心持ち百合な短編集

無患子茘枝

『八一五』

 ――ひとつ、昔話をしようと思います。

 昔といってもほんの十年ちょっと前の出来事となれば、昔話なんて言い方では大仰に過ぎ、実際のところはただの思い出話と言った方がいいのかもしれません。ただ当時六歳だった私の、不明瞭な十年ちょっと前の出来事は――ぼんやりとしか思い出せない記憶は、分類するならば、やはり昔話になるのだろうと思います。

 なので、あの茹だるような暑さと、果てのない青の中に見た。

 あるいは夢であったかもしれない彼女の話を、しようと思います――


 まず、なにより退屈していた気がします。小学校に入って初めての夏休み、夏の旅行代わりに帰省した母方の祖父母の家。当初は都会では見られない緑の多さや、愛しい我が家も比較すれば犬小屋程度にしか思えないくらい大きな、古き良き日本家屋に心躍らせていたものの――二日も経てば飽きてしまいました。どんな物珍しいものも慣れれば飽きます。なにせ時間はたっぷりあったのですから。木々を揺らす涼風にも、迷路のような家の冒険にも飽きた私は、だからといってゲームをする以外で時間を潰す方法を知りませんでした。チャンネルの少ないテレビ。ガラスケースに入った日本人形。おやつは煎餅とかおかきとか、四角くて固いゼリーのようなものしかなくて。小さいスーパーにさえ車が無ければ向かうことすらできない田舎――哀れ生粋の都会っ子は、忙しなさから隔絶された暮らしを楽しむ術など、最初から持ち合わせていなかったのです。

 だからといって、早く帰りたいとぐずったりはしませんでした。母親は実家でくつろぐだけで満足していたし、父親は祖父と一緒に毎日釣りに出かけて楽しそうだったし――退屈しているのはどうやら自分だけらしいと早々に気付いた私は、ただただ口を噤んで、ひたすらに時が過ぎてくれるのを待っていました。それだけの分別は持ち合わせた、変にお行儀の良い子供だったのです。


 お姫さまと会ったのは、そんな退屈極まりない時間の最中でした。

 青い羽根の扇風機の前で宇宙人の物真似をし続ける私を見かねてか、ふと祖母は「有理うりちゃん、近くに綺麗な小川があるで」と。お弁当箱と水筒の入ったリュックサック、ついでに大きな麦わら帽子を私に寄越して、いってらっしゃいと微笑みました――今となっては、六歳の子供を一人で川に向かわせるなんて危険極まりないと思いますが、思ったところで文句を言うこともう叶わないので、それだけ田舎は顔見知りが多く、都会よりかえって安全だったのだろうと納得することにしています――そうして祖母に見送られて家を出たものの、本当は心の底から億劫でした。小川なんてそれこそ都会にもあるし、田舎だからといって特別暑さがマシなわけでもありません。頭の中にまで響く蝉の鳴き声も、いよいよ五月蠅くて癪に障り始めていた頃です。だけどこのまま家にいたとて、どうしようもない退屈がずっと続くだけだろうから。小さいのにやたらと重いお弁当箱を、祖母がどんな気持ちで用意したのか考えてしまったから――仕方なくサンダルでぺったぺったと、祖母の家からほんの五分程度歩いた距離に流れる小川に向かったのでした。


「――ねぇ、あなた何処(どこ)から来たの?」


 そして、お姫さまと出会ったのです。小川といっても見晴らしはそこまでよくなく、むしろ視界の大半を伸び切った草が占めているような場所です。青と緑と灰色と、冷たい透明に囲まれていた私は――せせらぎに踝まで浸かり、ぼうっと突っ立っていた私は、背後から突如聞こえた声に、ひどく驚いたことをよく覚えています。

 勢いよく振り返ると、そこには不思議そうに首を傾げる少女がいました――どんな顔だったか、どんな声だったかは思い出せません。同い年くらいだった気もするし、年上だったような気もします。なにせ十年も前の話ですから。昔から伏し目がちな性格であったことも原因の一つかもしれません。交わした言葉こそ鮮明なものの、それはメッセージログを遡っているようなもので――彼女の見た目に関しては、ほとんど記憶にありません。

「白いね、あんまりお外出ないの?」

「あ、えっと……う……」

「坂の上のたちばなさんの家の子?」

 ズケズケと会話を進めるお姫さまに対し、私はひたすら戸惑っていました。人気もないところから音もなく現れた、やたらと馴れ馴れしい女の子――これが大人の男の人なら、私もすぐさま逃げることができたでしょう。いかにも怪しいですから。しかし相手は自分と同じ女の子で、かつ明らかに友好的でした。ここに来て数日、家族と祖父母以外に会っていなかった私に、学友にも近い距離間の彼女を拒絶するという選択肢は、終ぞ思い浮かばなかったのだろうと思います――何より彼女はとても綺麗でした。顔も覚えていないのに綺麗だなんておかしな表現かもしれません。だけど頬のあたりにまで昇ってきた、夏のものだけではない熱さを、今になってもしっかり覚えているのです。

