あなたの幸せの中に

はた 幸

第1話 芸術と愛のはざまで  

 幸せとは、生きる中で常に追い求める大切なものです。時には物質的な豊かさや所有欲の充足から得ることもありますし、自然の美しさや新たな出会いからの感動も、心に深い満足感を与えてくれます。幸せの定義は人それぞれ異なるものですから、他人と比較するのではなく、自分自身の内なる声に耳を傾け、自分の人生に合った生き方を見つけ出せたならば、それはそれで良いのかもしれません。


 大下靖子は宮城東欧大学農学部のキャンパスを庭のようにして育ちました。緑に囲まれた小道を駆け回り、季節の移ろいを肌で感じながら過ごした幼少期は、彼女にとって宝物のような思い出です。父親は市役所に勤務し、母親はスーパーマーケットの野菜売り場でパートタイムで働き、家計は質素な生活ではありましたが、両親の愛情に包まれてのびのびと育ちました。


 靖子に特別な才能はありませんでしたが、彼女の明るい笑顔と溢れる元気さが、彼女を特別な存在にしていました。友達と外で遊ぶことが大好きで、どんなに疲れていても常に笑顔を絶やさず、周囲の人々に元気を届けています。近所の人々からも親しまれ、愛されています。


 靖子の母、春子は料理が得意で、その中でも煮物は絶品です。味付けは感覚で行い、時には薄味だったり、塩っぱかったりと変わることもありますが、それが彼女の家庭の味となっています。その煮物を今、母から娘へと伝授しています。


「お母さん、ちょっと味見してくれる?」

「靖子、味見するとき、食べ物を手のひらに載せる?それとも手の甲に載せる?」

「手のひらと手の甲?どちらでもいいんじゃないの?」

「それは違うのよ。手のひらに載せてもらう方がこぼす可能性も少ないし、安定感もあるし、食べるとき手のひらで口元を隠せて上品だけど、手のひらは汗をかくので汚れているでしょ。だから手の甲に載せるのよ」


 春子はそんなさりげないことを伝えています。母と娘の優しい会話が台所から流れています。


 一人娘の靖子を溺愛している父の翔一は長年にわたり、市民を守る役割の厳格な管理者として知られています。事故ほど怖いものはないと翔一は考え、その事故というものはささいなことから始まるのだと身をもって理解しています。それを見逃さないように、彼は厳格な姿勢で仕事に取り組んできました。それがようやく責任の重圧から解放され、本来の温厚な自分に戻ることができ、心身ともに穏やかになれるその時を迎えようとしています。


 家族への接し方も変わりました。以前のようなピリピリ感が消え、庭先の花壇に目を向け、「花を見ていると心がやすらぐね」と言える余裕が出ています。


 これまでは趣味を楽しむ余裕もなく、仕事の責任を全うしてきましたが、これからは新たな人生の始まりです。定年退職は単なる退職ではなく、新たな可能性と希望に満ちた人生の始まりを象徴します。その喜びを噛み締め、ゆったりと気楽に妻の春子とともに生きていく。そう、翔一は決めていました。


 翔一と春子は、夜間大学で知り合いました。春子はフォークソングが好きで、吉田拓郎の大ファンです。「マークⅡ」「ともだち」「青春の詩」「老人の詩」「おやじの唄」「夏休み」「旅の宿」は、拓郎が有名になってからの曲です。春子は無名時代の拓郎の曲が特に好きでした。


 二人の心を動かしたのが、1960年にアメリカCBSでテレビ放送された『ルート66』です。その主題歌の「ルート66」がラジオから流れたのを聴き、歌っていたのがあのジョージ・マハリスでした。


 子供の頃、テレビで観た記憶が鮮明に戻り、通販で「ルート66」のDVDを買って翔一と春子と一緒に観ました。そこからです。古き良き時代のアメリカに「憧れと夢」を抱いてしまったのです。


 ルート66とは、イリノイ州シカゴからカリフォルニア州サンタモニカを横断する3775kmの国道66号線。ルート66を二人の若者がコルヴェット・スティングレーで走り、その立ち寄る街々で、愛が、絆が、友情が、そして恋が生まれる。ジョージ・マハリスの「ルート66」のテーマソングが流れる。その印象的なアメリカンドリームのシーンが、翔一と春子の心を揺さぶりました。アメリカらしいテレビドラマの一つです。


「お父さんのプロポーズが面白かったの。『定年退職したら二人でアメリカ横断をしたい。だから結婚してくれ』まだ働いてもいないのに、それなのに定年退職のことを言って…。そのプロポーズの返事が、そのままベッドインなの…。できちゃった婚なのよ。それが、あなたよ、靖子」


 昨日のように赤裸々に話す母。何度も聞かされているので、そのストーリーは頭に叩き込まれ、靖子は翔一と春子のような夫婦になりたいと思っていました。


 翔一と春子が押し入れからギターを出して縁側に座り、念入りに手入れを始めています。


「お父さん、指が思うように動かなくなったわ。Fコードを押さえられなくなっている」

「母さんもか、私もだよ」


 そう言って翔一は、春子のFコードを押さえている指を見ている。日頃から仲の良い翔一と春子、ギターの練習が始まりました。サイドギターとコーラスは春子。メインギターとボーカルは翔一。小さな声で「春だったね」を歌い始めます。


「お父さん、お母さん、それは吉田拓郎の歌?」

「そうよ、お父さんは『夏休み』が好きだけど、私は『春だったね』が好きなの」


 そんな昭和の曲を靖子は黙って、母と父の歌う姿を見ていました。ギターはもう少し練習が必要ですが、翔一の歌には旅愁が溢れていて心がジーンとします。歌は心で歌う。まさにそうだと感じています。


