第14話

 あれほどわびしかったのがウソのように、東京は慌ただしかった。帰宅時間帯ということもあるが、それにしてもひっきりなしに行き交う人々に、戻りゆく日常がすぐそこに迫っていることを強く感じた。


 その雑踏のなかを僕はとぼとぼと歩いていた。すぐ横を誰かが足早に通り過ぎ肩が触れる。でも、僕は顔をあげなかった。うつむいたまま進んでいると、不意にチラシが目の前に現れた。見ると全身ピンク色の、メイド服姿の女性がそこに立っていた。どうやら近くのコンカフェの案内のようだ。僕は実に興味なさそうに差し出されたチラシを無言で受け取り、「ありがとうございます」というお礼を背に駅前へと向かった。


 背広を脱ぎネクタイを緩めたサラリーマンが、先輩と僕が座っていたベンチで1人酒を飲んでいた。わきにはすでに空になった缶チューハイと、つまみであろうビーフジャーキーが転がっている。店ではなく路上で酒盛りをするような人間とは関わりたくないのか、前を通る人たちはチラ見することはあっても近づくことすらしない。むしろ歩調を速めて駆け抜けるように素通りしていく。


 僕だけがマイペースのまま、なんとなくそのサラリーマンへ目線を向けた。どこか見知った顔。そこで僕は初めてその座っている人物がリーダーであることに気づいた。思わず足を止める。


「何してるんですか?」

「おっ、奇遇だな。こんなとこで会うなんて」


 リーダーは持っていた缶チューハイを軽く上げ、僕の声に応えた。すでにかなり酔いが回っているのか顔は赤く、気分もいいのか声もうわずいていた。


「今日面接だったんだよ。で、終わったからちょっと飲もうと思って。でも、どこもクソ真面目に店を閉めててよ。仕方なくコンビニの酒で晩酌ってわけ」


 リーダーは呂律の回らない口調でそうまくしたてると、残り僅かであろう缶チューハイを一気に傾けてのどに流し込んだ。


「明日から解除だぜ。1日くらい早く開けてもいいだろ」


 不満をぶつけるように空になった缶を握りつぶす。僕はそんなリーダーの態度などお構いなく、率直に疑問を投げかけた。


「面接ってなんのですか?」

「そりゃ会社の面接に決まってるだろ。いつまでもバイトじゃお前らにバカにされたままだしな」

 なぜかリーダーはニヤニヤしながらそう答えた。


「就職するんですか?」

「こんなご時世だしさ、さすがにずっとこのままじゃヤバいかなと思って。俺も重い腰を上げたのよ」


「どうでした? 受かりそうですか?」

 感心するよりも心配が前に出る。


「全然。終始見下した感じで適当にあしらいやがってよ。まあ、あんな安月給のブラック企業なんてこっちから願い下げだけどな」


 そう吐き捨てると、リーダーは他人事のようにケラケラと笑った。と思ったら突然真顔になって、「お前も飲むか?」と缶チューハイをこちらに突き出してきた。

 手を振り全力で断る。リーダーは不服そうにへそを曲げると、そのままタブを押し込み自分で飲み始めた。いったい何本買ったのだろう。放置された空き缶を数えようとしたとき、リーダーがベンチの背にもたれかかり天を仰いだ。


「宝くじでも当たんねーかな。そうすりゃ、一生遊んで暮らせるのによー」

 しゃっくりをしながらそう嘆く。


「買ってるんですか、宝くじ」

「買ってない」

 僕は吹き出しそうになった。


「じゃあ、ダメじゃないですか!」

「お前、当選確率知ってるか?」

「知りません」

「2000万分の1」

 ぱっと計算できなかったが、途方もない確率なのは理解できた。


「そんなもん当たるわけねーだろ。まあ、どうせ俺ら一般人じゃなく、お友達のお偉方にいくよう裏で操作されてるんだろうけどな」

 リーダーはますます不快感をあらわに目を細めた。


「でも、お金があったら幸せになれるんですかね?」

 ふと沸いた疑問を口にする。


「なれるだろ! もし10憶当たったら、1億くらいお祝いしちゃうね」

「そんな貢ぐんですか!?」

「お前、言い方が悪いぞ。あくまで俺がやってるのは応援だから」

 口をとがらせたのち、リーダーは酒をあおった。


「元気でんだよ。楽しそうに話してるのを見ると」


 その言葉にはっとなる。


 どうして僕らはキスもセックスもできないのに、好きな人が笑っていると嬉しいのだろう。幸せだと感じるのだろう。


「受かったらバイトはやめるんですか?」

「当たり前だろ」

「寂しくなります」

「いいってそんな社交辞令。むしろいなくなってせいせいだろ」

「そんなことないですよ」

「ハイハイ、ありがとありがと」


 そう言いながらリーダーは立ち上がり、飲み終えた缶チューハイをコンビニ袋のなかにまとめた。そのまま乱雑にゴミ箱に投げ捨てると、ベンチにだらしなくかけてあった背広をつかんだ。


