紫陽花という少女
犀川 よう
紫陽花という少女
わたしの小さい頃のとある二年間だけ、特別な六月があった。それは今でも考えられないような、静かながらもどこか危うげなものであり、人生で二度と同じ六月は存在しないだろうと思えるにたるものであった。
その年の六月は唐突な芸術の始まりであった。当時わたしの家の庭には紫陽花がたくさん咲いていた。植物に特段の興味がなかったわたしには、それらは毎年見るどこにでもあるような光景でしかなかったが、ある日この世に存在してはいけない美を感じた人が通りかかってしまった。見かけはどこにでもいる普通のおじいさん、という感じの人であった。
「きれいなものだねえ」
ただそこに咲いているだけの植物に当たり前に声をかけるおじいさん。わたしは何故だかわからないが、とまどうことなく、「どこがきれいなの?」と聞いてしまった。これまでも大人たちは紫陽花が咲く度にその咲き具合を褒め、まるで六月の象徴を崇めるかのように目を細めながら言い合っていたからだ。当時のわたしにとっては、まったくの意味不明な会話であり、おじいさんの言葉もまた、そのなかの一つでしかなかった。数える気にもならないくらいにたくさん咲くの紫陽花のような、ひどくつまらないものだった。
おじいさんはわたしの疑問に、紫陽花に向けたものに比べればささやかではあるが興味を示したようで、「おやおや」という表情をしながら、わたしに答えた。
「花というのはね。その咲いた瞬間から散る運命だからきれいなのさ」
「死んでしまうのに、生まれたことをよろこぶの?」
すこしだけマセた返事をしてみると、おじいさんはニッコリと笑って、「わしの家に来てみないか?」と誘ってきた。わたしは知らない人についていってはいけないことくらいは理解していたが、どうしても避けられない運命のようなものを感じてしまい、思わずうなずいてしまった。おじいさんは、ふむ、とつぶやくと、「紫陽花を一輪だけいただいいてもよいかな?」と聞いてきた。わたしには何の価値もないものであったので断る理由もなく、「いいよ」と言って、おじいさんの欲しい一本を家にあった剪定バサミで切って渡した。
おじいさんの家は子供と老人の足で五分もしない近所にあった。一人暮らしのせいなのか、家の外側は汚れが目立ち、なんとなく入りにくい雰囲気だった。幸いなことに家の中は掃除が行き届いていて、案内された和室は丁寧に掃除をされている。畳らしい匂いが漂っていた。
「その畳に寝そべってごらん」
わたしは何の疑いもなく寝そべった。視界には木目の天井が映り、夜眠る時にはなんとなく嫌だなあという気持ちになった。
おじいさんはわたしの家から持ってきた紫陽花を、仰向けに寝ているわたしのおなかにそっと置いた。まるで花瓶に生けるような、当然で何の疑いようもないとばかりの、自然な仕草であった。わたしは呆然としながら、おなかの上にある紫陽花を見た。
「どうだね。美しいだろう?」
「全然、意味がわからないよ」
おじいさんは、またのあの「ふむ」も出すと、わたしにおなかを出すように言ってきた。
「きっと紫陽花を直に感じられないからだろう。おなかに直接、置いてごらんなさい」
わたしにとっておじいさんの言った「ごらんなさい」という言葉は、人生で初めて出会ったものであった。その響きは非常に唐突ながらも何とも言えない魅力的なものであった。これまで誰からも言われたことのない、丁寧でありながら、わたしの心を優しく縛ってくるようなあやしい囁きがあったのだ。
わたしはスカートに入ったシャツを引っ張り、おなかが出るようにめくった。少しだけ肌寒さを覚えたが、おじいさんは構うことなくわたしの肌に紫陽花をそのままのせた。枝や花弁が肌にこすれ、くすぐったさを感じた。おじいさんの雰囲気がわたしが動くことを禁じているように感じたので、このどうしようもない痒さをただがまんするしかなかった。
「わかるかい? 生きたまま切られて死んでいく紫陽花が、これから大人になっていく生に満ちたきみのおなかに咲いている。とても美しいではないか」
おじいさんはうっとりとした顔で紫陽花とわたしを見ていた。わたしは鉢植えになった自分の目線から紫陽花を眺めた。その時はおじいさんの言うことが理解できなかったが、おじいさんがわたしをイヌやネコのような生き物の中のひとつにしか見ていないようでに、不思議な驚きと喜びを覚えた。
「おなかをふくらませたり、へこませたりしてごらん。紫陽花がきっと踊っているように見えるだろうから」
「いいけど、もう一回、『ごらんなさい』っていってほしい。その言葉を聞くと、何かやる気がでるの」
おじいさんは何度目かの「ふむ」を言うと、「では、お嬢さん。そのおなかを自分でしたいように動かしてごらんなさい」
