『凍路輪舞』
「おあーっ」
イオンの大きな看板の、鈍い光を遠くに睨みつけながらキシキシと。
小気味の良い音を鳴らしつつ進んでいたら、ふと視界の端の暗闇へ、隣にいた鏡餅じみたシルエットが消失した。綺麗な『お』と『あ』を同時に発声しながら――器用なものだ。名の知れた
「大丈夫?」
その場で足を止めて、しかし二の舞を演じないよう踏ん張りながら隣を見やると、はてさて彼女は「大丈夫そうに見えるかい」と恨めしそうに私を見上げる。
まぁ、大丈夫か大丈夫じゃないかで言えば。
間違いなく大丈夫ではないか――その痛みは、私もよく知っている。
大学の後期授業を終え、長期にも程がある春休みに入った二月上旬。
今のうちに運転免許を取得しておこうと思い立った私は、山陰地方の某県某市――なんて伏せる意味も特にないか。島根県松江市にある自動車学校に通っていた。期間はだいたい二週間程度。
そう、合宿免許。私の地元は松江市ではない。どころか山陰地方でもない。近畿地方某県の、田舎なんだか都会なんだか判断し辛い街が私の住処である――お察しの通り、合宿免許を企画している自動車学校なんて近畿地方にもある。わざわざ島根県まで来なくたって。気まぐれなどではなく、もっと前もって探しておけば、私はそっちの学校で仮免取得まで漕ぎつけていたのかもしれないと思うと口惜しい。
思い立ったが吉日とはよく言うが、それならば右下あたりに米印をつけて。
思い立ったが既に遅かった場合はその限りではない、と明記すべきだ。
閑話休題――さても近場の自動車学校にこそ通えなかったものの、その時点での私はむしろ、自身は運が良いと思っていた。確かに往復の手間やら何やらはあるが、こういう機会でもなければ、自ら島根県に行こうなどとはきっと思わなかっただろう。見聞を深めるという意味でも、47都道府県からまた一つ未踏の地が消えるという意味でも、何処にだって行ってやろうじゃないかと息巻いてすらいた――要するに暇なのだ、大学生は。
そして四日ほど前、生まれて初めて松江の地に降り立った私は痛感した。
同時に、どうして松江の自動車学校には空きがあったのかも理解した。
二月上旬といえば、体感上でも暦の上でも当然の如く真冬である。
日本が一番冷え込む時期であり、積雪が最も多い月との説もある。
そして山陰地方は日本でも有数の降雪地帯で――つまり。
つまり二月の松江市は、ハチャメチャに寒かったのだ。
「私はどうやら雪を侮っていたようだ」
傍のガードレールを使い、ゆっくり立ち上がった彼女――
この合宿免許で知り合って、歳も宿泊先も同じということでちょくちょく話すようになった穴山だが、確か出身は関東地方だとかなんとか――関東の気候事情にはあまり詳しくないが、穴山の口ぶりから察するに、雪がよく降るということはないのだろう。
それに比べて松江市は――ずっと雪が降っている。本当に。絶えることなく。
常に吹雪いているというわけではないが、だから尚更質が悪い。夜に積もった雪は、昼の陽光に溶け拡がって。しかし蒸発するより先、夜には氷と化す――その上に、また雪が積もる。昇華の段階だけすっ飛ばした状態変化の繰り返しは、殺人的な滑りをもたらす。
初めてオーバーヘッドキックを放つことになるまで、あまり時間はかからなかった。
「合宿が終わる頃には、私たちは大空翼くんになれるだろうね」
誰だよ、大空翼――いや、キャプテン翼の主人公だっけ。なってたまるか。
呆れ交じりに吐いた溜息が、一瞬夜に白く煙り、そして消える――随分と闇が深い。人もいない。線路の高架沿いを進んできたはずなのに、どこかで道を外れたのではないかと錯覚してしまうほど。等間隔に並ぶ街灯は、しかし巨人の定規でも使ったかのように一つ一つが離れており、この夜の中にいてはひどく頼りなく思えた――少し急ごう。
いつかイナズマシュートを決めるつもりらしい穴山は放っておいて、私は再び凍った道を歩きだす。一歩、また一歩、足裏を確実に真下へ下ろすことを意識して。街灯に照らされ、微かにオレンジに染まった白の上に。細かく、しかし確実に足跡を刻む。足元だけでなく、少し先も注視するのがコツだ。テラテラと艶やかな、妖しく光を反射している箇所は極力踏んではいけない。普段なら気も留めない、傾斜とすら呼べないような角度にも気を配る必要がある――尻に響く鈍痛と、貫通するような冷たさを味わいたくなければ。
軽やかさとは縁遠い、精神を摩耗しながらの牛歩。
そんなだから、たった1キロちょっと先のイオンへ行くのに。
晩御飯を食べに行くだけに――随分と時間がかかってしまうのだ。
