千住お嬢様の朝食


 ***



 リビングの食卓に降りてくると、母さんが一番奥の席で、ゆっくりと箸を動かしているところだった。


「おはよう母さん。身体は大丈夫?」

「今日はなんとかね……けいは、千住さんを起こしてきたの?」


 俺は首を縦に振って、開いたままの納豆のパックを千住さんの定位置――窓側の右から3番目の席に置く。


「申し訳ないわね……住人の起床を手伝うのも、大家の大事な仕事なのに」

「大事な仕事だったら、余計母さんの身体じゃ任せられないよ。また俺が学校行ってる間に、勝手に掃除とかするなよ。倒れられたらシャレにならない」

 

 

 母さんは、この食事付き風呂トイレ共同アパート『ひばり荘』の住み込み大家。

 母親――すなわち俺の祖母――が建てたこのアパートを引き継ぎ、ずっと大家をしている。

 俺が生まれる直前に父さんが急病で亡くなってからは、ここの家賃収入がそのまま我が家の収入だ。

 

 だけど、大家としてアパートの経営管理をしながら、住人の食事の準備、建物の掃除、近所付き合い、さらにはシングルマザーとしての俺の子育て……毎日の激務は、母さんの身体を急速に傷つけてしまった。


 ついに去年、突然倒れて入院。幸いすぐ退院できたが、医者からあまり身体を動かさぬよう告げられる。

 それ以来、アパートの経営面や書類仕事を除く大家の仕事――建物の準備とか、料理とかは、動けなくなった母さんに代わって俺の仕事になった。


「……わかったわ。今日はずっと書類仕事にしておく」

 母さんは答えるが、そう言って俺のいないときに力仕事をしてたことが何度もある。不安だ。




「おはようございます、大家さん」

 その時、千住さんの滑らかな声が聞こえた。


「千住さん、おはよう」


 寝起きすぐでブレザーの制服をすでに着こなしている様と、あちらこちらはねている髪や緩そうなスカート、まだ眠たそうな大きな瞳のバランスが妙におかしい……けど、不思議なことにそれが視線を惹きつけてしまう。

 それが千住さんなのだ。


「今日は大丈夫? 圭に変なことされなかった?」

「変な……大丈夫ですよ。彼がそんなことしたら、今すぐ大家さんに報告しますから」



 女の子を起こすのに納豆のパックを開ける、というのは変なことに入るだろうか?



 でも、そうしないと起きないんだから仕方ない。

 俺はご飯と味噌汁をよそって、座った千住さんの前に置く。


「いただきます」


 千住さんはいつも通り、これ以上ないぐらい丁寧に手を合わせた。



 そして、付属のタレとカラシの袋を切って中身をパックの中に入れ、箸で納豆をかき混ぜる。


 見ていると、わくわくという擬音が顔から出ているかのよう。



「何見てるの? 滝川」

「いやあ、そんな幸せそうに納豆を混ぜる人は初めて見るなあって」

「良いじゃないの、美味しいんだから。それに食べる前からこんな楽しめるコンテンツなんてそうそう無いわよ」


 納豆に対してこんなことを言う千住さんを想像できるクラスメイトがいるだろうか。そもそも、学年一の高嶺の花である千住さんが、庶民の朝食の大定番である納豆ご飯にすっかりはまっている、と知ってるクラスメイトがいるのだろうか……?



 俺が考えるのをよそに、よく混ざった納豆をよそいたての白いご飯にかけて食べる千住さん。

 一口が小さいあたりで、かろうじて高嶺の花のイメージを保っている。


 そしてゆっくりと咀嚼しながらまぶしい笑顔を浮かべる。

 平日の朝なんて忙しくて、俺の作る朝食など他の勤め人の住人は先を急ぐようにかき込んでしまうのに。

 千住さんは毎日、しっかりと時間をかけて朝食を味わってくれる。


 料理する側にとって、これ以上の喜びはない。



「千住さん、本当に美味しそうに食べるのね。嬉しいわ」

「だって本当に美味しいんですもの」

「ふふっ、確かに。もう圭に対して料理の心配はしなくていいわね。圭、褒められてるわよ」


 母さんがいたずらっぽく笑う。


「あのさ、褒めてもなんも出ないぞ。俺なんてほとんど母さんの見様見真似だし」

「圭、顔が赤くなってるわよ」


 そういう事言うなよ母さん。

 俺だって男子だもの。褒められて悪い気はしない。

 


「というか滝川、あなたもそろそろ食べないと学校に遅れるでしょ」

「俺はまだ平気だよ。どうせ食器の片付けもしないとだし」

「あら、今日あなた日直じゃなかったかしら」



 あ、そうだった。

 少し早く登校して、クラス担任から出席簿をもらってこないといけない。



「ほら、あなたも食べなさいよ」

 千住さんはそう言って、隣の席をぽんぽんと叩く。



 え、そこで?

 と思ったが、他に朝食が置いてある席もない。




 ――仕方ないか。


 俺は千住さんと母さんの間の席に座る。

 右手にある湯呑みを取ろうとして、千住さんの横顔が目に入った。


 箸を動かす、茶碗を持つ、その動作一つ一つが美しく、彼女の育ちの良さを感じさせる。



「圭、見とれちゃって……」

「ちげえよ。千住さん、ちゃんと食べてるかなって」

「あら、圭のことだから、『千住さんにあーんされたいな』とか思ってたんじゃないの?」

「はあああ!?」



 思わず、母さんに握りこぶしを振り上げそうになる。

 千住さんをなんだと思ってるんだ。そんな甘えたことをするような人に見えるのか?


「何よ、滝川そんなこと思ってたの?」

「んなわけねえだろ! おい母さん、千住さんをドン引きさせるようなこと言うなよな」


「そう……母親の私が言うのもなんだけど、圭は結構良い子よ。家事も料理もできるし、顔も父さん似で良い方だし、優しいし」

「そうですか」



 また千住さんの顔が赤くなる、味噌汁が熱かったかな。



「まあ、滝川が望むなら、それなりに何かしないと……とは思ってます、大家さん」

「あら、じゃあ千住さん!」

 母さんの顔がぱっと輝く。何を想像してんだ、おい。


 

 千住さんも否定してくれ……と思ったけど、その千住さんは淡々と言葉を続ける。


「ここへ来てもう一ヶ月ですし、その間大家さんや、滝川や、他の住人の方々には色々ご面倒をおかけしてるのに、皆さんとても良くしていただいて。何かしら、お礼させていただきたいです」

「良いのよ千住さん! 住人の皆さんのお世話は、私の仕事なんだから。むしろ私としては、何か困ってることが無いか心配なの。寝付けないとか、壁が薄くてお隣さんがうるさいとか」

「ご心配なく。おかげさまで毎日健康に過ごせております。学校にも無事行けておりますし、それに滝川がこんなに料理上手なんて、知りませんでした」



 千住さんは俺や母さんの方に向き直って、深々と頭を下げた。


 俺が今まで見た礼の中で、一番きれいな礼だった。



「だから、その、滝川がやってほしいというのなら、公序良俗に反しない範囲で……」


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