第24話 INNOCENT <軌跡の果て>

 優しい声が響く。

 頭の中に、何度も何度も。

 近づくように、遠のくように。声は振り子のように揺れる。

 近づき、遠のく。遠のき、近づく。

 ここひと月ほど、特に。

 遠い昔に死んだ、母の声だろうか。

 いや。それとも。



 その男は郊外の高台を目指し、歩いた。

 何を求めて歩いているのか。男にはわからなかった。そこへ向かったからといって、何がどうなるというものでもない。ほんの少し、気持ちが揺れただけだ。

 坂を上りきり、目的地に着いた。

 大きな屋敷だ。異国風の造り。部屋数など、いくつあるか見当もつかない。

 門のすぐ横に、浮浪者がむしろを敷いて座っていた。男の前には『萬国堂菓子店』と印刷された缶が置いてある。缶の中にはいくらかの紙幣といくらかの貨幣が、無造作な感じで入っていた。

 男は鞄を探り、一包みの固形食糧を取り出して浮浪者の前にしゃがみ、その缶の中にそっと入れた。

 浮浪者は一礼する。「今日一日、あんたの暮らしに実りがあるように」

 男が答えた。「今日一日、あんたの暮らしにも実りがあるように」

「そいつは無理ってもんだ」浮浪者は笑った。「この成りを見りゃわかるだろ。暮らしぶりは最悪だ。ちっとも良くならねえ。テクノロジーの進歩とやらは偉大だが、おれ達末端の、底辺を生きてる人間にはまるで優しくねえ。こうやってここらの金持ちの気が向いた時に食い物を貰うか、それともあばら家に戻ってがりがりに痩せたトウモロコシを育てるか。おれの人生はそのどっちかしか選べねえんだ。四代も前からな」

「あんたは町の人間か」

「ああそうだ。四代前からおれんちは、がりがりに痩せたトウモロコシを育てる農夫で、それからモノゴイだ」

 男は少しだけ微笑んだ。「昼間はずっとここにいるのか?」

「トウモロコシの世話がない時はここにいるよ。でも夜はいない。こんなとこでも化け物は怖いからな」

「ここにも化け物は出るのか?」

「あんた素人だな。こういう人が少ないとこにゃあんまり出ないよ。出るのはもっと、下町さ。人間がごちゃごちゃいるような。しかし、な。ここにも出る可能性がゼロとは言えないだろ」

 浮浪者は話好きだった。寂しいのかもしれない。

「そうだな」

 男は答えた。不意に、浮浪者のシャツのポケットがもぞもぞと動いた。

「こいつかい?」浮浪者はポケットのホックを外した。「人生の伴侶ってやつさ」

 ポケットからハツカネズミが顔を出した。

「これでもう十年は生きてる。ある意味ではテクノロジーは偉大だ」

「名前は?」

「キヨコだ」

「こんにちは、キヨコ」

「肉肉。缶詰の肉。食わせろ。食わせろ」

 キヨコは言った。

「擬似声帯を移植したんだ」浮浪者は目を細めた。「実際、寂しくて仕方がないのさ」

 男はちょっとだけキヨコの鼻を触り、そして立ち上がった。

「今日一日、キヨコの暮らしにも実りがあるように」

「だったらいいがね」

 浮浪者は笑った。



 男は屋敷の門をくぐる。

 そして正面玄関の巨大なドアの前に立ち、冗談のような大きさのドアノッカーでドアを二度ノックした。ごん、ごん、と音が響く。

 男は返答を少し待ち、もう一度ごん、ごん、とノックした。

 ――はい、はい。今開けますよ。

 小さな声が聞こえた。

 きしりとも音を立てず、静かにドアが開いた。よく手入れされている様が伺える。

 立っていたのは、小さな老婆だった。

「すみませんねえ。奥の部屋にいたもんだから、出るのに時間がかかってしまって」

「……いえ……」

 老婆は丸い眼鏡の位置をちょっと直した。

「ええと……。どちら様でしたかね? 最近じゃもう目もほとんど見えなくなってしまって……おかしいわね、この変な形の眼鏡、全然役に立たないのよ。今日、何かお約束していましたかね」

