揺蕩う

東雲そわ

第1話

 海へ行こうと思った。


 バイト明けの深夜一時。駐車場に停めていた車の運転席でしばらく自問した後、スマホのナビゲーションアプリに目的地を入力していると、不意に窓ガラスをコンコンと叩かれる。


 早くも曇り始めた窓ガラスを下ろすと、いつにも増して気だるげな表情の先輩がこちらを見下ろしていた。


「どっか行くの?」


 隣県にある海水浴場。盛りのシーズンはとうに過ぎ、冬の色合いが濃くなり始めた季節に、そんな場所を訪れる物好きが自分以外にいるとは思ってもいなかった。


「私も行きたいかも」


 こちらの返答も待たずに、車の前方を回り助手席へと乗り込んできた先輩は、慣れた手つきで暖房の出力を最大にする。


「二時間ぐらいかかるみたいです」

「いいよ、寝てるから」


 助手席のシートをゆるゆると傾けながら欠伸を披露する先輩に、何か言おうと思いつつも適当な言葉が見つからないまま、無力感を切り替えるようにシフトレバーをドライブに入れる。


「ヘルプで昼からシフト入ってるから、さすがに眠いんだわ」

「……シートベルトはしてくださいね、捕まるの嫌なんで」

「あい」


 カチッっと音が鳴るのを確認して、私は踏み込んでいたブレーキペダルから足を離した。






「どうしてついてきたんですか?」


 目的地近くにあるコンビニの駐車場。ようやく目覚めた先輩は、店内から漏れる灯りが眩しいのか、眉を顰めながら私が夜食として買ってきたおにぎりのラッピングを解いている。


「そのまま帰ってこないような気がしたから、かなぁ」


 もそもそと一口食んでから、先輩が出した答えは漠然としたものだった。


 私は黙考してその可能性を吟味した後、完全に否定することができなかったのでそのまま沈黙を貫いた。その沈黙を肯定と思ったのか、先輩は諭すような現実的な言葉で私をどこかに留めようとしてくれる。


「バックレるにしてもさ、バイト代もらってからにしなよ。今月シフト入れまくって頑張ってたじゃん。もったいないよ」


 そう言ってから、梅干しじゃんこれ、と眠気覚ましに買っておいた私のおにぎりにケチをつけた後、お茶欲しくない?、と私を促す。


「買ってきます」

「ホットがいいな」


 先輩の我儘を聞き流して店内に入ると、フロアの清掃作業の手を止めて、長髪を後ろで結った小柄な男性店員が機敏な動作でレジへとやってくる。同じアルバイターとして若干の申し訳なさを感じながらも、ホットのお茶と追加のおにぎりを手に取り、レジへと持っていく。


「おにぎりは温めますか?」


 断りと簡単な謝意を述べてからスマホで決済を済ませ、足早に店の外に出る。空にはまだ月明りしかなくて、車内で梅干しを啄む先輩の顔だけがスマホの灯りに照らされ、薄闇の中、ぼんやりと浮かび上がっていた。






「旅行資金を貯めようと思ってたんです」


 日の出前。明るくなり始めた海岸を並んで歩きながら、すっかり目覚めた先輩に打ち明ける。

 

「どこ行くの? 改めて貯める必要があるってことは、海外? だとしたらうちの時給じゃちょっと厳しくない?」


 冬の海辺は風が強く、寝ぐせのついた先輩の髪を更に乱していた。


「まだどこに行くかは決めてないです。 ──ただなんとなく、どこかに行ってみようと思ってて」


 答えが見つからないまま口にした言葉ほど頼りないものはないと思った。


「じゃあさ、行き先決まったら教えてよ」

「……またついてくる気ですか?」

「それもいいかもねー」


 飄々とした笑顔を浮かべて、先輩の足跡が波打ち際へと進路を変える。


「今度は反対側の海に行こうよ」

「遠いですよ」

「いいんじゃない? どうせ行く当てなんてないんだし」


 スニーカーの爪先を濡らしながら波を蹴り返す先輩の背中を、私はどこか遠くに見つめている。

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揺蕩う 東雲そわ @sowa3sisu

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