失恋歌

雨乃よるる

第1話

 換気扇の音が回る。キッチンをせわしなく沸騰させていくその音に身を任せながら、私は彼氏のために夕食を準備する。換気扇にかき消されるくらいの小さな声で、ラブソングを口ずさむ。失恋の歌。私の大好きな歌。


 彼氏はソファでスマホゲームに没頭している。彼氏はおしゃれには気を遣っているみたいだが、怒りっぽいところがあり、あまりその性格が好きではない。顔もタイプではない。ただ、彼のために夕食を準備し、好きな歌を歌うこの時間だけはいいようもない快感を感じる。そのときのためだけに恋をしている。


 「おいしいね、これ」とたいして美味しくもなさそうに彼氏が言う。ありがとうと満面の笑みを返す。彼は表情を緩める。

 食事の片付けも私がする。彼氏はまたゲームに没頭する。片付けが終わると、彼は身体を求めてくる。いつもせっかちだ。風呂に入ると匂いが消えてしまうから、入る前にしたいのだという。感覚がまったく理解できないが、私はそれに付き合う。


 そろそろ潮時だろう、と私は冷静に頭を巡らせた。至高の時間だったこの恋愛も、終わらせよう。だってのその先には確実に、私の求めているものが待っているはずなのだから。


 次の週、友人のSを誘って、彼氏と三人で出かけた。彼氏のタイプの顔や行動は、これまでの半同棲生活ですべて観察していた。タレ目とアヒル口で、わざとらしいほどニッコリ微笑み、自分に何でも尽くしてくれる女性。できれば身長は低めがいい。Sは外見的特徴はすべて(私よりも)満たしているし、Sにはそのことをすべて伝えてあった。


「で、何がしたいの、ふうちゃんは」

 Sに今回のことを頼み込んだとき、私はそう質問された。

「えっと、失恋……?」

「何どういうこと?」

「失恋が経験してみたいから、Sちゃんに私の彼氏を獲ってほしいのよ」

 Sはしばし不思議な目で私を見たあと、けたけたと笑い出した。

「ふうちゃんて、優しそうな顔してたまにぶっ飛んだこと言うよね」

「好きな失恋ソングを理解したいから、失恋してみたいっていう極めて純粋な気持ちなんだけど」

 私がすっとぼけると、Sはあきれ顔で笑って、急に無表情になり、アヒル口をさらに尖らせてから、「じゃあ今度何かおごってよ」と言った。


 その歌に出会ったのは、14才の夏。休日、両親とショッピングモールを歩いていた。婦人服の売り場でロングパンツを見繕っていたときに、ふと思考の隙間に滑り込んできた店内BGM。その音は不自然にバイブして、私の奥底にあったひびを押し広げた。その割れ目を埋めるように、一心不乱に、私は曲の歌詞をきき取り、グーグルの検索画面に打ち込んだ。曖昧な発音を正確にきき取るのは難しく、間違いだらけだったが、なんとかその曲にたどり着いた。Jロックの有名なバンドの曲だった。

 帰ってからMVをYoutubeで再生した。甘いギターのアルペジオが脳を溶かした直後に、かすれた声でボーカルが入る。「枯れた不得手な植木鉢 焦がれた炎と灰のゆき場」語るようなAメロ。強い子音の後からきこえる母音は籠もり、隠れ、捻じ曲がり、あらぬ方向から刺してくる。

 「まるで初恋だったよな僕ら まぎれもなく僕はそうだったよ」。音が濃縮して発散する。ボーカルは人が変わったように声がどこまでも伸びていく。薄く、薄くひきのばして、サウンドのあいまに消えてしまいそうなほど、遠くまで飛んでゆく。

 スマホできいて、CDを買って、イヤホンをさして、どの場所、時間で流したとしても、それは私の予想を超えて心を埋め尽くした。心臓が陶器だとしたら、その曲は何度もそれを割り、粉々にし、別の形に再生した。

 水やりが下手で枯れてしまった植木鉢の花、燃えた炎のあとに残った灰、洗面台の水垢、換気扇の音だけが響く夜。歌詞の情景を細やかに想像したが、結局その景色がどういう意味を持つのか、わからなかった。もう一度、次は表面をなぞるように歌詞を読み返すと、どうやらそれは失恋の歌だった。

 けれど、歌詞の奥底の情景と、表面の情報が、いつまでたっても上手く噛み合わなかった。その中間に、何か大切な物がある気がした。知りたかった。理解したかった。大好きな歌を。


