第二話 私たちラッコのように手を繋ぐ 手首にしっかり鎖を巻いて

 夢を見ていた。






 仄暗く広い、冷房のよく効いた空間。左手に、銀色の光の群れ。


「お魚、綺麗だね!」


 誰かの声がする。






 ここはーそう、水族館だ。


 私にはそれがはっきりと分かる。


 私は誰かと手を繋いでいる。


 誰かが言う。


浪華ハナ、こっちこっち!」


 左手を引っ張られる。


 手を繋いだまま走り出す。


「走ったら危ないよ!」


 これはーそう、母の声。


 私たちは、笑っていた。













 一転して、今度は明るい場所を歩いている。


 真夏の太陽が眩しく、肌を焦がすようだ。


 私の左側で、誰かが言う。


「ラッコさん、楽しみだね!」





 アナウンスが響く。


「ラッコは、眠るとき、お互い手を繋いだり、体に昆布を巻きつけたりします。そうすることで、波に流されて仲間とはぐれてしまわないようにするのです。」





 手を繋ぐーそうだ、左手。


 私の左手を握っていたのは、小さい頃のー私、いや、右頬に薄く痣があるー優海ウミだった。


「浪華、どうしたの?」


「いや、何でもない」


 そうだ、なんでもない。


 私たちはいつも一緒なのだ。


 今日は家族で水族館に来ている。


 小学校は夏休みだ。


 お揃いの、リボンが色違いの麦わら帽子。優海は青、私は白。











「じゃあ、私そろそろ行くね」


 優海の右手が離れる。


「だめ、行かないで!」


「バイバイ」












 優海の姿が遠ざかる。
















 そして、私はひとりぼっちになった。




























 そこで夢は終わり、私はベッドの上にいた。


 左手に、優海の手の感触が微かに残っていた。


 手早く着替え、支度を済ませる。


 夏バテだろうか、食欲がないので朝食は半分ほど残し、母から弁当を受け取って家を出る。


「行ってきます!」


「夏休みなんだから、少しは休んだら?ゆうべもおそくまで起きていたじゃない」


「はいはい。でも、今度の模試でいい判定とらなきゃなの。平気だから、ほっといてよ」


「そう。じゃあ、行ってらっしゃい。その…気をつけてね。無理しちゃ駄目よ」


「うん、大丈夫だよ。行ってきます!」






 今朝は寝坊気味なので、真夏の陽差しと蝉時雨に圧倒されつつも、いつもよりやや早足で駅までの道のりを行く。


 数匹の猫や人と出会い、会話もなく別れる。


 車道をたくさんの自動車が行き交い、私とすれ違ったり追い越したりしてゆく。


 そして、私はあの場所に着く。




 この場所はーーーーーそう、優海が死んだ場所。




 私の最愛の姉は、ここで車道に飛び出した児童の身代わりとなってトラックに轢かれ、帰らぬ人となった。


 立ち止まり、手を合わせる。これは、私の毎日の習慣であった。


「優海、私、頑張るから。優海の夢、叶えるから。見ててね。」












 学校の図書室は、さながら砂漠の中のオアシスのようだ。


 汗が少しずつ引いていくのを感じる。


 教材を広げて、自習を始める。


 黙々と、ただ黙々と。


 ゆうべ2時ごろまで取りかかっていた問題に、再び挑む。




 20分が経過する。


 まだ解けない。


 頭を回せ、浪華。


 こんな問題、優海にならきっと解けるはずだ。


 そう、優海になら。


 私は、優海が死んでからのことを思い起こした。








 優海の死後、私は全てを拒絶した。


 学校を休んだ。


 一日中部屋に引き篭もり、涙が涸れるまで泣き続けた。


 食事もほとんど取らなかった。


 そんな日々が、1週間ほど続いた。




 転機が訪れたのは、部屋で優海の愛用の万年筆を見つけたときだった。


 ずっしり重い、青色の万年筆。


 青は、優海のイメージカラーだった。


 優海にはボーイフレンドがいて、誕生日に彼に貰ったのだと、興奮を抑えられないといった様子で報告してきたのだった。


 慌てて彼に連絡を取ると、優海のことは残念だった、それはよかったら形見にもらって欲しいと言った。


 その万年筆を使っているうちに、私は優海との数々の数々の思い出を思い出した。


 彼に手紙を書く優海。


 一緒に色々なところに行った優海。


 そして、勉強を熱心に頑張る優海。


 将来について漠然とした思いしか抱いていなかった私とは違い、優海には医者になるという明確な夢があった。


「そうだ、優海には夢があったんだ。叶えられなかった夢が。私が、代わりに叶えてあげないと。」




 その後、私はがむしゃらになって優海の影を追い続けた。


 理系科目は苦手であったが、彼女の遺志を叶えるべく努力を重ねた。


 いつしか、私は以前の私からは想像もつかないほど高い成績を修めるようになった。


 しかし、それでもかつての優海には及ばない。


「もっと頑張らないと…」小さく呟き、私は再びペンを走らせた。


 そんな日々を過ごした夏休みのある日。


 私は、無理が祟ってとうとう倒れてしまった。

 






 救急車のサイレンの音を遠く聞きながら、私は夢を見ていた。


 夢には、高校の制服に身を包んだ優海が登場した。


 優海が言う。


「浪華は、無理をし過ぎだよ。もっと体に気をつけないと」


「でも、もっと頑張らないと。私、優海の夢を叶えてあげられそうなんだ」


「私はそんなこと望んでない」


「どうしてそんな酷いことを言うの?」


「私は、浪華に過去に、私に縛られて欲しくないんだ。私のことなんか忘れて、前を向いて自分の人生を生きて欲しいんだ」


「優海に縛られるのが駄目?酷いことを言うね。幾つもの鎖によって世界に括り付けられて、誰かとかたく手を握りしめあって、そうして初めて私たちは安心して眠れるのに。」


「浪華…それは、ラッコの話?」


「そう。ラッコ。覚えてる?あの水族館に、もうラッコはいないんだって。でも、私の思い出の中で、ラッコと優海は生き続けてる」


「浪華…」


「心配してくれて、ありがとう。でも大丈夫だよ。医者になるっていう夢も、前は優海の夢だったけど、今では私の夢でもあるんだから。私、頑張るよ。だから、見ていて」


「そっか。ありがとう。でも、無理は駄目だからね。ああ、そろそろ時間みたい」


「優海?」


「私、もう行くね。じゃあ、またね」













「優海!」


 気づけばそこには、見慣れない真っ白な天井があった。


 病院のベッドだ、と気づいた。


 そばに母が座っている。


 私の叫び声に気づいたようだった。


 やばい、めちゃくちゃ心配そうな表情をしてる。


 きっと、長い長いお説教が始まるんだろうな。


 母は、昔から私たち思いな分怒ると怖いから。




 優海のいない世界で、私は一つため息を吐いた。

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「星色のインクが欲しい。飲み干せば冷たく燃える星になれそうな」 西見伶 @reireinovellove

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