椿ヶ池

@ninomaehajime

椿ヶ池

 椿ヶ池という池があった。

 池の周縁を数多くの椿が囲い、手を伸ばした枝葉が水面に映って花を咲かせている。春を過ぎると紅色の花冠かかんが丸ごと落花し、優雅に池の上を漂う。

 青粉あおこで緑色に染まった池には鯉が多数棲息しており、白地の鱗に淡紅たんこう色の彩りを添えて、水面下で大きなひれを揺らめかせている。この鯉たちは奇妙な食性をしており、池に落ちた椿の花弁をよく食した。とりわけ、池の主とも呼ぶべき体躯を誇る大物がおり、これは容易く花を丸呑みをした。

 幽玄ゆうげんな雰囲気を漂わせる椿ヶ池には別名がある。首ヶ池だ。

 縁起の悪い木として、椿は武家などから忌避されてきた。花首ごと落花することから、人の首が落ちるさまを連想させた。そのためか、薄気味の悪い怪談がまことしやかに語られた。

 落ちた椿の花の中に交じって、死者の生首が浮かんでいるという。実際に目撃したと語る者は、まげが解けた落ち武者の頭部が水面を漂っており、おびただしい鯉の群れがたかっていたそうだ。

 周辺で暮らす者たちは不気味がって、滅多にこの池へ来ることはなかった。私が妹の命日に訪れるぐらいだ。

 妹の紗代さよは、ここで亡くなった。

 私の責任だった。尻込みをする妹を連れて、椿ヶ池まで足を運んだ。池に生首が浮かぶという、気味の悪い怪談をこの目で確かめるためだ。

 初春のことで、椿の花々が咲き誇っていた。散り落ちた花は池の上に浮かび、鯉たちがたかる。紗代はこの光景を怖がった。あの子は生来から臆病だった。

 半刻を過ぎても怪異など起こらず、私は飽きてしまった。妹を連れて帰ろうと、紗代の姿を捜す。彼女は水際に佇んでいた。あれだけ怖がっていたのに、池の水面を見下ろしている。一体、どうしたのだろう。

「紗代」

 白い小袖の背中に呼びかけた。紗代は肩を震わせ、こちらを振り向いた。泣きそうな顔をして、私を見つめた。

「お姉ちゃん」

 弱々しい声で呟いたときだった。濡れた縁で足を滑らせたのか、紗代は後ろ向きに転落した。大きな水飛沫みずしぶきが上がり、私の頬まで濡らした。

 妹の名を叫んで池に駆け寄った。緑がかった池の水面で、紗代は上半身だけを出してもがいていた。彼女の長い髪が広がる。私は池の縁に大きく身を乗り出し、手を差し伸べた。

「来ないで」

 普段の妹からは想像できない、強い拒絶だった。私は一瞬怯み、指先を引っこめた。紗代と目が合った。その瞳には悲壮感を漂わせていた。

 忽然こつぜんと妹の姿が水中に没した。明らかに不自然な沈み方で、下から何かに引きずりこまれたかに見えた。波紋を残して、緑色をした池の水面は静寂をたたえていた。

「紗代」

 呼びかけても答える者はいない。ただ椿の唇に似た花だけが漂っていた。

 亡骸は発見されなかった。父と母は私を責めた。浅慮せんりょな考えで池に赴き、妹を見殺しにした。何も言えなかった。全てその通りだったからだ。

 紗代を亡くし、しばらく呆然自失の日々を送った。どうしてあの子は私を拒絶したのだろう。いくら考えてもわからなかった。ただ妹の悲壮な眼差しが瞼の裏から離れなかった。

 ふと、椿ヶ池の怪談を思い出した。死者の生首が水面を漂うというあの噂だ。もしも本当ならば、あの子の首も浮かぶのではないか。

 もう一度、紗代の顔が見たかった。だから私は毎年、椿が咲く季節にこの池を訪れた。できることなら、あの子に謝りたかった。

 今年も椿は満開だった。薄緑の池を紅色の花冠が漂い、鯉が群がった。私は水辺に佇み、その様子を眺めていた。年々背が伸び、少しずつ見える景色が変わっている気がした。

 頭上で椿の枝から徒花あだばなが落ち、一瞬視界を遮った。足元で水飛沫を上げる。私は細めた瞼を開けた。

 対岸に誰かが立っていた。背が低い少女だった。白地に淡紅色の彩りを添えた小袖を着ていて――その子には首がなかった。

 私は立ち尽くした。わななく唇で、その名を呟く。

「紗代?」

 根拠などなかった。背格好は亡くなった当時の妹によく似ている。首から上がないために、本当に彼女かどうかはわからない。

 ただ、その実はどうでもよかった。声を振り絞って叫ぶ。

「ごめんなさい、紗代。私のせいで貴女を死なせてしまった。どうか許して」

 私の懇願に、首なしの少女は静かに佇んでいた。わずかに袖を上げて、池を指差した。その指先に視線が釣られる。

 紅の花々が咲き乱れる池の水面に、人の生首が浮かんでいた。つむじが見えており、長い髪が水の上で乱れている。だからその首は、紗代のものだと思った。

 私はその首から目を離せなかった。どうか、もう一度その顔を見せておくれ。

 鯉たちが一斉に群がり、首の向きが変わる。その顔面が見えたとき、私は目を見開いた。

 水面に横たわるその顔は、他ならぬ私の顔だった。紗代が亡くなった当時の、幼い顔立ちをした自分の首が斜めにかしいでいる。瞼を瞑り、死人の色をした唇を閉じていた。

 まばたきすらできない私の眼前で、池の主たる鯉がその首を咥え、水の中へと消えた。

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