるっ!」

長沼が飛びかかろうとした。

とっさにガルシアが拳銃を向けた。

長沼は右足の太腿を撃たれた。

「うあっ……!」

焼けるような激痛にたまりかね、長沼も倒れた。

ガルシアが肩に刺さったナイフを引き抜いた。

そのナイフを握って長沼に襲いかかる。

「死ねっ!」

かろうじてナイフをかわす。

ガルシアは執拗に攻撃してくる。

長沼はガルシアのナイフを握った右腕をつかんだ。

ものすごい腕力だ。

刃先が長沼の喉に迫る。

長沼はガルシアの顔に片手を伸ばした。

その指でガルシアの耳朶をつかむ。

渾身の力を振り絞って耳を引っ張った。

ガルシアの悲鳴が上がった。

長沼は耳を引き裂かんばかりに引っ張る。

ガルシアはたまらず長沼から離れた。

すかさず長沼がガルシアに飛びかかる。

「この野郎!この野郎!」

拳でガルシアの顔面を何度も殴りつけた。

ガルシアも殴り返す。

長沼を蹴飛ばしておいて逃げにかかった。

「この野郎っ!」

ひるまず長沼が背中に飛びつく。

ふたりとも死に物狂いの肉弾戦だ。

長沼はガルシアの背後に回り、首に右腕を巻きつけた。

首を締め上げた。

ガルシアが徐々に弱ってきた。

そこで腕を離した。

仰向けに倒れたガルシアに馬乗りになった。

右手には先ほどのナイフが握られている。

「ヤマさんとオマイラの仇だ!死ねっ……!」

長沼はナイフを振り上げた。

その時、ふと、こんな思いが脳裏をかすめた。

(罪のない人間を殺した俺が復讐なんて許されるのか?)

長沼はためらった。

復讐のまたとないチャンスである。

だが、どうしてもナイフを振り下ろせない。

(何をビビってるんだ?こいつは敵だぞ!殺せ!早く殺せっ!!)

と自分に言い聞かせたが、

(人殺しの俺に復讐の権利などない!)

という良心の叫びが混じってくる。

どうすればよいのか?!

決心がつかないでいると、腕を銃弾がかすった。

「うわっ……!」

ガルシアの部下にカラシニコフで撃たれたのだ。

長沼は激痛に転げまわった。

「早く逃げろ!」

ガルシアは部下とともに逃げていく。

長沼は顔を上げた。

復讐のチャンスは失われた。

と思った瞬間、ヘリから機銃掃射が浴びせられた。

「うおっ……!」

逃げるガルシアと部下が蜂の巣になった。

血煙を上げて回転しながら地面に突っ伏す。

(死んだか……)

長沼は全身の力が抜けるのを感じた。



戦闘は終わった。

長沼は血と泥にまみれてよろよろと歩いていた。

キャンプには硝煙が立ちこめ、ゲリラの死体が散らばっている。

ヘリが爆音とともに土ぼこりを舞い上げて着陸した。

軍人が2人降りてきた。1人は米軍の将校らしい。

「ナガヌマ、よくやった。作戦は成功だ」

「あんたは……」

目の前にいるのはロハスである。

「どうしてここに……?」

「説明すれば長くなるが、我々は米軍と共同でゲリラ狩りをやっている。お前のことはみんなが知っている。みんながお前に期待していたのだ」

「どういうことだ?」

「我々は長年ガルシアを追ってきた。こいつはゲリラの最高幹部の1人で、こいつを殺せばゲリラの弱体化は必至だ。だが、なかなか居所を突き止められない。そこで、お前をオトリにして、奴をおびき寄せる作戦だったのだ」

