『ハンナ』の真実 ハンナside6

「おい、それって……」

 憲志は毎回、帆波の鞄の中に目を留めた。

「常に持ち歩いてるんです。お守りみたいに」

 見つけてくれると、嬉しくなる。

 そこに『ハンナ』がいると、見つけてくれたようで。

「せっかく来てくれたわけだし。そこ、座りなよ」

「はい!」

 叩き出されることも極稀にあったけれど、大概は話し相手になって欲しいと言ってもらえた。

 幾度もしたたわいもない話。同じ台詞を繰り返そうとも、帆波にはそれで十分だった。

 帆波と話すことで少しでも不安と孤独が薄らいだのなら、これ以上の幸せは―――。

「あの、飛坂さん」

「何?」

 ずっと聞きたかったことがある。でも、答えを知る勇気がなくて、胸に仕舞いこんでいた。

 知らないままなら、きっととても後悔する。

「『ハンナ』を書こうと思ったきっかけとかって、教えていただけますか」

 夢を、持ち続けたかった。

 『ハンナ』は帆波のためだけの物語だと。

「正直言うと、自分でもわかんない。気づいたら書けてたっていうか」

「そうですか」

 落胆しなかったといったら嘘になる。

 それでも、凝り固まって沈殿していた何かが、するりと浄化された気がした。

「普通、そこで納得しちゃう?」

「だって、覚えていないことを問い詰めても仕方ないじゃないですか」

 呪いは、絶対に解けない。

「そろそろ、お暇させていただきます」

「また、よかったら来てくれないかな」

 憲志の優しさが、今は痛い。

「失礼しました」

 夢を見させてくれた感謝を込めて、礼をした。

 もう、希望も捨てよう。諦めよう。

 ―――あれ?これって……憲志と出会う前の自分に戻っちゃうんだ。

 憲志が与えてくれたもの。その全てを否定する行為。

 ―――そんなの、嫌だ。

「「あのっ!」」

 声が重なった。

「あ、お、お先にどうぞ」

「俺は何でもないです。瀬戸さんどうぞ」

 出鼻をくじかれて、言葉に迷った。

「……あと、二ヶ月なんですよね?」

「何で知ってるの」

 失言。まさか、「あなたの第一発見者は私です」なんて言えない。顔を逸らした。

「………ハンナ、を…思い出してください」

 声がかすれた。

「どういう意味?」

 しっかりと、憲志の瞳を見据えた。

「ハンナは―――実在します」

 驚愕する憲志。

 目の前にいるのに、憲志はそれに気づけない。

 それは私のせい。私にかかった呪いのせい。だから皆悪くない。忘れられても仕様がない。

 ぐっと唇を噛み締める。

 主人公ハンナは、私の唯一の希望だった。

 本来、文章にさえ残らない私の記録を、偽名とフィクション故に繋ぎとめてくれた。帆波は確かにこの世界に存在するのだと示してくれた。

 全てを諦めていた帆波を救ってくれた憲志だから。

 ―――あと二ヶ月は、希望を捨てないでおこう。


「あっ!」

 机上にそれを見つけたとき、思わず大声を上げてしまった。

「どうしましたか?」

「『ハンナ』、お読みになるんですか……?」

 憲志は『ハンナ』が大嫌いなはずだった。

「え、ええ。まぁ。実を言えばつい最近まで逃げてたんですけど。でも死ぬ前に、ハンナの正体つきとめたいなぁと思いまして」

 もしかして。

 淡い希望が膨らんでいく。

「正体、ですか?」

 僅かに声が震えた。

「友人に言われて気がついたんですけど、『ハンナ』の登場人物にはみんなモデルがいたんです。だけど、どうしてもハンナだけは、誰をモデルにしたのかを思い出せなくて」

 急激にしぼんだ。

 そこから先は、まだ聞かないでおきたかった。

 まだ夢を追いかけていたい。

「あ、あの、そろそろ帰らないとなので」

 我ながら不自然すぎると思いつつも、逃げるように立ち上がって、ドアに向かう。

「引き止めちゃってごめんなさい。ぜひまたお会いしたいです」

 慌ててたような声。

 未来の約束ができないのは、憲志も同じはずだった。

 帆波の理由は、記憶が消えるから。

 憲志の理由は、命が消えるから。

 残された時間は僅かだった。

「きっと、また」

 笑ったのに、どうしてか憲志は慌てた顔のままだった。

 廊下を少し進んで鏡の前に来たときようやく、帆波は自分が泣いていることを知った。


「どちら様ですか?」

 何十回、いや何百回となく聞いた言葉。

「はじめまして。瀬戸です」

 笑顔のままでこれを言えるまでに随分と長い時を要してしまった。

 もう、憲志の好きなものなら何でも知っているし、どんな相槌を求めているのかも知り尽くしている。憲志の知らないことでさえ、帆波は知っていた。

「どうしてだろう。瀬戸さんをずっと前から知っていたような気がする」

 初めて、そう言われた。「前から知っていた」と言われて嬉しいはずなのに、笑えなかった。

 憲志がそわそわするのを見て、帆波は慌てて言葉を継いだ。

「―――そうですね。私も、飛坂さんを昔から知っている気がします」

 限界だった。

「そろそろ帰りますね。長居してしまってすみません」

「また来てくださいね」

 その心が、何よりの救い。

 それ以上を求めてはいけなかったのだ。

 呪いが解けることは絶対にないと、わかっていたはずなのに。

「ありがとうございます。きっと、また」

 言葉とは裏腹に、帆波はこれっきり憲志に会わない覚悟を決めた。

 近くにいれば、多くを望んでしまう。

 夢をそっと、心の奥底に封じ込めた。

 今度こそ、もう二度と手が届かないほど深い場所へ。

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