第4話 新しい風景 - 健康と愛に支えられて  

 町の路地裏を歩く寅さんは、風に舞う小さな砂塵とともに、古びた鞄を手に揺れながら進んでいきます。路地の両側には古びた壁が連なり、その間には時折、色鮮やかな花が咲いています。日差しはやわらかく、陽が傾き始める頃、寅さんは小さな港町にたどり着きました。


 港からは海の香りが漂い、船着き場では漁師たちの歌声が風に乗って遠くまで響いています。船がゆっくりと揺れ、波が静かに打ち寄せる音が、この町の静寂を包み込んでいます。寅さんはこの静けさと生活の息吹きを感じながら、自分をこの風景に溶け込ませていきます。


 新たな友人たちとの出会いもこの町で始まります。言葉の壁を乗り越え、笑顔で意思を伝え合い、心温まる会話が空を満たします。夜になり、寅さんは地元の居酒屋で、新鮮な海の幸を堪能しながら、旅の途中で出会った人々の物語に耳を傾けます。それぞれの人生が紡ぐドラマに触れ、心に深く残る言葉を見つけるのです。


 寅さんの旅は、次にどこへ向かうのでしょうか。自由と好奇心が導く彼の旅路は、常に新たな出会いと感動を求めています。この小さな港町で得た経験が、彼の次なる目的地への導きとなることでしょう。


 なぜ旅を求めるのか。それは日常生活のモノトニーから解放してくれ、自分自身を見つめ直し、新たな気づきや成長を感じ取ることができ、ストレス解消や心の癒しにもなります。日常の疲れやストレスから離れ、自然や美しい景色を楽しむことで心身のリフレッシュが図れるからではないでしょうか。


 さらに、異なる地域や国での文化や風習、歴史的背景に触れることで、自己の視野が広がり、異文化理解や国際交流が深まり、人間関係や価値観に対する理解を深め、豊かな人生を送る一助となるからなのかもしれません。


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 翔一にとって最後の年、市役所職員としての今日、彼は定期健康診断の日を迎えました。駐車場には健康診断車が静かに佇んでおり、緊張しながら診断車に乗り込んだ翔一を、白衣の医師が温かく迎え入れました。医師は優しい声で既往歴や業務歴、自覚症状の有無について聞いてきました。翔一は過去の業務や日々の忙しさを思い返しながら問診に答えました。


 その後、看護師の指示に従い、身体測定、視力検査、聴力検査、血液検査、心電図検査、胸部X線検査、尿検査を受け、少しの痛みや緊張を感じながら健康診断を終えると、いそいそと仕事場に向かっていきました。


 今年も健康だろうと思っていた矢先のことです。今まで一度もなかった再検査の通知が届きました。長年健康であることが取り柄だった彼にとって、この通知は驚きと不安をもたらしました。


「なんかの間違いかもしれないなあ。そういえば血液検査するのを忘れて赤ワインを飲んでしまったからかもしれないな」

「何よそれ、健康診断の前日くらいは飲まないでよね」

「飲んだ方がいいんだ。日常の生活をそのままの方が正確な検診になるんだから」


 そんなこと言ってはいますが、内心は不安でした。強がってはいても再検査の通知は怖いものです。


 恐れていたことが起きました。癌であることが判明したのです。驚いたのは翔一本人よりも春子です。春子は、食事が悪かったのではないか、野菜不足だったからではないか、塩辛い物が多かったのではないか、偏った食事だったのではないかと心配になり、インターネットで検索してはどんなサプリメントが良いのだろうか、どこの病院に名医がいるのだろうか、考えてもどうにもならないのに考えすぎて、夜は眠れなくなり、睡眠不足に陥りストレスをため込んでいくのでした。


 入院中、友人や親戚がお見舞いに訪れ、「顔色が良くなってきたから治るんじゃない?」と励ましてくれましたが、そう言われるたび、胸が締め付けられ精神的に追い詰められ春子は激痩せしてしまいました。


 そんな春子を労ってくれたのが靖子です。靖子自身も泣きたいし、不安でしたが、「大丈夫よ、病魔の方が逃げていくから。癌細胞だってお父さんのところにいたくないって思っているから」と明るく振る舞っていました。靖子はもう優作どころではありませんでした。優作の存在は頭の片隅においやられてしまいました。


 翔一も外面は元気そうに振る舞っていますが、内面では落ち込んでいました。死を覚悟し、残された人生に悔いはなかったか、やり残したことはなかったか、残された春子をどう元気づけていこうか、そんなことを考えていました。そんな不安を一掃させてくれたのが、手術の成功と早期発見が幸いし他に転移もしていなかったことです。


「いやぁ、まいったよ。今まで健康だけが取り柄だったのに。でも助かった。早期発見できて。それにこれが定年退職後だったら大変だ。お金がなくなって、アメリカ旅ができなくなるところだった。春子とアメリカ横断を実現するまでは死ねない。ここで死んだら、今まで一体何のために頑張ってきたのかわからなくなるからね。これから始まるんだ。春子と私の人生は…」 春子は横で心配そうに顔を見合わせながら、翔一の手を握りました。