「俺をオトリに?」

「奴はお前を狙っていた。お前と女を捜していた。お前と女の居所が分かれば、奴も動き出す。そこで奴の居場所を突き止め、急襲することに成功したのだ」

「つまり、こいつを殺すために、俺とオマイラを利用していたってことか?」

「お前だって、こいつを殺したかったはずだ」

とロハスが言った。

長沼は悔しかった。悲しかったし、切なかった。

自分が殺人の道具として利用されていたのだと思うと、

(オマイラまで巻き込み、死なせてしまった……)

という自責の念がふつふつと湧きあがってきた。

サングラスをかけた米軍の将校が早口の英語で言った。

「君の役目は終わった。君は人質だ。ゲリラから我々が救出した。日本は我が国の同盟国だ。君はもう日本に帰りたまえ。後は我々が片付ける」

ロハスは満足そうに笑っている。

「ふざけんなよ……」

長沼は込み上げてくる怒りを抑え切れなかった。

負傷した腕は使えないので、ロハスの顔面に思い切り頭突きを喰らわせてやった。

「うおっ!……」

ロハスは鼻柱を折られて後ろにのけぞった。

「な、なにをするんだ!くそっ……」

顔中を血に染めながら、

「貴様、狂ったか!は、早くこいつを連れて行け!」

と怒鳴った。

長沼は兵士たちに連れられていった。



その後。

長沼は首都ボゴタの病院に運ばれた。

そこで、日本大使館の職員から事情聴取を受けた。

長沼はすべてを打ち明けた。

すると、大使館員から厳しく口止めされた。

「いいですか、ここで起こったことは、帰っても絶対に公言しないでください。分かりますよね、長沼さん……」

いかにも冷たそうなメガネの大使館員は脅すように言った。

「すべてはあなたのためです。なかったことにしてください。それがあなたの身のためですよ。いいですね?」

くどいほど念を押され、長沼はアメリカ行きの飛行機に乗せられた。

機内の窓から遠ざかっていくコロンビアの大地を眺めながら、

(さようなら、オマイラ。さようなら、ヤマさん。さようなら、コロンビア)

と心の中でつぶやいた。



長沼は4年ぶりに祖国・日本の土を踏んだ。

すでに家族は長沼が死んだものと思い、葬式も済ませていた。

長沼が拉致されたことも、山田が殺されたことも、日本ではほとんど話題にならず、みんなに忘れられてしまっていた。

日本から遠く離れた地球の裏側での出来事など、平和ボケの国民は何の興味もないようであった。



それから2年後。

2005年の夏。

長沼は新宿の街中を歩いていた。

東京は梅雨入りし、毎日、雨が降り続いている。

夜になって雨は止んだが、じっとりと汗ばむような陽気だ。

(あれからもう2年か……早いものだな……)

長沼はジーンズのポケットに手を突っ込んで歩きながら、ぼんやりと考えていた。

帰国後、長沼はフリーターになった。

彼女もできた。

日本での平穏な暮らしに戻ると、

(俺だけ生きて帰ってきて、本当にいいのだろうか?)

と思う。

非業の死を遂げた山田とオマイラの面影が頭から離れない。

日本は平和だ。豊かだし、自由もある。

だが、この恵まれた生活に自分が甘んじていてもいいのか、という疑問が常に付きまとうのだ。



長沼は思い切って彼女に打ち明けようとしたこともある。

「なあ、じつは俺……」

「なに?」

「いや、なんでもない」

「なによ?」

「兵士だったんだ」

「え?」

「拉致されて、友達を殺されて、逃げて、兵士になって、恋人も殺されて、復讐しようとして……」

「なに言ってんのよお?」

彼女は冗談だと思ってケラケラ笑っている。

「なんていう映画?」

「映画じゃねーよ」

「夢でも見たの?」

「夢でもねーよ」

「じゃあ何よ?」

「これでも信じねえのかよ?」

長沼は腕の傷跡を見せたが、彼女は笑って言った。

「あんた、これ、昔バイクで事故ったときの傷だって、言ってたじゃん……」

(やっぱり、言うのはよそう……)

