ブラックコーヒー

梁瀬 叶夢

大空に夢を

大きくなったら飛行機になる。そんな子供じみた夢を僕は中学3年生になった今でも持ち続けている。

僕はそれを恥ずかしいとは思わない。だって、それが僕にとってかけがえのない唯一の夢だし、それに向かってこの人生自分なりに必死で努力してきたつもりだから。

僕は暖かいコーヒー牛乳に口をつけた。ブラックだと熱すぎるし、とても苦いので飲みにくい。だから僕は程よい甘さと暖かさのコーヒー牛乳を好んで飲む。これが勉強前のルーティーンだ。

カフェインが身体中に行き渡る感覚がする。眠気がだんだんと吹き飛んでいき、集中力が高まっていくのがわかる。

僕は今、高校受験に向けて一生懸命に勉強している。叶えたい夢のために平日五時間、休日十五時間を目標に、一日一日しっかり学習時間とその内容を事前に準備した予定と比べて、反省もメモして、それを書き溜めながら学習している。

この生活を始めたのは小学2年生、僕が夢を抱いた時からだ。


小学2年生の時、親戚が海外留学するというので、家族総出で空港へ見送りに行ったことがあった。僕は海外留学とか空港とか、聞き馴染みのない言葉に戸惑いを覚えつつも、外へ出かけるのは楽しいので特に気にすることなくついていくことにした。

空港という場所まではどうやら、車と電車で三時間ほどかかるらしい。まぁ、僕はどうせ眠るので時間なんてそれほど気にはしないけど。

でも、朝早く起きなければいけないのは辛かった。じさというものの影響で日が昇る頃に空港を発たなければいけないらしく、僕が起こされたのは午前3時だった。

僕には慣れない早起きだったし、寝ぼけ眼のままだったためにタンスの角に小指をぶつけてしまい、その痛さに眠気が飛んでいってしまった。

結局、僕は車でも電車でも寝付けずに空港までついてしまった。それだから余計に、空港に着いた瞬間とても強烈な眠気に襲われて、僕は首をかくんかくんしながらお母さんの手に捕まって歩いた。

空港というのはとても大きな建物だった。僕の通う小学校とは比べ物にならないほどだし、家なんかじゃ到底太刀打ちできないだろう。

だから少し、空港という建物が恐ろしく思えた。

僕はお母さんに引っ張られながら空港へと入る。中もまた広くて、迂闊に動き回ると迷子になることはこの時の僕でも十分に理解できた。

やがて海外へ旅立つ親戚の家族と合流し、僕たちは出発ロビーへと向かった。

出発ロビーは一面がガラス張りで、外の景色がよく見えた。僕はガラス越しに外へと目を向ける。すると、ちょうど大きな何かが空へと飛び立つのが目に入った。

その瞬間、僕の心は奪われた。

「お母さん、あれ何?」

僕は興奮のあまりお母さんにあの大きなものについて聞いた。いったい、あのかっこいいものはなんだ。

「あれはね、飛行機って言うのよ」

「ひこうき」

ひこうき。僕はその言葉をもう一度心の中で反芻した。とてもいい、どこまでも飛んでいけそうな名前だと思った。

「そう。たくさんの人々をいろんなところへ連れて行ってくれるのよ。慎一さんもあれに乗って海外へ行くの」

慎一さんというのは、お母さんの言うとおり海外へ飛び立つ親戚の名前だ。僕は慎一さんがとても羨ましく思えた。あれに乗れるなんて、とってもすごいことじゃないか。

それにしても、あの大きなものはどうやってこの空を飛んでいるんだろう。僕なんか、ジャンプしたって少しの間しか空を飛べないのに、ひこうきと呼ばれるものは落ちることなく、むしろ大空へとぐんぐん上昇していく。

朝日に当たってキラキラと輝くひこうきは、その時僕の憧れとなり夢となった。

いつか、あのひこうきのように自由に空を飛び回りたい、僕もひこうきのように誰かに憧れられるような存在になりたい。僕はそう確かに大空へ向かってそう心の中で誓ったのだ。


だけど、僕はそろそろその夢を考え直した方がいいとも考えていた。中三ともなれば否応なしに人間が飛行機になんてなれるはずがないとわかってしまう。小さい頃なら素敵な夢だねと言われたかもしれない。だけど、今そんな夢を真剣に言ったら笑われる。その理由は自明だ。それは認めざるを得ない、捻じ曲げようのない事実だから。

だけど、今更新しい夢を抱けるはずもなかった。僕はあの時から飛行機になるその時を夢見て、体調を崩したりすることもあったけど、確実に力をつけてきた。

なのにそれが水の泡になるなんて、なんだか虚しくて、悲しくて。諦めるしかないのに僕は諦め切れないでいる。

僕は航空関係の高校へ志願届を出そうと思っている。それは先生や両親とも話し合ったし、僕自身も望む高校だ。

だけど、その高校へ行ったところで僕の夢が叶うわけではない。僕の夢は、叶わけがないのだから。

僕は再びコーヒー牛乳に口をつけた。今日は思いっきり砂糖を溶かしたはずなのに、コーヒー牛乳はとても苦く感じられた。

志望校の提出期限は明日までだ。明日までに、飛行機になるという夢を続けるか諦めるかを決めなければならない。叶わない夢を追い続けるのも馬鹿馬鹿しく思えるけど、やはり僕は飛行機になりたいんだ。一度心に誓った夢をそう易々と諦めることはできない。

