第3話 猟師のキャンバス:山と自然の彼方へ

 翔一と春子は、靖子の選んだ道を黙って受け入れていた。彼らは娘を信頼し、彼女の人生の舵を彼女自身に任せていた。一方、靖子も、その選んだ道について深く語ることはなかった。特に、優作とのことについては、ほとんど話さなくなった。


 靖子は何かを断ち切ったようだった。自分の存在が優作をダメにしているという自覚が、靖子を苦しめた。そこで靖子は決意する。自分がそばにいては、彼は本当の自分を見つけられないと。愛とは「あなたの幸せの中に」で、彼が本当の幸せになることを願うことだと。献身的に尽くすことが、彼の人生を壊しているかもしれない。そう思ったのである。


 一方の優作は、靖子との別れを通じて自らの愚かな行いに気づき、深く反省した。当たり前のことが当たり前でないことに気づいたのである。靖子がやってくる週末は楽しく、彼女が来れない時は、クール宅急便で料理された食材が届く。そのおかげで、絵を描くことができていたのである。


 朝起きるとコーヒーの香りが部屋中に広がり、豪華な朝食ではないが、煮物などの家庭の味がテーブルに広がっていた。クローゼットを開けると、一週間分の着替えが綺麗に畳まれていて、アトリエは整理整頓されていて、手の届くところには全て揃っていた。髭を剃らないでいるとカミソリが置いてあって、無言の圧力というか、髭が伸びているから剃るようにという無言の風が吹いてくる。


 日曜日の夕方、靖子はそっと消えるように仙台へと帰っていく。アトリエに閉じこもっている優作は見送りをするでもなく、気が付くと靖子は帰っていた。そんな靖子は、優作のそばから離れていった。こんな自分に愛想が尽きたのだろう。それはそうである。自分でも愛想がついているのだから。


 優作はかつての自分を振り返った。振り返れば振り返るほど自分の行為が恥ずかしくなり、誰とも会う資格がないと思った。そんな時、気まぐれで猟銃の免許を取ったことを思い出したのである。


「そうだ、山で一人で生活しよう」と思い、どこの山がいいのかと山道を走っている時だった。枝の突起物がタイヤに刺さりパンクし、立ち往生してしまった。そんな時である。偶然にも通りかかった地元の人が声をかけてくれた。


「どうしたんだ?」

「パンクしたみたいなんです」

「この辺は熊が出るから気をつけなよ」

「はい、ありがとうございます」

「あれ、あんた優作さんだよね。あの画家の」

 偶然にもその人は絵画に興味があり、優作のことを知っていた。そこから親しくなり、その晩はその家でお世話になった。

「そうか、色々あったんだな。でも人生はやり直せるから。まあ焦らず、がんばらず、のんびりと、自分の居場所を見つけたらいいさ」

「ありがとうございます」

「そうだ。この先に山小屋がある。もしよかったらそこを貸すからそこで暮らしてみたら?」

「えっ、いいんですか」

「いいとも。どうせ使ってないんだから。それと猟師としてのイロハを教えてあげるよ」


 優作は改めて、人生での出会いがどれほど大切なのかを身に染みて感じていた。


 優作の生活は山小屋での生活を通じて劇的に変わった。自然と共に過ごす日々は、彼に感謝と調和の大切さを教えた。自然への感謝と調和の心を育み、心豊かなつながりを築いている。暗くなると焚き火を囲み、明るくなると鳥のさえずりを聞きながら河辺に立つ日々は、自然のリズムに合わせた生活の喜びと安らぎをもたらしていた。


「東京に戻るつもりはないの?」と猟師仲間に聞かれると、優作ははっきりと「ないですね」と答える。自然と調和した生活に満足し、日々の喜びを見つけていた。暗くなれば焚き火を囲み、明るくなれば鳥のさえずりを聞きながら河辺に立つ。その隣には、いつも忠実な雑種の犬たちが寄り添っている。この生活が優作にとっての至福であり、成長と感謝の源となっていた。山小屋での日々は、彼に新たな視点をもたらし、自然との共存の美しさを心から味わわせてくれたのだった。


