心実の鏡
桜人 心都悩
心実の鏡
大陸の一番東側にある、とても小さな国で、とても美しい姫が生まれました。彼女の髪は夜闇のように漆黒で、星が煌めくように輝いていました。肌は白く、そこに薔薇のように美しく照りかえる紅い頬と唇が多くの人の心を掴みました。とても綺麗で不幸せな女の子でした。
世界で一番美しい姫と同じ年同じ日に、その娘は生まれました。彼女はとても醜い生き物になりました。生まれた時から骨が少し歪んでいたために、まっすぐ歩くことは出来ません。人よりも大きなその口からは、蝉のように煩わしく蛙のようにしゃがれた声が聞こえます。母親は彼女の顔を見ることを嫌いました。いつも彼女を殴り、蹴り、そしていないものとして扱いました。とても醜く、けれど幸せな女の子でした。
ある時、その国で盛大な祝祭が開かれることとなりました。その日は、世界一美しい姫の誕生日。大陸の一番西の国からも、麗しく頭の良い皇子が彼女の誕生日を祝いに来るのでした。祝祭は始まる前の週から町中の人が楽しみにしていました。
「祝祭ではパレードが行われるんだそうだ」
「町中を派手な軍楽隊と勇ましい騎士様たちが歩いて回るんだ」
「パレードに続く馬車の中には、あの綺麗な姫がいるらしい」
「なんだって、もしかしたら俺達でも綺麗な姫を見ることが出来るかもしれないのか」
町の人々は勝手なことを話しながら盛り上がりました。というのも、姫は汚いものが嫌いでした。どんな宝石よりも美しい姫は、汗を流して死に物狂いで毎日を暮らしている町の人々が大嫌いだったのです。彼女は鏡で自分の顔を見ることが好きでした。姫の顔を見つめる多くの羨望の眼差しも好きでした。彼らの瞳に姫の美しい顔が映るからです。
祝祭のことを聞いた醜い彼女は、嬉しそうに幸せそうに醜い笑顔を溢しました。蛙のように大きな口が歪に広がり、虫が耳元で飛ぶような声がその口から洩れました。暴行され潰れかけた目はもはや笑っていようが形は変わりませんでした。けれど確かに彼女は幸せでした。町の人々が幸せそうに笑っていたからです。彼女は町の人から恐れられ嫌われていたので、微笑まれることがなかったのでした。そんな町中の人の、幸せな笑顔を見ることが出来て彼女は幸せだったのです。
醜い彼女は鏡を見たことがありませんでした。多くの人が彼女に罵詈雑言を投げるので、自身が醜いことは知っていました。知っているだけで、わからなかったのです。
醜い彼女の母親は、たった一つ手鏡を持っていました。稼ぎがなく働かなければその日を生きていけない母親が唯一手放さずに、しかし使うこともなく箪笥の奥にしまっている手鏡でした。一度だけ、彼女は自分の顔がどれだけ醜いのか確かめようと母の目を盗んで手鏡に触れました。母親はいつも以上に彼女を殴りました。その時、目の周りを殴られたために彼女の眼はそれ以上に小さく不気味になりました。その日以降、箪笥には鍵がつけられ手鏡を見ることはできなくなってしまったのでした。
彼女は自分が醜いことを知っていました。だからこそ、いつも町の人に見えないように生活しています。不思議なことに、彼女は手だけ美しく、だからこそ手以外を見せぬように働いていました。呼吸ができるように首元だけが開かれたとても長いローブを羽織っていたのです。町中の人は彼女が醜いことを知っていたので、それを憐れんで蔑んでいたのでした。
祝祭の日が訪れました。その日は町中を軽快な音楽が響き渡り、整然とした騎士たちの足音と人々の幸せな笑顔が溢れていました。美しい姫はそれを見ながら、吐き気を我慢し、笑顔を崩さずに馬車に乗っていました。薄っすらと馬車の窓に反射する自分の美しい笑顔を見て我慢していたのです。少しでも気を抜いて窓の外に映る町の人たちを見ると、気分が悪くなりそうでした。それでも外から聞こえてくる町の人の賞賛の声は心地よく聞こえていました。