「りんご食べる?」

「食べる。」


 拓郎の「リンゴ」の歌を口ずさみながら、春子はリンゴの皮を巧みに剥いています。安心したのでしょうか、手つきが穏やかです。翔一は春子が剥いたリンゴを一口食べました。その甘い果汁が口の中で踊り、何かを前に進める力を与えてくれるようでした。


 翔一は思ったよりも早く退院し、無事に職場復帰しました。そこからの春子は大変でした。癌予防のためと言って、食生活をがらりと変えました。植物性食品を中心に、野菜や果物、多種類の穀物、豆類、根菜類を摂取するようになり、肉類は1日に80g以下に抑え、動物性脂肪(飽和脂肪酸)を控え、適度に植物性脂肪を摂取し、食塩は1日に6g以下、赤ワインはグラス半分という食事制限も積極的に取り入れられました。


 健康は大切ですが、翔一は食べ物の制限に消極的です。食べること自体を生きる喜びと捉え、食事を通じて生活の豊かさを感じ、食べ物に対して感謝の気持ちを持ち、楽しむこととのバランスを大切にしています。食事は彼にとって生きる喜びであり、幸せや満足を感じる源でした。


「春子の気持ちはありがたいし、感謝しているよ。でも私は食い道楽なんだ。食べ物を我慢して生きることにどんな価値があるんだ。靖子も会社員で自立しているし、家のローンも完済した。私が先に逝ったとしても、春子はそれなりの生活はできるだろう。暴飲暴食はダメだけど、適度な食事を楽しませてくれよ」


 彼は頼みますが、春子はがんと受け入れません。それに、彼女の強制は食事だけではありませんでした。


「ねぇ、今日の囲炉裏端会議で聞いたんだけど、膀胱運動ってあるらしくてね、これを毎日三回やるだけで勢いのあるおしっこが出るようになるのだって。早速今からやりましょうよ。さぁ肛門に力をぐっと入れて、いーち、にー、さーん、しー、ごー、はい、力を抜いて、これを三回、毎日ね」

「勘弁してよ。のんびりさせてくれよ」

「何言ってるのよ。私はあなたに長生きしてもらいたいの。癌なんかになって欲しくないの」

「それってさあ、一見心配してくれて優しいように見えるけど、それって春子のエゴじゃないの?」

「エゴでも何でもいいの。とにかく頑張りましょうね」

「やれやれだなあ」

「それと定年退職したらね、あそこの広場で朝の六時半からラジオ体操やっているの、知ってる? 健康にいいんだから、体操は一緒に行きましょうね」 春子は言い出したら聞かない女性です。彼女に逆らったところで、諦めてくれるはずはありません。


 今日は翔一の定年退職のセレモニーです。長年一緒に働いてきた同僚たちが集まり、感謝と祝福の言葉を贈りました。翔一は少し照れながらも、心からの感謝を述べました。


「皆さん、本当にありがとうございました。これからは新しい人生を楽しみます。健康第一で、春子と共にアメリカ横断の旅を実現したいと思います」


 セレモニーが終わった後、翔一と春子は家に戻り、静かな夜を過ごしました。家の中には、同僚たちから贈られた花や記念品が飾られ、温かい空気が流れています。翔一はリビングでくつろぎながら、改めてこの日の感動を振り返ります。春子は優しく笑いながら、彼のそばに座りました。


「翔一さん、これからもずっと一緒に、健康でいましょうね。」

「もちろんだよ、春子。これからの時間を一緒に大切に過ごそう。」二人の手はしっかりと握られ、新しい未来に向かって歩み始めました。翔一の健康と愛に支えられた新しい人生の幕開けでした。

「翔一さん、お疲れ様でした。これからの人生、楽しみましょうね」と春子が微笑みながら言いました。彼女の声は安らぎを運び、家庭の中に幸せなぬくもりを広げていきます。


 穏やかな日々が過ぎています。翔一は春子の努力と献身に改めて感謝の気持ちを抱き、春子もまた、翔一との時間を大切にし、二人で過ごす毎日を楽しんでいました。毎朝、二人は一緒にラジオ体操を行い、庭で新鮮な野菜を収穫しながら、笑顔が絶えません。


 日に日に体が軽くなり、腰痛も解消されていく翔一は、健康管理の重要性を痛感し、春子の厳しい対応に感謝するようになりました。彼は朝の散歩中に咲く花々を見て、自然の美しさを改めて感じるようになりました。健康になると、身も心も軽くなり、じっとしていられなくなります。彼は新しい趣味としてガーデニングを始め、春子と一緒に庭の手入れを楽しむようになりました。健康と愛、そして新たな冒険が、彼らの人生に彩りを与えています。


 翔一と春子は、アメリカ横断の計画を具体的に立て始めました。旅は計画を立てる過程自体も楽しみの一部です。春子はインターネットで様々な情報を集め、翔一と一緒にリビングのテーブルに地図を広げて話し合います。「ここはどう?」「この場所も素敵ね」と二人で夢を膨らませながら、行きたい場所をリストアップしました。翔一は旅行ガイドブックを手に取りながら、「グランドキャニオンとヨセミテ国立公園は絶対に行きたい」と目を輝かせています。


