雨音は海底に沈む

ろくろわ

海底に沈む雨

『六月の夜の海は昼間の暑さとは違い、身を刺すように冷たくて寒い。天草あまくさ省吾しょうごはちょうど腹の辺りまで来た波を震えながら押し分けて前に進み、服が濡れることも構わずにもう少しだけと沖を目指した。自然の力は強く、最初に波が足を掬おうとする重たい感じは、今や身体を陸へと押し戻さんとする体当たりのような衝撃へと変わり、全身でそれを感じた。

 別に死にたくて、冷たい海の中に入り、沖を目指しているわけではない。

 後少し、海面が胸の辺りまで来たら。

 そうしたら、海底の雨音を聴くために身を沈める。彼女が話していた海底の雨を知るために。


 ◇


 大学卒業後、希望する企業に就職できた僕は、ごく一般的な働きをして毎日を生きていた。働きだした数年後には職場の後輩と付き合いが始まり、そのまま結婚。可愛い子供にも恵まれた。

 三十歳も半ばになると、出世コースとは行かないまでもチームを任される係長にもなれた。どこか満たされない。そんな気持ちすら思うこともなく幸せに。そして不自由無く過ごしていた。

 そう、なに不自由無く過ごしていたはずだった。

 それなのに僕の日常は。この言葉をネットで見つけた日から変わってしまった。いや、日常が変わったのではない。僕自身の気持ちが変わってしまったのだ。


 あの日もいつものように惰性でスマホのサイトを眺めていた。最近のサイトはどこも広告ばかりで、少し覗くと広告。また広告とおおよそ、その役割を果たしているとは到底思えない情報で埋め尽くされていた。

 きっと殆どの人は、そんな広告に見向きもせずに閉じるボタンを押すか、戻るボタンを押しているのだろう。それこそ作業のように、無意識に。僕もその一人だ。だからサイト内にある内容など見もせずに閉じるのボタンを押した。そうしてすべての無意味な広告が、最初から何も無かったかのように消えるほんの一瞬、ざわっとした感覚と共に僕の目にという文字が見えた。

 あっ、と思った時にはもう遅かった。

 一度消えてしまった文字はそこから何度サイトを開こうとも、検索欄にワードを打ち込もうとも、結局、二度とその言葉を見つけることは出来なかった。もしかしたらただの見間違いだったのかもしれない。だけどこのが、誰も知らないこの言葉が、小説のタイトルであることを僕は知っていた。


 小鳥ことりあおい

 大学生の頃、僕が四回生で彼女は後輩の一回生だった。そんな彼女が書いていた小説。

 そのタイトルがだった。

 僕と小鳥は同じ文芸部。創作サークルに所属していた。まぁ創作サークルと言っても名前だけで、本当に小説を書いていたのは数える程度の人だけ。大抵の人は小説を読んでいるか、人数が揃うとカラオケやボーリングに行くかのどちらかであった。

 小鳥が小説を書くようになったのは創作サークルに入ってからだった。それまではずっとソフトボールをしていて小説とは縁もゆかりもない体育会系だったそうだ。

 そんな小鳥と僕は特別良く話す仲でも無く、付き合いがあったわけでもなかったが、ただお互いに何となく書いた小説を見せあい、感想を言い合う。そんな読み友のような関係だった。いや、僕は昔から小説を書いていた分、最近書き始めた小鳥よりも先輩的な立ち位置にいた。そして偉そうなことを何度も小鳥に話していた。

 だけど、小鳥がの構想を僕に話してくれた日。僕の中で小鳥の位置が変わった。

 まだ小さい頃に、小鳥は海で溺れたことがあるそうだ。自分が今、上を向いているのか下を向いているのかも分からずにただもがいていると、不意に雨の音が聞こえ、そして静かで綺麗な世界が見えたそうだ。そうした海底の世界の話を書くんだと、そしてその話が書き上がったら、僕にまた読んでほしいと無邪気に笑っていた。


 僕には誰にも話していない夢があった。


 僕は商業作家になりたかった。中学生の頃には物語を書き始めていたし、大学生活でも欠かさずに書いていた。面白いと褒めてくれる人もいたし、賞こそ取れなかったけど幾つものコンテストにも応募していた。それなりに自分の書いた小説に自信もあった。

