第9話 回想
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アスカは実験モジュール内の部屋を一つずつ見て回っていた。
扉を開け、部屋の中をのぞき込む。壁に刻まれた見覚えのない傷を指でなぞり、ほこりっぽいデスクに載っている用途のわからない機械に触れ、自らの記憶とは違う椅子に腰掛ける。
「はあ……」
思わずため息をついてしまう。
自分が一体どうなってしまったのか、改めて思い知らされた気分になっていた。
なんとなく、マルスたちの言動から理解したつもりになっていた。自らがタイムスリップしてしまい、想像をはるかに超えた未来へとやってきてしまったのだと。
だが、本当の意味で理解できてはいなかったのだろう。
この、アスカ・ヤマサキの拠点だった火星探査基地ハイヴⅢへとやってくるまでは。
アスカの主観時間では、ここを離れてからまだ一週間程度しか経過していない。
だというのに、この有様だ。
時間は軽く二世紀は経過しーー下手をしたら、その倍くらいの期間かもしれないーー結果として、この基地から自分の痕跡は綺麗さっぱりなくなってしまっていた。
ハイヴⅢ内をくまなく見て回ったが、どこにも自分の存在を示す物など残されてはいなかった。
自分の研究ブースも、各種検査機器も、山のようなデータたちも……居住モジュールの自室も、よく使っていたマグカップも、飾っていたガラス細工も、父の写真も、母の写真も、何もかも。
本当に何世紀も経過しているのなら、それも仕方のないことだろう。ハイヴⅢが現存しているだけでも驚異的なのかもしれない。
「……いや、管理者コード、か……」
思わずそう口にする。
アスカ自身の管理者コードに、ハイヴⅢのアナウンスは『お久しぶりです。コマンダー・アスカ・ヤマサキ』と応えた。
つまり、この基地にはまだアスカのデータが残されているということだ。
それだけが、ハイヴⅢに残されたアスカの痕跡なのだ。他に何も残っていなかったとしても、それだけが。
「……この施設の耐久性が証明されたってことを知ったら、マーティンは喜ぶだろうな……」
弱々しく、数日前まで一緒にいたはずの仕事仲間の名前を呼ぶ。
が、すぐに顔をしかめた。
「ザ・レッド、ね」
彼はアスカを見て『はじめまして。お嬢さん』と言った。だがーー。
「……」
その先を考えるのを止め、アスカは首を振る。
そんなこと、あるわけないのだ。なにしろここは、二世紀以上もの時間的隔たりがあるのだから。
改めてそう考えると、とてつもない喪失感がある。
自分は、何もかもを失ってしまったのだ。
仕事仲間であり、友人でもあった多くの人々。
火星探査に参加するまでに登り詰めたと言っていい、研究者としてのキャリア。
家族は……父と母はすでにいなくなっていたから、今回よりももっと前に、とっくに失ってしまっていたのだけれど。
だが、そんな喪失感と同時に……妙に冷静な意識があることをアスカは自覚していた。
喪失感や衝撃はあるものの、思ったより自分が傷ついてはいないようなのだ。
なぜだろう、と自問してみる。
……分からないが、両親の影響なのだろうか、とも思えてくる。
アスカの父と母は、共に物理学者だった。研究内容は似通っていたし、間違いなくお互いに愛し合っていたはずなのだが、アスカの知る限り顔を合わせたことはなかった。アスカの印象が正しければ、母は父に自身の存在がばれないように振舞っていた。
十代前半くらいまで、アスカは母の元で過ごした。母はよく、パパに会っちゃったらママはダメになっちゃうのよ、と言っていた。
どうやら、一度でも父に会ってしまえば、今やっていることの全てを投げ出して父と一緒にいてしまうから、ということらしかった。
アスカには理解できなかった。
自らの望みを投げ捨ててまでやらなければならないことなど、果たして本当にあるのだろうか、と。
そんなものさっさと投げ売ってしまって、父に会いに行けばいいのではないか、と。そうしないということは、母はやはり父のことなどどうでもいいのではないだろうか、と。
そんな話をすると、母は凄まじい剣幕でアスカを叱りつけた。
『私が徹を嫌いだっていうの? 明日香はなんでそんなことを言うの!』
母はややヒステリックなところがあった。アスカにとって、その時の記憶はちょっとしたトラウマだ。
ミドルスクールを卒業した頃、アスカは母の研究の真の目的を知ってしまった。
初めは耳を疑った。冗談だと笑い飛ばそうとしたし、母の正気を疑った。だが、それを追求すると……母は否定しなかった。
戦慄と共に母と口論を繰り広げたが、何を言っても、アスカの言葉では母の意志を変えることは出来なかった。
アスカは母と散々言い合った結果、母の元を離れた。
一人で訪日し、在留資格を取得。日本の大学へ進学し、母と同じ物理学の道へと進み、大学を首席で卒業。離れたはずの母の後を追うように研究者となった。
その先でまさか父親に会うことになるとは、アスカ自身も予想だにしていなかった。母の年齢を考えると、父は母よりかなり年上に見えた。
母の元で生きてきたアスカは、父にあまりいい印象を持っていなかった。母がどれだけかばおうと、母がどんな研究をしていたとしても、母が父から隠れていたという事実を勘案しても……父は母を捨てた男なのだ、という印象を覆すことができなかったからだ。
娘であることを告げぬまま父の元で研究者として従事するうち、アスカはそれが間違いであることに気づかされる。
アスカが父に娘であることを打ち明けるのには、数年の時を要した。打ち明けてまもなく、サイトウというセカンドネームをヤマサキへと変えた。
それからまもなく、葉巻教授の事件を期に父は母を追いアスカから去っていった。
