神頼みは、心を繋ぐ

 私の当たってほしくない得体の知れぬ不安感は、不幸にも、見事に的中することとなる。私との赤子を身ごもってから明らかに、昭子の身体は、日に日に弱々しくなっていった。



初めての待望の我が子出産を迎える、鈍い男親の私ですらも、これはいよいよおかしいと思うほどに、昭子の小さな身体は、どんどんやせ細っていく。有名な渡来人の医者を何人呼んでも、皆、一様に首を横に振ってあきらめる。



当時、私が生きていたこの時代は、母子ともに頑丈で健康体であったとて、思わぬことが原因で死産になる事が珍しくなかった。毎日、様々な伝手を頼って、私は解決策を必死で探した。そんな私を気遣うように、当の本人である昭子は、



「貴方がそんなに心配しても、産むのは私なのですから、心配は体に毒ですよ?」




と、落ち着き払って答えるばかりであった。だが、そう微笑んで答える昭子の腕は、まるで枯れ木のようにやせ細り、その事実はより一層、私の心に暗雲を立ち込めさせた。


 


 ある種、達観したように見える昭子の、出産への本心を知るまで、愚かな私は、この世にたった一人の愛妻を失うかもしれないという強烈な不安感から、時たま、実の我が子である赤子が死ねば、妻が助かるかもしれない、などという藁にも縋るような強迫観念に蝕まれる事があった。



自分にとって、天秤にかけるべきでない二つのかけがえのない尊い命の価値を、比べようとする己のその醜さに、私は震えが止まらない。二人の命の価値を比べてしまう時点で、鬼の如く穢れた私の心は、昭子の夫としても、まだ見ぬ我が子の父親としても、相応しくないのではないか。



そんな風に何度も自責の念に駆られた私は、今度は、自らの命と引き換えに、どうにか二人の命を救ってはくれぬものかと、都中の寺社仏閣を訪ねては、あらゆる古今東西の神々に神頼みを始めた。



周囲の貴族や通行人に、滑稽と思われるほどに、寺社の前で、深々と首を垂れ、みすぼらしくすら感じる乞食のような見事な土下座を披露する私の後ろ姿には、かつて風流人として浮名を流した貴族としての品格や立ち居振る舞いの欠片すら、感じられなかったのだろう。



いつしか、私が天下の藤原氏権中納言惟貞である、とは知らない通りすがりの悪ガキたちが、カエルのように寺社で這いつくばる私を面白がって、石を投げたり、囃し立てるようになった。



無論、いくら主人が多少奇異な行動を取ろうとも、私の必死な神頼みの理由を知る忠実な従者たちは、主人である私を守るために、狼藉を働く悪ガキたちを、牛をたたく為の鞭を振るって、追い張ろうとする。



酷くくたびれた、奇妙でヨレヨレの狩衣を羽織る疲れた私の元には、囃し立てに群がって来る割に、私の屈強な従者たちがビュンと鋭く鞭を振り上げれば、すっかり怯えて頭を抱え、惨めたらしく震えてうずくまる、顔の汚れた飢えた小さな子供たち。その大半は、孤児だ。ごく稀に、そんな悪ガキたちの乞食の親が現れては、子供たちを叩こうとする従者の脚に懸命に捕まり、哀れっぽく叫んだ。




「お公家様、子どものしたことです、どうかおらを叩いてくんろ!許してつかあさい!許してつかあさい!」


 


それは都では、以前からありふれた光景だった。昭子と婚姻する前の私であれば、何とも思わず、見過ごしていただろう。



だが今、必死で我が子と昭子の為に神にすがる私の目には、鞭に怯える世間に見捨てられた小さな汚い浮浪児たちの姿が、せっかく生まれてこようと頑張っているのに、母の命の価値と比べられ、一瞬でも、私に見捨てられそうになった我が子の小さな健気な命に、重なって見えた。


 

 つい先日も、私のたった一人の子どもは、すっかり衰弱し布団に横たわるだけとなった私のかけがえのない妻の腹の中で、数度、小さく壁を蹴って見せたのだ。



それはまるで、弱っている母の体調を慮ったかのような、優しげな音を立てる。その遠慮がちで、気遣うような波動は、精神的に疲れ果てた私の心の琴線を刺激するのには十分だった。気付けば、私の眼からいつのまにやら、幾つもの涙が、はらはらと零れ落ちていく。




「すまぬ…すまぬ…お前の事も母の事も、苦しみから助け出してもやれない、何も出来ない不甲斐ない父を、どうかどうか、許しておくれ…。」




私が出した力なく振り絞った声に、呼応するかのようだった。




「トン…トン…。」




偶然であったか、必然であったのか。私の父として情けない呟きを、まるで慰めるかのように、小さな足音が返事をしたのだ。




「そうか…!お前は優しい子だ…!私も、諦めないで祈禱し続けるからな…!諦めるんじゃないぞ…!」




興奮冷めやらぬ様子で、我が子を応援する私の声で、目覚めたのだろう。ゆっくりと目を開けた昭子が、そんな私の顔をジッと見つめている。




「ねえ…、貴方は、この子のこと、私と同じ位、大事だと思ってくれている…?」




 それは、身ごもってからの昭子にしては珍しく、気弱な台詞であった。私は、不安に駆られ、つい妻の顔を覗き込んだ。そこには、昔の昭子の、愛情を計りたがる子供のように、怯えた表情が揺れている。だから、病床の妻を安心させるために、ゆっくりと優しく髪を撫でながら、答えた。




