雨間に

西しまこ

カノン

 昨日までの雨が上がり、庭に急に光が射した、その白い光は薄い青色の紫陽花の上に落ち、丸い花が揺れて光を飛ばしたように見えた。奥の柿の木はまだ緑の小さい実をたくさんつけて、その葉は雨で濃くなったモスグリーンを誇らしげに広げ、白い光を受け止めていた。


 雨の季節は世界に閉じ込められているような気がする。わたしは雨期の隙間に、奇妙に明るい庭をしばし眺めた。空は変に濃い青色をしていた。白い雲が青さを際立てていた。

 ふいに、パッヘルベルのカノンが、細く聞こえたような気がした。近所の子どものピアノの音かもしれない。――あの人もよくパッヘルベルのカノンを聴いていた。


 *


 何年振りかで待ち合わせをするその日、わたしは彼が分かるかと心配だった。何しろ、もう十年近く会っていなかったのだ。人の多い時計の近くで待ちながら、うっかり早く来てしまったわたしは、彼とやりとりをしたSNSを何度も見直した。だいじょうぶ、今日で間違いない。今日の十一時半。このビルの上に行き、一緒にランチをする。待ち合わせにはまだニ十分以上もあった。若いときはいつだって遅刻ぎりぎりだったのに、こんなに早く来てしまうなんて。鞄から文庫本を取り出し、読みながら待とうと思った。しかし、文章は少しも頭に入って来なかった。一文字ずつの文字は理解出来る。しかし、まとまりのある単語として認識出来ず、まして文章の意味自体を理解出来るように読むことがまるで出来なかった。文字は全て上滑りして、人混みの中に飛んで消えていくようだった。わたしはそれでも、本の文字を眺めた。前に読んだページに遡って、同じ場所を繰り返し繰り返し眺めた。


「久しぶり」声が落ちて、顔を上げると彼がいた。わたしは彼が入って来るのを目の端で捉えていたけれど、今気づいたというふうに「久しぶり」と微笑した。


 彼は記憶の中の彼よりも少しふっくらしていて、でも優しい笑顔もサングラスをかけているところも、彼の好きなあの色の服装をしているところも、変わらなかった。――あのとき、どうして別れてしまったのだろう? せり上がる気持ちを押し隠しながら、「どのお店に行く?」と訊いた。

「お店を見ながら決めない?」「うん」エレベーターで上の階へ行く。

 二人の間には常に五センチくらいの距離があり、もうその五センチを超えることは出来ないのだと、何もない空間をわたしは眺めた。

 

 *


 恋人同士だったあの頃、いつも彼の体温を感じていた。

 雨の日は嬉しかった。ずっと狭い部屋にいて、彼といっしょにいられるから。パッヘルベルのカノンを聴きながら、あの人のを舐めると不思議に甘いような気がした。


 *


 どこかでパッヘルベルのカノンが聞こえたような気がした。「カノン?」わたしが呟くと、彼は「ん?」と言って、わたしの顔を見た。

「何でもない。ねえ、どこで食べる?」

「あそこのお店にしよう」

 十年ぶりの食事は豆腐料理だった。つい先日友だちといっしょに入ったお店だったけれど、わたしはまるで初めて入るような顔をした。

「おいしいね」「うん」

 久しぶりに子ども以外の話をした。読んだ本の話、観た映画の話。十年会っていなかったことが嘘みたいに話が弾んだ。「あの、イヤリングを外すシーン、どう思った?」と彼が言う。そう、こういう会話をずっとしたかったのだ。


 別れはあっけなく、ランチをしただけで「じゃあ」と別々の方向へ歩き出した。エスカレーターに乗り、自分の足元を眺めていたら、どうしてか涙が零れた。どうしようもなく好きだ、と思った。――今でも。

 

 *


 雨は、彼と二人で過ごした狭い部屋と、エスカレーターで流した涙を思い出させる。白い光が射した濃い色の庭を眺めながら、わたしはそっと、誰にも触られない場所に秘めた思いをしまった。

 ランドセルの音がした。




    了

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雨間に 西しまこ @nishi-shima

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