輪廻
@ninomaehajime
輪廻
「
旅の僧が町から去ろうとしたときだった。菅笠の縁を指先で掴んで振り返ると、十歳にはなろうかという童が立っていた。立派な羽織を着ており、一目で裕福な家の生まれだとわかる。
天彦と呼びかけられた僧衣の男は、錫杖を鳴らして振り返った。薄い色をした瞳を細める。
「童、なぜその名を知っている」
「俺だ、
彼は頬を紅潮させ、子供らしくない口調でまくし立てる。僧は笠の下で問いかける。
「お前は何者だ」
「だから言っただろう。孫六だ。生まれ変わったのだ。お前は幼い頃、沢で溺れかけたことがあっただろう?」
思い至る節があるのか、僧衣の男は沈黙した。やがて呟く。
「輪廻か」
「そうだ。前世で俺とお前が暮らしていた里は、流行り病で滅びてしまった。
薄い瞳がわずかに揺れる。
「なくなったのか」
「ああ、酷いものだった。全身が泥になって崩れる奇病だ。川の神に捧げられた娘の祟りだと言われていたが、結局のところは何もわからん。あの一帯は、もはや人が住める土地ではないのだ」
僧侶は黙りこくる。やがて笠を深く被り直した。
「有意義な話を聞けた。さらばだ。できれば、達者で暮らせ」
「待て。これも神仏のお導きか、あの里で暮らしていた者同士がこうして出会えたのだ。昔のことを語り合わぬか」
「俺は天彦などという名前ではない。お前のことも知らぬよ」
墨染めの背中を向け、すげなく言った。
「その神仏とやらは、お前が思うほど慈悲深くはないぞ」
僧侶にあるまじき言葉だった。草履の足音が遠のく。生まれ変わったという少年は、
顎で結んだ菅笠の下で、乾いた唇が呟く。
「お前はその子にはなれないよ、孫六」
童の足元で、地面の影がまばたきをした。
孫六として生きていた彼は貧しい百姓だった。畑を耕し、季節の天候で一喜一憂した。作物を収穫し、妻子とともに慎ましい生活を送っていた。
彼の人生を終わらせたのは、突如として蔓延した奇病だった。体が泥の色に染まり、人の形を保てなくなる。
次に覚えているのは自らの産声と、ようやく瞼が開いて見上げた天井だった。まだ不鮮明な視界に見知らぬ女性の顔があり、慈愛の笑みを浮かべた。
「ようやっと、この子の目が開きましたよ」
己はどうやら、この非常に大柄な女性に抱きかかえられているらしい。混乱して手足を振り回した。その腕や足は短く、赤子のものに相違ない。彼女が大きいのではなく、自分が小さいのだ。
孫六として死んだ百姓は何の因果か、違う名前を授かって第二の人生を生きることとなった。
裕福な商家の子として生まれ変わった彼は、前世の経験からどの赤子よりも早く言葉を喋り出した。両親は大変に喜び、優秀な跡取りとして期待された。
家を継ぐため、寺子屋に通わされた。元々畑を耕すことしか知らず、文字の読み書きや算術には手を焼いた。ただ豊かな将来のためにと
だから盗んだのか。
脳裏に奇妙な声がよぎった気がした。
格子窓の桟に一羽の雀が止まり、しきりに小首を傾げている。算盤珠を弾く音が小気味良く響いた。
使いで帰りが遅くなったという。暮れ六ツ、町の陰影が濃くなっている。帰路を急いでいると、四つ辻に童の後ろ姿があった。赤い前掛けをした地蔵の前に佇んでいる。背格好からして、主人の跡取り息子だと思った。不思議なことに、履き物を履いていない。
「坊ちゃん」
声をかけても返事がない。もっと近寄ろうとすると、重い物が落ちる音がした。目をやれば、穏やかな表情を
辻を見渡しても、童の姿は文字通り影も形もなかった。
「お前、勝手に外を出歩いておるのか」
「見間違いでしょう。門限を過ぎて家を出たことはありません」
弁解する息子の顔に鋭い眼差しが注がれた。父は質屋を営んでいた。一代で財を成し、借金を返済できなかった者に対しては厳しい態度で臨んだ。
「お前はいずれ私の跡を継ぐ身だ。くれぐれも屋号を泥で汚してくれるなよ」
孫六は深々と頭を下げた。畳の上に汗が滴る。順風満帆だった第二の人生に影が差した。
黄昏時、女中が自分の黒い影を見た。やはり話しかけても無反応で、川辺の枝垂れ柳の下で俯いているさまはまるで幽霊だった。怖くなって、顔を確かめることなく逃げ帰ったのだそうだ。
