亡父を忘れて
紫鳥コウ
亡父を忘れて
下校途中の小学生が永谷家の前を通り過ぎようとしたとき、開け放たれた玄関から鋭い怒声が吐き出されたものだから、声をあげて走った。行ってしまったあと、その怒声が
* * *
永谷家の居間では、みなか顔を合わせて、今後の家庭の生計について話しあっていた。が、会話の主導権を握っているのは、長男の陽平とその母と祖母の三人だった。
次女の頼子は、会話の外側に置かれ続けているせいで、思わず大あくびをしそうになった。もちろん、かみ殺すことを忘れなかった。しかしそれを次男の兵太に見られてしまい、全身を羞恥に打ち振るわせた。そして兵太を憎んだ。この間抜けな所作を
だから頼子は、兵太を妄想のなかでひねり殺した。静かに息を引き取った父とは違い、血の涙を流し苦悶の声を漏らしながら、無様に死んでいく兵太を想像した。のみならず、兵太に駆け寄る彼の妻の頭をめがけて、ハンマーを打ち下ろした。
が、その兵太にしても、目の前で繰り広げられている深刻な話題から、置いてきぼりにされているのは事実で、彼もてんで関係のないことを考え続けていた。
むろん兵太は、ここから帰ったらすぐに、妻を抱くことを考え続けているのである。より正確に言うならば、どのようなシチュエーションで、いかなる技巧を使おうかということについて、あれこれ妄想を巡らせているのだ。
このなかで一番年下の敬子は、新卒一年目で、ようやく新生活に慣れはじめてきたころだった。新しい環境を楽しむ余裕までできていた。休日は、かけがえのない休息の日だった。それなのに、辛気くさい実家に帰って、鬱々とした家のなかで退屈に過ごさなければならない。それに、これの翌日から仕事である。
父から一番可愛がられていたのは敬子だった。が、敬子は兵太のことを慕っていた。兵太は世界中のだれよりも尊敬に値すると思っていた。むろん、当時のことである。いまは、愚劣な存在のひとりに過ぎない。
敬子は父を愚劣だと感じていた。いまもそうである。しかしそれ以上に、愚劣な父が、愚劣ではない兄の兵太を尊ばなかったことが、当時は
ゆえに、父の死をなんとも思っていなければ、むしろ、死者はもう一度死なないという確定の事実があるだけに、こういう面倒事を経験するのは今回きりだという
しかし愚劣か優等かという二分法で世の中を捉えがちな敬子は、長女の朱美からひどく憎まれていた。なんなら朱美は、この親不孝者が葬式に来ることすら不愉快でならなかった。弔われる方も迷惑に違いない。そう思ってもいた。
朱美はもう流す涙を失っていた。父の死をしらされる数日前から、凶兆のようなものを感じていた。それからは落ちつかなくなり、不安で寂しい日々を過ごしていた。そして父の死を電話で知ったとき、彼女はその場で泣き崩れてしまった。電話をかけた当人である陽平が困惑するくらいに。
だがいま思えば、そうした凶兆に身を囲まれていたというのは、後から作り上げられた幻想ではなかっただろうか。自分の親への強い想いを周りに看取させるための、過剰な演出として創作されたものではなかろうか。
実際、凶兆を感じたというのならば、実家に連絡するなり帰るなりしたはずである。しかし朱美は、いつも通り会社に行き、同僚とランチをともにし、飲み会にも参加していたのだ。
長男の陽平は、
なにより、自分はこの永谷家の顔である、長男である、一番頼りになる存在である……という事実と自負と責任に押し潰されないためにも、常に動き続けなければならなかった。腰を下ろしたが最後、二度と立ち上がれなくなってしまう。それくらいの緊張感のなかに陽平は放り込まれていた。
ところで、この五人の母は、義母に対してこんなことを思っていた。わたしが代わりに死んでくれた方がよかったでしょう、などと。
ふたりは、お互いに憎しみ合いながらも、そのことを抑圧して生活することに、生き甲斐や悦びを感じがちだった。のみならず、子供や孫の家族関係を利用して相手を苦しめるのを、至上の娯楽としていた。いまもまた自然と、なにか政争の具になりそうなものを探しているところだった。
「はあ……」
そのとき、どこからかため息が聞こえてきたが、だれのものだったのかは分からない。
〈了〉
亡父を忘れて 紫鳥コウ @Smilitary
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