 集合場所でSと待っていると、彼が来た。遅れたことを詫びる気配もなく、ポケットに手を突っ込んで鼻歌を歌っていた。そのメロディに聞き覚えがあった。みぞおちのあたりが押さえ付けられるような感覚があった。

「あれ、その歌、知ってるの?」

 私が訊くと、彼は

「ふうちゃんがいつも歌ってるやつじゃん」

と軽い口調で、当たり前のように言った。

「夕飯の準備してるときに」

 換気扇の音でかき消され、彼には聞こえていないと思っていたのに、聞こえていたのだ。はじめから秘密などなかったのだ。彼はうろ覚えの歌詞を、音痴に歌い始める。音楽は歌い手によって一瞬で汚くなる。私の花園を土足で踏みにじられた。そのとき、私と彼を隔てていた壁が、決壊した。急に、彼が人間に見えてきたのだった。

「ふうちゃんの友達って言ってた子、この子?」

 彼がSちゃんに視線を向ける。私の中の異変にまだ気づかないSは、打ち合わせ通り、わざとらしい笑みで自己紹介する。彼も名乗り、目的地の水族館をマップで検索して、行こうか、と先導する。Sはそれとなく彼の隣を陣取り、話題を振る。彼の表情が、変わらない、変わらない、変わった。天秤が傾いた。彼はとたんには饒舌になる。私のことなど見えていないかのように、Sと話し始める。

「もういい!」

 違う。これは安い嫉妬じゃない。もっと高尚な何かだ。

「Sとばっか話したいならそうすればいいじゃん」

 何か違う。まだ二人は数分しか話していない。これではあまりに唐突だ。

 彼は肩をビクッと震わせて、振り返る。

「てか、夕飯作ったことなかったよね、あんた。ずっとあたしが作ってたよね、他にもいろいろ、」

「それは、ふうちゃんが作るよって言ったから」

「それはあんたが自分のために飯作ってくれる女が好きだからだろ」

 叫んでいるうちに自分でも論理が破綻して行くのがわかった。彼は突然のことに戸惑い、情けなく開いた口から言い訳を垂れ流している。

「わけわかんない!」

 彼に向けられたのか自分に向けられたのかわからない言葉が捨て台詞となった。彼氏の好みに合わせて自分のお金で買った黒のロングスカートが、歩くのに邪魔だった。


 帰りの電車で、ワイヤレスイヤホンをつけて、Apple Musicを開いた。嫌なことがあったときの、脊髄反射の行動だった。あの曲の再生ボタンを押そうとして、指が止まった。

 聴きたくない。初めてそう思った。聴いても意味がないと思った。聴く資格がないとさえ思った。

 iPhoneを握って、画面を見つめたまま、電車は自宅の最寄りまで着いてしまった。彼氏とSから心配のLINEが来ていたが、Sには「ごめんね」とだけ返信し、あとは無視してしまった。

 家までの道を歩いた。まだ明るく、並木が日差しを受けて眩しいほどの緑色をしていた。

 通りを行く車の音に混じり、枯れた不得手な、と空耳が聞こえてきた。咄嗟に耳を塞いでも、頭の中で歌詞が次々に流れ続けた。

(まるで初恋だったよな僕ら)

 やめて。

(まるで初恋だったよな僕ら)

 なぜかそこだけ何度もループする。

(まるで初恋だったよ)

 清廉なウィスパーボイス。私の周りではだれも、こんな声では歌えないだろう。世界中のだれも歌えないだろう。

(まるで初恋だったよな僕ら)

 たぶん僕は過ちを犯したから、君の思い出もないと思うよ。何がないのだろう。僕は何がいけなかったのか。なぜ僕は歌詞の中の「僕」になれなかったのか。どこかで間違えたのだ。心のどこかに欠陥があった。だから私はあの曲を永遠に失ってしまったのだ。


 シャワーを浴びている間に、気づけばまたあの歌を口ずさんでいた。口ずさむ、というより叫んでいた。腹の底の収まりの悪いのをぶつけるように、力一杯がなっていたのだ。自分の汚い声で吐き出される歌に、悲しい気持ちがした。悲しい気持ちがまた腹の底を掻き乱していくから、押さえ付けるようにがなった。そうしていると、徐々にひびが入っていくのが見えた。薄い膜で包まれていたものが、膨張して、はちきれんばかりになって、そしてはじけた。生傷が風に触れた。私は瞳孔を開いてそれを見た。同じ曲とは思えなかった。


 生まれた。出会った。


 歌詞も音符もノイズも、表面も内面も溶けて、一緒くたの熱い塊となって落ちてきた。それは正真正銘の、私の曲だった。


***


Fin.

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失恋歌 雨乃よるる @yrrurainy

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