と思った。

言ったところで信用されるわけもないし、山田やオマイラが生き返るわけでもないのだ。



雑踏の中を歩いていると、

「もしもし……」

急に背後から呼び止められた。

「あの、もしかして、長沼さんですか?」

振り向くと、目の前にいたのはどこかのおばさんである。

「ええ、そうですが……」

長沼は相手を思い出せなかった。

「お久しぶりです。山田陽介の母です」

「ああ、ヤマさんのお母さん……」

「お元気ですか?」

「よく分かりましたね……」

もう何年も会っていないのだ。

見違えるようになった長沼と、ほとんど変わっていない山田の母親が対面した。



ふたりは近くの居酒屋に入った。

ビールを飲みつつ自然と昔話になった。

長沼はこれまでの出来事を話した。

山田の母親は興味深そうに聞いていた。

話が山田の死に至ると、

「政府から知らされたんですよ。うちの子が殺されたって……ビデオで確認しましてね……」

母親は涙を流し、ハンカチで目を押さえた。

「そうでしたか……」

長沼も複雑な気持ちである。

自分だけが生きて帰ってきたということへの負い目を感じずにはいられない。

「ヤマさんを死なせたのは、この僕です。僕が殺したようなものです。本当に申し訳ありません……」

長沼は深々と頭を下げた。

モツの煮込みが運ばれてきて話は中断した。

長沼はビールをひとくち飲んで言った。

「僕はヤマさんやみんなから命をもらったと思うんです。ヤマさんは僕の身代わりになったんだなと……」

山田やオマイラ、その他多くの犠牲があって、自分は生きているのだと思う。

「僕ひとりで生きてるんじゃないんだな、と。みんなからもらった命なんだな、と思いましてね……」

そのことを知って、今はみんなに感謝しながら生きているのだ、と言った。



ふたりは店を出た。

表に出てから、

「じゃあ、お母さん。いつまでもお達者で……」

と言って別れようとすると、

「長沼さん、じつは……」

山田の母親が言った。

「じつは私、あなたを憎んでいました。うちのヨースケちゃんを殺した憎い奴だと思ってました。もしもどこかで出会ったら、その時はこの手で殺してやろうと思っていたんです……」

「え?」

「だからこうして、ほら、いつもこんなものを持ち歩いていて……」

母親は鰐皮のハンドバッグから果物ナイフを取り出した。

「今日、たまたまあなたを見つけて、私、殺してやろうと思ったんです。でも……」

「……?」

「でも、あなたと会って、気が変わりました。うちのヨースケちゃんはあなたの中で生きてるんです」

長沼は息をのんだ。

「ヨースケちゃんは、あなたの身代わりになった。だから、あなたは生きて帰ってこられた……」

母親はナイフをバッグにしまい、

「あなたを殺せば、私はこの手でヨースケちゃんを殺したことになってしまう。だから、殺すのはやめにしたんです」

「…………」

「あなたは生きてください。私も生きてほしいと思ってます。ヨースケちゃんの分まで生きてやってください。お願いします……」

一礼して、母親は夜の人混みの中に消えていった。

「…………」

長沼はしばらくたたずんでいた。

(今日も命拾いしたな……)

長沼は歩き出した。

(俺はあと何年、生きられるんだろうか……)


この物語の構想は作者が南米を旅しているときに思い浮かんだものです。

「ものすごくドキドキワクワクする冒険小説を書いてみたい」

という思いはずっと前からありました。

読みだしたら止まらない。息もつかせず、あっという間に読み切ってしまう話。

そして、読後に何か心に残るものがあって、何度も読み返したくなるような話。

そんな話が書けたらいいなと思いました。


個人的な話ですが、作者にとって南米のコロンビアは思い入れの深い国です。

コロンビアでお世話になった人たちに恩返しをしたい、という思いでこの話を書きました。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

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誰も知らない 土屋正裕 @tsuchiyamasahiro

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