では地元民はどうしているのかというと、それくらいの距離ならみんな車を使うというのだから笑えない。その車に乗るための免許を取得しに来ているというのに。聞いたところによれば、車道の路面凍結もそれなりに危険なものだが、歩道で転ぶよりははるかにマシなのだそうだ――確かにあれは痛い。本当に痛い。痛いし冷たい。瞬間の痛みはいつもより鋭く、尾を引く痛みはいつもより長く。一度味わえば、誰もができれば二度と転びたくないと思うだろう。いや、私の場合は
人生七転び八起き。ここで七回も転んだら、次は起き上がれる気がしない。
それほどの悪路にも、車に乗れない私たちは、さっさと足を慣らすしかない。
「慣れたものだね」
「四日も経てばね」
ずいぶん背後から聴こえた声に、返事をしながら振り返ると、街灯と街灯の隙間の暗闇に溶け込むような佇まいでいる鏡餅――凍える寒さに耐えるため、しつこいほどの防寒装備に身を包んだ穴山は、オレンジ色のニット帽も相まって鏡餅のように見えていたが、こうして夜に紛れる姿は、まるで雪だるまの怪物のようにも見える。それにしてはスリリングな心地が一切しないのは、単に彼女の歩行速度が蝸牛の如きものだからだろう。
「もっと早く歩けないの?」
「生憎これでも全力なのさ」
なんの自慢だか不敵に笑ってみせた穴山は、直後再び「おうあーっ」と三重奏の悲鳴を上げながら転倒する。そのまま横倒しの姿勢で動かなくなった鏡餅に、私は溜息を吐いて道を引き返すと、やがて彼女を見下ろしながら「今日はもう帰る?」と訊ねた。
だって穴山には――わざわざ私とイオンに行く必要など、本当はないのだから。
予約した会社が違うのか、あるいはプランが違うのか。それともただただ、金銭事情が違うのか――毎日凍った道を行き、学校と提携している飲食店に専用のチケット渡さなければ、今日の晩御飯にもありつけない私と違って、ホテルのすぐ横にあるコンビニを利用するという手段と金が穴山にはある。というか昨日までそうしてきたはずなのに。
唐突に「チキンおかあさん煮が食べたい」なんて言い出すから。
こうして氷と雪で舗装された路上で、無様に横たわって惜しげもなく。
冷気に晒されているのだ――大戸屋なんて関東にいくらでもあるだろうに。
「そうでもないさ」
と、仰向けのまま穴山は答える。せめて起きて喋れ。
「少なくとも大戸屋イオン松江店は松江にしかない」
「松江店が松江以外にあったら、そりゃビックリするよ」
「それにこの雪路を君と歩くことも、君と食べるチキンおかあさん煮も、神奈川では決して味わえないものだ――歩きもするさ、どんな凍てついた道だって」
せっかく縁が“合った”のだから、と。
舞い散る白芥を顔に受けながら、やはり穴山は不敵に。
どこか楽しそうに笑ってみせた――なんだ、それ。恥ずかしい。大学生かよ。
「大学生だよ」
だから恥ずかしいことが好きなのさ――立ち上がった穴山の頬が少し紅く染まっているように見えたのは、この突き刺すような寒さと、顔面で受け止めた雪の所為だろう。
とはいえ腕時計を確認すると、ホテルを出てから三十分ほど経っていた。目指すイオンまでは、ここからあと700メートル。その半分以下の距離で、既に私の総数の倍近く転倒している穴山に、この先はやっぱり少し荷が重いかもしれない――だから。
キッチンミトンくらいふかふかな手袋に、包まれた穴山の手を取って。
「じゃ、ここから一蓮托生ってことで」
ギュッと握り締め、さながらペアスケーターのように。
これなら七転八倒も――まぁ、七転八起にできるだろう。
「恥ずかしいことが好きなんでしょ」
「いいね、情熱的なのは嫌いじゃない」
それならよかった。私も今は、熱いくらいが愛おしい。
夜の寒さには――逆上せるくらいが、丁度いい。
「今度、空きコマができたら松江城に行こうか」
「徒歩で向かう距離じゃないと思うけど」
「だからだよ。私も君も地元に帰れば、それなりの足が有る。なら――今は並んで歩いて行こうじゃないか。脚の使い方も、互いの顔も、いつか忘れてしまうのだろうし」
一歩、また一歩、足裏を確実に真下へ下ろすことを意識して。
街灯に照らされた夜を往く。仄かに光る白を蹴る。
細かく足跡を刻みながら――時折大きく、弧を描く。
「転んで骨折しても恨まないでね」
「一蓮托生じゃなかったのかい」
「怪我までしてやる義理はない」
「なんだ、冷たいやつ」
路面凍結だけに、と穴山は言う。
「滑ってるよ、それ」
路面凍結だけに、と私は返す。
どこまでも寒々しい、バカみたいなやり取りと。
雪の結晶が軋む音が、冬空に溶けていくのを聞きながら。
上手な二の舞の演じ方を覚えた頃、ようやくイオンに辿り着いた。
そしてその日、大戸屋は臨時休業していた。
心持ち百合な短編集 無患子茘枝 @Common-rare
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