 男は静かにかぶりを振った。

「いえ、通りすがりの者です。よろしかったら、水を一杯頂けたら、と思って」

 老婆は一瞬キツネにつままれたような顔をしたが、すぐに相好を崩した。

「そうですか。こんな婆やの一人住まいで、何もおかまいできませんが。まあとりあえず入って下さいな」

「……よろしいんですか?」

「もちろん」

 男は屋敷に上がった。屋敷の中は物こそ少なかったが、塵ひとつ落ちておらず、掃除は綺麗に行き届いていた。

「こちらへどうぞ」

 男は一階の応接間に通された。

「今、お茶を入れますね。どうぞソファーに掛けていて」

「どうぞおかまいなく」

 男は一礼した。老婆は部屋を出て行った。

 男はソファーに腰掛け、深く息をつく。

 ――覚えている。この部屋の匂い。

 ほどなくして老婆が茶器を持ってやって来た。

「安心して。わたしの最近の趣味はお茶を飲むこと。だから婆や一人の家だけど、お茶は新しいものを用意しているのよ」

「本当に、おかまいなく」

 老婆は慣れた手つきでポットから茶を注いだ。たったそれだけの所作が流れるように美しく、洗練されていた。

「旅のお方?」

 なみなみと紅茶が注がれたカップを、老婆は男の前に置いた。

「ありがとう」男は言った。「――普段は下の町にいます」

「まあ。今日はどうしてこんな高台まで?」

「深い意味はないんですが」

 男は茶を一口飲んだ。芳醇な味わいだった。

美味うまいです」

「そう。よかった」

「ここらは、私の思い出の場所なんです」

「この辺りに住んでいたの?」

「住んでいたわけじゃありませんが。……遠い昔の思い出の場所なんです」

 老婆は微笑んだ。

「あなたのようなお若い方が、遠い昔の思い出なんて。おかしいわよ」

「そうでしょうか」

「ええ。わたしのようなおばあちゃんが言うならわかるけれどね」

 老婆も茶を一口飲んだ。

「思い出と言えばね……わたしにも、そりゃたくさんあるのよ」

「……どんな思い出ですか?」

「そう、例えば――例えばね、わたしは何十年も前、使用人だったのよ、このお屋敷の。そして、ここのあるじの坊っちゃんと結婚したの」

 老婆は淡いブルーの瞳をほんの少し輝かせて言った。

「小さい時は本当に甘えん坊の坊っちゃんで……。わたしがいないとお昼寝もできないの。そして月のうさぎのお話をするとね……あなた、月のうさぎのお話を知ってる?」

「ええ」男は頷いた。「よく知っています」

「そう」

 老婆は嬉しそうに笑った。

「……その、月のうさぎのお話をするとね、途中のところ、うさぎが焚き火に飛び込んだところですごく泣くんだけど、最後まで話すと、安心して眠るの。うさぎが、月の神様になったというところまで話すとね」

 男は頷いた。「とてもいいお話ですよね」

 老婆も頷いた。「ええ。とてもいいお話ね。……ねえ、町のお方」

「はい」

「あなたの声は……とても素敵。そして、何だかとても懐かしいわ」

 男は微笑を浮かべ沈黙した。

「わたしのね、初恋の人の声にとても似ているのよ」老婆は少女のような弾んだ口調で言った。「その人は賞金稼ぎ。ハンターだったわ。わたしと、もう逝ってしまった主人の命を守ってくれた」

 老婆は遠い目をした。

「思えば、あれがわたしの初恋だったの。多分ね。こんなこと言ったら天国の主人に叱られるかしら? ふふ、もう遠い昔の話だから時効よね。……ねえ、町のお方。あなたの声は、わたしの初恋の人の声にそっくりよ」

「……覚えているんですか? 今でも、その、初恋の人のこと」

「忘れられるはずがないわ」

 やわらかな風が応接間に吹き込んだ。

 風はほんのわずかな間、レースのカーテンをさらさらと揺らした。

「あなた、とても素敵な声よ。それから、たぶん優しい人ね」

 男は苦笑した。「あなたは、私のことを何も知らないでしょう」

 老婆はかぶりを振った。

「いいえ、分かるものなのよ。確かにわたしはおばあちゃんで、脚も腰も良くないわ。目ももうほとんど見えない。でもね、声を聞けば分かるの。声を聞けば、耳を澄ませば、あなたの姿がくっきり見えるのよ」

 老婆は茶を口に含み、ゆっくりとのどの奥に落とした。

「ものを見る、っていうのは目だけを使うもんじゃない。……その人が教えてくれた言葉よ」

「あなたの声も――」男は言った。「僕には、とても懐かしく聞こえます」

「……あら。そう?」

 老婆は微笑んだ。

「ええ。とても」

 男も微笑んだ。目を閉じたまま。





 ……と、まあそういうわけだ。

 これは遠い未来の世界か、はたまた異世界の話。

 あんた達が現代と呼んでいる場所からは、

 想像もつかない途方もない遠い世界の話。

 いやあ、長い話に、まあよくついてきておくれだねえ。



 この世界で威吹鬼と呼ばれた男が化け物と戦った話は、

 実は他にもまだある。

 いや、威吹鬼以外にも、

 賞金稼ぎと呼ばれた男達が戦った話は五万とあるんだ。

 男が戦う理由はたくさんある。

 金を手にするため。

 権力を手にするため。

 生きるため。

 国のため。

 幻のような大義のため。

 愛する者を守るため。

 正義のため。

 理由はどうあれ、男達はただ、戦う。

 時に貪欲に。時に盲目的に。

 そんな男達の手に汗握る冒険活劇は、

 この世界には掃いて捨てるほどある。



 しかし、もう仕舞いの時間となったようだ。

 お別れは残念だが、またの話は、またの機会に。

 

―了―


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座頭銃 ―盲目の拳銃使い― まもるンち @mamorunchi

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