第8話 ザ・レッド
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その男性は、五十代とおぼしき背格好に見えた。
マルスやクラリスたちのようなラフな格好ではなく、グレーを基調とした詰襟の服を着ている。士官だとも、研究者だとも言えそうな服装だった。
『アルテミス単独では入れなかったはずだが……ミネルヴァ君のハッキング技術を鍛えすぎたかね?』
そう言う彼の姿は、時おりノイズが走るかのようにぶれる。見れば彼の頭上、車庫の天井にあるホロライトがちかちかと点滅していた。
『師匠。あたしじゃないですよーう』
ミネルヴァが男の隣に現れ、パタパタと手をふる。いつも身長三十センチメートルだった彼女は、今は等身大のサイズで表示されており、男の胸辺りくらいはあった。百五十センチメートルくらいだろう。
『そういうところだよ、ミネルヴァ君。アルテミスからそんなに簡単にこちらのホロライトにアクセスはできないハズなんだがね。この調子では、このハイヴⅢもそのうち乗っ取られてしまうな』
『この前使ってみたコードを簡略化してみたんです。結構うまく行っちゃいました』
そう言って、ミネルヴァはウインクして見せる。
ミネルヴァの話す内容のわりには、男はひどく楽しそうに笑う。
「ザ・レッド。お久しぶりです」
『ああ、マルス君にクラリス君。久しぶりだね。今回はいったいーー』
「ーーあなたは」
アスカは男ーーザ・レッドーーとマルスたちとの会話など耳に入っていなかったらしい。呆然としたまま、男の言葉など気にも留めずに声をかける。
ザ・レッドは膝をついたままのアスカを見て、柔らかくほほ笑む。
『はじめまして。お嬢さん』
「……はじめ、まして」
ザ・レッドの言葉に、アスカは少しだけムッとする。
はじめまして、というその言葉に納得していないことがありありと伺えた。
「おい、どーゆーことだよ。ここの管理者コードも知ってるし、二人は知り合いだってのか?」
『いやあ、違うんじゃないかな』
ザ・レッドの曖昧な答えに、マルスは語気を強める。
「ザ・レッド。あんたってヤツは……」
「マルス。ちょっと抑えて」
クラリスに言われて、マルスは息を吐く。
「ああもう。……ったく」
『それで、今日はどんな用で来たのかな? またなにか買い物でも? ……ああ、ともあれゆっくりできるところに移動してから話を聞こうか』
そう言うと、ザ・レッドは姿を消し、今度は開いたままの通路に姿を表す。
『さ、向こうへ行こうか』
「ザ・レッド。今日はここにいないのか?」
『ああ。あいにく、今日は別のところにいてね。映像だけで申し訳ない限りだ。大したもてなしもできないが……幸い給水系統は生きているのでね。お茶くらいなら出せるよ。セルフサービスだがね』
「へえ。まあでも、いつもならアポイントメントとってから来てたからな。そーじゃなきゃいつもここにいるわけねーよな。俺らなんかのためにここに居続けるメリットがない」
『はは、手厳しいな。マルス君は』
「安くしてくれるなら、いくらでもへりくだりますとも」
マルスとクラリスはザ・レッドを追って通路を通り抜ける。
『君たちの望むものがもっと簡単に調達できるなら、今より安くすることもできたんだがね。これでも本当に安くしているんだよ』
「だろうけどな」
遠慮のないあけすけなやり取りは、マルスとザ・レッドの間にはそれなりの期間の付き合いがある証だった。
通路の奥の扉が開き、次のモジュールが見えてくる。
そこもそれなりの広さのモジュールだった。入ってすぐ右側に大きなテーブルがあり、その向こうの大きな窓からは火星の荒野が望める。
左側は各種調理設備や給水設備がコンパクトに収まっている。住居で例えるならリビングダイニング兼キッチンというところだ。
入ってきた通路の他にも三つの扉があり、ここから各モジュールへとアクセスできるようになっている。つまるところ、このモジュールは基地全体における中心であり、基点となる場所のようだ。
『こちらへどうぞ。飲み物が欲しければキッチンを使ってくれたまえ。コーヒーと水と……オレンジジュースが選べたんじゃなかったかな?』
