第2話 栄光の陰

 靖子は宮城東欧大学農学部を卒業し、都市銀行仙台支店に就職しました。本来なら農学の道を進むはずでしたが、農業に従事するには問題が多かったのです。その一つが虫がダメなことです。バッタや毛虫が出ると、失神しそうなほどの声を張り上げます。


 優作のいる東京へ就職するつもりはありませんでした。一極集中に疑問を抱いていたからです。東京が大都会となっているのも地方があってのことで、地方から発信できても良いのではないかと思っていたのです。とは言っていますが、本心はいずれできなくなる貴重な時間、それが両親と一緒に過ごせる時間です。あと何年両親と一緒に暮らせるのか、そう思うと離れられなかったのです。それだけ両親を尊敬していたし、大好きだったのです。とは言ってももちろん優作のことも大好きで、遠距離恋愛を続け絆を大切にしていました。毎日、電話やビデオ通話でお互いの近況を報告し合い、時折手紙を書き、離れていても心は繋がっていることを確認し合っていました。


 優作も全国的な美術コンテストで金賞を受賞してからは、忙しい日々を過ごしていました。その作品『あなたの幸せの中に』は、日の出の光に照らされた風景に新たな希望と可能性を描き、多くの人々の心を温かく包み込みました。その名声は日々高まり、彼の作品は多くのファンを魅了していきました。


 名声とは人生を狂わせるものでしょうか。優作は次々と出会う美しい女性たちの魅惑的な瞳と甘い囁きに抗えず、堕落の一途を辿り始めました。華やかな誘惑に負けてしまったのです。そればかりではありません。ギャンブルにも取り憑かれてしまいました。一度にすべてを賭けるスリルに酔いしれ、次第に巨額の負債を抱え、生活は破滅への道を進んでいきました。


 飲み干した酒のボトルが空になり、机の上に乱雑に置かれた空き瓶は彼の荒んだ生活を象徴しています。瞳は焦点を失い、顔は疲労と後悔の色で覆われ、彼の魂はかつての輝きを失い、破滅への道を歩むだけの存在となってしまいました。かつて描いた『あなたの幸せの中に』は、遠い過去の輝かしい記憶となり、純粋な情熱はもう残っていません。深いしわと疲れ果てた目が、彼の堕落と絶望を物語っています。


 優作のかつての栄光は崩れ落ち、彼はその破片を拾い集めることすらできなくなりました。アトリエには未完成の作品が掛けられ、絵具が散乱し、キャンバスには以前のような輝きがなく、名声に溺れた彼の心の変化が作品にも表れていました。


 彼の絵画が人々の心から離れたのは、単なるギャンブルだけではありません。名声とともにお金を手にしたことで、彼の心境は変わっていきました。豪華な生活を手に入れ、高級なレストランで食事をするようになると、常識ある行動の大切さを忘れてしまったのです。絵画は自ら発する命。無から感動と勇気を形にしてくれるのに、貧しいながらも献身的に支えた母の姿を忘れ、貧しい人々を蔑視するようになってしまったのです。この心の変化が彼の作品にも表れました。かつて人々の心を打った絵画は正直さを失い、魂のこもらない絵画となっていったからです。


 人気というものは不思議なものです。名声が高まれば人々は集まってきますが、一度陰りが見えると「知らぬ存ぜぬ」となり、今では誰ひとりとして来ません。そんな優作を支え続けているのが靖子です。彼女は忙しい日々を送りながらも、毎朝早く起きて優作に電話をかけ、彼の声を聞くことで一日の始まりを感じていました。遠距離恋愛の困難さを乗り越えるために、毎週末には上京し、アトリエや部屋を片付けたり、食事を準備したり、優作が再び絵に向き合えるように生活費のお金を渡していました。


「大丈夫よ、私がここにいるから」と包むような暖かさが優作の心を打つのですが、いまだに放心状態から抜け出せず、廃人のようになっています。それでも靖子は、いつか立ち直れると信じ、未来を見据えています。そんな靖子の献身的な姿に友人たちは心配していました。


「靖子ね、彼からは金づるとしか思われていないわよ。欲しいものも買わず、みんなとの食事会にも参加しないで…本当にそれでいいの?」

「あなたに何がわかるの。この気持ちは形じゃないの。私は彼を支えたいのよ。私が支えなければ誰が優作を支えるの?」

「だめよ、これは。今の靖子は重症よ。優作さんしか見えていない」

「あなたにはわからないのよ。私は優作との夢を共有している。優作は、いつかもう一度花が咲く画家なんだから…」

「その『いつ』って、いつよ。いつ花が咲くのよ。彼が売れるまで靖子は献身的に支えるわけ?とにかく、ズルズルはだめよ。期限を決めないと…」


 靖子は友人たちからの真心あるアドバイスに涙が出るほど感謝しています。ただ、自分の幸せは「あなたの幸せの中に」あるのです。彼を支えることが靖子の喜びとなっています。

 いつまで続くのでしょうか、いつまで続けるのでしょうか。

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