「…正直な気持ちを、全部言っても良いか…?」




昭子は、聡明で鋭い女子だ。例え一時的でも、私の頭の片隅に芽生えた邪悪な感情の欠片位、もう感づいているだろう。その気持ちを誤魔化したら、余計に不安を煽ってしまう。…私は、素直に答えることにした。




「懐妊を知ったときは、飛び上がる程、嬉しかった。子どもの事は、出来なければそれで良いと思っていた。昭子とずっと二人で暮していくのが、私の幸せだったから、それ以上を望んでいなかった。私たちの子どもを授かった事が奇跡的で、信じられなかった。」




「フフ。」




予想通りの言葉だったのだろう、昭子が微笑む。




「だが、その内酷く心配になった。君の瘦せ方が尋常じゃなかったゆえ。昭子、私は…大切な妻の命を、我が子よりも優先したいと、つい一瞬、思ってしまったのだ。私の子なのに。私がはらませた子どもなのに。私は父親失格だ…。



本当にすまない、昭子、武丸…。しかし今は、毎日、二人が無事に生きてくれているだけで、私はお前たちが愛おしい。本当に、私を父親にしてくれてありがとう、昭子…。」




泣きじゃくりながら、私は妻と、息子に詫びた。昭子は、私の懺悔に対して、どこかスッキリした表情で聞いている。そして、呆れたように呟いた。




「…もう名前を付けたのですか…?まだ、男子か女子かも分からないのに…?」




「今、決めた!男子なら、武丸、梅千代、龍王丸。女子なら、小梅、椿、百合だ!」




「…とりあえず、ややこしいので、性別が分かるまで、最初に呼んだ武丸で良いですよ。」




お腹に手を当てながら、満更でもなさそうに、昭子は言う。




「…貴方を夫に選んで、良かった。」





目を瞑って、そう呟く妻の顔は瘦せこけていても、どこか幸せそうに見えたのだった。



 


 自分のやせ細った身体よりも、腹の赤子を大事そうに撫でる妻のその姿がまぶたの裏に浮かび、私は、ハッとした。目の前で、汚い我が子を必死で鞭からかばおうとする、みすぼらしい乞食の親の姿は、弱り切っている自分を差し置いて、我が子を守る妻の命の灯と、瓜二つなのだ。



「やめないか!」




私の大きな怒号に驚いて、従者たちも浮浪児たちもその親たちも、キョトンとこちらを見ている。気付けば、我が子と足音で会話した時のように、頬をとめどなく、涙が伝ってゆく。




妻と我が子の命を通して、私の心は、いつしか猛烈に、あらゆる命のきらめきに、強い感動を覚えていた。そして、その二人を必死で救おうと、みっともなく神頼みを続ける私自身が、まだ腕の中に抱いてすらいない我が子に対して、父性を抱きつつあることも、不思議でならなかった。



命の尊さが、日々、まるで聞こえてくるかのようで、その頃の私の心の中では、慈愛の炎がパチパチと火花を散らしながら、燃え滾っていたのだ。



 ふと、見上げた観音菩薩像の目の端に、涙のような朝露が伝ってゆく。神々も、思わず涙を落とすほどに、一つ一つの命が尊く、胸が痛くなる位に、もろいのだ。涙を狩衣の袂で拭った私は、振り向きざまに、従者たちに言い放った。



「観音菩薩様も、皆が不憫じゃと、泣いておられる。神頼みのついでだ、飢えている連中に、毎日食いきれない位、かゆを恵んでやれ。」




もう、食べ物が喉を通らない位、身体が弱っている妻の代わりに、見知らぬ消え入りそうな命たちが食べ物を口にしてくれれば、それだけ妻も少しは、加減が良くなるかもしれない。そんな迷信めいた考えが、慈悲深くなった私の心を支配していた。



実際に、その行為が昭子の病状に影響していたかは、最早分からない。ただ、私の日々の神頼みは、一種の祭りのようなものに変わった。



 真剣に神々に妻子の無事を願う私の横に、かゆを恵んでやった浮浪児たちや、乞食の親たちまでもが、共に首をたれて、会ったことすらない昭子の快復と、無事の出産を口々に願っていく。かゆの礼のつもりなのだろう。



しかし、たった数回のかゆの配給の礼として、ちんまりと石畳に正座し律儀に祈る彼らの姿は、途轍もなくいたいけで純粋無垢に見え、私の涙腺をますます刺激した。あの、最初は私に石を投げてきた悪ガキたちですら、たまに大きな声で私の屋敷に向かって、暖かい声援を送るようになった。



「ちゅーなごんー!おっかあ、げんきになるといいなあー!きょうも、かゆありがとうなー!」



悪ガキたちの声は、そのみすぼらしい外見からは想像できない位、不思議と澄み渡っていて、よく響く。悪ガキたちの声で、夢うつつから起こされた昭子は、何故かいつも嬉しそうにクスクス笑って、こう言った。




「貴方は相変わらず、女子以外にも人気者ですね。」




「全く、どういう意味なんだそれは…?」




「その内、教えてあげる。」




そう呟いて、いつも目を閉じる妻が、その意味をやっと教えてくれたのは、彼女が亡くなる晩のことであった。

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