そんな祝祭を醜い彼女は家の中から見つめていました。窓の外では煌びやかな衣装を着た町の人たち。それを見つめている彼女の部屋の中は薄暗く、彼女にお似合いな環境でした。
「お母さん、今日はお姫様の誕生祭なんだって」
彼女の母親は何も応えません。
「お母さん、今日くらい鏡なんて見ていないで外に出ようよ。いいお天気よ」
彼女の母親は、彼女の言葉に怒りを露にしました。そうしてまた、彼女を殴り始めました。窓の外では楽隊がリズムに合わせて音楽を奏でています。部屋の中では彼女の身体に、母親の拳が。鈍い音だけが部屋に響きました。
突然、空から光が差し込みました。とても眩しい光でした。
美しい姫が馬車を降りた瞬間でした。姫を照らすように眩く妖しい光が天から降り注ぎました。光に包まれた彼女はとても美しく見えました。ドレスやアクセサリーに散りばめられた宝石が光を反射して一層眩く光ります。彼女の様子を見た町の人たちは、彼女に一身の愛を寄せました。
「こんな素晴らしい姫が町に来てくださるなんて」
「まるで聖女のようだ」
美しい姫を照らした光は、その一筋が醜い彼女の部屋へ入り込みました。彼女の母親が勢いよく振り上げたその腕に、彼女が咄嗟に目を瞑った瞬間のことでした。覚悟していた痛みが訪れないことに、恐る恐る目を開けると、苦しむ老婆の姿が映りました。それは彼女の母親の成れの果て。
彼女の母親は醜い彼女に歩み寄ることはせず、背後にあった手鏡へ詰め寄りました。たった一度だけ入り込んだその光が鏡を反射して、彼女の母親に当たったのでした。
「ど……し……ぇ」
老婆の口からは、蛙のようなしゃがれた声が。その身は、肌が崩れ、髪も抜け落ち、その性別さえ分からなくなるほどにやせ細ってゆきました。
「おかあ、さん……?」
醜い彼女の母親は何も応えません。その目は既に死の淵を眺めているように黒く、何を見ても闇のみを映していました。母親は何も映していないその瞳で、手鏡だけを捉えていました。
醜い彼女は、途端にその手鏡が恐ろしくなり、鏡に何も映り込まぬように小汚い布を被せてしまいました。そうして記憶の片隅に取り残したまま、忘れることに決めたのでした。
その日は一際明るい星が空に一つ昇りました。その明るさは見る人見る人を惹きつける、とても危険な美しさでした。その丁度反対に、人の目には映らない、けれどもとても懸命にその命を燃やす星がありました。遠く遠く離れていたので、誰の目にも届きませんでした。
星明かりを一人ひっそりと眺める少年がいました。一番西の国からやってきた皇子でした。彼は明るい星に背を向けて星空を眺めていました。
醜い彼女はそんな彼の様子を眺めていました。というのも、彼女は姫の祝祭の日に見かけた彼に心を捧げていたのです。そうして彼に声をかけることが出来ずに悩んでいました。
皇子は毎日のように星を見に来ていました。彼の姿を見るたびに、どうしようもない悲しみに満ちた彼女の嗚咽は、歌となって蛙の住む沼地の奥深くに沈んでいきました。
とある晩のことです。
「いつも蛙たちと美しい合奏をしている貴女は誰なのでしょう」
皇子は虚空の闇に向かって叫びました。彼の声を聞き漏らすまいと、醜い彼女は必死に声を殺しました。
「貴女の美しい声に心惹かれたのです。答えていただけませんか。貴女はどこにいるのでしょう」
はじめのうち、醜い彼女はそれが自身のことだと気が付きませんでした。彼女は、自身の声が蛙のような汚い声であることを知っていました。
何度も諦めることのない皇子の声を聴いて、一度だけでも彼と話をしてみたいというささやかな願いが、彼女の心を満たしました。もしも自身の声でなかったとしても、蛙のような声ならば鳴き声として誤魔化すこともできるでしょう。彼女はほんのわずかな勇気を振り絞って、精一杯愛想のある声を出しました。
「もしもし、貴方の話す歌声というのは、私の鳴き声のことでしょうか」
