傷痍軍人と光る文字盤

加賀倉 創作【書く精】

傷痍軍人と光る文字盤

 漆喰の天井には、切れかけの、ちっぽけな豆電球がひとつ。


 狭く薄暗い部屋の端に、細い鉄パイプのベッドがひとつ。


 そこに独り、横たわる私。


 私のベッドのそばに、太い四本脚の、木製の丸椅子。


 ベッドの向かい、天井と同じ材質の壁際に、埃の被って戸棚。


 戸棚の内包物は、古時計とラヂオ。


 古時計は、文字盤が緑に光っているので、薄明かりの中でもはっきりと見える。


 二十三時四十五分。


 ラヂオからは、聞きたくもない情報が垂れ流されている。


——今日未明、ルースキー連邦政府は、新大陸連邦と目と鼻の先にある西インド諸島沖、及びブリタニア王国沖への、原子力潜水艦派遣を完了したと発表。その数も、積載の兵器の詳細も不明だが——


 私は、そのラヂオの停止ボタンを押したい思いにかられ、つい癖で肩を動かすのだが、手は届かない。いや、そもそも私には、戸棚に手を伸ばして、指先を器用に動かしてラヂオのボタンに触れることすら不可能である。理由は簡単だ。私は両腕を欠いている。肩から先は、存在しないのだ。おまけに、両足も、膝上までしかない。つまりは、四肢が無いに等しい。いつまで経ってもさなぎになれず、永遠に自由に羽ばたくことを許されない芋虫。二度と日の目を浴びることもなく、新鮮な緑の葉を齧ることも許されない。唯一できるのは、芋虫のようにもがくこと。私がモゾモゾと動くことで発される、布団と衣服の擦れる音が、ラヂオの音量に負けそうになりながら、かろうじて部屋に広がる。そんなふうに意識を耳に集中させると、普段はなぜか気にならない、古時計の針の触れる音も聞こえだす。そこに、四種類目の音が響く。キィという音。ベッドに横たわる私が首を横に九〇度回すと見える、重い無垢の扉がゆっくりと、こちら側に開く。扉を観察していると、天然の木目が、ムンクの『叫び』に描かれているような、得体の知れない、見るものを不安にさせる形相となって、私の目に飛び込んでくる。自ら体を動かしてベッドを降りることができない私はいつも、扉の模様を楽しまざるを得ないほど娯楽に飢えているのであって、現に毎日、今日も時々、そうするのである。私がその表面に新しい模様を探している扉が開き切ると、男が一人入ってくる。そいつは、お前は果たして少しでも、何か仕事をしているのか、と問いたくなるほどの染みひとつ無い真っ新な白衣を着ている。そいつが、長すぎる白衣の袖から伸びる両手で持っているのは、ステンレス製の盆。毎日四回、朝昼晩と就寝前に、この部屋には、忌むべき丸い粒と水の入ったグラスが、盆に載って運ばれてくる。その粒というのは、PTSD治療薬のセルトラリン錠剤だ。それを五粒、水と一緒に喉奥に流し込まれるのである。前回の投薬までは四粒だったことを私は知っているが、男は私がそうと知っていることなど知らないだろうし、知ろうともしないだろう。そいつの、痛みというものを全く知らないであろう憎らしい指先、私には無い細い十本の肉の棒によって、錠剤の封が切られる。用を足した後に洗ったかどうかもわからない薄汚れたそいつの指先を、私の口、唯一残された私が動かせるこの上顎と下顎という武器で、噛みちぎってやろうと何度思ったことだろうか。人差し指と親指とが私の鼻を摘む。その直前、気づかれないように嗅いでみたが、幸いそいつの陰部の臭いはしなかったので、いくらか安心する。錠剤が五粒、私の口内にへと、ゴミでも捨てるかのように放り込まれると同時に、グラスの水が注ぎ込まれる。その直後、私の鼻を摘んでいる手とは反対側の、お手隙のもう一方で、今度は私の唯一の武器が、塞がれてしまう。