「きっとさ、就職しても給料も安くて、残業代も出なくて、嫌味しか言えない無能な上司の下でこき使われて、クソみてぇな人生を歩むんだろうな」


 誰に対するわけでもなくそうぼやいたのち、リーダーは僕の顔を見た。そして和らげな瞳で、「お前も俺みたいにならないよう、いまのうちからちゃんと就活しとけよー」と微笑んだ。優しい穏やかな口調だった。それは忠告というよりは、純粋に僕にそうなってほしくないという心遣いのようだった。


 ただそんなリーダーの寂しげな表情は刹那で、すぐに締まりのないとぼけた面持ちに戻ると、いきなり僕が持っていたチラシを奪い取った。舐めまわすようにそれを見たのち、「これどこでもらった?」と聞いてきた。僕が「あそこのビルの前でもらいました」と指をさすと、その方向に向かってフラフラと歩きだした。どうやら2件目はピンク服のコンカフェに決まったらしい。へこたれないバイタリティーに呆気にとられながらも、その後姿を見送る。


 僕よりも身長が高いのに、ちいさな背中。それが人混みのなかに消えようとしたとき、急にはっとなった。おもわず大声で叫ぶ。


「宝くじ当たりますよ!」


 リーダーはちらりとこちらに視線を向けてニヤッと笑った。その仕草が諦めからなのか絶対からなのかはわからない。でも、僕はうれしかった。


 そんなリーダーの姿が完全に見えなくなってすぐ、ポケットの中のスマホが震えた。先輩からだった。とっさに電話に出る。


「ごめん、急に電話して。いま平気?」

「はい、だいじょうぶです」

 緊迫した声の感じから大事な話だと勘付く。


「彼氏と別れた」


 開口一番、先輩はそう言った。

 咄嗟のことに言葉が詰まる。どう返せばいいのか、どう慰めればいいのか、答えにあぐねていると、こちらを察してくれたのか先輩が言葉を続けた。


「連絡先もブロックして消した。もう会うこともないかな」

「そうですか……」

 すすり上げる鼻声から僕は先輩が泣いていたことがわかった。


「後悔はないって言ったらウソになるけど、これで良かったと思う」

「僕もそう思います」

 精一杯、先輩の決意を肯定する。


「でも、やっぱり寂しい」

 そうつぶやいた先輩の声は、せつなくて悲哀に満ちていた。


「ごめんね、いきなり変な話して」

「全然だいじょうぶですよ」

「誰かに聞いて欲しかったんだと思う」

「僕でよければ、いつでも相談に乗ります」

 誇張でもなく、心から先輩の力になりたい、そう思った。


「ありがと。やっぱ優しいね」

「いえいえ、そんなことないですよ」


「あーあ、また新しい恋愛できるかなー」

 精一杯自分を鼓舞しようと、わざとあっけらかんとした声色で先輩がつぶやく。


「先輩ならすぐですよ。美人ですし」

「マジで言ってる!?」

「ホントです。1番綺麗です」

 自分でもびっくりするくらいに素直に言葉が出た。


「ありがと。お世辞でもうれしい」

 まんざらでもないのか、声のトーンが一段階上がる。


「ごめんね、急に電話して」

 もう1回、先輩は謝罪した。


 僕はいつか2人でいたときに聞いた、あのときの「ごめんね」を思い出していた。


 眼前にはイルミネーションの木。

 季節は過ぎたためか装飾は外され、いまはその露わな裸体を晒している。

 今年の冬は無事にライトアップされるのだろうか。宣言が解除されたからといって、楽観的に多種多様な色を咲かすことができるとは限らない。


 それでも、僕は明かりが灯ってほしいと願う。

 先輩が笑って欲しいと望む。


 都合のいい存在の何が悪いのだろう。

 好きな人が笑顔なら、それでいいじゃないか。


「じゃ、また明日バイトで」

「お酒解禁でさらに忙しくなりそうだし、遅刻しないでくださいよ」

「ハハ、がんばるわ」

 力ない言葉で電話は切れた。でも、先輩の声は清々しく軽やかだった。


 僕はスマホを片手に顔を上げた。


 駅前のエキシビションには、いま話題のお笑い芸人が大げさなリアクションをして懸命に新製品のアピールをしている。

 だが、信号待ちしている人たちは誰もそれを見ていない。全員が等しく首を15度に傾けてスマホをいじっている。そして信号が変わるのをスイッチに、機械のように動き雑踏の中へと消えていく。