『わーい!』
「お前が喜ぶのかよ」
はしゃいでキッチンへと駆け寄るミネルヴァのホログラムに、マルスが思わず突っこむ。
クラリスに座ってろ、という仕草をして、マルスもまたキッチンへ向かう。
マルスは勝手知ったる様子で、戸棚からマグカップを三つ出し、コーヒーを二つとオレンジジュースを一つをセットする。何度か来ているだけあって、やり方を心得ているようだ。
クラリスが大人しくテーブルに向かいソファに腰掛けると、向かいの椅子に座ったザ・レッドが現れる。
『それで……君たちが急にやってくるのも珍しいね。何かあったのかい? と言っても……彼女のことなのかな、とは思うがね』
ザ・レッドがちらりとアスカへ視線を向ける。
アスカはモジュールに入ってきたところで立ち尽くし、相変わらず呆然としたままのように見える。
「ええと、そうなんです。彼女……あ、アスカって言うんですけど。なんていうか……私たちもよくわかっていないんですけど、アスカとはたまたま火星の荒野で移動中に出会ってーー」
「ーー拾った、の間違いだろ」
マルスが三つのマグカップをテーブルに置く。その内の一つ、オレンジジュースの入ったものをクラリスに渡した。
「そんな言い方は……」
と言うものの、その通りかも、と思い直したのか、反論をやめてマルスから受け取ったオレンジジュースを一口飲む。
「人なんかまともに生活できないところで拾って、本人も何がなんだかわかってない。宇宙服? だかなんだかを着てて、聞けばIDも持ってないんだと。成り行きで乗せて、ロサンゼルスドームまでは送ってやるって約束したものの、IDが無いんじゃ流石にドーム内まで連れていくこともできない」
「それで、ザ・レッドにアスカのIDをお願いできないかなって思って来たの」
『あたしたちのIDが使えてるのも師匠のおかげだし、なんとかなりますよね?』
クラリスの隣に現れたミネルヴァが小首をかしげる。彼女の手には透明なグラスが握られていて、緑の蛍光色の液体がしゅわしゅわと泡を立てていた。
「ミネルヴァ、なにそれ」
『メロンソーダ……っていうのを再現してみようと思って。んー……すっごい甘い。炭酸はよくわかんないなぁ。再現できてないってことなんだろうけど』
ちょっと失敗した、と言いたげな顔をして、ミネルヴァはそのメロンソーダを飲む。
「メロンって確か……地球にあった果物でしょ? そんな色してるの?」
『調べてみたけど、メロンソーダってほとんどメロン使ってなかったみたいだから、違うんじゃないかな?』
緑の蛍光色なんていうとんでもないゲテモノを口にしてるミネルヴァを横目に、クラリスはそれがホログラムだとわかっていても口が引きつっていた。
「ふうん、変なの。昔の地球ならなんでも作れたはずなのにね」
『当時の地球は今の火星よりももっと人口が多かったからね。その分格差も圧倒的だったし、一部の人しか享受できない希少品や高級品もたくさんあったんだよ。平等を叫んで実行を目指したところもあったけれど、あまりうまくいかなかったしね』
ザ・レッドは悲しそうにつぶやく。
「だから、本物を使わない名前だけの飲み物があったってか? 人類がバカばっかなのは、昔から変わんなかったわけだ。でーー」
マルスはブラックコーヒーを飲みながら、もう一つのマグカップーーコーヒーにミルクと砂糖を入れたものだったーーを手にモジュール内を見回し、言葉を切る。
テーブル周りに座っているのはマルスとクラリス、ホログラムのミネルヴァとザ・レッドの四人。他にはモジュール内には誰もいなかった。
「ーーアスカのやつ、どこ行きやがった? ったく、人のトコ勝手にうろつきやがって……」
『まあまあ。落ち着きたまえよ、マルス君。彼女の好きにやらせても構わんさ』
ザ・レッドが冷静に告げる。
「ンなこと言ったってよーー」
『ーーわからないが、彼女自身なにか思うところがあるのだろう。別になにかされて困るようなものがあるわけでもないのだからね』
「あんたがいいって言うならいいけどよ」
マルスは肩をすくめる。
『んー……。アスカさんは隣の実験モジュールにいるみたい。備え付けの椅子に座ってぽかんとしてる』