その声は蛙のような声ではありませんでした。普段滅多に人と話さない彼女は、自分の声が美しくなっていることに気付かなかったのでした。その鈴の鳴るような声は暗闇の中で響き渡りました。
「そうです。そうです。貴女の声です。どうして悲しく美しい声でいつも歌っているのでしょう」
「歌っているのではありません。泣いているのです」
「どうか、僕の前に姿を現してくださいませんか」
「できません。できません。それができないから、泣いているのです。私は貴方の想像以上に醜く、汚く、生きていてはいけないのです。それでも貴方に焦がれて光の差さぬ沼の底から顔を出してしまった」
「僕は例え汚れた他人であろうと生きている価値があると思うんだ。本当に美しい人は誰も彼もその人を見て賞賛するだろうけれど。美しい人よりも賞賛している人よりも、誰にも見えないところでその命を繋ぎとめようと日々を暮らしている人こそ、生きている価値があるんだ」
彼の言葉は醜い彼女にとってとても希望に満ち溢れていました。
「貴方は本当に素晴らしい人。私もいつか、貴方の前に姿を現すことができたなら」
彼女の言葉は誰にも届くことなく消えました。
醜い彼女の願いは、決して叶うことはありません。それは世界一美しい姫の願いなのです。それは醜い彼女にとっての運命でした。
世界一美しい姫は、祝祭の日から一つ心に決めたことがありました。この町を自身に見合うように美しい町に作り直そうと、決めたのでした。彼女は町に住む「醜い」人間の排除法を定めました。それは姫の願いに恐ろしいほどに純粋で美しい法律でした。
生きたまま腐っていくかつての母親の横で、醜い彼女はその時を待ちました。窓の外から、沢山の乱れた足音が近づいていました。ばたばた、ばたばた。扉を叩き破る音や人の倒れていく音です。それは死の足音です。
ついにその時が訪れました。扉は開かれ、醜い彼女にとって最も会いたくない人がそこに立っていました。
「汚らわしい」
かつて希望を説いたその口からは呪いの言葉が紡がれました。その目は、まるで踏みつぶした虫を見るように冷酷でした。
「皇子様、皇子様。私です。貴方と希望を語り明かした、私です。呼ばれるための名前もなく、生きる使命も持たぬ私ですが、貴方からほんの一時だけでも、愛をいただいた私です」
彼女はその美しい声で、皇子に優しく語りかけました。命乞いをしたかったわけではなく、ただこれから殺されゆく自身の存在を、かつて希望を見据えていたその瞳で確かめてほしかったのでした。
けれど彼の瞳は彼女の心実を映してはくれませんでした。
「その声で何人の人間を誑かしたのか」
最果ての国から訪れた皇子は、鋭く光るその剣を醜い彼女へと向けました。醜い彼女は手に持った、その呪いの手鏡を、かつて愛したその人へと向けました。
永い眠りから光を取り戻したその鏡は、皇子の麗しい姿を映しました。けれどそれは一瞬で、皇子はすぐにその相貌に痛みを感じました。少しずつその皮膚が解け始めていたのです。解けた皮膚は見開いた瞳に混入し、それがまた痛みを伴いました。解けた皮膚は彼の喉を苛み、蛙のように低く掠れた声が響きます。
「魔女め」
彼は欺瞞に汚れた正義の剣を振りかざしました。
醜かった彼女は幸せでした。死ぬ間際に、漸く彼女は自分の顔を確かめることが出来ました。とても幸せそうな笑顔。首が落ちるその瞬間、母の手鏡に映る自分は、それはそれは美しかったのです。世界一美しい顔を手に入れたのです。
彼女は息絶えました。彼女が死んだことで、その国から最後の「醜い(うつくしい)」人間がいなくなりました。
世界一美しかった姫はまた新しい法律を作りました。
「この国中の『鏡』を王宮に集めなさい。私以外の者がこの国で『鏡』を使うことを禁止します」
心実の鏡 桜人 心都悩 @Sakurabit-cotona
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