鈴虫が泣く頃に

 いつ赤子も昭子も死んでも、おかしくない。そう乳母たちに、言いづらそうに言われた日は、奇しくも、昭子との婚礼の儀があった晩のように、鈴虫達の声がよく通る、寒い晩のことであった。



あの日とは反対に、すっかり硬直して冷たく瘦せこけた妻の手を必死でさする私を、ジッと見つめていた昭子は、今まで黙っていた様々な秘密を、おもむろに吐露しだしたのだ。




「私ね…、貴方との子どもを妊娠したら、死ぬだろうと分かっていたの。私の母も病弱で、私は、母の命と引き換えに…生まれてきたから…。」



初めて聞く話に、混乱して泣き出しそうになったが、こんなにも途切れ途切れに弱々しく呟く妻が可哀想でやりきれなくて、私は、昭子が話してくれなかった事を責める気になど、どうしてもなれなかった。




「…そうか。」




私が震える声で相槌を打ったのが分かったのだろう。もう目もあまり見えていないのに、昭子はそんな状態でも私を思いやった。




「最期まで、我儘でごめんなさい…父様に、貴方に言わないようにずっと口止めしてい

たの。」




関白殿の、真っ白な白髪頭が浮かぶ。愛娘が倒れてから、二回り以上も瘦せた養父の後ろ姿は、最近まるで老人のように見えた。まだ、そんな年ではないのにも関わらず、だ。




「うん…。」




「妊娠した時、貴方の知らない所で、父様と大喧嘩になったの。父様ったら、ひどいのよ?不能かもしれないと噂の男だと知っていたから、安心して嫁にやったのに、妊娠するとは何事か!?って。あんなぼんくらの子どもはいらん、今すぐ子どもをおろして、実家に帰れって、喚き散らしてうるさかった。」




「ぼんくら、か…関白殿みたいなやり手の政治家からしたら、私みたいな不真面目な歌人は、間違いなく、ぼんくらだな、はは…。君を妻に迎えられたのが、不思議な位だもの。よく、選んでくれたよ…やっぱり、関白殿がおっしゃるように、不能だと噂になっていたから?」




おどけてそう返すと、まだそんな力が残っているのかと思うほどに、昭子に強く手を握られた。




「違う!私たちには、武丸がいるのに…そんなこと、二度と、言わないで…!」




振り絞るような悲痛な声が不憫で、思わず、涙が零れ落ちた。嗚咽が響かないように奥歯を嚙み締めながら、昭子の腹を強くさすってやる。



 もう、武丸の返事はなかった。乳母たちの話では、もしかしたらへその緒が首に絡まって、すでに死んでしまっているかもしれない、とコッソリ言われた。



だが、そんな残酷な可能性を、まだ我が子が生きていると信じてやまない妻に伝えることなど、私にはとても出来ない。また、もしそんなことを伝えて、ショックのあまり、昭子まで失ってしまったら…そんな現実に直面していることすら、私にはもう、信じられなかった。




「すまない、私が悪かったよ。ほとほと私は父親失格だなあ。悪かった、昭子、武丸。」




「…あのね、前に、貴方は女子以外にも人気者って言った理由、教えてあげる。」




涙をこらえる私の気持ちを知ってか知らずか、たどたどしく昭子は言う。




「わたし、ね、本当は婚礼の儀よりずっと前に、貴方の事を御所の御簾の中から、見ていた事があるの。



中庭で、若者たちが蹴鞠をしていて、その中に貴方もいた…。そしたら、蹴鞠に当たって、空から雀の雛がケガして落ちて…けれど、皆知らん顔で、平気で蹴鞠をしてた。



ハラハラして見ていたら、貴方だけ雀に気付いたの。貴方は、蹴鞠そっちのけ、雀の手当てをして、餌まであげて、治るまでずっと面倒を見てた…その面差しが凄く優しくて、この人の妻になろうって、私が決めたの。



父様は、一番位の高い金持ちの男にしろ、って言ってたけれど、父様の言う事を初めて無視して、私が貴方を選んだ…。」




「…そんな嬉しい事を教えてもらえるなんて、今日が私にとって最高の日だ。大好きな君の夫に選ばれた事が、私は、人生で一番、嬉しいよ。」




髪を撫でてやると、もう焦点のあっていない目を細めて、昭子はにっこりした。




「私、それまで、ずっと、淋しかった。母様を殺した忌み子って呼ばれて、弟妹たちには疎まれた…そんな事、忙しい父様には言えなかった…。



それに、父様が私に与えようとしてくれる、お金や財産は、私の心をこれっぽちも埋めてはくれなかった…段々と、父様の押し付ける私の幸せと、私の求めてる幸せの違いに気付き始めた。



そんな折に、貴方と婚姻して…暖かい気持ちを知ったの…。貴方は、お調子者で明るくて、一緒にいるとすごい癒されて…家族になれたことが、楽しくて仕方なかった…。」





「私も、君と和歌の応酬をするのが、一番の幸せなんだ…だから、これからも、毎日一緒に詠もう…、ね…。」





もう、君は、恐らく筆を手に取ることすら、叶わないだろう。頭の片隅で分かっていても、私には到底、それを認める事は、出来ない。私の縋るような声には答えず、昭子は息も絶え絶えに、なお続ける。