この汚水を、嚥下えんげせねば、呼吸を許されない。私は何千回目かの屈辱を噛み締め、酸素を求めて、喉仏を上下させる。残念ながら私は、男の思惑通り、そうせざるを得ないように調教されているのだ。私の唾液と混ざり合って、いくらかの粘性を帯びた出鱈目な薬の濁流を、水平に敷かれた食道の上を、滑らせるように通して、胃袋に落とす。するとようやっと私の顔面は男の手から解放され、肺を膨らませたり、縮こめたりすることが可能になる。今私の煮えたぎる腹の中に入っている錠剤、これは悲観、無気力などを改善するらしい。が、私にはまるで効き目がない。なぜならば、私にはそのような感情はないのだから。私はPTSDではない。しかしそういうことにされている。私は勝手に、どこぞの誰かにとって都合の悪い人間は、薬漬けにしてしまった方が、手懐けやすいからでは、と考えている。どこぞの誰かというのは……と思考を巡らせようとすると、男の人差し指が私の口の中に入ってくる。舌の下や歯茎と頬の隙間が、入念に掻き回される。抵抗することは、とうの昔に諦めたものだから、錠剤を何処かに隠して後で吐き出そうなどとは、もはや企もうと思いさえしないが、男はそうする決まりなのだ。そいつは満足すると、けがれない白衣で、私の唾液で臭くなった指を拭い、部屋を出る。扉は固く閉ざされる。それでいい、今日もお前の服を汚してやったのだと、私も私で満足する。それで……どこぞの誰かというのは、かつての上官たち。そこの置き時計、今、文字盤と針の緑光が私に二十三時五十分を知らせてくれる置き時計は、上官たちが、おそらくせめてものからか、置いていったものだ。立派な時計だ。その高さは、私が元気だった頃の背丈の一・五倍はある。私が四肢を自由に動かせたあの日に、召集令状が届いた。一緒に、泥んこのような色の軍服と、これまた文字盤が緑色に怪しく光る腕時計を支給された。光る時計は特に珍しい物でもなかった。ラジウムの夜光塗料が随分と流行っていた。命と引き換えにしてまで欲しい物では決してない。そして代わりに、恋人とは引き離された。招集令状が届けば、否応無しに駒になる。そういう決まりだったので、私は仕方なく受け入れた。徴兵検査の結果、私は飛行機乗りに抜擢された。飛行機乗りと言えば、徴兵される罪なき若者の中でも、花形と位置付けられている存在である。私は、そのような認識を今も昔も思ったことはないが、皆一様に、不幸中の幸いとでも言いたいのか、はたまた脳味噌がその核から腐り切ってしまっているのかはわからないが、とにかく飛行機乗りのことを、良いご身分だと羨むのだ。現実は、そんなことはないのにも関わらず、である。ある時私は、機体に星型の紋章、新大陸連邦の国籍マークを掲げた偵察機に乗って、黒菱くろびし半島戦線へと向かっていた。夜、漆黒に包まれる上空で、偵察目標地点に達する間際、私の愛機は運悪く謎の不具合に見舞われた。計器の文字盤はいつも通り、緑色の光を放っていたが、計器の示す値の方はまるで出鱈目。エンジンは停止。操縦桿は全く効かない。脱出装置も作動しない。安定を失い、右翼がもげ、急降下する機体。私の体はとてつもない重力に押さえつけられ、気を失い、黒菱半島南部の山岳地帯に墜落した。この先は、特に思い出すのが辛いが……ふと、戸棚の中の置き時計に目をやる。置き時計の文字盤の緑閃光は二十三時五十五分を示している。脳内での想起作業から離れると、部屋の中の様々なものに意識が移ろう。時計の秒針が進む音。仄かに明暗する天井の豆電球。私自身がガサゴソと布団と擦れ合う音。口蓋から鼻腔へと抜ける、さっき飲んだセルトラリン錠剤の残香ざんこう。そして、ラヂオの音も認知する。


