南方からの遺失物

鴻 黑挐(おおとり くろな)

南方戦線の記憶

 遠くでサイレンが鳴っている。

「なんかあったか?」

「何か……。あ、終戦記念日じゃないっすかね」

反田そりたが答える。持つべきものは季節感のある部下だ。どうも年中行事や祝祭日には疎くて困る。

「記念、か……」

ひたいから吹き出した汗を、横断する車の風圧が揺らす。たまに吹く風も熱風のようで少しも涼しくならない。

北岡きたおかさん、今日40度超えるらしいっすよ」

「そうか。最近暑くなってきてるとは思ったが、とうとうそこまできたか」

「史上初ってニュースで言ってましたけど……、こんなのもう南国っすよね。イヤになりますよ」

蒸し風呂のような暑さと雑踏ざっとうのざわめきは、何故だか俺に遠い南方の記憶を呼び起こさせた。


 俺が徴兵されたのは、戦争もだいぶ末期になってきた頃だった。生まれつき心臓を患っていたために徴兵検査では最低のへい種であったが、そんな俺にすらも赤紙が届いた。

金崎かんざき二等卒!」

「はい!いかがなさいましたか、木戸きど伍長!」

南方へと配属された俺の上司は、俺と大して変わらないような歳の青年将校だった。涼しげな顔の優男で、軍服よりも仕立ての良い洋装の方が似合いそうな面構えだったのを覚えている。

「飯時くらい楽にせい。周りはみぃんな年嵩ばかりじゃ、気のおけんような話を出来るのはお前くらいやけんのぉ」

「はっ、恐縮であります」

木戸伍長は同じ言霊師の家系出身である俺を何かと気にかけてくれていた。とはいえ向こうは広島の木戸本家、対して俺は九州の端っこの小作農だ。立場はまるで違っていた。

「その堅っ苦しい喋りもやめい」

「いえ、私の喋りはお聞き苦しいものですので」

皆が寝静まった野営の夜、俺と木戸伍長は二人で肩を寄せ合って他愛無い話をした。

「伍長は何故、この部隊に。志願でありますか」

「おう。ここがメリケンを叩きのめす最前線じゃ、皇国存亡こうこくそんぼうこの一戦にあり、と思うてな」

「左様ですか。ではご家族はさぞ喜ばれたでしょうね」

木戸伍長は俺の質問を鼻で笑った。

「うんにゃ、何も言わん。お袋は弟と妹を連れて土佐に疎開しとるけん」

そこまで言ってため息をついた。

「お前は長男坊じゃろ、羨ましいのう」

「伍長も木戸本家の御嫡男であらせられますでしょう」

「ワシは……霊力れいりょくがこれっぽっちしか無いけんのぉ」

そう言って伍長は親指と人差し指の腹を付けて示した。

「弟……正宗まさむねはまだ三歳じゃが、もうワシより強うなっちょる。ほいじゃけぇ、お袋も分家の奴らもみんな弟にべったりじゃ」

木戸家はモノノケ調伏ちょうふく生業なりわいとする言霊師ことだましの名門、五行ごぎょう家の一角だ。嫡男といえど、モノノケと渡り合える力が無ければ家の中での扱いは下男げなん以下であろう。

「親父殿は海軍将校やけん、ワシの出来が悪かったら親父殿がバカにされる。それがイヤで、ワシは陸軍に入ったんじゃ」

「……そうだったのですね」

聞いたことの無い鳥の鳴き声が暗い森に響いていた。

「憎いですか、米英が」

俺の問いに、木戸伍長は小さく笑った。

「知らん」

あっけらかんとした返事に俺は面食らった。仮にも隊を率いる将校の伍長がそんな事を言ったと上層部に知られたら、一体どんな仕打ちを受けるだろう。想像するだけでも恐ろしい。

「じゃがのう、本土決戦で負けたら日本はメリケンの属国じゃ。右も左もハロハロハワユでは、言霊もへったくれもありゃせんじゃろ」

『負けたら日本は植民地化されるだろう』と、どうして伍長はそう思っていたのだろう。無意識に満州や南方の島々の事を思い出していたのだろうか。

「ワシが戦うのは弟たちのためじゃ。あいつらの未来のためじゃ」

「……自分も、同じ気持ちであります」

家で帰りを待つ弟妹たちの顔が脳裏をよぎった。

士郎とういちろうあにさま!これ、お米!』

『ピカピカの銀シャリったい!』

妹が3人、弟が2人。末妹のユは出征の一月ほど前に産まれたばかりだった。父は妻子を置いて、俺よりも半年ほど早く出征していた。どこに配属されて行ったのかは、ついぞ分からずじまいだったが。