「母様が、私を妊娠した時、父様は喜びも、気づきもしなかったんですって…もう、新しい正室の相手をするのと…出世に大忙しで…。




私ね、母様と話した事はないけど、母様が、他の女性をすすめた、本当の理由、分かる…。父様は、男の身勝手で、よく出来た妻だった、出世を配慮してくれた、なんて言ってるけど。



きっと母様は、私が貴方にしたみたいに、自分への愛の大きさを試したくて、言った、と思う…。」





「そうだね…、私は、君の真意に気付いていたよ。」




妻の手を握りしめながら答えると、昭子は満足そうに顔を綻ばせた。




「あなたは、ごーかく。こどもにたいする、たいども、わたしへの、たいども。」




そう、嬉しそうにニコニコ微笑み、昭子は歌うように、こんな事を言う。




「だから、ぜったい、あなたのあかちゃん、わたしがしんでも、うんであげたいと、おもった。あなたは、ふのう、じゃない。それを、わたしが、しょうめい、するから。じしん、もって。」




私は、昭子の出産への真意に、鈍器で殴られたような、衝撃を受けた。




「まさか…それだけが理由じゃないよね…??」




そう問い返しても、妻は、ふにゃっと赤子のような笑顔を浮かべるだけだった。





 三時間後、薄れゆく意識の中で、昭子は、私の子どもを産んだ。男児だった。名は、武丸。もう声もかすれているのに、昭子は、何度も何度も、その名を呼ぶ。私が命名した、私との愛息子の無事を確かめないと、死ねないというように。もう何もほとんど見えていない目を動かし、赤子を抱きしめようと、伸ばそうとする手は、虚空を切る。


 


 問題の武丸はと言うと、完全にへその緒で首がしまっていて、息も絶え絶えの状態。呼吸も薄くなっていき、生きているだけで奇跡的だ。恐らく、持って数時間という様子で、乳母たちは皆暗い顔をして、すっかり諦めモード。誰も武丸を触ろうとせず、奥方様がおいたわしいと、すすり泣くばかりであった。


 


 私一人がやっとのことで、ヒューヒューと呼吸する武丸を、必死にゆすっていた。素人目に見ても、武丸の体温が徐々に失われていくのはすぐに分かる。



しかし、私は、絶対に、武丸にも、昭子にも、生まれてきて、産んでみて良かったと、どうしても思わせてやりたかった。出産していない父親目線で見ても、通常の健康な赤子の二回りも小さく、頭がひしゃげ、呼吸困難で顔が赤黒く見える武丸が、助かるのが不可能なことは容易に分かった。




それでも私は、大きな声でゆすりながら、一人、必死に武丸に叫び続ける。




「武丸!お前が育っていくのを見守る日々は、父も母も、凄く楽しくて仕方なかったのだぞ!お前は、本当に手がかかった!母は、遠慮がちで優しいお前の大きな声が、一度で良いから聞きたいと言ってるんだ!頼むよ、泣いてくれ!一度だけで良い!泣いてくれよ!」




そう泣き叫びながら、知識もないままに、武丸のお尻を何度も叩く。この、私の、必死な願いに、最期に答えてくれたのだろうか。




「おぎゃあ…っっ。」




消え入りそうな、耳をすまさなければ聞こえそうにないその小さな声を、すぐにキャッチしたのは、母の昭子その人であった。




「たけ、まる!」




そう嬉しそうに叫んだ妻の手に、まだほんのりと暖かい息子の体を抱かせてやると、昭子は目が見えないのも構わず、それはそれは愛おしそうに幾度も幾度も頬ずりをして、私に向かって、得意そうに尋ねた。




「むすこ、いっしょ、うれしい?」




途端に、私も吠えるように泣きじゃくりながら、昭子と武丸に顔をこすりつけて叫んだ。





「うれしい、昭子、私の子を、産んでくれて、ありがとう…!武丸…!私の子に生まれてきてくれて、ありがとう!これからは、ずっと、ずっと、一緒だからな!たのし、い、な…。」



私以外の二人の体温が徐々に失われていくのを感じながら、私は、うわごとのように、二人に呟いた。




「また、すず、む、し、なく、ころ、ね…?」




 私の泣き声が余りにも酷いから、心配したのだろう。昭子は、最期、フッと来世での約束を交わすかのように、微笑んだ。



狂ったように泣き叫びながら、私にはもう、不思議と、昭子の選択を責める気持ちは微塵もなかった。確かに武丸を妊娠しなければ、妻はもう少し生きられたかもしれない。



だが私は、愛する妻が選んだ道が、間違っているとは、どうしても思えなかった。武丸のか細いながらも懸命な命の応答、昭子の満足げなあの表情。



それに勝る選択があるとは、もう私は考えていない。なぜならば、私たちはいつだって、最高の命の選択をしているのだと、私たちの魂の記憶の中で、彼らが何度も語りかけてくるからだ。そこにはいつも、確かな私たちの「愛の記憶」が存在している。

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鈴虫が泣く頃に @tiana0405

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