第四章

 二日後、遺言書の開封の日になった。


 塩月は事前に被害者の妻と話を付け、リビングで遺言書が開封された直後に暗証番号を伝えてもらい、淑江の立ち合いの上で警察官が金庫室の扉を開ける段取りを付けていた。なにしろ金庫室を開けたら殺人犯が飛び出してくるかもしれないのである。武装した警官が開ける方が双方にとって都合が良かった。


 犯人の目星は付いていた。被害者の周辺を洗った結果、被害者の甥が事件当日から消息を絶っていたことがわかった。裕福な叔父の家を襲い、大金を奪い取ろうとしたが、逆襲に遭って今も金庫室の中に閉じこめられていると考えられた。


 リビングで、弁護士および妻、その他の親族が立ち合いのもと、遺言書が開封された。部屋の中に警官はいなかったが、塩月と浦部は廊下でこっそりと聞き耳を立てていた。小日向はこの日も玄関の前で見張りに立っている。


 遺言書の内容はいたって平凡なものだった。浦部は立ち聞きをしながらも連日の捜査の疲れであくびを繰り返していた。


 待ちに待った十六桁の暗証番号は遺言書の最後に記されていた。それはまったくランダムな数字の羅列だった。これほど厳重な金庫室を作るような人間は、誕生日や結婚記念日を基にして暗証番号を作ったりはしない。完全にランダムな数字の羅列を作り、電話番号と同じ要領で覚えてしまう。これが最も安全な方法なのだから。


 塩月は半分眠っている浦部の肩を叩き、意識を集中させるように促した。淑江が廊下に出てくると、寝室の前に立っていた二人は盗み聞きしていた雰囲気は微塵も出さずに、しらじらしく遺言の中身を聞きたくて仕方がないフリをした。淑江が暗証番号を伝えると、塩月は寝室の中に向かい、北の壁に取り付けられたキーパッドの正面に立った。


 数字を打ち込む前に、玄関前にいる巡査を呼ぶように浦部に命じた。浦部が間もなく小日向を連れてくると、寝室の入り口のところで淑江と一緒に金庫室の扉を開けるところを見ているように、と命じた。


 小日向はその命令の言外の意味も受け取った。淑江を見張っておくようにとの命令だ。


 犯人は被害者の甥と見られている。すなわち、淑江の甥でもある。場合によっては、二人が共犯ということも考えられる。金庫室の扉を開けた瞬間に、淑江が犯人を保護しようとしたり、証拠を隠滅しようとしたりする可能性がないとは言えない。万が一の事態に備えて、小日向も立ち会うように要請されたのだろう。


 塩月がキーパッドに数字を打ち込み始めた。その隣で浦部は警棒を構えている。誰かが飛び出て来たら瞬時に対応できるようにするためだ。


 小さな電子音が十六回鳴った。長い電子音が鳴り響き、さらにガチャリと大きな金属音がした。鍵が開いた。一週間ぶりに密室が解けた瞬間だった。


 塩月の手によって扉がゆっくりと開かれた。警棒を握る浦部の右手に力が入る。LED電灯の明かりが漏れ出て来た。浦部が中を覗き込んだが、誰かが飛び出してくる様子はない。肩の高さに構えていた警棒を下ろした。


 ほっとしたのも束の間、浦部は塩月に耳打ちを始めた。何かが見つかったらしい。自分でも金庫室の中の様子を確かめた塩月は、振り返って小日向に指示を出した。


「君、淑江さんを一旦リビングにお連れしなさい」


 どうやら淑江には見せられないものが見つかったらしい。


「いやです。今となっては私の金庫なんですから、私にだって中を見る権利はあるうはずです。危険がないなら、中身を見せてください!」


 淑江が声を張り上げて主張した。この一週間、ずっと捜査に協力的な態度を見せていたが、やはり金の行方は気になっていたらしい。その気持ちを否定することはできない。


「ご覧になりたいなら構いません。ただし、先にお伝えしておきますが、金庫室の中には遺体があります。そして、それはおそらくあなたの甥御さんのものです。ご覧になるなら、ぜひ遺体の身元の確認もお願いします」


 淑江は若干の驚きの顔を浮かべたものの、このような展開を少しは予期していたのか、決意して金属扉の近くに寄っていった。淑江の横には塩月が張り付いている。淑江が共犯である可能性はまだ消えていないのだ。


 金属の扉が先ほどよりも大きく開かれ、小日向にも内部が見えるようになった。金庫室の奥には、無数の布袋が整然と置かれていた。すべてに札束が入っているなら相当な額になる。他にも、書類が入れられたクリアボックスや骨董品もある。わざわざ金庫室を作りたくなるのも納得の品々と物量だった。


 しかし、それ以上に目を惹くのは、部屋の中央に横たわった一人の男の体だった。これといった外傷があるわけではないが、死亡しているのは誰の目にも明らかだった。死亡してから数日は経っているようで、血の気がまったくない。


 黒のTシャツに黒のパンツを履いていた。遺体の持ち物らしきものは特に転がってはいない。


 部屋には一つだけ、茶色のものが入ったクリアボックスがあった。元々中に入っていたと思われる書類は、別の場所に雑然と置かれている。死んだ男はクリアボックスをトイレの代わりにして用を足していたのだろう。


「確かに私の甥です」


 淑江は静かに言った。


 寝室は再び一週間前と同じように、鑑識や警察医で埋め尽くされた。ただし、今度の捜査対象は寝室ではなく金庫室の中である。


 事件はあっけなく決着が付いたようだった。被害者の甥は、金庫室に大量の現金があることを知っていた。ある日、淑江がいないタイミングを狙って家を訪問し、力ずくで被害者を椅子に縛り付けた。殴る蹴るなどの暴行を繰り返して暗証番号を無理やり聞き出し、それを使って金庫室の扉を開けた。ところが、金庫室の中で作業をしている最中に、縛られた紐から何とか脱出した被害者が扉を閉めてしまったため、外に出られなくなった。被害者は直後に亡くなってしまったが、金庫室に閉じこめられた犯人も餓死してしまったのだ。監察医の見解も、この見方を支持するものだった。


 ところが、塩月にはどこか知っかかるところがあるらしく、またしても寝室の中をふらふらと歩き回っていた。すると突然、大声を上げた。


「全然違うよ!」


 そして、真顔のまま首をぐるぐると回し始めた。これは塩月が何かを思いついたときにするポーズだった。初めて見た者は誰でも戸惑うのだが、本人にはその自覚はないらしい。


 ともかく、事件に関して何か致命的な間違いに気づいたようだった。

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