——混沌としているのは、アトランティック世界に限った話ではない。オリエント世界情勢の見通しもつかない。ハシブヨン帝国は先月、核保有宣言をしたばかり。新大陸連邦の諜報機関Mibによると、ハシブヨン帝国は、ルースキー連邦から核弾頭の供与を受けているものと見られる——


 明るい話ではない。ラヂオから私の耳へと届いて鼓膜を振るわせる音波も、さして体に良いものではないようだ。意識を再び遥か昔へと飛ばす。深夜、意識を失った私を乗せた偵察機は、黒菱半島南部の森林に墜落した。炎上した機体は、山火事になる程でもない所詮小火ぼやを起こすのみで、夜明けまでには、麗しい山麓の霧とこずえかすめる山の息吹とに、消火されてしまっていた。そしてこれはあまりに微かで、私が脳内で捏造、補完した記憶かもしれないが、聞き覚えのない鳥のさえずりを合図に、大破した機体のコックピットで目覚める。皮膚の感覚はほとんど無かったが、目で見て、己の全身が見るも無惨な姿に変わり果てていることに気づく。偵察機は主脚の付け根と計器盤の中間あたりで見事に真っ二つに分断されており、機体の前半分が目の前の茂みに突っ込んでいるのを確認する。地面への衝突で破裂したであろう増設燃料タンクからのガソリンが、私の足元を浸したようで、油臭さと……肉の焼けるような焦げ臭さがツンと鼻を刺す。私の体の太腿から下は、元あった布が消え去り、赤黒く変色していた。私がいたはずの空を見上げようとすると、萌える深緑の隙間から、太陽の白い光がこちらへ射し込んで、ジリジリと照りつけ、焦げた脚を二度焼きにする。深い森の中、助けを呼ぼうとする。が、私の声は声にならない。声帯を損傷しているのだ。操縦桿がちょうど喉を外側から突いたのだろうか、そんな気がする。朦朧とする意識の中、奇跡的に目の前を、今の私と同じくらいの背丈の生き物が通りかかる。人間の子供である。それも数え切れないほどの人数。バラけた機体へ向け、あちこち指差しながら、何かを話しているが、その言葉を私は理解できない。最初の一瞬は、田舎に疎開した学童だろうか。と思ったが、彼らの耳にはタグのようなものがついているのに気づく。それになぜか、下半身は、毛の一本も生えない恥部が露出している。全ての子供の腕には、瀕死の私の目にも視認できるほど夥しい数の注射痕。女の子の中には、明らかに腹に大きな膨らみを抱えている者もあった。そしてある噂が、私の頭をよぎった。その当時、わが祖国新大陸連邦、ブリタニア王国、ピチュゴリニク帝国、シオン共和国の西部連合国陣営には黒い噂が流れていた。噂とは、収容所の存在である。故郷が戦場となり土地を追われた人々は当然住む場所に困ったわけだが、そんな彼らに西部連合国陣営が、各地に住居を用意した。そこまでは、なるほど人道的支援だと合点がいくが、おかしなことに、なぜか親と子が引き剥がされ、大勢の子供と、少数の教育者とされる大人だけの集落があるとも聞いていた。その噂と、私の目の前の光景が、結びついてしまった。私の姿も大概だが、子供たちの姿も、普通でない。私でなくとも、噂を知るものなら、誰もが同じように考えただろう。私は、その時点ではまだあった腕を子供達にどうにか振ることに成功すると、目の前は真っ暗になった。そこまでが、私が私だった頃の記憶。回想しただけで、頭がクラクラとしてきた。戸棚を見る。置き時計の文字盤の禍々しい緑色の光。二十三時五十九分を示している。また日を跨ぐのだろうか。このベッドに入ってから、どれほどの時間が経ったか、細かい日数はもはや覚えていない。覚えておく必要もない。もう全てがどうでもよい。と思った矢先、ラヂオの音が再び私の鼓膜を震わせる。


——え……速報です。今、私の手元には二種類の原稿があります。一方は私が独自に作成したもの。もう一方は新大陸連邦放送局上層部作成のもの。私は今から、前者を読み上げます。これは、朗報ではありません…………悪い知らせです。ルースキー連邦は、わが同胞ピチュゴリニク帝国による黒菱半島沿岸への爆撃の報復措置として、核兵器を使用すると見られていましたが……ルースキー連邦は、ついに核兵器を、使い…………ませんでした。そしてたった今、新大陸連邦、ブリタニア王国、ピチュゴリニク帝国、シオン共和国の四国では、反政府組織による同時多発クーデターが起こり、各国首脳は拘束されました。これが私なりの抵抗です。どうか皆さんお幸せに、それではさようなら…………おっと、誰か来たようです——


 ラヂオのスピーカーの向こうで、

「貴様! なぜこっちを読み上げなかった!? 後悔するんだな!」

 と、別の男が怒鳴る。


 そこで、バン、バン、バンと銃声。


 ラヂオキャスターの声は二度と聞こえなかった。


 私は最期にほんの少し報われたと感じた。最期の最期に、世界の転換を確認できたのだから。ここでちょうど、五粒目の薬が聞いてきたようだ。心臓がおかしい。芋虫のような私は、声を上げることも胸を抑えることもできないが、いずれ闇は暴かれる。正しき光によって。できればそれは、この薄暗い部屋に昼夜怪しく緑に光る、ラジウムの蛍光塗料のような、紛い物の光によって、ではないのが望ましい。横目で見る緑色の光は、二十三時五十九分を私に教えてくれる。私の命は終わり、私の目には二十四時零分は映らない。時計は止まっても、世界は終わらない。進み続ける。


私は常闇へと誘われ、目を閉じた。

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