契約

高黄森哉

契約


「契約しよう。お前が不幸になればなるほど彫刻がうまくなる、という契約だ」

「わかった」


 瑞穂はすでに不幸のどん底にいたので、そのヤギに似た生き物の提案をすんなりと引き受けた。ヤギは、もっといろんなことを話したが、一人間には膨大で、そして不親切で、だから内容も見ず同意した。それはまさに、不動産やガス会社などの契約書ににている。それらが不合理なほど可読性が低いのは、それを読まれないことを前提に、読んだことを前提にするためである。


「本当にいいのか。それはつまり、幸福になれば、彫刻が下手になる、ということだぞ。ちゃんと契約書を読んだんだろうな」

「大丈夫です。私が幸福になるなんて、あり得ません。私が苦しんでいることは過去に関する後悔なのです」


 その日から、その不思議な契約内容は有効になった。


 例えば、彼女は、アトリエの、まるで風鈴の中みたいな、青い空気を吸って、ふと死にたくなるとする。すると、彫刻を制作する手が進み、気が付くと、心の双子を生み出しているのだった。その作品を触ると、ごつごつした形の一つ一つに瑞穂の内側に吹く風が感ぜられるのである。


 雨の日、全てがうまくいかず、打ちのめされたことがあった。その不幸は、彼女にとって日常の延長でしかないのだが、その日だけはズタズタだった。ドミノのように続く人生のすべてのコマに、原因を求めることができた。窓を開け放ち、雨の音を聞きながら、濡れた小鳥のように弱った生命を彫りぬいた。出来上がった作品を触ると、旋律が聞こえさえした。鎖が先っぽから落ちる調べだ。


 瑞穂が不幸であれさえすれば、空白を描くことだって、可能だった。台座だけのそれは、不思議と身体をもって居座っていた。それはひとえに、突き刺すように屹立する台座の効果でしかないのだが。この一点に集まる緊張と、その先に何もない緩和が、ある種、ユーモアを含んでいるのだった。ただし、そのユーモラスは決して、なんびとにも理解される質ではなかった。そこに美が隠されていた。


 風車、烏、台座、アトリエに三つの作品が飾られる。瑞穂はうっとりと、彼女の子供たちを眺めた。


 ただ、なんて美しい彫刻達なのだろうか、と瑞穂が心から満足すると、今度は、それが醜悪に思えてくるのだった。ヤギ、つまり悪魔の契約によれば、彼女の作品が心臓色に輝くのは、彼女が不幸な時だけなのだ。

 そうだ、自分の作品に満足してはいけないのだ。満足して幸せになれば、下手になるのだから。まるで、バケツに足を突っ込み、飛ぶような真似をし続けなければ、決してまともにはなれないのだから。


 その悪魔の名は芸術だった。

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契約 高黄森哉 @kamikawa2001

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