AIは作家を駆逐するか?

雲隠凶之進

AIは小説家を駆逐するか?


 結論から言えば、おそらく少なくない人数のアマチュア小説家が筆を折ることになるだろう。



 最近は文章生成AIが存在感を放っている。

 設定や導入文を与えると、勝手に小説を書いてくれる。AIイラストなんかよりも文字列のほうが簡単に見えるが、日本語の壁は分厚いのだろうか、「全編をAIが執筆しました」という小説はなかなか現れない。


 数年前にSNSで「そのうちAIがオーダーメイドで小説を書いてくれる時代が来るでしょうね」なんて冗談を言っていたら、AI執筆垢に「もうありますよ」と絡まれたことがある。今日のような生成AIなど影も形もないころである。

 その執筆AI小説を投稿していたアカウントの話によれば、執筆は「マルコフ連鎖」に依っていたそうである。

 たとえば、「私」の次に来る語はたいてい助詞である。「私は」「私が」「私に」「私を」……といった具合に。この中で最も出てくる頻度が高い文字ないしフレーズを、サンプルの中から抜き出して繋げる。それを繰り返していくと「私は雨が嫌いだ」といったような文法的に正解に近い文章ができる。これがマルコフ連鎖の簡単な例である。詳しく知りたい人は検索するなり図書館で専門書を漁るなりしてほしい。

 当時の執筆AIによる小説は、はっきり言って読めたものではなかった。このマルコフ連鎖を雑に適用すると、例えば「私は雨を食べる兄にチョコを頬張った」などのような妙ちくりんな文章が出来上がってしまうのだ。AIが頑張って書いたんです!といわれれば学術的価値はあるけれども、小説としての価値は梨の礫である。



 時代は下って現代。AI執筆の時代がもうすぐそこまで来ている。

 私は暇なときによくAI拓也動画を見ていた。今は某サイトが実質死亡状態にあって今はAI拓也欠乏症に罹っている。

 この動画シリーズは執筆AIに設定や文章の大まかな構成だけを与え、自由に書かせるものだ。学習元が元だけに多くは怪文書となるのだが、人間がとても思い付かないような突飛な展開、内容、登場人物が創造される名作もあれば、ただ長いだけで支離滅裂な凡作もある。だが総じて思うのは、名作でも凡作でも、文章は恐ろしく読みやすいことだ。

 AI拓也で主に用いられている「AIのべりすと」を例にとると、これには大量の日本語サンプルが用いられている。その量にして500GB(wikiより)。文庫本にして174万冊分だという。人間だって「読みやすい文章を書くにはまず本を読め」と言われるくらいなので、それだけ学習していれば正しい文章が出力されるのも頷けるというものである。

 このAIのべりすとの言語処理がどこまで来ているのかを見てもらうために、実際にサイト上で「私は雨が嫌いだ。」とだけ入力し続きを書いてもらった結果をお見せしようと思う。


― ― ― ― ―


 私は雨が嫌いだ。あれだけ、うるさかった蝉の声はどこに消えてしまったんだろう。あんなに毎日暑くて、しんどかったのに。今は、雨が降っているからか、空気がとても冷たく感じる。

 でも今年の春は暖かかったせいで、まだ梅雨の季節ではない。ジメジメとした雨季も来ていないというのに、この雨は一体いつまで続くのだろうか。

「はぁ……」

 私は溜息をつきながら、傘をクルリと一回転させた。そしてまた前を向いて歩きだす。


― ― ― ― ―


 御覧の通りである。文章としてとても読みやすいばかりか、「私」がどんな状況に置かれているのかを推察し、さらにその上でストーリー性まで持たせて描写している。

 AIが何を考えてこの文章を出力したのかは分からないが、サイト上で解説されている仕組みを読むとおおよそこうであろう。「私は雨が嫌いだ」という一文から、雨が嫌いな「私」を設定し、私の感情として「嫌い」と「憂鬱」を関連付けている。さらに、ただ雨が降っている状況よりも雨が続いている状況のほうがそういった感情が吐露されやすいことから、背景を「梅雨」、さらに「いつまで続くのだろうか」と雨続きであることとそれを憂鬱に思っていることを織り込んでいる。おそらく、ネット小説サイトのお題執筆系企画に殴りこまれたら8、9割の作家は文章力だけで負けてしまうだろう。

 しかし、よく読めば何かがおかしいと気付く。初め「蝉の声はどこへ消えてしまった」と言っているので8月末か9月、台風の季節かと想像するが、続く文章では「梅雨」と断定されて6月になっている。さらには日本には「雨季」は存在しない(今のところ)ので、梅雨の設定にしてはどうにもちぐはぐだ。

 このちぐはぐさは文章が長くなればなるほど顕著になる。一文の中で矛盾することはなくとも、文節、段落になれば先ほどの季節感の前後のような文脈の不一致が現れやすくなるのだ。


 現代の執筆AIが行っているのは文法だけでなく文章まで拡張された、マルコフ連鎖の延長上にある技術である。コンピュータの情報処理速度の向上により、それまででは不可能だった膨大なデータベースを高速で走査することができるようになった。また単純に単語の出現率だけでなく、文章の論理性まで加重して次の単語を決定できるようになったのは、アルゴリズムの進化によるものだろう。

 だが、所詮は人間の真似事である。真似のレベルが上達しているだけで、人間にAIと同じことはできない。例えば人間なら「私は雨が嫌いだ。」に続けて「あの人を思い出してしまうから。」なんて書けそうだが、それはまだAIには無理そうである。