 それから数ヶ月が経ち、いよいよ戦局は悪化してきた。

「沢水を飲むな!火にかけてから飲め!」

木戸伍長が口を酸っぱくして言ってくれたおかげで我々の隊は無事だったが、泥水や沢水を飲んで赤痢だのを起こす隊の噂を耳にする事が増えてきた。

 連合国軍が優勢となり、日本軍は徐々に追い詰められていった。それは我々の隊も例外ではなかった。

「くそッ、囲まれちまった」

撃っては逃げ撃っては逃げを繰り返してきたが、それももう限界だった。

「こうなってはもう、自決しか……」

「ああ、そうだな」

捕虜になるより死を選ぶ。それが暗黙の了解だった。生き延びても未来など無いという確信があったのだ。

「お待ちください!」

俺は背嚢から白米を取り出した。下のきょうだいが餞別にと 一所懸命配給の玄米をいてくれた、あの銀シャリだった。

「湯冷ましもあります。どうせなら、最後に白い米を食いましょうよ」

仲間の目が輝いた。

「ああ……ああ!」

憔悴しょうすいした中年達が意気揚々と飯盒はんごうを火に焼べる。

「白い飯なんて何年振りだろうなぁ」

「チクショウ。生米だってのに、もう美味そうだ」

俺は安堵して、輪の中に木戸伍長がいない事に気が付いた。

(どっけ行ってしまわれたんじゃろうか)

熱帯雨林をかき分ける。

 見慣れた後ろ姿が見えた。

「木戸伍、ちょ……」

血と臓物の匂いがした。俺は声を殺して叫んだ。

 木戸伍長は、確かにそこにいた。正座して、口に布を噛み、短刀で腹を横一文字にかっ割いていた。

「伍長殿どん!」

目が合った。

『介錯を頼む』

目が強く、そう訴えていた。

「……っ!」

俺は木戸伍長の腰から軍刀を抜いた。

「失礼致します!」

俯いている彼の首に刃を落とした。中程まで切れて、その後は自重で折れた。

 俺は知らず知らずのうちに彼の背中に向かって拝んでいた。彼の視線の先には南方の海が広がっていた。あるいは、彼は海の向こうに故郷の家族を見ていたのだろうか。


 おれは泣きながら遺体を埋葬した。銃剣と手とで土を掘った。

 近くの茂みに黒鋼こっこう守護刀まもりがたなが落ちていた。

拾い上げると、かすかに血の臭いがした。おそらくはこれで切腹を試みて、土壇場で短刀に持ち替えたのだろう。

 俺はそれを拾い上げ、懐にしまった。

 ある程度格の高い言霊師の家には、全国どこにも似たような習わしがある。子供が産まれた時に名前のめいを入れた守護刀を鍛刀たんとうし、それを生涯持ち歩く。その子供が生涯を全うしたあかつきには、その刀を打ち直して次代の子供に与えるのだ。

「木戸伍長……」

骨も何も持ち帰れないのなら、せめてこれだけでも本土で待つ彼の家族に届けよう。そう思ったのだ。

(今はとにかく、ここから離れなければ)

俺は走った。後ろに飯を炊く煙が見えた。彼らは捕虜になるだろう。しかし、自ら命を断つよりは生きて帰れる目はある。

「はーっ、はーっ」

誰も殺したくなかった。家族の下に帰る事が出来ればそれで良かった。

「かヒュー、かヒュー」

全速力で走った。心臓が嫌な音を立て始めた。それでも、何故だか足を止められなかった。

「うっ」

その場に倒れ込んだ。胸が締め付けられて意識が遠のく。

(こんなところで死ぬのか、俺は!誰か、誰か、俺に力を……!)

己の無力さを呪っていると、声が聞こえてきた。

『人間。貴様は何を望む?』

目の前に四つ脚の異形が立っていた。あるいはアレは、俺のまぶたの裏にいたのかもしれない。

「俺は……」

俺は願った。腹の底から、願いを叫んだ。

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