輪廻

@ninomaehajime

輪廻

天彦あまひこ、天彦ではないか」

 旅の僧が町から去ろうとしたときだった。菅笠の縁を指先で掴んで振り返ると、十歳にはなろうかという童が立っていた。立派な羽織を着ており、一目で裕福な家の生まれだとわかる。

 天彦と呼びかけられた僧衣の男は、錫杖を鳴らして振り返った。薄い色をした瞳を細める。

「童、なぜその名を知っている」

「俺だ、孫六まごろくだ。もう覚えてはいないか。山に出て野垂れ死んだと聞いたが、猟師のお前がまさか坊主になっていたとはな。それにしても不思議なことだ。あれから何十年と経つのに、まるで年を取っておらん」

 彼は頬を紅潮させ、子供らしくない口調でまくし立てる。僧は笠の下で問いかける。

「お前は何者だ」

「だから言っただろう。孫六だ。生まれ変わったのだ。お前は幼い頃、沢で溺れかけたことがあっただろう?」

 思い至る節があるのか、僧衣の男は沈黙した。やがて呟く。

「輪廻か」

「そうだ。前世で俺とお前が暮らしていた里は、流行り病で滅びてしまった。御仏みほとけが哀れに思ったのか、この俺に新たな生を授けてくださったのだ」

 薄い瞳がわずかに揺れる。

「なくなったのか」

「ああ、酷いものだった。全身が泥になって崩れる奇病だ。川の神に捧げられた娘の祟りだと言われていたが、結局のところは何もわからん。あの一帯は、もはや人が住める土地ではないのだ」

 僧侶は黙りこくる。やがて笠を深く被り直した。

「有意義な話を聞けた。さらばだ。できれば、達者で暮らせ」

「待て。これも神仏のお導きか、あの里で暮らしていた者同士がこうして出会えたのだ。昔のことを語り合わぬか」

「俺は天彦などという名前ではない。お前のことも知らぬよ」

 墨染めの背中を向け、すげなく言った。

「その神仏とやらは、お前が思うほど慈悲深くはないぞ」

 僧侶にあるまじき言葉だった。草履の足音が遠のく。生まれ変わったという少年は、遊環ゆかんの音とともに遠ざかるその黒い背を見送った。

 顎で結んだ菅笠の下で、乾いた唇が呟く。

「お前はその子にはなれないよ、孫六」

 童の足元で、地面の影がまばたきをした。



 孫六として生きていた彼は貧しい百姓だった。畑を耕し、季節の天候で一喜一憂した。作物を収穫し、妻子とともに慎ましい生活を送っていた。

 彼の人生を終わらせたのは、突如として蔓延した奇病だった。体が泥の色に染まり、人の形を保てなくなる。すきを握っていた指が溶け、妻と子の無残な最期を見届けることなく逝けたのが唯一の慰めか。

 次に覚えているのは自らの産声と、ようやく瞼が開いて見上げた天井だった。まだ不鮮明な視界に見知らぬ女性の顔があり、慈愛の笑みを浮かべた。

「ようやっと、この子の目が開きましたよ」

 己はどうやら、この非常に大柄な女性に抱きかかえられているらしい。混乱して手足を振り回した。その腕や足は短く、赤子のものに相違ない。彼女が大きいのではなく、自分が小さいのだ。

 孫六として死んだ百姓は何の因果か、違う名前を授かって第二の人生を生きることとなった。

 裕福な商家の子として生まれ変わった彼は、前世の経験からどの赤子よりも早く言葉を喋り出した。両親は大変に喜び、優秀な跡取りとして期待された。

 家を継ぐため、寺子屋に通わされた。元々畑を耕すことしか知らず、文字の読み書きや算術には手を焼いた。ただ豊かな将来のためにと奮起ふんきし、努力を惜しまなかった。

 今生こんじょうこそ、貧困とは無縁の人生を送るのだ。爪の隙間にまで土が入りこみ、足腰を痛めながら長時間の労苦を強いられた。あばら家で大根の汁物を啜り、冬の寒さに凍えながら眠らずに済む。

 だから盗んだのか。

 脳裏に奇妙な声がよぎった気がした。算盤そろばんを弾いていた孫六は顔を上げる。自分と同じ年格好の寺子たちが座布団の上に正座し、算術に取り組んでいた。寺子屋の師匠が一人一人を見て回り、誰もが手元を見下ろして集中している。

 格子窓の桟に一羽の雀が止まり、しきりに小首を傾げている。算盤珠を弾く音が小気味良く響いた。

 手代てだいの一人が自分を見たと言った。

 使いで帰りが遅くなったという。暮れ六ツ、町の陰影が濃くなっている。帰路を急いでいると、四つ辻に童の後ろ姿があった。赤い前掛けをした地蔵の前に佇んでいる。背格好からして、主人の跡取り息子だと思った。不思議なことに、履き物を履いていない。

「坊ちゃん」

 声をかけても返事がない。もっと近寄ろうとすると、重い物が落ちる音がした。目をやれば、穏やかな表情をたたえた地蔵の首が横たわって、手代を見上げていた。

 辻を見渡しても、童の姿は文字通り影も形もなかった。

「お前、勝手に外を出歩いておるのか」

 行灯あんどんの火が和紙を透けて揺らめく。和室に呼び出された孫六は、いかめしい面持ちをした父に問い詰められた。

「見間違いでしょう。門限を過ぎて家を出たことはありません」

 弁解する息子の顔に鋭い眼差しが注がれた。父は質屋を営んでいた。一代で財を成し、借金を返済できなかった者に対しては厳しい態度で臨んだ。

「お前はいずれ私の跡を継ぐ身だ。くれぐれも屋号を泥で汚してくれるなよ」

 孫六は深々と頭を下げた。畳の上に汗が滴る。順風満帆だった第二の人生に影が差した。

 黄昏時、女中が自分の黒い影を見た。やはり話しかけても無反応で、川辺の枝垂れ柳の下で俯いているさまはまるで幽霊だった。怖くなって、顔を確かめることなく逃げ帰ったのだそうだ。