「暇なら私と一緒に遊ばない?」

「う、うん……あそぶ……」

「もっと下流に行こうよ。ここ、蚊も多いし面白くない」

 ついてきて、と。お姫さまは私の手を握って駆け出しました。

 一歩踏み出す度に跳ねる水。足裏へ伝わるゴツゴツした石の感触。

 絵具をぶちまけたように真っ青な空。ふわりと揺れる白いワンピース。

 その時、なんとなく私は――夏に手を引かれているような気分になったのです。


「私ね、馬に乗ってきたの」

 しばらくして一気に視界が開けたかと思うと、私たちは下流に辿り着いていました。ゴツゴツとした石がツルツルしたものに変わり、日差しをたっぷりと浴びるためか、水がほんの少しだけ温くなったように感じました――あぁ、そういえば。

「おうまさん」

「帰りは牛に乗って帰るんだよ」

「うしさん」

 彼女のことを『お姫さま』と呼んでしまうのは、この荒唐無稽な会話がずっと頭の中に残っているからです。お馬さんに乗ってきたなんて、映画に出てくるお姫様みたいだと思ったから――だから、お姫さま。本当の名前は知りません。教えてくれなかったし、私も訊こうとはしませんでした。訊けばよかったのかもしれないけれど、当時はどうしてかそういう考えすら浮かんでこなかったのです――今となっては、訊かなくてよかったと。教えなくてよかったとさえ思います。

 遊ぶといっても、浅い小川でできることなんてたかが知れていました。水を掬ってかけ合ったり、平たい石を探して水切りをしたり、疲れたら座って色々なお話をしたり。祖母から貰ったお弁当箱を開けて、中に二つの大きなおにぎりが入っているのを確かめるや否や、顔を見合わせて笑ったりもしました。そんな些細なことでも楽しかったのは、やはり年寄しかいない田舎で、同族を見つけたような心地好さがあったからでしょうか――いえ、こういう言い方は誠実ではないかもしれません。


 白状すると私は、すっかりお姫さまに心を奪われてしまっていたのです。

 空の青を一人で背負ったような彼女と、少しでも長く一緒にいたかったのです。


 しかし別れの時はやってきました。あまりにも突然に、やってきました。

 私は河原に腰掛けて、しょっぱい後味をお茶で流し込んでいました。視界の真ん中ではお姫さまが何やら歌を口遊(くちずさ)みながら、小石を積み上げて遊んでいました――もう一息吐いたら混ざろう、などと考えていた時です。不意にお姫さまは立ち上がって。

「もう、こんなことしても意味ないのにね」

 たしかそんなことを小さく呟いて、小石の塔を蹴り飛ばしてしまったのです。ボチャボチャと小石が沈む音。水面に広がった無数の波紋――そして、しばらくの静寂。ビックリしている私に背を向けたまま、お姫さまは大きな溜息を一つ吐きました。

「どうせみんな忘れるよ」

「どう、したの……?」

「……もう帰って、雨が降るから」

「え……まだ、もうちょっと……」

「いいから。ここからいなくなって、今すぐに」

 とても鋭く、突き刺さるような声でした。怒られているような気さえしました。

 彼女の表情は見えません。だけど気付かぬうちに怒らせてしまったのだと思うと――さっきまで楽しかったのが全部嘘になったみたいで、そして泣き出しそうになりながら、弾かれたように走り出した私は、背後に小さな声を聞いたのです。


「――さようなら、バイバイ」

 

 その日、彼女の言った通り雨が降りました。一晩中降り続けた強い雨でした。

 あんなに背の高かった草も、お姫さまと出会った川辺も。全てが茶色く濁った水の底に沈んで見えなくなってしまっていたのを、私は家に帰る車の中から確認して、また泣きそうになっていました――それから一年が経って、思い出したように再び夏が巡ってきて。

 私はやっぱり祖父母の家にいましたが、お姫さまに会うことはありませんでした。

 その次の夏も、その次の夏も。一夏飛ばして次の夏も。数えて五回ほど、私は祖父母の家を訪れましたが、結局お姫さまに会えたのは最初の一回だけで――やがて彼女の顔も声も、あの夏の温度も、忘れてしまったのでした。


 ――以上が、私の昔話です。十年も前の、私にとっては大昔の出来事です。

 今は祖父母の家に行くこともなくなりました。行く必要がなくなったからです。私も気が付けば高校生になって、通学範囲内の世界から出ることが少なくなって――それでも夏を迎え、ふと切り取られた狭い青空を見上げると、頬の熱さと共に思い出すのです。

 彼女は何者だったのか。何処から来て、何処へ帰っていったのか。それはわかりませんし、わからなくていいような気がしています――きっと私は、今でも信じていたいのでしょう。十年前の夢の続きを、まだ無邪気に見ていたいのでしょう。


 ここではないどこか、気が遠くなるような青の向こう側で。

 白いワンピースの裾を揺らす、あの日のお姫さまの幻影を。


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