おじいさんはわたしの欲しい言葉を知っているのではないかと思った。自分がしたいようにといいながらも、することは、おなかをふくらませたり、へこませたりするだけだ。だけど、その言葉に「ごらんなさい」がつくと、わたしは自分のおなかの下あたりが温かくなり、逆らえぬものを感じるのだ。
わたしはおじいさんのいう通りに、おなかを動かしてみた。紫陽花の枝がおへそに刺さっても、おじいさんはわたしがおなかを動かすことをとめなかった。わたしはただ、自分のおなかの上で踊る一輪の紫陽花を眺めていた。ときどきおじいさんの方を向いてみると、おじいさんは正座をして、黙って紫陽花を見ていた。そして、わたしがおなかを動かすことに疲れてやめてしまうまで、正座したままの姿勢で紫陽花とわたしのおなかに向かってそっと手を合わせ、感謝をするかのように祈っていた。
それからの六月末まではとても順調だった。わたしが一
翌年の六月はおじいさんの何かが移り変わるのを感じた。一年後に出会ったわたしに対して、「ごらんなさい」の言い方かが少しだけ粗くなっていたのだ。
わたしは子供ながらに、その声のトーンやおじいさんの振る舞い、わたしの上で咲いている紫陽花への愛情の程度から、おじいさんの落ち着きのなさを察した。わたしにはもう、紫陽花の死を受けとめられるだけの何かが失われたように思えた。おなかの下から感じるものは去年と何ら変わるものはないのに、おじいさんの歓心がどこか遠くへ行ってしまったような気がしたのだ。女の勘というやつに導かれた嫉妬に近い感情が、おなかの下あたりから胸の奥底へ流れ込んでいくような感覚だった。わたしの目から見える紫陽花は、去年と比べてその美しさも不思議さも、何も変わっているようには見えなかったのに、おじいさんの態度だけが、どこかわたしたち六月から遠く浮ついていたのだ。
予兆は確実なものになった。六月の下旬。それまではおじいさんに呼ばれてから行くのが約束であったが、わたしはそれを破り、紫陽花を持って勝手におじいさんの家に入った。ドアを開けても反応はなく、わたしは小さな恐怖と大きな失望を感じながらも、いつもの和室の襖を開けた。
そこには去年のわたしくらいの女の子が畳の上に寝ており、おなかを出して紫陽花を飾っていた。わたしに比べて少しだけ体形も紫陽花も小柄なように思えた。
わたしは驚いておじいさんに何度も声をかけるが、おじいさんはわたしなどいないかのように、その子のおなかと紫陽花を愛でていた。そこに何が存在しているかという真実は、おじいさんにしか理解できないのだろうけど、なんとなく、わたしもわかるような気がした。自分も紫陽花の一部になった経験があるからのだろうか。わたしが見ても、その子とその子のおなかに置かれた紫陽花は去年のわたしのそれのように、完璧な六月であった。
「無駄のない死と無邪気な生がある」
おじいさんはひとり言のようにつぶやいた。わたしも小さいながらに、なんとなく理解することができた。翌月から始まる、蝉が夏の暑さを抱えた土の上で死んでいく姿を想像した。わたしは土で、紫陽花は蝉なのだろうと思った。
わたしは驚いているその子に近寄った。そしてはだけているおなかを見た。わたし以上に白く、そしてつやつやしているきれいな肌であった。おじいさんが夢中になる気持ちがほんの少しだけわかったような気がして、何故かうれしくなった。わたしが蝉であれば、間違いなくこの土を選んで死ぬだろう、そんな気にさせられたのだ。
わたしはその子の上にまたがり、自分もおなかを出した。いつもより下腹部に近いところ出すためにスカートもずらした。そして呆然としているその子のおなかに祭られた紫陽花をどけ、自分のおなかをその子のそれに合わせた。――ひんやりとして、それでいなから温かいものを感じる――。心の中にある、いけない気持ちが弾け飛ぶような快感を覚えた。ゆっくりと丁寧に肌と肌を合わせていくと、その子は顔を真っ赤にしてとまどってはいたが、拒否はしなかった。だからわたしは、この機を逃してはならないとばかりにおじいさんに声をかけた。
「おじいさん。わたしに『紫陽花になってごらんなさい』と言ってよ」
おじいさんは「ふむ」と言ってから、わたしの注文通りの文言を、期待通りのトーンでわたしに言ってくれた。わたしはその子に覆い被さるようにしておなかを合わながら強く抱きしめた。肉体的な熱い心地良さを感じながら、自分のおなかを使って、その子の肌を吸い寄せるかのように生を受けとめようとした。下腹部までもが一体になりたいと密着を惜しまなかった。
その子が恥ずかしそうにモジモジするなか、わたしはその子に抱きついたままおじいさんの方を見た。おじいさんはいつものように正座をしたまま、その子が持ってきていた紫陽花の上にわたしの紫陽花を重ねる。そして、心よりの感謝を込めた表情で手を合わせると、「きれいなものだねえ」とつぶやいた。
紫陽花という少女 犀川 よう @eowpihrfoiw
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