 尾崎優作は東京の下町にある小さな家で育ちました。父の一茂は自動車整備工場で働く整備士で、母の秋子はパートタイムの清掃員でした。生活は決して裕福ではありませんでしたが、家族は愛情に満ちていました。質素ながらも暖かい家庭で、両親は息子の将来を大切に思い、できる限りの支援を惜しみませんでした。


 優作の芸術的な才能に最初に気づいたのは秋子です。まだ幼稚園児の頃、色鉛筆を握りしめて夢中で絵を描いている姿を見て、その才能を見逃しませんでした。母親は描かれた絵を大切に保存し、成長と共にその才能が開花することを心から願っていました。


 小学校に上がると、秋子は近所の絵画教室に通わせることにしました。そこでは優れた指導者との出会いがあり、優作の才能はさらに磨かれていきました。学校の授業でも美術の時間が一番好きで、他の教科にはあまり興味を示さないことが多かったですが、絵を描くことに対する情熱は一貫していました。


 中学校に進学すると、芸術への興味はますます深まりました。優作は独自のスタイルを模索し、様々な技法や素材を試すことで表現の幅を広げていきました。高校では美術部に所属し、数々のコンクールで入賞を果たし、その名を広めるきっかけとなりました。教師たちも彼の才能を認め、より高度な指導を行うことに尽力しました。


 高校卒業後、尾崎優作は東京芸術大学に進学しました。名門大学での厳しい学びと共に、彼の創造力はさらに研ぎ澄まされていきました。そこで出会った仲間たちと切磋琢磨しながら、彼の作品は次第に国内外で評価されるようになりました。


 大学卒業後、優作は日本国内での個展やグループ展に積極的に参加し、芸術家としてのキャリアを築いていきました。彼の作品は独創的でありながらも観る者の心を捉える力を持っており、その評価は高まり続けています。


 そして、ついに彼の作品は国際的な舞台へと進出し、ニューヨークの有名なギャラリーでの個展が決定しました。優作は新たな挑戦とともに、これまでの努力と情熱が実を結び、彼自身の未来に対する希望と夢を抱きながら、その道を進んでいくのです。


 靖子の大学生活が始まりました。彼女は宮城東欧大学農学部で学びながら、地元の自然や地域の文化に触れ、その中での成長を楽しんでいました。明るく前向きな性格が彼女を多くの友人に囲まれた人気者にしました。特に、大学のサークル活動に積極的に参加し、新しい挑戦を楽しんでいました。


 一方、尾崎優作は東京で忙しい日々を過ごしていました。ニューヨークの個展準備に追われる毎日ですが、その過程で新たなインスピレーションを得ることもありました。彼の作品はますます深みを増し、国内外からの注目も高まっています。


 ある日、大学のサークル活動の一環で、靖子たちは東京への研修旅行に出かけました。農学部の学生たちは、都市部での農業の在り方や、都市の緑化プロジェクトについて学ぶために、東京都内の様々な施設を訪れました。その中の一つに、都市部で新しい農業の形を提案するギャラリーがありました。このギャラリーでは、尾崎優作の新作展が開催されていました。彼の作品は、自然と都市が調和する未来のビジョンを描いたものが多く、靖子はその美しい作品に引き込まれました。彼女は作品の前で立ち止まり、その繊細で力強い表現に心を奪われました。


「すごい…この絵、本当に素敵だわ」

 靖子が呟いたその瞬間、後ろから声がかかりました。

「ありがとうございます。その絵を気に入っていただけて嬉しいです」


 振り返ると、そこには尾崎優作が立っていました。彼はギャラリーの一角で、訪れた人々に作品の説明をしていたのです。

「あなたがこの絵を描いたんですか?本当に素晴らしいです」

「ありがとうございます。私の名前は尾崎優作です。自然と都市の調和をテーマにしています」

「私は宮城東欧大学の大下靖子です。自然と都市がこんな風に一つになるなんて、すごく新鮮な視点ですね」


 二人はしばし話し込みました。靖子は優作の作品に感動し、その背景にある彼の思いやインスピレーションについて詳しく聞きました。優作も靖子の自然に対する情熱や農学部での学びに興味を持ちました。


「もしよかったら、これからも作品を見ていただけませんか?あなたの意見はとても参考になります」

「もちろんです!私もあなたの作品にもっと触れたいです」


 優作は靖子との交流を通じて、新たなインスピレーションを得ることができました。彼女の自然への情熱や明るい性格が、彼の創作活動に新たな風を吹き込みました。一方、靖子も優作との出会いを通じて、自然と都市が共存する未来の可能性について考えるようになりました。


 優作はそんな靖子に惹かれていき、靖子もそんな優作に惹かれていき、二人は友達から恋人に変わっていきます。そして、優作は「初恋」という感情を絵画に込めました。その作品が『あなたの幸せの中に』です。


『あなたの幸せの中に』は、二人の出会いを象徴する風景が描かれています。池のほとりで交わした初めての会話、靖子の好奇心に満ちた瞳、優作の照れくさそうな笑顔。作品には、彼らが共有したその瞬間の感情が鮮やかに刻まれています。初秋の柔らかな光が、二人の姿を包み込むように描かれ、優作の繊細な筆致がその場の静けさと温かさを表現しています。


 優作の絵には、靖子への特別な思いが込められています。心の中にある初恋の輝きがキャンバスに描かれていて、多くの人々に感動を与えました。特に靖子にとって、その絵は愛の象徴であり、いつまでも大切にしたい宝物となっていきます。


 靖子と優作はそれぞれの夢を追いかけながらも、お互いを支え合う関係を続けていきました。距離を越えて繋がる二人の絆が、彼らの未来をさらに輝かしいものにしていくことを、誰もが信じていました。

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