 芸人の陽気な掛け声は、1つも届かない。


 がんばりたいのにがんばれなくて、逃げたいのに逃げられない。辛くて苦しいのに、おもいっきり泣けない。


 誰もが、もがいている。


 みんなどうにかしてそれを忘れたくて、一瞬でも目をそらしたくて、酒を一気飲みしたり、お金を払ってでも誰かに話を聞いてもらったり、演技でも甘えたりする。1人じゃ寂しいからと、他人だとわかっているのにそばにいようとする。


 1400万人もいるのに、そのほとんどが他人でしかないこの東京という街で、孤独でない人間がどれだけいるのだろうか。

 一方通行でない人がどれだけいるのだろうか。


 いつかゲームのように先に起こることが決まっていればいいと思った。

 でも先輩もリーダーも、もっといい選択ができるとわかったとしても、本当にそれを迷わず選ぶのだろうか。幸せになれるということ自体すら不安で、現状のまま居続けようとするのではないだろうか。


 みんな自信がなくて、自分の選択が正しいかなんてわからなくて、だから誰かの言葉を当てにしようとする。すがろうとする。


 制服を着た女子高生、眼鏡をかけた地味な男性、ミニスカートで化粧の濃い女性、シルバーアクセサリーをなびかせる青年、スーツ姿のサラリーマン、くたびれた中年。 先輩、リーダー、先輩の元カレのピアスマン、店長。


 それらすべての人が泣いたり笑ったり、嬉しかったり悲しかったり、喜楽や苦悩を感じながらも生きているのだろうか。そして、どうしようもなく辛くて苦しいときには、消えたいとかいなくなりたいとか——ときどき自殺を考えるのだろうか?


 生きようとすること、死のうとすること。

 それらはボタンの掛け違いのようなものかもしれない。


 死ぬ理由がそこら中に転がっているように、生きる意味も無数に存在している。

 ただ、僕らはいつもマイナスなことだけを口にして、プラスなことからは目を背けようとする。


 いまもそうだ。


 僕の中で漠然と確固している“いつか自ら命を絶つ”という確信は、ずっと胸の中にくすぶったまま存在し続けている。


 あいかわらず僕にはなにもない。

 熱中できる趣味も、秀でた才能も、些細な悩みも相談できる友人も、心から愛し合える恋人も、生まれた価値すら、なにひとつ持ち合わせてない。 


 きっと明日も明後日も、自分の意見なんてはっきり言えなくて、コミュニケーションがうまくとれなくて、たくさん嫌なことがあって、苦しい思いをするんだろうなぁ。


 でも——


 僕はスマホを握りしめた。硬い感触が指先に食い込む。

 強い決意が、僕の意思を大きく深く、押し上げるように突き上げた。


 少女に写真を送るまでは、ウサギが亡くなるまでは。


 ——生きよう。


 自殺なんていつでもできる。

 無理に生きなくていいように、無理に死ぬ必要もないはずだ。


 僕はスマホのトークアプリを開いた。

 先ほど少女が送ってくれたスタンプがそこにはあった。それはセリフもなく絵柄も独特で、なにを意味しているのかまったくわからなかった。


 横のアイコンをタップする。誕生日だろうか、微笑ながらケーキの乗ったお皿を両手で抱えている少女の写真と、少女の名前と思えし文字列が表示された。


 ふと、僕はそもそもウサギに名前すら付けていないことに気づいた。


 どんな名前がいいだろう?

 ちょっと考えてみたけれど、どれもしっくりこない。

 名前もないと言ったら、また少女にありえないと呆れられるだろうか。


 エキシビションから流れる映像はひっきりなしに変化し、僕の表情を赤にも青にも染める。緊急事態宣言が解除された東京では、またたくさんの人が行き交い、すれ違い、過ぎ去っていく。


 もし少女がウサギの写真を気に入ってくれたのなら、どんな名前がいいか相談してみよう。できれば一緒に決めてくれないかとお願いしてみよう。


 そう決意し、空を見上げた。あいわらず星はほとんど見えない。


 僕はずっと東京は明るい場所だと思っていた。

 24時間何らかの店が開いていて常に人がいる、そう考えていた。


 だが、それは間違いだった。


 東京は暗い。

 だからこそ所構わず光を設置して、あらゆる場所をすこしでも輝いているように見せようとしている。


 でも、それになんの不自由があろう。

 たとえ星がわずかであっても、作られた人工であったとしても、僕はあなたを見ることができる。


 時計を見た。もうこんな時間だ。すっかり遅くなってしまった。きっとウサギは僕の帰りをまだかまだかと待ちわびているに違いない。

 僕は急いで自動改札機にタッチし構内を抜けた。階段の前に来たとき、電車の到着を知らせるアナウンスが聞こえた。間に合うだろうか? いや、きっと間に合うはずだ。僕はホームへ続く階段に足をかけると、一目散に駆け上がった。


 さみしがり屋で甘えん坊なあの子に、「ただいま」を伝えるために。


<了>

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ウサギと僕と、とぎとぎ自殺 藤野ハレタカ @fujino_harutaka

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