第五章

 塩月の突然の奇行に、床を見て証拠を探していた鑑識や刑事たちは一瞬だけ顔を上げたが、間もなく元に戻った。本署の人間は、こういうことに慣れているのかもしれない。


 塩月は周囲の反応を気にすることはなく、廊下に通じる木製の扉にすたすたと近づいていった。扉の前後を何度も往復して見てから、小日向を呼んだ。


「君たち、最初にここに来たとき、いきなり扉を破ったの?」


「えぇ、まぁ、そうですね」


 須田さんがやったことなんですけど、と言いそうになったがぐっと堪えた。言い訳をしても仕方がない。何か問題になりそうな気はしていたが、自分もその場にいたのに止めなかった。


 塩月はこのとき初めて小日向の顔を正面から見つめた。まばたきをせず、探るような目で見てくる。純粋な好奇心の目だった。喜怒哀楽の表情ではない。世界をありのままに見つめる目である。


 小日向が言おうとしてやめたことも伝わったのだろう。小日向がすでに自省し始めていることに塩月は気づいていた。だからだろうか。怒り出すようなことはなかった。


 代わりに、教訓を与えることにしたらしい。塩月は目線を外して、元通り周辺を歩き回りながら訊いた。


「この事件の変なところに気づかなかった?」


「犯人が亡くなっていたことですか?」


「そのことは別に良い。一週間も飲まず食わずでいれば、餓死もしてしまうだろう。気になったのは、他の二点だ。


 まず、被害者が金属扉を閉めたことについて。被害者はその直前まで椅子に紐で縛られていた。だが、犯人が金庫室の中に入ると、いつの間にか紐は解けていて、自らの手で扉を閉めたという。血の手形の手掛かりはそう語っている。


 犯人が紐をほどく理由はまったくないから、被害者は自力で紐を解いたのだろう。決してあり得ないことではない。殴る蹴るの暴行を受けている最中に実はすでに紐が解けていたけれど、金庫室の中に犯人を閉じ込めるためにそのことを隠していたのかもしれない。でも、気に懸かる点ではある。


 次に、これが決定的な理由なのだけれど、これだけの大金を盗むにしては犯人の装備が不十分すぎるんじゃないかな。わざわざ金庫室を作っているくらいなのだから、被害者は相当な量の現金を持っていることが想像できたはず。


 それなのに、金庫室の中にあった甥の死体は着の身着のままで、リュックサックすら持ってきていなかった。寝室にもそんなものはなかった。となると、これだけの大金をどうやって持ち出すつもりだったのだろうか。


 札束が大量に入った袋をそのまま持って歩くわけにはいかない。せめて車でもあれば荷台に積み込むつもりだったとわかるが、甥の車は現場の周辺から見つかっていない。電車やバスで来たとしたら、なおさら現金の持ち帰り方が問題になる。


 となると、導かれる考えは一つ。金庫室の中で死んでいた人物だけで強盗殺人を行ったわけではない、という事実だ」


 塩月の発言は、事件の見え方を反転させるものだった。鉄壁の金庫室の中にあった死体は、犯人のものではないというのである。であれば、真の犯人は別にいることになる。


「真犯人が誰であるかを現時点で特定することはできない。だが、金庫室にある死体とは異なる共犯者がいることは明らかだ。金庫室の中にいる甥を殺した人物は、単独犯が金庫室の中にいると思わせようとしたんだ。


 金属扉に付いていた血の手形は、真犯人が被害者の手を使って付けたものに違いない。被害者は死ぬまで縛られたままで、紐を解かれたのは死んだ後だったんだ。


 金庫室の中にどれだけの現金が入っていたかは、被害者しか知らなかった。今見えている分だけでも十分に大量にあるが、金庫室の容量からすればまだこの二倍や三倍の現金が入っていた可能性も考えられる。手間は掛かるが、数年前からの金の流れを調べれば、金庫室の中にあった現金の量を大まかに推定することもできるだろう。そうなれば、実際に現金が盗まれたかどうかもわかる。


 つまり、強盗は成功していたんだ。被害者を椅子に縛り付けて暗証番号を聞き出した二人組の強盗は、金庫室の扉を開いて現金を盗み出した。おそらくその金は玄関前に止めておいた車にでも積み込んだのだろう。


 被害者の甥がさらに現金を持ち出そうとして金庫室の中で作業をしているとき、共犯者は突如として裏切り、扉を閉めてしまった。これで、金庫の中に取り残された甥は餓死するしかない状況になった。その後、共犯者は偽装工作として椅子に縛り付けられていた遺体の紐をほどき、片手を使って金属扉に血の手形を付けさせた。こうして、共犯者は悠々と事件現場から逃げ出し、捜査の手からも逃れることができたというわけだ」


 かくして金庫室から真犯人は脱出していた。金庫室の密室の中にいた死体は真犯人ではなく、金庫室を密室にした者こそが真犯人だったのだ。


 でも……? 小日向は疑問を口にした。 


「寝室の扉と窓にも鍵が掛かっていたから、共犯者も逃げ出すことができなかったんじゃないですか?」


「確かに鍵は掛かっていたけど、よく見てみてよ」


 塩月は木製の扉の鍵を指差した。小日向はおそるおそる顔を近づける。解説の声が耳に入ってきた。


「ちょっと調べればわかるんだけど、所詮、寝室の鍵だから大したものではないんだよね。内側からつまみをひねるだけ。それに応じて外側のネジみたいなものも回るんだよね。つまり、外側からネジを回すだけでも扉の鍵は閉められる。普通はやらないことだけど、やろうと思えばすぐにできることではある」


 大した密室ではなかった。それなのに、ろくに鍵を調べもせず、焦って扉を壊して大事おおごとにしてしまった。真犯人の術中に完全に嵌ってしまったのだ。


 寝室の密室は容易に作れるものだったが、とにかく密室であることが重要だった。犯人は寝室から脱出することができなかったという軽い先入観さえ与えられれば、金庫室の中にいる者が唯一の犯人だと思わせることができる。それ以外に共犯者がいる可能性までは思い至らないのだ。


 小日向はただひたすらに恥ずかしかった。警官失格である。顔がどんどん赤くなっていた。


「大丈夫? 体調悪いの?」


 塩月が顔を覗き込んできて表情一つ変えずに訊いてきた。塩月には小日向の失態を咎めるつもりはないらしい。


「大丈夫です」


 小日向は何とか言った。そうか、と塩月は言うと、小日向の肩をぽんと軽く叩いて他の捜査官のところに向かって行った。紺色のジャケットを着た塩月の背中が以前より大きく見えた。



 それから財津およびその甥を殺害した真犯人を追及する捜査が行われたが、結局逮捕には至らなかった。真犯人は街に放たれたままであり、間もなくまた別の不可解な事件が起きることになるのだった。


<完>

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いつまでも開かない金庫と密室殺人~不可能犯罪捜査ファイル01~ 小野ニシン @simon2000

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