それから、人類の移住先として最有力候補である火星の調査に志願するまで、そうたいしたことはなかった。ただ、両親の生き様を目の当たりにして、自らの主体性のなさ、意志の希薄さを思い知らされたといえるのかもしれない。
母の目的が間違っていると反抗して別の道を歩んだつもりだったが、自らの命をかけてまで何かをやり遂げたいと思ったことが、アスカにはこれまで一度としてなかったのだ。
自分は元のところに帰りたいのだろうか、という根本的な疑問をアスカは抱いてしまう。戻ったところで両親はいない。大切な人と言える人もいない。友人は多いが、そのほとんどが仕事仲間で……プライベートな繋がりは皆無に近い。研究に没頭する生活を送っていたわけだが、そうしたのは、他にやることがなかったからだ。
「だから、つらくないのかな……」
ぽつりと口にして、戦慄する。
自らの発言を否定する要素が、自分自身でも見つけられなかったからだ。
「……アスカ?」
ひどい虚無感にさいなまれそうになったところで、声をかけられた。
マルスの声だった。
「こんなところまで勝手に入り込みやがって。ったく、あんたはーー」
アスカが顔を上げると、部屋の入口にマルスが立っていた。彼は忌々しげに愚痴をこぼしていたが、アスカの顔を見るなり口を閉ざしてしまう。
「……?」
「……はぁ。何があったのかは知らんが……時間が必要なら、出発は少し待ってもいい」
「え?」
マルスの声音は、急に優しげなものへと変わっていた。
その変化に戸惑いながらアスカが目元を触ると、いつの間にか濡れていた。
「あっ、ごめんなさい。私ーー」
自分が泣いているとは思っていなかったアスカは、あわてて目元をぬぐって立ち上がろうとする。が、マルスは首を振って制してきた。
「無理に強がる必要なんかない。確かに俺たちはまだアスカのことをロクに知らねーけど、それでも何かとんでもないことがあったんだってのは……なんとなくわかる」
「でも、その……迷惑、でしょ」
そう言うものの、なぜか涙は止まってくれなかった。アスカは涙を何度もぬぐい、取りつくろおうとするが、うまくいかなかった。
はぁ、とため息をつく音が聞こえ、マルスが室内に入ってくる。
「アスカ。あんたのことが本当に迷惑だったら、わざわざこんなところまで遠回りしてIDをなんとかしようなんてしてねーよ。見つけたあの場所で見捨ててる」
「……」
確かにその通りだ、とアスカは思った。
「だから……なんだ。もっと信用しろっつーのも図々しい話だが……頼ってくれたっていいんだ。俺たちに遠慮する必要も、かしこまる必要もない」
「けど……」
アスカが顔を上げると、すぐ目の前にマルスが立っていた。
彼はなんだかやれやれって顔をしていたが、それでもその紫水晶の瞳は優しげな色をしているように見えた。
「けどじゃねーよ。俺たちよりも、アスカ方が大丈夫にゃ見えねぇんだよ。俺たちは無理なら無理って言う。あんたが俺たちを心配する必要なんてどこにもねーんだ。自分のことだけで精一杯のクセに、こっちにまで気を遣ってんじゃねーよ」
「……」
マルスの言葉に、アスカは反論ができなかった。
マルスはそのまま、アスカの頭をポンポンと軽く叩く。彼女を慰めるように。彼女を……安心させるように。
「っ!」
それが、止まりかけていたアスカの涙腺を決壊させた。
「う、うあ……あうう……ひぐっ……」
アスカがまた涙をぬぐおうとする腕を、マルスが取る。
「つらいときは泣いていい。そのつらさに耐えられる方が不幸だよ」
「うああああ!」
マルスの言葉に、アスカは思わず声を上げた。彼の身体にしがみつき、胸に頭を押し付けて泣いた。
緊張の糸が途切れてしまったらしく、アスカ自身でも予想していないくらいに大声を上げて泣いた。
平気なフリをしていた自分が、どれだけ我慢し、耐えていたのか。それを、彼女自身がわかっていなかった。
泣けば泣くほど、声を上げれば声を上げるほど、マルスの服を濡らせば濡らすほど、涙と嗚咽は後から後から出てきて止まってくれなかった。
なのに、普段は愚痴ばかりだったマルスが、文句も言わずにアスカの背中をさすってくれたことが心底ありがたかった。
「……げ」
そうしてアスカが二、三分ほども泣きはらしていると、マルスが唐突に声を上げた。
「……?」
ようやく落ち着きつつあったアスカは、まだ止まっていない涙をぬぐいつつ、マルスの胸から顔を上げる。
……部屋の入口には、険しい顔のクラリスが仁王立ちしていた。
「!」
アスカはあわててマルスから離れるが、時すでに遅し、である。
「……マルス。アスカになにをしたの」
「いや、俺はなにもしてない」
マルスの弁明に、クラリスは目を細める。
「嘘。じゃなきゃアスカがそんなに泣くわけ無いでしょ」
「あの……本当に、彼はなんにもしていなくて、私が弱ってただけで、私が悪いだけだから……」
やや気が動転した状態でしどろもどろな言い訳をするアスカ。その返答をしたのは、クラリスの隣に現れたミネルヴァだった。
『つまりぃ……アスカさんが弱ってるところにお兄ちゃんが付け込んで泣かせたってこと?』
「ミネルヴァ、お前……」
思わずマルスが頭を抱える一方、クラリスの視線はさらに鋭くなる。
「マルス」
「いやだから違うって。誤解だ」
「そ、そうよ。マルスは本当にーー」
クラリスのミネルヴァの二人に、アスカとマルスが必死の弁明を試みようとした瞬間、衝撃とともに実験モジュール全体が激しく揺れた。
次の更新予定
フェルミオンの天蓋 Ⅲ〈MARS〉 周雷文吾 @around-thunder
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