 優作が山小屋で暮らしている場所は、仙台から車でわずか30分の距離にある標高1,175メートルの宮城山だった。この山は仙台の北西端にそびえ立ち、船形連峰の一支脈をなしている。宮城山には豊かな自然が広がり、多くの生き物が生息している。朝、優作が目を覚ますと、鳥のさえずりが耳に届く。ニホンカモシカが木々の間を優雅に歩く姿や、ニホンヤマネが木の枝を器用に渡る様子を目にすることもある。彼の住まいの近くにはホンドタヌキやホンドギツネが姿を現し、静かに彼を観察しているようだった。彼は時折、遠くからニホンツキノワグマの姿を垣間見ることがあり、その存在感に圧倒されることもあった。


 日中は山の中を散策しながら、ヒメネズミやヒミズが地面を這う姿を見つけることもあった。トウホクノウサギが草むらを駆け抜けるのを見かけると、自然のリズムに合わせて生活する喜びを感じた。優作の山小屋は、電化製品は冷蔵庫だけで、電力は太陽光発電を活用して自給自足している。テレビのない生活は、物質的なシンプルさの中に豊かさを見出すことを教えてくれた。夜になると、焚き火を囲み、満天の星空を眺めることが彼の楽しみだった。星空の下、静けさと共に過ごすことで、内面的な充実感を得ていた。


 食事も自然と共にあった。庭で育てた作物や山で採れる食材を使った料理は、地元の味に満ちており、新たな食の喜びをもたらしていた。庭の鶏たちに餌を与え、彼らが提供する新鮮な卵や肥料を利用することで、食材の循環を実感していた。質素ながらも栄養価の高い食事を心がけ、季節ごとの恵みを最大限に活かしていた。山小屋での生活は、優作の料理や食事にも変化をもたらした。自給自足の食事を心がけ、庭で餌を与える鶏たちに雑肉や畑から出た虫を与え、その代わりに鶏たちが提供する肥料を利用していた。この食材の循環は、自然とのつながりと感謝の大切さを教えてくれた。質素ながら栄養価の高い食事を心がけ、季節ごとの恵みを活かした料理を楽しんでいる。畑で育てた作物や山で採れる食材を使った料理は、地元の味に満ちており、新たな食の喜びをもたらしていた。


 山小屋での生活は、優作に新たな視点と深い感謝の心をもたらし、彼の人生を豊かに彩り続けている。


 ある日のことである。優作の山小屋の前に熊が現れた。その熊は体長二メートル以上あり、膨れ上がった体と荒々しい黒い毛並みが風に揺れていた。優作は恐怖に囚われ、山小屋の扉を開けようとしたが、動けなかった。「このままでは殺される。殺されてたまるか」と必死でどうすればいいのかを考えた。


 まず、熊と目を逸らさず、冷静に熊を睨みつけ、後ろ姿を見せないようにした。熊と向き合い、緊迫した時間が数分続いた。その数分は何時間にも感じられ、体力が落ちていくのを感じていた。そんな状況の中でも、熊との対峙はこの山で暮らすための試練であると受け止め、勇気を振り絞って立ち向かう決意を固めた。


 熊は威嚇的な低い唸り声を上げながら、巨大な体を揺らしていた。その凶暴な表情からは明らかな脅威を感じさせたが、優作はそれに圧倒されることなく向き合った。

 冷静になろうと周囲を注意深く見渡した。ラッキーなことに、昨夜の焚き火がまだ燻っていた。優作は熊の目を見つめながら、枯れ葉を足でかき混ぜて種火に火をつけた。火は勢いよく燃え上がった。驚いた熊はその場を立ち去った。冷静に立ち向かうことが勝利への道であることを優作は学んだのである。


 この出来事で優作は人生観や価値観が大きく変わった。どんな状況に直面しても、冷静に状況を判断し、逃げずに困難に立ち向かう姿勢が成功への道を開く鍵であることを学んだのである。


 この経験は、困難には他者との協力や支援がどれほど有益かを理解するようにもなった。助け合いや信頼関係を築くことで、より大きな困難にも立ち向かえる力を得ることができると気づいた。この貴重な教訓が、優作の人生において大きな影響を与え、成長と学びをもたらすことになるでしょう。

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