壊れ多世界と獣耳

ayayori

第一話

 息苦しくて目の前が見えない。このままじゃ溺れると空気を求めて藻掻こうにも、そもそも体が動かなくて死が過った。

 瞬間、衝撃が身を伝う。

 ――痛っ!?

 反射的に息を吐き出すと、ようやく空気が吸えた。甲高い音が聞こえる。開かなかった目も開き、仄かに明るい。やっと水中から抜け出せたのか。

 水中に籠ったような歌声も耳に入る。次いで現れた酷い眠気で頭に靄が掛かる。

 何が起こってるん――



   ◇



 夢から浮き上がる意識、流れる思考の中で思う。

 微睡み、うたた寝、うつらうつらとすること。それがとても好きだ。寝入り際と寝起きの気怠さ、綿菓子の上をふわふわとしているようで落ち着く気分。本当に良い。そのままベッドから出ずに電車に乗り過ごすこともあったのが記憶に新しい。


 瞼越しに射す陽の光に、ぼんやりとした頭のままゆっくりと身じろぎする。背伸びもまた良いものである。だけどもう朝かと、早く制服に着替えようとベッドから起き上がろうとして……体が持ち上がらない。


 何でだろう、金縛りか何かだろうかと気になって目を開けた。石造りの壁と天井、端にある鉄格子の窓と、その外に広がる空と少しの草葉。牢屋さながらの部屋である。


 ……俺の部屋、じゃない。ここ何処だ?

 見回そうとするが首は少ししか動かない。腕を動かしてみれば短く小さい太腕が眼前に映った。


 ――子供の腕?

 謎の現象に疑問を呟く。なぜか細く甲高い声が聞こえた。


 起きたら現在地が牢屋で、体がおかしくなっている?

 眠る前は何があったんだ?

 高校へ登校しようと今日も電車に乗っていたはず。同じ車両に数人座っていたな。鞄を膝に載せて座れば、窓から注がれる春の陽気が心地好かった。それで目を閉じようとして――急に響いた叫び声に、飛んできた長椅子、赤、裂けて、そして。

 肉が潰れる音がした。


 ……俺、死んだのか?

 記憶にある音が、直接頭に叩きつけられたように再生された。気付けば俺の体が泣き叫んでいて、右隣からも泣き声が響いている。

 がちゃがちゃと扉が開く音が耳に入った。


「■■、■」

 人の声だ。苛ついている男の怒鳴り声、だと思う。怒声と足音が徐々に近づいてきている。泣き声を止められなくて気を張り、目付きの悪い細身の男の姿があらわになった。

「■■■!」

 俺の右隣を見て叫んだかと思うと、手に持った物を押し付ける。隣からの甲高い声は収まっていた。一瞬視界の端に映った形からして、おしゃぶりだろうか。多分隣にいるのは赤ん坊?

 苛ついた表情を隠さずに男は俺に向き直ると、口におしゃぶりを押し込まれた。

 ――苦い苦い苦い!

 すぐにとてつもない味が舌に感じられて、とにかく気持ち悪い。それでも吐き気以上に欲している口は開こうにも開けず、結局離せなかった。

 目を瞑って耐えるしかない。小さくおかしくなったらしい体と俺とが別物のごとく分かたれていて、もどかしい。


 何で高校生に苦いおしゃぶりを咥えさせる? 何で腕が小さくなってて動けない? そもそも何時牢屋に入れられたんだ?

 現実感のなさに、呆然と心の内で自問自答を繰り返していると、強烈な睡魔に襲われた。



   ◇



「■■■」


 睨んできながら去っていく細身の男を見て、こちらも睨み返したくなった。なぜなら苦いおしゃぶりを交換しやがったから。


 この一カ月程の間ずっと、苦味が弱くなった時に男が取りに来ていた。そして別のおしゃぶりを口に入れられるから苦味がずっと残る。味覚がおかしくなりそうで仕方ないけど、体が離してくれないから口にし続けるしかない。現実は無情だ。


 現実といえば、俺は電車の事故で死んだ。現実感のない現実だったからか、すんなりと納得出来ている。


 そこまで考えて目を閉じ、今日も今までのことを振り返ってみる。起きていられる時間が少ないから、うとうと出来る時間が短いのがつらいところ。

 ぼんやりながら、昨日は何考えてたっけと記憶を引き出す。


 ……俺の体に起きた変化のことだったか。

 多分、〈転生〉した。転生は宗教の考えの一つだったように思う。たしか死んだら生まれ変わるというもの。詳しい内容は知らないが、事故死して転生、それで赤ん坊になったのが今なんだろう。転生についての少ない知識とも合致している。


 ただ、転生したんだと思い付いても出来ることは何一つ変わらない。未だに牢屋に放ったらかしにされているからな。

 けどまあ、寒くも暑くもない快適な環境なんだから放置されても別にどうでもいいか。高校に入ってから微睡める時間が減ってつらかったから、久しぶりにうとうと出来て丁度良い。