 だけど。小鳥の話していた世界観を僕は創造することが出来なかった。そして純粋に凄いと思ってしまった。小鳥は小説を書き始めてまだ日が浅い。そんな彼女が僕に思いもつかない話を書こうとしている。

 結局僕は、小鳥の話を聞いてから創作サークルに行くことをやめ、小鳥とも距離をおき、小鳥の書いたを読むことはなかった。

 小鳥があの小説を書きあげ、それを僕が読んでしまったら。きっと僕は何かを失ってしまう。

 そんな気がしたから。


 ◇


 冷たい海水が胸の辺りまで来た所で、僕は足を止め海面に寝転ぶと夜の空を見上げた。今日は雲一つ無く月も星も綺麗だった。

 結局、大学を卒業した後も小鳥と関わることは無かった。だから、小鳥があのまま創作サークルに入り続けていたのかも、を書き上げたのかも僕は知らなかった。そして今まで記憶に蓋をして気が付かないようにしていた。

 偶然見つけてしまったの文字。あの日から僕の中には小説を書くことを諦めた悔しさと、小鳥が書いたであろう小説を読めなかったことの後悔が頭から離れなかった。

 だから僕は小鳥が見た光景を見に来たのだ。

 深く沈む海底の雨を。そして小鳥が書こうとしていた小説がどんなものだったのかを。


 僕は海面でゆっくりと身体を曲げ、海中へとその身を沈めていった。だが人の身体とは意外と沈まないものだ。どこかで肺に溜まった空気が浮き袋の役割をするからだと聞いたことがあった。だから僕は大きくゆっくりと息を吐いた。

 ゆっくりと肺に溜まった空気が抜けていくと、僕の命が別れた水泡が海面へと上りそして小さく弾けた。

 コポコポと泡が上る音。海流の音。雨の音は聞こえず、海の中は色んな音がして煩かった。

 まだ海底には着かない。僕は肺の奥底にある空気もゆっくりと吐き出した。まだまだ、もっと。彼女ことりのいた海底まで沈まなければ雨の音は聞こえない。

 吐ききる空気がなくなり、鼓動が速くなるのが分かった。苦しくて息が吸いたくなったその時、耳元でザーと言う音が聞こえた。身体が酸素を求め全身の血を巡らせている音なのであろう。だけどその音は海の中に降り注ぐ雨の音だった。いつの間にかさっきまで聞こえていた海流の音も泡の上る音も今は聞こえない。今は雨の音だけが聞こえる。それに海面から照らされ揺らめく月明かりと、海面に上る水泡が天に昇る雨のように神秘的に見えた。

 そうして僕の身体は海底へとゆっくりと沈んでいく。さっきまでの苦しさは和らぎ、雨の音も聞こえなくなった。これが彼女ことりの見た景色なのか。この景色を彼女ことりは……』


 そこで僕は吉井よしい希未のぞみの書いた小説を読むのをやめた。


「ちょっと村瀬むらせ!最後までちゃんと読んでよ」

「いやぁ、後でちゃんと読むよ。それよりもこの小説ってモデルがあったりするのか?」


 僕は単純に、そして不安を拭うためにも気になったことを吉井に聞いた。


「そんなのある訳無いじゃん!今回のサークル課題のテーマがだっから考えてみたんだよ。面白いでしょ?降るはずの無い雨が海底に降ったら」


 そう言って吉井は無邪気に笑いながら自分が書いたの説明をしてくれた。だけど僕の耳に吉井の説明が入ることはなかった。


 僕にも誰にも話したことの無い夢がある。

 それは吉井の書いたの主人公、天草省吾と同じ商業作家になることだ。

 そして今、僕は天草省吾が小鳥葵を見ていたのと同じ気持ちで吉井のことを見ている。僕にはこんな話を書くことは出来ない。

 小鳥から距離を置き、小説を書くことを諦め、を読まなかったことを後悔している天草省吾。僕も同じように吉井の書いたを読まないことを選ぶと、いつか後悔をするのだろか。それともこのまま自分と重なる天草省吾が海底に沈んだ先の出来事を読んで良いものなのか。もしもハッピーエンドじゃなかったら。そもそも天草省吾は沈んだ海底から浮き上がってきたのか。そうでなければ省吾ぼくはいったいどうなってしまうのだろうか。


 僕の前で相変わらず無邪気に話す吉井の声は、耳元で降り注ぐ雨音にかきけされ上手く聞き取れなかった。



 了

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