 無論、その時刻はもう家に帰っている。己より先に戻っていた孫六を見て、女中は気味が悪そうな表情を必死に隠そうとしていた。

 人の口に戸は立てられない。噂は瞬く間に広まった。質屋の息子が生霊となって彷徨い歩いている。高利貸しを営む商人の子の風聞は、市井しせいの人々にとって格好の世間話となっただろう。

 世間体を重んじる父から外出を禁じられた。影が出没する時間帯に出歩いていないことは、多くの人間が証言してくれた。それでも腫れ物扱いは避けられず、怪しげな拝み屋から祈祷きとうを受けた。

 自分の偽者が闊歩かっぽしている。一体、何が目的か。俺はただ、第二の人生を真っ当に生きようとしているだけだ。

 頭の中で勝手に一問一答が行なわれる。何が真っ当だ、この盗人め。

 我に返ると、祈祷が止んでいた。拝み屋と目が合うと、静かに首を振った。

「私には救えませぬ」

 その日の夜、寝床で青い月の光に透ける天井を仰いでいた。とても眠れず、目だけが冴えていた。己をかような境遇に陥れた何者かに対して、激しい憎悪を燃やした。どうして俺をかたる。一体何の恨みがあるのだ。

 まだわからないのか。

 頭蓋の中で、あの声がした。孫六は布団を払った。そうだ、声だ。あの囁きを聞いてから、全てが狂ったのだ。

「誰だ、出てこい」

 彼は叫ぶ。その真横で、障子紙を人影が横切った。ちょうど自分と同じ童ほどの背格好で、足音もなく縁側を滑る。孫六は立ち上がり、障子戸を開け放つ。左右に人影はない。さらに雨戸を開くと、妙に湿り気を帯びた夜風が頬に触れた。

 夜天に青白い月がかかっていた。仄かな光が降りそそぐ庭園には鯉が泳ぐ池があり、朱塗りの庭橋が緩やかな弧を描く。そのたもとに、何者かが佇んでいた。月下にあってなお黒染めの背中をしており、裸足だった。

 頭に血が上った。あれだ。元凶があそこにいる。孫六は怒りに任せて、素足のまま庭に下りた。己の足元にあるべき影がないということに、ついぞ気づくことはなかった。

「おい、てめえだ。てめえのせいで俺の人生が狂っちまった。せっかく一生をやり直せるってのに、何で邪魔をしやがるんだ」

 前世の口調が飛び出ていた。庭に響き渡る怒声にも黒い影は無反応だった。優雅に鯉がひれひるがえす池を見下ろしている。

「何とか言ったらどうだ。どんな顔をしてるか見せやがれ」

 乱暴に肩を掴み、振り向かせた。月光の下でさらけ出された顔を目の当たりにして孫六は息を呑んだ。その黒々とした面貌はまさしく、自分と寸分違わぬものだったからだ。

「その顔というのは、こんな顔か」

 瓜二つの顔がわらった。

「やり直せるだと。人の体を盗んでおいてよくもぬけぬけと」

 自分と同じ声が言う。その声音は憎悪に染まっていた。

「返せ。その体は、その人生は僕のものだ。お前の魂が勝手に割りこんできて、僕から何もかも奪った。偽者はお前の方だ」

 憤怒の表情を剥き出しにして、自分と同じ姿形をした黒い童が掴みかかってきた。もう片方には影がなく、自分と全く同じ体躯の人影と争っている。まるで自らの影と戯れているかのような滑稽さがあった。

 もつれ合い、庭池の縁に近づく。黒ずんだ人影が足を滑らせて転倒した。孫六は好機を逃がすまいと馬乗りになり、強く首を絞めた。そのまま池に頭を沈め、水飛沫みずしぶきを上げる。鯉が慌てて逃げ出し、水面下で自分と同じ顔が苦悶の表情を浮かべた。

 孫六は渾身の力をこめながら、歯茎を剥き出しにして笑っていた。死ね、死ね。お前が誰であろうと、この体はもう俺のものだ。誰にも渡さねえ。

 水の下に沈んだ己の顔も醜く歪んでいた。まるで鏡映しだった。

 彼自身の喉元にも、五指の形をした赤い痣が浮かんできていた。興奮のあまり、己でも気づかぬまま喉がつかえる。自分の両手首を掴んでいた手が放され、孫六の後ろを指差した。頭の中で声がした。

 ほら、死がお前を追いかけてきたぞ。

 饐えた泥の臭いを嗅いで、全身に冷や水を浴びせられた心地がした。首を絞め上げていた両手を放す。目の前の憎い相手も忘れて、背後を振り返った。

 青ざめた月の下で庭からとめどなく泥水が湧いて出ていた。その中から浮かび上がってきたのは、長い黒髪の首だった。少女の形をした泥人形が死に装束を纏い、華奢な腕でぎこちなく這い上がってくる。かしいだ前髪の隙間から、白濁した瞳が孫六を凝視した。 

 ああ、あれは厄そのものだ。

 孫六の手が泥と化し、崩れた。夜空に絶叫が響く。そのあいだにも全身が茶色く染まり、人の形を保てなくなる。

 その神仏とやらは、お前が思うほど慈悲深くはないぞ。

 末期まつごに思い出したのは、あの僧侶の――天彦の言葉だった。

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