 苦いおしゃぶりはどうにかならないものかとは思うけど。


 ……おしゃぶりを交換させられる以外放置されていて、ずっとご飯を食べていないのも気になる。だいたい、一カ月で一度も食事を口にしたことがないのは流石におかしい。

 母乳とか離乳食とか、水さえも一切摂った記憶がない。お腹が空くこともなく、排泄をしたこともないのが不思議で仕方ない。


 色々と気になっても行動出来ないのは、相変わらず動けない赤ん坊なんだから仕方ないと諦めていた。成長の為にも睡眠を楽しんでいる。

 隣から泣き声がたまに聞こえるのも変わらない。自分以外の赤ん坊が居るんだろう。


 赤ん坊から以外に聞こえる声は、何処かから響いてくる怒号だけ。おしゃぶりを持ってくる男同様、言葉は分からない。

 未だに日本語や自動車のエンジン音を聞いていないんだ。ここは日本じゃないんだろうとうっすら思う。生まれ変わっているんだったら、車が少ない外国に転生していてもおかしくないか。

 何も出来ずただ時間が過ぎていく日々で、微睡みを堪能していた。



 明くる日、鉄柵の窓越しに見える雲の色が変だった。虹色鮮やかな、積乱雲のように大きい雲。傍に夥しい鳥が群れをなしている。

 何だろう、あれ。

 いつもより多くの足音が天井から聞こえる。慌ただしさを感じていると、牢屋の扉を乱暴に開く音がした。

「■■■■!」

「■■■■■■■、■■■■■■、■■■」

 いつもの男の怒鳴り声。加えて女の声も聞こえる。

 なぜか殴るような音が一発。怒鳴っていた声が小さくなって、女が一言言い放つと足音が一つ遠ざかっていく。

 今日はうるさくて、うとうと出来そうにないな。


 男が言葉を吐き捨てる小さな声と共に、足音が近づいてくる。

 眼前の景色に入り込まれる時、睨み殺すような視線を向けてきた。しかも顔を近付けられ、思わず身が強ばる。

 持ち上げられて、大きな木箱に俺は突っ込まれた。続いて、今まで近くに居たけど、仕切りで姿が見えなかった赤ん坊も同じ木箱に入れられた。


 移動するのだろうか。それよりもおしゃぶりを苦くなくしてほしいです。


 届くことのない願い事を願っていると、頬に何かが当たった。

 ……赤ん坊の毛? それももふもふしていて、少しくすぐったい。一体何なのか確かめようと、首を僅かに動かしてみる。


 ――犬の耳?

 その犬耳は動いていた。


 イラストで見たことがある獣耳と似ている、とはいっても創作物だ。犬耳が生えた人なんて見たことがないし、そもそも現実に存在しない。

 きっと動く作り物なんだろう。何で犬耳を着けさせているのか疑問が生えかける。

 が、考えても分からないだろうと、取り敢えず手を伸ばして触ってみる。ほんのり暖かくて眠気を誘われた。



 木箱で運ばれて数日。外に出てから少し寒い。

 ようやく到着したのか、俺と犬耳赤ん坊の二人は揺れの酷い荷台から運び出された。箱を持っているのは、いつもの細身の男だ。

 建物に入って扉を開け、すぐ床に置かれた。前に居た牢屋と違って天井も壁も木造だ。今日からここで暮らすのかな。


 二人の子供がばたばたと部屋にやって来た。細身の男を無視して、興味津々な顔で俺達の顔を覗いている。俺も二人を覗く。


「■■■■」


 男が言葉を発すると何処かへ去っていく。計四人の子供が部屋の中に放置された。もう寝てもいいのだろうかと目を瞑る。


 …………。

 うっすら瞼を開いても、まだ二人に見つめられていた。

 もしかして、この二人って同居人か?



   ◇



「こっちに来て!」


 同じ部屋で暮らす少女、もといツルスネが手を叩いた。つられたように彼女の元へ向かうのは、俺、そして元赤ん坊の犬耳幼女。

 少年こと、テンニも床に座ってこちらを注視している。

 久々に歩けるようになって伸び伸びと動けている。運動するとよく眠れるんだ。眠気があるなら微睡める。つまり最高。


 そんなこんなで暮らしていたんだが、最近俺の頭にも犬か何かの耳が生えていることに気が付いた。幼女の犬耳と似たような感触だ。

 音が聞こえて、触覚もあって、何より外せない。本物の獣耳が生えてしまったらしい。

 今まで常時犬耳が着けられた幼女を不思議に思っていたんだ。俺の犬耳が本物なら、彼女のも本物なんだろうか。

 ……

 …

 ごめん、幼女さん!


