思い出殿へ、未来より。
東京の夜は目が眩むほど明るい。
『お、ヲかぁサんンン』『おいデ、をイデえ』
それでも、暗がりに目を凝らせば異形の怪異――モノノケが獲物を誘い込むためにざわめいている。
「……ああ、
俺はジャケットの内ポケットに手を入れた。指先に擦り切れた
ネオンの光を吸い込む、黒い刀身。南方で拾い上げたあの
――俺は……『死にたくない』!――
異形の声にそう叫んでしまった俺は、辛くも命を拾った。戦後の混乱の中、俺はその日を生きることに精一杯だった。日本に帰れる目処が立ったのは、終戦から十年近く経った頃だった。
船から東京港に降り立った俺は、東京オリンピックで賑わう世間を尻目に東京駅から広島に向かった。
「そ、そんな……」
木戸伍長の生家は廃墟になっていた。新型爆弾で倒壊した木戸家の屋敷は、誰にも片付けられないまま風雪に晒されていた。
「原爆症の事もあるけぇ、疎開した人らはそのまま土佐に屋敷を建てたんだとよ」
「そんな……。せめて、片付けてあげるくらいは」
「所詮ここに残っちょるのは金も力も無いような奴らじゃけぇ。そげん奴らに恩なんか売っても……のう?」
そう言って、屋敷の使用人だったという男は、ゴミでも見るかのような目でかつての勤め先を
「その
伍長の守護刀を奪おうとする使用人を振り解き、俺は逃げるようにその場を去った。遺品を返すべき家族は、もはやどこにもいなかった。
「伍長は!
雨が降っていた。走りながら、誰に向けるでもなく叫んだ。
「
あの人が守りたかった未来など、初めからこの街には無かったのだ。あの人は、取り巻きどもの我欲を満たすために腹を切らされたのだ。
「クソっ、クソっ、クソーっ‼︎」
伍長。何故あなたは名誉なんかに殉ぜられたのですか。俺は、あなたともっと話したかった。恥晒しと罵られても構わないから、二人で生きて日本の地を踏みたかった。街頭テレビを見て、フルーツパーラーに行って、酒をしこたま飲んで、白飯を腹一杯食べて……。あなたがそんなちっぽけな幸せで笑っているところを、もっとたくさん見たかった。
でも、俺は救えなかったのだ。あの人が隣にいないのは、俺があの人にとどめを刺したからだ。わかっている。そんな事はわかっている。それでも俺は、ひとりぼっちの未来で叫ばずにはいられなかったのだ。
モノノケが俺の腹に食らいつく。胴体の半分ほどを持って行かれたが、すぐに再生する。
「クソ、やりやがったな」
どういうワケかは知らないが、あの日以降俺は不老不死だ。確かに『死にたくない』とは願ったが、まさか死ねない体になるとは思わなかった。
『
しかも俺を不老不死にしやがった悪魔は今や黒くて小さなポメラニアンだ。こん畜生め。
「ああもう、
黒い刀身が震えて光を放つ。
「正体見たり!」
路地一帯が眩い光で照らし出され、隠れていた雑魚どもの姿が明らかになる。
「カヴァス、喰ってええがよ!」
『やったー!のだー!』
黒いポメラニアン――カヴァスの体が音もなく変形する。
『貴様ら、吾輩の胃袋に収まれる事を光栄に思え』
すっかり出会った頃の異形の姿に戻ったカヴァスが路地のモノノケを一息に喰い尽くす。
『おなかいっぱーい、なのだぁ』
満足したのか、カヴァスはいつの間にかポメラニアンの姿に戻っている。
「ふう……」
俺もつられて肩の力が抜ける。光が収まり、再び路地は暗闇に戻った。
路地から大通りに出る。夜の繁華街には陽気に酔った人々がごった返している。
「あれからずいぶん復興したよな、この国は……」
名前を変え、出自を騙り、土地を転々とし、俺はこの国が変わる様を見続けてきた。GHQに占領された後も、日本の公用語は日本語のままだった。若者は日本語で思いを語り、綴り、謳う。……それに、モノノケと戦う言霊師だって、今もまだ滅びちゃいない。
「これが、木戸伍長が守りたかった『未来』か」
不老不死にでもならなければ、こんな豊かで色とりどりな東京はついぞ見られなかっただろう。
伍長の死は無駄じゃ無かった。そんな簡単な答えに辿り着くまでに百年弱もかかってしまった。
『
カヴァスが古びた糸屑を咥えている。
「あ……」
手にとってネオンにかざすと、それは刀の柄巻のようであった。
「まさか……!」
懐から伍長の守護刀を取り出すと、やはり刀装が剥がれて柄が剥き出しになっていた。
柄に、何かしらの漢字が彫られている。
「なんだ?」
刀を傾けて、薄くなった刻印を読み取る。
「……『木戸
……ああ。あのヨカニセは、国宝の日本刀の銘を名として貰っていたのか。
「どうりで、綺麗だったわけだ……」
熱帯夜の蒸し暑い風が頬を撫でる。あの南方での夜の風に、ほんの少し似ていた。
南方からの遺失物 鴻 黑挐(おおとり くろな) @O-torikurona
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