千住お嬢様のごほうび
――俺はごくりとつばを飲み込んだ。
千住さんの言う公序良俗には、何が含まれているのだろうか?
……千住さんは野菜サラダのブロッコリーの茎の方をつまみ上げる。
そして、先を俺の方に向けた。
「――滝川、ほら」
へっ?
「やってほしいんでしょ。これぐらいで、良いなら、別に……」
俺に向かって、マヨネーズがちょこっとかかったブロッコリーを突き出す千住さん。
赤い顔。わずかに震える箸を持った手。
――いや、まじで!?
俺は頭が興奮するのを必死に抑える。
ここで千住さんに甘えていいものか。
母親以外の人間からこんなことされる機会など、取り立ててイケメンでもない俺にはそうそう訪れないだろう。しかも学年の高嶺の花、美少女の名をほしいままにする千住さんから。
今受けずしていつ受ける。
しかし、千住さんだってちょっと嫌そうだ。その証拠に俺から若干目をそらしてる。
それに俺の後ろには、かつてないほど目を輝かせる母さん。
やるにしても、実の母親の前でやりたくはない。
「……ほら、早くしなさいよ」
千住さんのか細い声。
――なんで千住さんもやろうとしてくれてるんだ!
嫌なら別に良いのに!
そこで母さんの顔を立てなくていいって!
「でも、別に……」
なんとか声を出す。心の中のもう一人の俺が『せっかくのチャンスだぞ! 行くしかねえだろ!』って言ってるのを必死にセーブする。
その間にも、千住さんの伸ばした腕がプルプルしている。
「――もう! 早くしなさい!」
次の瞬間、ブロッコリーがまっすぐこっちに向かってきた。
「あっ、ちょっ」
俺がはっきりと言葉を発する前に、反射的に開いた口で俺はブロッコリーをくわえていた。
「……」
「……」
「……良かったじゃない圭、照れちゃってねえ」
――いたずらっぽい声を上げる母さんからちょっとでも早く逃げたくて、俺も千住さんも顔を赤くさせながら箸を動かすしかなかった。
***
大急ぎで朝食を食べ終え、制服に着替えて登校する。
「はい、滝川……」
そう言って箸を向ける千住さんの幻影を脳内から振りほどきながら、教室にカバンを置き、職員室に行って出席簿をもらう。
職員室から教室に戻ろうとすると、どうしても昇降口の前を通る。
「よう、圭」
「おはよう」
上履きに履き替えたクラスメイトの男子数人から声をかけられ、俺は足を止めた。
「英語の小テストって今日だろ? 勉強した?」
「ってか範囲どこだっけ?」
「ああ、今回範囲広いんだよなあ、全然点取れる気しねえ」
範囲とか関係なく、今日の授業はまるで集中できる気がしない。
油断するとすぐ千住さんが脳裏に浮かぶ。
「いや、圭は勉強してるだけですごいって」
「アパートの掃除したり、住んでる人たちの飯も作ってるんだろ?」
「別に、みんなが部活してるのと一緒だよ」
俺は深呼吸しながら、友人たちの言葉を軽く受け流す。
大変なのは否定しないが、高校生なんて部活や塾や委員会で何かしら忙しい時間を過ごしているのが普通だろう。俺の場合、そこに大家手伝いというのが入ってるだけだ。
「そんなことねえよ。圭は点数取れなくても仕方ないって」
「まあどうせ今回も、満点は千住お嬢様一人だろうな。――お、おいでなすった」
一人が昇降口の向こうに顔を向け、俺もつられて振り向く。
朝のこの時間、校門から昇降口へ至る道は登校してくる生徒たちでごった返す。
にもかかわらず、彼女が通るそこだけ、なにかの力が働いているかのように生徒たちがよけ、道が空いている。彼女からにじみ出る気品によって、自然とそこにはスペースができる。
その空いた道の中を通学カバンを右手に持ち、周りからのあいさつにごきげんようと応えながら歩く彼女。
たとえ彼女を初めて見る人間でも、その優雅な歩みから何かを感じ取るのは容易であろう。そしてシャンプーのCMかのようにつやつやと輝く赤混じりの茶髪のロングヘア、目を見張るような美しい顔立ち。ブレザーやスカートの上からでもはっきりとわかる天性のスタイルの良さ。
……正直、20分前まで寝ぐせを立てながら納豆ご飯を食べ、俺に対して顔を赤らめながらあーんもどきをした人間と同一人物とはとても思えない。
「皆さん、ごきげんよう」
千住さんは俺らにも声をかけてくれた。
「ご、ごきげんよう」
他の男子が緊張で舌が回らなくなるのを見ながら、俺は笑い出したくなるのをこらえる。
千住お嬢様――誰もが一度は名前ぐらい聞いたことがあるだろう大手グループ企業の社長令嬢、千住 さくらが社内のお家騒動により実家の豪邸に住めなくなり、六畳一間の木造安アパート『ひばり荘』に引っ越してきて、同じクラスのごくごく普通の高校生男子である俺と同じ屋根の下で、毎朝俺に起こされ、俺の作る朝食を食べ、そこで初めて食べた納豆にはまり、俺にブロッコリーを食べさせてきた……なんて、みんな夢にも思わないだろう。
千住さんの希望で、このことは学校では口外厳禁である。
「……」
俺らの前で、千住さんが一瞬足を止めた。
そして、わずかに俺と視線が合って、すぐ反らした。
「今、千住お嬢様俺らのこと見たよな?」
「見た見た。多分俺目が合ったぜ」
「お前は無いだろ」
わいわいする他の男子の横で、俺は心を落ち着かせるのに必死だった。
――千住お嬢様の、お嬢様でないときを知っているのは、俺だけであることを再確認して、俺は今日も平静な心で教室へ戻るのであった。
学年一のお嬢様、実は毎日俺に起こされて俺の作る朝食を食べています。 しぎ @sayoino
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