第三章
現場の空気が一気に張り詰めた。現在進行形で金庫の中に誰かが閉じ込められている可能性があると知らされ、状況は一変した。殺人事件の捜査は基本的に過去のことを扱うものだが、今回は違う。今まさに誰かが金庫室の中にいるかもしれないのだ。
「犯人が、ですか」
小日向は思わず口走っていた。塩月は厳粛な表情で頷いた。
被害者は金庫室の扉の前に倒れている。手形によれば、その被害者が金庫室の扉にわざわざ鍵を掛けたのである。犯人を捕らえておくためと考えれば筋が通る。
被害者は犯人から拷問を受け、耐え切れずに金庫室の扉を開く暗証番号を教えてしまった。犯人は、意気揚々と番号をキーパッドに打ち込んで金庫の中に入る。その瞬間、被害者は死力を振り絞って扉を閉めたのだ。そうすれば犯人が外に出ることができないと知っていたから。
被害者は間もなく息絶えてしまったが、犯人はまだ中にいる。隣の空間は犯人を捕らえるための鉄壁の密室なのだ。
であれば、寝室の扉や窓に鍵が掛かっていたことも、もはや問題にならない。犯人がまだ中にいる。それが寝室の密室の解だった。今や本当に重要な密室は、寝室の密室ではなく金庫室の密室になった。
事情を把握した浦部は、小走りで廊下を走っていった。
血にまみれた寝室はこの瞬間から殺人事件の現場であるとともに、金庫室への出入りを監視する場所になった。金庫室に他の出入り口は一つもない。中に閉じこめられた犯人が逃げ出せるとしても、ここ以外に場所はない。
浦部が走って戻ってきた。興奮で目がギラギラに光っている。殺人課の刑事としては珍しく、現在進行形の事件を扱っているからだろうか。
「夫人は金庫室の暗証番号を知らないそうです」
「本当に? 聞いたことがあるけど忘れているとか、そういうことがないかよく確認して。大事なことだから」
塩月がてきぱきと指示を出すと、浦部は再び出て行った。塩月は鑑識に訊いた。
「キーパッドの指紋は調べた?」
「調べましたが、完全に拭き取られていて一つも見つけられませんでした」
「となると、被害者が頻繁に使っていたキーがどれかもわからないわけだな」
「ちょっと難しいですね」
塩月は黙って何度か頷くと、下を向きながら寝室の中をふらふらと歩き回り始めた。半周して、窓際に所在なさげに立っていた小日向にぶつかりそうになった。
「まだいたんだ」
「あ、あの、すみません。何をすれば良いかわからなくて……」
「じゃあ、そのままそこにいてよ。万が一、扉が内側から開かないとも限らないし」
万が一、という言葉が引っ掛かった。
「警部としては扉は内側からは開けられないとお考えですか?」
「そうだね。少なくとも簡単には開けられないんだと思う。すぐに出られるんだったらもうとっくに出てきているだろうからね」
もっともな理由である。
額に汗を滲ませ始めた浦部が戻ってきた。
「警部、夫人は暗証番号は知らないそうですが、おそらく遺書に記してあるのではないかと言っています。かつて被害者の両善がそんなようなことを言っていたとか。あと、金庫室の鍵を内側から開ける方法はおそらくないようです。これから設計者にも確認してみます」
「頼んだ」
浦部が廊下に消えていった。塩月は誰に言うともなくつぶやいた。
「これは長期戦になるかもしれない」
塩月の言葉通り、捜査はそれ以降ピタリと止まって進まなくなった。
最重要課題は金庫室の扉を開けることだったが、暗証番号なしでは不可能だった。浦部は各所に問い合わせることで、暗証番号以外に開け方はなく、内側から開ける方法が全くないことを確認した。
弁護士に問い合わせたところ、遺言書に暗証番号が書かれているかどうかは遺言書が開封されるまで伝えることができないと伝えられた。開封日は死亡した日から一週間後の予定らしい。浦部はあの手この手で遺言書の内容を早く知ろうとしたが、弁護士相手では効果がなかった。
財津の家では、常に寝室と外にそれぞれ最低一人の警官が配属されるようになった。万が一、金庫室が内側から開いて容疑者が出てきた場合、あるいは容疑者の仲間が救出に来た場合に備えてのことだった。近くの交番に勤める小日向および須田も本署の警官たちと交代で監視を任されることになった。
捜査主任の塩月と浦部は、被害者の知人を調べ、行方不明になっている者を探した。現時点で行方がわからない人物は、金庫室の中に閉じこめられている可能性が高い。すなわち、その人物は事件の最重要容疑者ということになる。事件現場の周辺では怪しい人物も車も見つかっていなかった。
事件から五日後、小日向は玄関前で警備に立っていた。最初の数日はマスコミや野次馬が群がっていたが、今ではちらほら通りかかった近所の人が好機の目を向けるのみになっていた。というのも、報道では単純な強盗殺人事件だと伝えられており、金庫室の扉がまだ開いていないことは全く報じられていなかったからだった。
春の穏やかな気候に眠気を誘われた小日向は、脳を働かせるために自分でも事件の内容を再考してみることにした。
小日向が考えていたのは、金庫室に閉じこめられた犯人がすでに金庫室から脱出している可能性だった。そのようなことは果たして可能なのだろうか? 可能だとすれば、前代未聞の密室トリックを使ったことになる。なにしろ金庫室からの脱出である。これ以上に密閉された空間は地上に存在しないと言っても過言ではない。
金庫室には外部に繋がるいかなる穴も開いてはいなかった。一見すると、脱出するのは不可能であるように見える。
でも、穴が開いたらどうだろうか。金庫室の中にガスバーナーを持ち込んでいれば、内側から穴を開けることが可能である。でも、そんなことができるなら、そもそも主人を殺してまでして暗証番号を聞き出す必要がない。深夜に外側から穴を開ければ良いだけだ。
同じ論法で、外から中に入る際にも使える金庫脱出法はすべて否定される。内側からしか使えない方法しか脱出には使うことができないのだ。そんなものは、小日向には一つも思いつかなかった。
やはり犯人はまだ金庫室で息をひそめているのだろうか。それも小日向にとっては信じがたい考えだった。
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