無論、その時刻はもう家に帰っている。己より先に戻っていた孫六を見て、女中は気味が悪そうな表情を必死に隠そうとしていた。
人の口に戸は立てられない。噂は瞬く間に広まった。質屋の息子が生霊となって彷徨い歩いている。高利貸しを営む商人の子の風聞は、
世間体を重んじる父から外出を禁じられた。影が出没する時間帯に出歩いていないことは、多くの人間が証言してくれた。それでも腫れ物扱いは避けられず、怪しげな拝み屋から
自分の偽者が
頭の中で勝手に一問一答が行なわれる。何が真っ当だ、この盗人め。
我に返ると、祈祷が止んでいた。拝み屋と目が合うと、静かに首を振った。
「私には救えませぬ」
その日の夜、寝床で青い月の光に透ける天井を仰いでいた。とても眠れず、目だけが冴えていた。己をかような境遇に陥れた何者かに対して、激しい憎悪を燃やした。どうして俺を
まだわからないのか。
頭蓋の中で、あの声がした。孫六は布団を払った。そうだ、声だ。あの囁きを聞いてから、全てが狂ったのだ。
「誰だ、出てこい」
彼は叫ぶ。その真横で、障子紙を人影が横切った。ちょうど自分と同じ童ほどの背格好で、足音もなく縁側を滑る。孫六は立ち上がり、障子戸を開け放つ。左右に人影はない。さらに雨戸を開くと、妙に湿り気を帯びた夜風が頬に触れた。
夜天に青白い月がかかっていた。仄かな光が降りそそぐ庭園には鯉が泳ぐ池があり、朱塗りの庭橋が緩やかな弧を描く。その
頭に血が上った。あれだ。元凶があそこにいる。孫六は怒りに任せて、素足のまま庭に下りた。己の足元にあるべき影がないということに、ついぞ気づくことはなかった。
「おい、てめえだ。てめえのせいで俺の人生が狂っちまった。せっかく一生をやり直せるってのに、何で邪魔をしやがるんだ」
前世の口調が飛び出ていた。庭に響き渡る怒声にも黒い影は無反応だった。優雅に鯉が
「何とか言ったらどうだ。どんな顔をしてるか見せやがれ」
乱暴に肩を掴み、振り向かせた。月光の下で
「その顔というのは、こんな顔か」
瓜二つの顔が
「やり直せるだと。人の体を盗んでおいてよくもぬけぬけと」
自分と同じ声が言う。その声音は憎悪に染まっていた。
「返せ。その体は、その人生は僕のものだ。お前の魂が勝手に割りこんできて、僕から何もかも奪った。偽者はお前の方だ」
憤怒の表情を剥き出しにして、自分と同じ姿形をした黒い童が掴みかかってきた。もう片方には影がなく、自分と全く同じ体躯の人影と争っている。まるで自らの影と戯れているかのような滑稽さがあった。
もつれ合い、庭池の縁に近づく。黒ずんだ人影が足を滑らせて転倒した。孫六は好機を逃がすまいと馬乗りになり、強く首を絞めた。そのまま池に頭を沈め、
孫六は渾身の力をこめながら、歯茎を剥き出しにして笑っていた。死ね、死ね。お前が誰であろうと、この体はもう俺のものだ。誰にも渡さねえ。
水の下に沈んだ己の顔も醜く歪んでいた。まるで鏡映しだった。
彼自身の喉元にも、五指の形をした赤い痣が浮かんできていた。興奮のあまり、己でも気づかぬまま喉がつかえる。自分の両手首を掴んでいた手が放され、孫六の後ろを指差した。頭の中で声がした。
ほら、死がお前を追いかけてきたぞ。
饐えた泥の臭いを嗅いで、全身に冷や水を浴びせられた心地がした。首を絞め上げていた両手を放す。目の前の憎い相手も忘れて、背後を振り返った。
青ざめた月の下で庭からとめどなく泥水が湧いて出ていた。その中から浮かび上がってきたのは、長い黒髪の首だった。少女の形をした泥人形が死に装束を纏い、華奢な腕でぎこちなく這い上がってくる。
ああ、あれは厄そのものだ。
孫六の手が泥と化し、崩れた。夜空に絶叫が響く。そのあいだにも全身が茶色く染まり、人の形を保てなくなる。
その神仏とやらは、お前が思うほど慈悲深くはないぞ。
輪廻 @ninomaehajime
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