 なんだ、まだまだAIに小説は無理だなと考える諸兄もおられると思う。だが、情報処理速度の進化によってそれまで人間だけの領分だと思われていた分野でAIに人類が完全敗北した事例がある。

 将棋である。

 このほとんど日本でしか楽しまれていない盤上の娯楽は、つい最近までコンピューターが人間に勝つことは不可能だとされていた。チェスや中国の象棋、あるいはそれらの源流であるチャトランガと異なり「取った駒を使う」というルールがあるために、パターンがとても複雑である。そのため、コンピュータにすべての手を読むことは不可能とされてきた。

 だが、チェスで人間がAIに負けはじめた2000年前後、そこから二十年も経たないうちに人類は将棋AIに敗北し始めた。いまでは「棋士はAIと強くなる時代」(藤井聡太)といわれるほどである。


 小説と将棋では、基盤とするルールや一般的に人間がAIに勝っていると思われている点、そしてコンピューターが人間より得意とする点で類似点がある。

 文法にはルールが存在し、文章には定式化できない読みやすさがある。将棋にも駒を動かすための厳格なルールがあり、好手悪手妙手奇手はあるがそれらは定式化できず、そこから導かれる未来を予想してしか語れない。小説執筆AIやプロに勝つ将棋AIの台頭が情報処理技術の発達を待たなければならなかったのは、この定式化の難しさにある。

 小説は登場人物の心情や行動を作者の人生経験などに基づく直感で描くし、人が指す将棋では選ぶ手の判断基準はまず直感である。直感は今日のAIにはまだ備わっていない能力だ。

 小説家は本をたくさん読めという。古典をたずねたり最近のトレンドを研究することは、真似るか逆張りするかは置いておいても重要なことである。将棋においても、過去の棋譜を研究したり新しい戦術戦法を学ぶことは、自分でやるにも相手をするにも重要である。そして、膨大な過去のデータを記憶し、必要に応じて検索するのはコンピューターが最も得意とする分野である。


 将棋でなぜ人類は勝てなくなったのかといわれれば、これまで考えられていた「AIの思考パターン」というものが、現実とは少し違っていたからである。それまでAIは膨大なデータを検索し、そこから評価点をつけて最善手を選ぶと考えられていた。

 だが実際にAIが提示してきたのは「定石破り」、つまり「本来『これが最善』と思われていた序盤の定石に、新しい手を見つけて破ってくる」ことであったのだ。

 これでは人間は勝てない。人間はコンピューターよりも思考力の点で劣っており、手の読みあいをしていては絶対に勝てないのだ。人間お得意の直感力も、とどのつまり過去の経験に基づいている。経験上「絶対に正しい」と考えられていることを曲げられるほど、人間は柔軟ではなかった。


 小説でもいずれ同じことが起こるだろう。

 今はまだ、AIには長文を執筆することが難しくても。評価点のアルゴリズムと情報処理速度の進化、そしてアップデートされていく「正しい」文章のデータベース。さらに従来には考えられなかった発想で描かれる小説世界。小説家が執筆AIに敗北する日は、いつか必ずやってくる。



 さて、そんな小説家が執筆AIに敗北する未来について、二つの予想を述べておこう。

 まず一つは、冒頭に述べたアマチュア小説家の大量絶滅である。現時点ですら、執筆AIよりも味のある文章が書けるWEB小説作家は少ないのではないだろうか。おそらく今作家を名乗っているWEB小説サイトユーザーの大半は、AI執筆家に転身するはずだ。小説家はいなくなり、プロンプターが増えるということである。

 では、そんな時代に生きている「作家」とはどんな生き物だろうか。おそらく真の意味で「趣味で書いてる」人と、今売れっ子になっている作家だけが残ると思われる。前者にとって執筆は趣味であり、世間にAI小説があふれかえろうが「AIによる推敲を経てない文章なんて見るまでもなく読む価値無し」と蔑まれようが関係ない。そして後者の存在が、私が述べる二つ目の予想である。


 世間にAI小説があふれかえると、文章力に差異がなくなっていく。キャッチーな設定さえ考えればあとは執筆AIがそれを元に小説を書くので、最初は爆発的に書籍化作家という名のプロンプターが増加する。

 その後、本を買わずともJustForMeな小説がオーダーメイドできるようになって、プロンプターは不要になり絶滅する。二つの時代を経た後でなお本屋に並ぶような本というのは、個性的な小説でも不条理ギャグでもない。作者のネームバリューで売れる本だけである。

 それは古典かもしれないし、あるいは他分野の有名人かもしれない。「あの○○先生が書いた本」を読むこと自体がステータスとなる時代になる。その時代の片鱗は、既に現代にも見え始めているのだから。



 AIは小説家を駆逐するか?と問われれば、それはNOである。小説家になろうやら魔法のiらんどやらがない時代から、個人で趣味の小説を書く人間はいたし、今売れている作家はそのまま本が買われ続けるだろう。

 だが、読者は絶滅すると考えられる。AI執筆の小説が溢れた時代において、読者が読むのはネームバリューとプロンプトである。文章を読んでいると彼らは思っているが、その実、ウラにある著名人作者のパーソナリティを楽しんだり、執筆AIの成果物からプロンプトを想像リバース・エンジニアリングするようになる。文章は上辺を飾るだけとなり、届くや否や破り捨てられるお歳暮の包み紙と成り下がるのだ。

 そんな時代まであと何年だろうか。おそらく百年以内、早ければ十年以内にはそういった光景が見られるかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

AIは作家を駆逐するか? 雲隠凶之進 @kumo_kyo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