しかし、そんな甘いことを言っているところで叶わないものは叶わないとわかっている。かといって、他にやりたいことがあるわけでもない。

僕はふぅとため息を吐く。

少しの間ぼーっとしてから、僕はふとテレビの電源を入れる。僕はこのどうしようもない気持ちを紛らわしたかったのかもしれない。

テレビの画面がつくと、何やら中継を行っているようだった。アナウンサーの興奮した声が耳に届く。

「ついにこの時がやってまいりました!」

僕はいったいなんだろうと思ってテレビの画面を覗き込んだ。すると、右上のテロップにこう書いてあるのが目に入った。

民間会社制作ロケット本日打ち上げ!果たして成功なるか?

ロケット。そういえば、前々から地元でも話が出ていた気がする。なんでも地元の小さな工場たちが共同で制作したロケットだそうで、今回は人工衛星を打ち上げるためのロケットということらしいが、将来的には人が乗るロケットも作りたいと語っているとか。

ロケット、かー

画面の左上では刻一刻と数字が減っていっていた。カウントダウンの数字だ。そしてカウントダウンの数字が10へ近づくと、

「さぁ、まもなく残り10秒となります!テレビの前のみなさんも一緒にカウントダウンをしてロケット発射の成功を祈りましょう!」

アナウンサーは必死に心の底からロケットの成功を祈っているようだった。僕もその気持ちに釣られて祈りを込める。

カウントダウンを示す数字が減っていく。さぁ、あと3、2、1…

「今ロケットに火がつきました!遥か彼方の宇宙へと飛び立っていきます!地元の工場員たちの夢が詰まったロケットが、放物線を描いていっています!さぁ宇宙まで届くか」

どうやら発射自体は成功したらしい。だが、問題はこれからだ。人工衛星をしっかりと送り届けなければ、このロケットは失敗となってしまう。

大丈夫。きっと、いや必ず届くはず。僕は強くそう信じた。

「ロケットは衛星軌道を外れることなく順調に上昇を続けています。すでに大気圏を離れていますが、あとは衛星を無事に届けられるかどうか」

アナウンサーの妙に落ち着いた声が返って僕の心をざわつかせる。成功したのか?

「さぁ、そろそろ人工衛星がロケットと分離しそうですが…おっと?」

え、嘘でしょう…?

「今管制室が少々騒がしくなっているようです。ただいま確認しておりますが…あ、成功ですか!どうやらロケットの打ち上げは成功したようです!地元工場の夢が叶いました!」

「やったー!」

思わず僕は家の中で叫んでしまった。それほどにロケットの成功がなぜかとても嬉しかったのだ。

「どうしたの?」

やはりお母さんに聞かれていたか。お母さんはリビングに入ってきて僕を見る。

「あ、えと」

僕は少し恥ずかしがりながら返す言葉を探していた。ロケットが打ち上がったんだよ、と言ったらまた子供じみたことを、と返されそうだったから。

「お、ロケット成功したのね。よかったわぁ」

それだけ呟くとお母さんはニコッと笑ってリビングを去っていった。なんだ、お母さんも意外と子供っぽいじゃないか。

僕は再びテレビへと目を向ける。画面上部に速報が出ているのを見てまた一段と嬉しくなった。誰かの夢が叶うところを見るって、とってもいいことだなと思った。

そして僕は気づいた。この感情、あの時に似ている。僕が飛行機になりたいと願った時と。

テレビにはロケットが打ち上げられる場面が繰り返し流れている。僕は工場員たちのもう一つの夢を思い出していた。

いつか人が乗るロケットも作りたい。

それだ、と僕は思った。

いつか工場員たちが人が乗るロケットを作った時、それに僕が乗りたい。宇宙飛行士に、僕はなりたい。


そして二十年後、僕はとある場所にいる。そう、あのロケットが打ち上げられた場所に。

あのあと工場員たちの作るロケットは幾度の失敗を繰り返した。ロケット一個を作るのには莫大な資金が必要になる。共同制作とはいえ、いよいよ会社の存続も危ないとなった時に文字通り命懸けで作った一つのロケット。そのロケットが奇跡の成功を収めたことで工場員たちの夢はつながり、僕は今この場所に立つことができている。

僕はブラックコーヒーに口をつけた。今となっては、この苦味が愛しく思える。

「さぁ、出発の時間だぜ。みんなに夢を見せてやらなくちゃな」

彼は今回ともに宇宙へ旅立つ、いわば相棒だ。彼もまたあのロケットが打ち上げられた時に感動して、宇宙飛行士を志したのだとか。

僕は残り少なくなったブラックコーヒーを一気に流しこみ、ロケットへと足を向ける。

僕はあの時、新しい夢をあのロケットに貰った。今度は僕が誰かに夢を与える番だ。

大空を見上げると、一筋の飛行機雲が青空を駆け抜けていた。

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