『ハンナ』の真実 ハンナside7

 憲志が、亡くなった。

 どんな最期だったのかは、逃げてしまった帆波にはわからない。

 会わないと決めてからも、病院には足を運んでいた。お葬式の日程は、憲志を引き取りに来た彼の両親から聞き出せた。

 喪服を着て、会場に赴く。

 棺の中で眠る姿を見ても、まだ憲志が亡くなったのだという実感がわかなかった。

 全てが無事終了した会場で、誰かがマイクの前に立った。

「私は、憲志の友人の橘春樹と申しまず。憲志から、生前頼まれたことがあり、この場をお借りいたしました。作家としての飛坂憲志のファンだという方は、明日朝七時にもう一度この会場へいらして下さい」

 ぱらぱらと人が減り始めた会場内で、帆波も席をあとにした。


      ✻     ✻     ✻


 五時起きは流石にきつい。

 何故七時から葬儀場に行く必要があるのかは謎だ。それでも、憲志の恐らく最期の頼みを、叶えてあげたかった。

 二十分前に着いてみると、未だ誰も来ていなかった。

 三冊の宝物を抱いて、ラウンジのソファーに腰掛ける。人が増え始めるにつれ、腕の中に向けられる視線を感じた。

「あら?『チロル帽』なんてあったかしら」

「『ハンナ』の一年後に出たじゃないですか。でも……『雪女』は私も聞いたことないですね」

 漏れ聞こえる会話。

 ここに集まった大半は、憲志ではなく『ハンナ』のファンのようだった。


「皆さん、お待たせいたしました。こちらの部屋へお入り下さい」

 春樹が部屋の扉を開け放つ。

 帆波は、一番前の席に堂々と座った。この中で一番、作家としての憲志を好きな自信があった。

「それでは、憲志からの伝言をお伝えします」

 腕の中に、憲志と積み上げた一方的な思い出の重みを感じた。

 憲志からの、最期の言葉は―――。


「おはよう、ハンナ」


 会場のざわめきも、一様に怪訝な顔をする『ハンナ』のファンたちも、その時の帆波には一切届いてはいなかった。

 春樹の口から発せられた憲志の言葉だけが、脳内に響く。

 目を大きく見開き、そして堪え切れずに後から後から、帆波の頬を涙が転げ落ちる。


 春樹は何も知らなかった。

 帆波のことなど一切記憶に存在しなかったのだ。

 彼が日付を越えても憲志の言葉を言えたのは、それが春樹にとって“憲志の遺言”であり“物語の中の台詞”だからだ。春樹はその言葉が誰に向けられたものなのか知らない。春樹にとってこの言葉は、瀬戸帆波という人間と一切関係が無かったのだ。

 記憶と記録の消える条件の隙を突いた、最初で最後の機会。

「おはよう。憲志」

 腕の中で熱を持った三冊の本に向かって応える。


 呼ばれたのは本当の名前じゃない。

 ハンナは憲志が私にくれた名前。記憶から消されることのない、フィクションとしての名前。……それでも。

 憲志は現実にしてくれた。

 朝に名前を呼んでもらう。

 私には一生叶わないはずの夢だった。

 それを現実にしてくれた。

 それで十二分だ。

 今日を、明日を、これからを、生きていく意味はここにある。

 確実に今、心の底からそう思えたから。


 刹那。

 頬と唇に、優しい温もりを感じた。

 見えない手に自身の手をそっと重ねると、不思議と涙が止まっていた。

「ありがとう」

 小さく呟いた声と共に、どこかで鳥がぴぴ、と可愛らしく鳴いた。

                     ―――Fin.

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『ハンナ』の真実 桜田 優鈴 @yuuRi-sakura

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