第七箱 店長

 今日のこばとは一人で店番をしていた。持ってきた小説を読み終えてしまったので、カウンターの上で組んだ腕に顎をのせ、ぼんやりしながら扉の輪郭を目でなぞっている。


 刺繍箱を倒して始まったあの事件以降、ふたりの間に表面上の変化はないように見えた。こばとは開けなくてもよい蓋を開けては店長を困らせていたし、店長は何度となくため息をつきながらもなんとか対応してくれた。バイト終わりに羊羹を食べながらふたりで談笑したこともある。もちろん食べているのはこばとだけだったが。


 ただ、ふとした瞬間にこばと一人が言いようもなく不安になるだけだ。いつかの拒絶の残響のような、形のない、曖昧な色の不安。


 バイトが終わるまであと五分。「閉店時刻までには帰るよ」と言っていた店長は、まだ戻らない。戻るまで待った方がいいのだろうか、待つとしたら何時まで……。そんなことを考えていると、扉が勢いよく開いた。


「こばとちゃん、これ見てよ!」


 店長が大きな箱を抱えて現れた。のっぺりとした箱頭が歓喜で輝いているように見える。


「なんですか、それ」

「秘密箱だよ! 僕の見立てが正しければ二百年前くらいに作られたやつだね。この時代に作られたものでこれだけ大掛かりなものは珍しいんだ。あとこの底にある紋ね、これはたぶん稀代の指物職人と呼ばれた……」


 店長は活き活きとして喋っている。後半の内容はマニアックすぎてこばとにはよくわからなかったが、楽しそうに話す店長を見るのは嫌いではなかったので、適度に頷きながらその箱頭を眺めていた。


「……というわけでね、僕はこれを解くよ。今夜中にはね!」

「頑張ってください」

「ああ、もうこんな時間か。引き止めてしまってごめん。今日もお疲れさま」

「お疲れさまです」


 荷物を纏めて店を出るまえに振り返ってみると、店長はこばとと入れ違いにカウンターに陣取っていた。バックヤードまで戻る時間も惜しいらしい。邪魔にならないよう小さな声で、また明日、と囁いて、こばとは扉を閉めた。





 翌日、店にいくと店長はまだカウンターにいた。頬杖をつき、白手袋を嵌めた手で箱頭を支え、じっと動かない。こばとが静かに近寄っても、何も反応しない。これは……。


「店長って寝るんだ」


 食事もしないのだから、睡眠も必要としないものだとなんとなく思いこんでいた。こばとは店長のことをなにも知らない、そんな事実を突きつけられた気がした。


 もしかして一晩中、ここで秘密箱のからくりを解いていたのだろうか。そして朝になり、開店時間が来たことに気がついて慌てて店を開け、再びからくりに没頭したとか。……まさか昨日、店を閉めるのを忘れていたことはあるまい。そう信じたかったが、昨日の夕方の様子をみるとなんとも言えなかった。


 カウンターの上には短冊状の横板がばらばらにずれて飛び出している大きな秘密箱。その蓋は開き、中には一枚の紙が入っていた。片目の下まぶたを押し下げ、舌を出した顔のイラスト。この『あっかんべー』の絵一枚が、店長が一晩と少し費やした仕事の成果物であるようだった。


 こばとは無意識にため息をつき、そんな自分に気づいて慌てて息を吸う。店長の癖が伝染ってしまったようで、最近は家でもよくため息を吐いては、それを好まない姉に逐一指摘されている。「吐いた息はちゃんと吸いなさい! 幸せが逃げるでしょ」とわけのわからない叱り方をされている。それならばこの店の中には、店長が吐いた幸せが山ほど蓄積しているだろう。それも全部私が吸ってしまおうか?


 ……などと、くだらない連想ゲームを続けているのには理由があった。こばとは横目で店長の箱頭を見る。それは今、こばとが無理に手を伸ばさずとも届く位置に、無防備に存在している。関係ないことを考えて気を逸らし続けなければ、否が応にもその箱のこと、中身のことを考えてしまう。


