悔恨

スエテナター

悔恨

 初夏の空にひらりと蝶が舞い、入道雲の方へ飛んでいく。突然肩口から現れたその黒い翅の蝶を、私は何とは無しに見送った。入道雲へ向かっているのは私も同じだ。ずっと先まで続いている一本の農道を歩いている。眼前に広がる空の色も両脇に広がる稲の色も田舎町を囲む山の色も、アクリル絵の具を肺いっぱいに飲み込んだように息苦しく濃密で隙がない。その人が私の隣で日傘を差していたのは昔のことだけれど、品の良い白い横顔が傘の傾き加減によって見え隠れするのと同時に、黒髪を結い上げたためにあらわになった滑らかなうなじまでちらついて、こうした経験のほとんどない、また、禁忌的なものとして畏怖すらしてきた私の目を困らせた。今思えば私のそうした世間知らずな一面がその人の手頃な玩具となり、つい警戒を緩めてずるずると付き従ってしまった私の落ち度もあって、火遊びとは言い得て妙な出来事が突然の雷雨のように荒々しく私達の身に降り掛かったりもしたんだろう。ちょうど盆の花火大会の夜であったから、毎年固定された花火大会の日付けを見る度に、箪笥の奥に仕舞われた古い衣服を引っ張り出すように、殊更印象深かったその人の横顔とうなじとを思い出した。時を経て醸成されたあの一夜の記憶が今のその人にどんな印象を落としているのかは私の知るところではないが、私にとっては万年陽の当たらない細い裏路地の陰を眺めるように憂鬱だった。この陰を一生背負って生きていくのかと思うと、いっそのこと本当にアクリル絵の具を呑んで窒息してしまった方が楽なような気もした。こうして私の胸に精神的な枷を付けて去っていったことはその人の本懐だったように思われる。いつでも逢瀬はできたのに決定的な出来事を花火の上がる夜に被せたのも巧妙なはかりごとだったのではないか。子供の操る網に捕まり虫籠に入れられた蝶のように、私の心ももはや自由ではなくなった。さっきの蝶の姿はもうどこにも見当たらない。あの蝶もきっと二度と私と会うことはないだろうけれども、生涯自由に飛び回って生きた方が幸せならそれを願いたかった。自由を失っても人の愛に包まれて生きるならそれも悪くないのかもしれない。そのあたたかさを知らないことが何より悲しく、その悲しさを隠しもしなかったからこそ孤独の匂いを嗅ぎ取られ、こんなことになってしまったのだろう。私はただひたすら入道雲に向かって歩いていく。待っている人なんて誰もいないし、会いたい人もいない。何も無い空白の夏が淡々と過ぎていく中で、花火の上がる夜だけが、私の青年期の、あるいは人生全体のハイライトとして、明るく眩しく脳裏に焼き付いていた。


(終)

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