 魔が差した。残ったのは、頭をぶつけて号泣する二人の幼児。ただし一人は中身が高校生なのはどうしようもない。俺は馬鹿だ。

 体のコントロールが聞かなくて謝れず、ただ頭の中で謝罪していた。


 泣いている俺達に対して、どうしよどうしよと慌てるツルスネに、あたふたする彼女を呆れたような顔で見つめ、溜め息を吐くテンニ。どちらも小学生中学年くらいの背丈である。

 赤ん坊を卒業したとはいえ、生活能力諸々は皆無なんだ。この二人の世話になるしかないことに情けなさを覚える。


 ささっと幼女をあやし始めるテンニ。それを見たツルスネは恐る恐るこちらにやって来て、顔を手で覆う。

「いないいない……ばあ!」

 ぎこちない変顔が俺へと向けられた。

 隣のテンニが憮然とした表情で獣耳幼女を撫でつつ、痛いの痛いの飛んでいけと言って、痛みをツルスネに飛ばそうとしているのが分かった。ツルスネはそれに気付いて、俺の痛みをテンニに飛ばす。

 幼女の犬耳が本物だと気付きを得つつ、仲の良い二人を眺めながら日常は過ぎていった。



   ◇



 苦節、一年と多分半年。

 遂にまともな食事が摂れるようになったのが、極めて、とても、とにかくガッツポーズしたい気分だ。


 一カ月ほど前に謎の苦いおしゃぶりが無くなり、代わりに柔らかめのパン粥?を食べていた。これが全く味がしないんだ。緑黄色野菜のペーストも苦味は感じられるが、おしゃぶり程ではないから我慢出来る。が、やっぱり不味い。


 もしかしておしゃぶりが味蕾を破壊してたんじゃ……おしゃぶりが恨めしい……と時折思ったが、徐々に味覚は戻ってきていた。味がすることに一安心である。

 嬉しいことに、隠れた甘味や旨味も感じられるようになった。不味さは軽減されたのだ。


 そして陽が木窓から差し込む今日、目の前にはペーストではない、少し形を保った食べ物がある。煮物っぽい。

 飲み物から食べ物になったんだ。長かった。


「どうかな、■■■■? なんたって■■■■■■!」

 ツルスネは煮物を指差して、次に自分を差す。それをテンニに見せつけている。嬉しそうにするツルスネに、今日も溜め息を吐くテンニ。

 多分だけどツルスネが作ったのかな。

 続けて俺達も指差すツルスネ。獣耳幼女が指に触れようとして、ツルスネは幼女を撫で始めた。


「■■食■■■■」

「分かった!」

 落ち着けるようにテンニはツルスネに告げると、早速食べ始める。勿論俺達とは違う、量多めの普通のご飯だ。パンと、ちょっと見えるお肉に野菜が沢山入ったスープ。俺も早くそっちが食べたいけど、今は久しぶりの食べ物が先だ。

 食べようとスプーンを探す。見当たらない。


 顔を上げる。ツルスネが木製スプーンを両手に持っていた。

 柔らかめの野菜の煮物を掬って、同時に俺と幼女へ食べさせようとしてくる。

 ツルスネの頭をチョップするテンニ。そこから言い合いが始まった。


 もう食べていいかな。

 楽しみだったので早速、俺達の木皿に戻されたスプーンを手に取って口にする。

 おしゃぶりぐらいしかなかった食感と言える食感が今、口の中で感じられた。


 噛める、食感がする! なんでもかんでも口に入れる幼児とはこういう気持ちなんだろうか。違うか。

 幼女も見よう見真似で煮物?を口に運ぶ。俺も、わーわー言っている少年と少女を横目にしながら食べ進めた。

 ……スプーンを振り回すな、木製とはいえ危ないから。



 それは今日もやって来る。

 下腹部の膨れている感覚。耐えようと体が勝手にもじもじと動いている。

 転生後、初めて食事をした一カ月前から相も変わらず。喫緊を要する事態であっても、出来るのは待つことだけ。

 生温い感覚が股下に広がった。だが、おむつのお陰で床が濡れることはない。


 気持ちの悪い感覚に体が泣き出す。幼女も泣く。

 もう終わっている現状、しかし一人でおむつの交換が出来るわけがない。


 動き出せずにいると、二人はドアを開けて部屋に入ってくる。俺達の泣き声に気付いたのだろう。

 顔をしかめるツルスネと慣れた様子のテンニは、黙々と布とたらいを抱えていた。


 早速とばかりに、各々たらいに入れられて家の外へ一直線。

 井戸の近くまで来たところで脱がせられ、石鹸と布で洗われた。そして再度おむつを履かされる。

 こんな日常が一カ月くらい続いて、俺は生理現象への抵抗を諦めていた。


 ――食事の代償は大きかったな。

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