『ミネルヴァ君……』
メロンソーダを飲みながらこともなげに言うミネルヴァに、流石のザ・レッドも絶句する。
「ミネルヴァ、まさか基地内の監視カメラ見てんのか? ……それ、下手したらアスカより好き勝手してんじゃねーか」
『え? その……えっと、でも……師匠もなにかされて困るようなものもないって……』
マルスの指摘に、うろたえてしどろもどろに言い訳をするミネルヴァ。何かを払いのける仕草をしたのは、監視カメラの映像を視界から削除したのだろう。
『いやまあ、そうだけどね。ハイヴⅢはもうミネルヴァ君に乗っ取られてしまったな。まさか十分程度でそこまで掌握されるとは』
『いやいや、師匠。そんなつもりじゃ……ごめんなさい』
『ははは。ミネルヴァ君なら構わんさ。君の成長をここまで感じられることになるとは、思いもよらなかったよ。どちらかというと嬉しい誤算だね』
ザ・レッドは朗らかに笑うと、ミネルヴァの手元を指す。
『特にそのメロンソーダは興味深いね。味覚と触覚を如何に再現するか、という点でミネルヴァ君がどんなアプローチをしたのか気になるところだ。ふむ、そうだね。私なら……』
ザ・レッドは少し考えてから、指を鳴らす。
すると、ミネルヴァの手元に同じような緑色の飲み物が現れた。ミネルヴァのものとは違い、中には氷が浮かんでいて、上には白い球体が浮かんでいる。ついでに赤いストローも刺さっていた。
『うぐ。やっぱり師匠のはクオリティが違う』
『バニラアイスを浮かべると、メロンフロートとかクリームソーダ、というらしいね。試してごらん。私のものも上手くいっているかわからないがね』
ミネルヴァが恐る恐るストローに口をつける。
『んっ! おんなじ甘さなんだけど、冷たいし、なんだかぱちぱちする! あたしのはビミョーだったけど、これは美味しい!』
『ふうむ。パチパチ、になってしまうか。シュワシュワ、と感じるようにするにはまだ改良が必要みたいだね』
そうぼやくザ・レッドなどお構いなしに、ミネルヴァは早速ザ・レッドが作ったクリームソーダのデータコードを開き、解析を始めてしまう。
『おやおや。これは将来有望だね。優秀なシステムエンジニアになるよ、これは』
「ザ・レッド。それはいいけどよ……」
二人の会話についていけなかったマルスが口を挟むが、ザ・レッドは分かっているさ、という風にうなずいて見せる。
『IDチップのことだろう? それ自体はどうということはないよ。現状はアルテミスの設備的にも、ご覧の通りミネルヴァ君のスキル的にも、問題なく偽装が可能だろう。しかし、本来はIDチップは頸椎付近に埋め込むものだ』
「ならーー」
マルスの言葉を予測して、ザ・レッドは首を横に振る。
『簡易的なものではあるが、それでも外科手術に当たる。君たちだけでやるのはオススメしないな』
「……」
「……」
『とりあえず、ロスに入る分には問題ないように整えよう。だが、アスカ君のIDチップの埋め込みが完了するまで、アスカ君とアルテミスーーつまりは君たちは一蓮托生ということになるな。ロスまで送り届けたらお別れ、と思っていたかどうかはわからないが、お互いにその点で合意を得ておくべきではないかな』
「……確かに、そうだな」
『えー。あたしは一緒でもいいのに』
クリームソーダの解析が終わったのか、ミネルヴァがテーブルに突っ伏しながらそう言う。
「それはそれで、アスカが私たちと一緒にいたいかどうか確認しなきゃ」
『でもーー』
「ーーロサンゼルスドームに知り合いがいたら、考えが変わるかもしれないだろ。どっちにしろ、アスカの意思を確認するべきなのはその通りだ」
『むぅ』
マルスの言葉に、ミネルヴァはほほをふくらませる。
『ま、アスカ君が望むなら、この基地にしばらく滞在しても構わないがね。私も一ヶ月以内にはここに顔を出すわけだし』
「いや、それは流石に過酷過ぎるだろ……」
なにが面白いのか、含み笑いをしてそう言うザ・レッドに、マルスは呆れてそう告げた。
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