 二人の絆はますます深まりました。春子は翔一の健康を気遣いながらも、彼がワクワクする様子に微笑み、「無理せず楽しみましょうね」と優しく声をかけました。

「もちろんだよ。旅は楽しむためのものだからね」と翔一は春子に笑顔で答えている。


 旅の前には健康診断を再度受け、翔一の体調が万全であることを確認しました。次に、旅行のルートや宿泊先、観光スポットを探していますが、あまり細かいところまで計画を練りすぎると計画に振り回されるので、さっくりと済ませることにしました。あとは現地で思いついたところに行くつもりです。気に入った場所があれば滞在し、ゆっくりとその土地の雰囲気を楽しみます。目的地に行くことが目的ではなく、旅の道中を楽しむことが目的です。こんな贅沢な旅ができるなんて最高です。


 出発の当日、いつも寝坊する春子は、朝方3時から起きていました。まさに真夜中という時間帯です。落ち着きがなく、部屋中をうろうろと歩き回ります。しょうがないので、4時に朝食を済ませ、始発で成田国際空港へと向かいました。


 成田国際空港での朝の雰囲気は、早朝に到着したためかまだ静かで落ち着いたものでした。多くの旅行者が早めに到着し、搭乗手続きのために待機していました。まだ明るくなりきらない時間帯だったので、少し静かで緊張感も漂っていたかもしれません。待ち時間を利用して、各自が自分の準備を整えたり、小休憩を取ったりしている姿が見られました。搭乗手続きのカウンターがオープンすると、一斉に列が動き出し、活気づいた雰囲気に変わりました。旅の始まりを感じさせる朝の雰囲気が漂っていました。


 出国手続きは順調でした。成田国際空港での出国手続きは、搭乗手続きの後に行われます。パスポートや航空券の確認、セキュリティチェック、税関手続きなどが含まれます。この手続きをスムーズに進めることで、国際線の飛行機に乗る準備が整います。搭乗手続きが早めに終わったため、出国手続きも余裕を持って行うことができ、特に問題なく手続きを完了しました。


 シカゴ・オヘア国際空港に到着し、Multi-Modal Facility駅に到着後、レンタカーを借りました。いよいよシカゴからルート66を走りサンタモニカまでの旅です。


 ルート66はアメリカの歴史的な道であり、中西部から西海岸までの壮大な景色を楽しむことができます。この道を走ると、イリノイ州からカリフォルニア州までの全長2347マイル(3755キロ)を通過し、様々な州や地域の景色を楽しむことができます。ルート66はアメリカの発展を支え、多くの人々に愛される"マザーロード"として知られています。映画や音楽、文学作品にも多く登場し、アメリカの象徴的な道として人々の心を捉えてきました。


 この旅は、アメリカの歴史と文化に触れるだけでなく、広大な国土を横断しながら様々な地域の風景や特色を体験できる貴重な経験となるでしょう。サンタモニカを目指す旅は、アメリカのロマンを感じる素晴らしい冒険となることでしょう。


「翔一さん、これからの旅、楽しみね」と春子は微笑みながら言います。

「そうだな、春子。これからどんな出会いや発見が待っているのか、本当に楽しみだよ」と翔一は返答しました。


 どこに行っても初めての体験に心奪われてばかりいました。その中でも、グランドキャニオンはその壮大な自然の造形美に圧倒されます。深い大地の割れ目から広がる景色は息をのむほど美しく、時間が止まったような静けさが漂います。太陽の光が岩肌にキラキラと輝き、その色彩の変化はまるで絵画のようです。風がそよぎ、大地の歴史が語りかけるかのように感じられる場所です。


 グランドキャニオンの絶景を眺めながら、自然の壮大さに触れ、これまでの人生を振り返り、春子との時間の大切さを改めて実感しました。


「春子、ここに来れて本当に良かった。君と一緒にこの景色を見られるなんて、最高の贅沢だよ」と翔一が言うと、春子は涙ぐみながら答えました。「翔一さん、ありがとう。あなたと一緒にいることが、私にとって一番の幸せよ」


 その夜、二人はキャンプファイヤーのそばで語り合いました。「翔一さん、次はヨーロッパにも行ってみたいわ。歴史的な建造物や美しい風景を一緒に見たいの」「いいね、春子。これからも一緒にいろんな場所を訪れよう。健康なうちは旅を続けたいものだね」と翔一は微笑んで答えました。


 澄んだ夜空に輝く星を眺めながら、これからの旅に思いを馳せて眠りにつきました。健康でいることの大切さと、愛する人と共有する時間の尊さを再確認しながら…


 もうすぐルート66の最終地点、サンタモニカです。次の新たな目標を心に秘め、人生という長い旅路を共に歩み続け、どこへ行ってもお互いの存在を感じ、支え合いながら、健康でいることの大切さを忘れず、新しい場所や人々、文化に触れ、終わりのない冒険が未来へと続いていくことでしょう。

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