心の穴、特効薬
奈良ひさぎ
心の穴、特効薬
会社の最寄りから二つ隣の駅前にある洋菓子屋のプリンが好きだ。
リーズナブルで庶民に手が出る価格設定ながら、定期的に欲しくなってしまうほど好みの味をしている。会社で残業でもしている時にふとそのプリンのことが頭に浮かぶと、つい買いに行ってしまう。問題は、二つ隣の駅を利用するなんて、駅前のいかがわしいホテルに行く時くらい、ということだ。
「今日、いかがですか」
「ああ。……家内も、遅いらしい」
「ちょっと間が空いちゃって。久しぶりなので、嬉しいです」
いけないこととは分かっている。分かっているが、私は課長という社内の立場を利用して、経理部の年下の社員と不貞関係にある。妻に不満があるわけではない。むしろ妻は私に献身的で、二人の息子を大学生になるまで立派に育て上げてくれた。今では二人とも家を出てそれぞれ一人暮らしをしている。しかし妻と再び二人で過ごすようになって、ふと、そんな生活が退屈に感じてしまった。結婚してから長男が家族に加わるまで五年、同じように妻と二人で暮らしていたはずなのに、不思議とその時とは全く心持ちが違う。何か男として欠けてはいけない何かを落としてしまって、このまま老いてゆくなんて考えられない、と本能が訴えかけてきた。そして一人で悩んだ末に、妻を一人の女として見られなくなったことを原因と結論づけた。
「すっかり……ここも慣れちゃいましたね」
「……ああ」
「また、帰りにプリンを買って帰られるんですか?」
「……まあね」
幸か不幸か、私は年を取ってもそこそこ女性に良く見られる容姿らしく、それらしいそぶりを見せれば魅惑の関係を結ぼうと言い寄ってきたひとがいた。それが今の彼女だ。実際に、何ヶ月かに一度こっそり密会するようになって、私の心に開いていたのだろう穴が埋まってゆくのを感じた。彼女はいわば、私にとって特効薬になってくれたのだ。その時点で妻に愛想を尽かされるリスクはむろん考えたものの、後戻りはできなかった。
この関係は社内でも厳密に隠している。退社時間を三十分くらいの差になるように調整はするものの、会社から近いところで落ち合わないよう徹底している。連絡もスマホアプリではなく、ブラウザでメッセージのやり取りができるアプリを使用している。ホテルで部屋番号を伝えて、会社以外で会うのはホテルの部屋の中だけ、というわけだ。そこまで情報管理に気を遣っておいて、やはりこの関係をやめにするということはできなかった。いくら自分から分かる範囲で気を配ろうとも、やはり袋のネズミであることに変わりはない、という意識すらあるにもかかわらず。
「そろそろ、他のものとか……買われてはいかがです? あそこのお店、みたらし団子もおいしいですよ」
「どうしてだ」
「これだけ執拗にプリンばかり買っていたら……奥さんにバレていないかな、なんて」
「しかしあそこは、プリンが美味しいものだから」
最初はそんなたわいもない、それこそ席が近ければ社内の雑談でやっても不思議ではないようなことを話す。それでだんだんとムードを高めてゆく。彼女は若いので、いかに女性といえど、二人きりの時間を長くとっていると我慢がきかなくなるのか、スキンシップが過激になってゆく。私なんて彼女からすればいくつ年上か分かったものではないのに、私ほどの中年の扱いが本当に上手い。私まですっかりその気に乗せられてしまう。
そうやって彼女の手のひらの上で転がされていることが分かったうえで、私はなおも、彼女との逢瀬を求めてしまう。心の穴を埋めたいという、ひどく漠然とした理由で。
心の穴、特効薬 奈良ひさぎ @RyotoNara
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