 刺繍箱の日のことを思い出す。あのとき受けた拒絶の片鱗を。そのときの店長の、こばとにだけははっきり見えた表情を思い出して衝動と好奇心を抑えようとした。

 しかし、こばとはよく知っている。自分はどう足掻いても、この衝動に抗うことはできない。


 眠る店長の正面に立ち、しばらくその頭を見つめた。穏やかに眠っているように見える、そうであってほしいという願望かもしれなかったが。

 蓋に向かってゆっくりと手を伸ばす。奇しくも初めて会ったあの日、秘密箱に没頭する箱頭に触れようとしたときと同じ構図だった。

 蓋に手が触れた。何の変哲もない、滑らかに整えられた木材の感触。もう後戻りはできない。


 こばとは蓋を押し上げ、中身を覗いた。




「……私だ」


 中にはこばとがいた。胎児のように全身を丸め、オリーヴ色のエプロンをつけたまま眠っている。二つに結われた髪の先が箱の底に広がっている。眠っているときの自分はこんな顔をしているのか、となんとなく変な気分になった。それ以外には何も入っていない。

 この中身についてどう考察すればいいのか、咄嗟には分からなかった。ただ、嫌だという気持ちはない。小さなこばとを箱の中に大事に仕舞っていてくれるというのなら、それも悪くはないとも思った。


 こばとは静かに蓋を閉めた。



 店長はまだ目覚めない。来客用の折り畳み椅子を持ち出して、店長の横に座る。横目でちらりと箱頭を盗み見る。もちろん、表情などは窺えない。こばとはまたため息をついて、鞄から取り出した小説を読み始めた。


「うぅ……」


 呻き声が聞こえた。顔を上げて店長の方を見ると、長い指で箱頭の上部を探っていた。四角い正面がゆっくりとこちらを向く。


「開けないでって言ったじゃん」

「……わかるんですか」

「わかるよ。僕の頭なんだから」


 箱の中でくぐもった、か細く震える声で言う。てっきり怒られると思いこんで身構えていたこばとは、身体の緊張をどこへ逃がせばよいかわからず、ただただ戸惑う。


「見ないでほしかったのに」


 ほとんど泣いているように聞こえる小さな声で呟き、俯いて白い手で箱の正面を覆う店長を見て、こばとの胸は針で刺されたように痛んだ。謝らなければ。そう思って口を開こうとするが、うまく言葉が出ない。


 こばとが何か言うより先に、涙の出ない箱頭は泣きながら嘲笑うような痛々しい声を絞り出した。


「……気持ち悪かったでしょ?」

「いいえ」


 嘘ではない。なぜそんなことを尋ねるのかわからないくらいだった。


「……本当に?」


 恐る恐るといった様子で箱頭を上げる。


「はい」


 箱の正面に存在しない目をまっすぐ見つめるつもりで、はっきりと告げた。早めに謝る機会を逃したこばとにできる、最大限の誠実さをもって。


「中身、このままにしていてもいいの?」

「店長がそうしたいなら」

「そう、そうか」


 店長は再び両手で顔を覆い、大きく息を吐いた。その嘆息には安堵が滲んでいる。今なら謝れると思った。


「……勝手に開けてごめんなさい」

「いいんだ、もう。僕が怯えすぎていただけかもしれない」


 先日のような激情は欠片もない。その激しい拒絶の中心にあったのが恐怖だったことを、今になって知った。そしてそれを解いたのが、他ならぬこばと自身だということも。


 すっかり穏やかに安心しきった様子の店長は、何かを言おうか言うまいか迷っているように箱の下に手を触れていた。が、やがて意を決したようだ。


「……あのさ、まだ出来上がってないんだけど。箱を作ってるんだ、きみに渡すために。好きなだけ開け閉めしていいし、開けっ放しのまま小物入れなんかにしてくれてもいいから。……完成したら受け取ってくれる?」

「くれるというなら、喜んで」


 店長の顔が輝いた。いつの間にか、一切動かない箱の表面から表情を読み取れるようになっている。それが嬉しかった。……どうして嬉しいのかは、こばとにはまだわからない。


「ありがとう」

「こちらこそ」

「……話しすぎちゃったね。それじゃ、今日も店番よろしくね」

「はい」


 こんな淡白な返事だけでは不十分だと思ったから、そのままバックヤードへ消えていく店長に向かって何かを言おうとした。たとえば、箱頭の中身を見たときに感じたことを言葉にするとか。それ以上の何かとか。


 しかし、言葉は喉の奥で絡まって出てこない。過剰かもしれない期待が、恐れが。うまく言葉にできない柔らかくて曖昧なものが胸を塞いでいた。無理に言葉にしてしまえば、安っぽい嘘になって消えてしまうような気がしたから、それがとても苦しいことに思えたから。こばとはそれを、今はただ胸に仕舞っておくことにした。



 その日、こばとは生まれて初めて、箱に仕舞っておきたいと思うくらいに大事なものがあることを知った。




──『こばことこばと』〈了〉

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こばことこばと 守宮 靄 @yamomomoyan

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